特にバッグにこだわりがあるわけじゃないけど、 良いバッグが店頭にあったりすると気になってしまう。 バッグとは、ただ物を入れて運ぶためだけにあるのではない、 ような気がする。ハンズに行ってもバッグから見てしまう。
バッグというのはバッグの中身以上に持ち主を語ることすら あるのではないか。そう言う私は鞄メーカーに勤務するサラリーマン、 ではない。もちろん鞄職人でもないし、個人商店でバッグを扱ってる というわけでもない。
あくまで、一人のユーザーとして、バッグが気になるのだ。 機能性も気になるけど、デザインのバランスとか、 その背景にある思想とか、一目みた時のインパクトとか。
当たり前だけど、他にはない魅力を持ってるバッグは魅力的だ。 フライターグとか、カルトバッグとか、Timbuk2のブロガーとか。 ブログのためにノートPCのみならずメッセンジャーバッグまで買うような、 そんな人のためだけに作られたかのような、不思議な商品名。
もしかしたら、バッグは中身を限定しないからこそ、そこに未知の可能性を 見て、魅力を持つのかもしれない。当たり前だけど中に何を入れても自由。 だってただのいれものだから。バッグを手に入れる。 後は何が入るかわからない。何が起こるかわからない。 そのようにして未来に開かれていることにより、限定することのできない広がり、 それがこれからバッグを買おうとする人に示されるのである。
中身も、シチュエーションも、意志次第。全てのカバンは、 アレイスター・クローリーのように語りだすのだ。
「汝の欲することをなせ!それが法のすべてとならん!」
そう思うと、バッグとは極めて魔術的な何かである。
そんなことを、さっきからヤフオクでバッグを見てることの言い訳にしてみる(笑)
2008年04月05日(土) |
麒麟に似てると言われたそうな |
先日、王子公園から阪急電車に乗って梅田駅で降りた後のこと。 連れが言うには、隣に座っていた女子高生3人組が、 「横の人(私)キリンに似てる」と言っていたそうな。 一つのものから何を感じ取るか、それは感性の多様性なので 何に似ていると言おうと彼女達の勝手なのだけど。
伝説上の動物の麒麟なのか、動物園のキリンなのか、キリンビールなのか、漫才の麒麟なのか、そこは気になる・・・
特に、漫才の麒麟の場合、どっちに似ているのか、そこだけははっきり聞いておきたい!!!
動物のキリンに似てると言われたことはある・・・ しかし六甲道駅近くのマンションのエレベーターで小学生数人から突然 「ドラクエの竜王に似てる」と言われたことすらあるので伝説の麒麟の線も捨てきれない。
あ、そうだ、ドラクエの竜王って言った子供達に、 「最初の姿か、一回倒した後の竜王か、どっちやねん?」 それだけは、聞いておくべきだったと、今頃になって気になる・・・(笑)
(注:筆者は普通の人間です&ホームレス経験はありません)
2008年02月06日(水) |
no mission |
あえて何かを実現しようと試みることも、今後はなかろう。 何かを維持しようとがんばることも、破壊しようと努力することも、同じく。
猫がお手玉をじゃらして遊ぶような、単純でありながら不定形な動きのような 子犬三匹を幼児用すべり台から滑らして、くるんくるんころんころんと回る動きのような 意図的とも、自然発生的とも、誰にも判別することができないような・・・ 円にして、円に非ず。しかし直線でないことは、まちがいがない。
そのような名づけられない活動の中にあり、そのフォースに乗っ取られ、 コンマ一秒未満の一瞬の中にも、天地開闢以来の永遠の中にも平気で 入ったり出たりするような。
そして、すでに虚空。
2007年06月24日(日) |
ポッドフィルターは便利 |
新しいエスプレッソマシーンと、ポッドエスプレッソカフェが家にやってきた。
今までは豆の粉を計量して、うえからぱふぱふと叩いて、スイッチをONしてエスプレッソを入れていたのだけど、これからはポッドも使える。ポッドというのは、珈琲豆の粉をパックしたもので、粉の量を測る手間が省かれる。また抽出後の後片付けも、パックごと捨てるだけなので使うのが容易。
そんな訳で、ひさしぶりにエスプレッソを自分でいれて飲んでたりする日曜日の午後。
2007年06月09日(土) |
空よりももっと向こうまで、限りなく |
休日の朝、自分だけしかいないダイニングで、 本日二杯目の珈琲など飲みながら、本来そうするために設計されたわけではない西洋式の椅子の上で、半跏趺坐などして、時ならぬ時を過ごしたりするのです。
体とか心という境界がないところ、無限・・・
時空のない無限にふれて、有限なるもののところにも、やわらかな光のような癒しのような何かが訪れるのです。
2007年03月02日(金) |
求めないで満たされること |
満たされるために何かを求める必要がないということを知った者は幸いなり。 それを知ったなら、不必要に疲れ果てるまで欲望に引きずられて彷徨う必要はなくなる。 生においては何が起こるか分からないから、それでも現実的なトラブルは起こるだろうが 本質的なところで、幸せになるために何も求める必要がない。
そんな人のみが、日々を幸せに生きることができる。そんな人のみが、気が狂いそうなUp&Downの波から解放されている。
物質的な次元では、相対的に豊かな者と相対的に貧しいものがいる。 内側の次元では、絶対的に豊かな者と絶対的に貧しい者しかいない。 求めるものは貧しさの中にあり続け、求めることから自由なものは豊かさの中にあり続ける。 至福は、理解に付き従う。
2006年08月13日(日) |
Time&Change |
あいかわらずだなあと感じることと、変わったなあと感じることと。 自分の心の中にも、そういうことってあるものです。 その中には、可逆的な変化もあるけど、不可逆的な変化もある。
何か新しいことを見つけることによってしか、解決できないこともある。 保持しつづけようと思っても、気がつくと手放している自分がいる。
動き始めた時は、止めることも戻すこともできない。
2006年08月12日(土) |
Life is short. |
確かに、人がよく言うように人生は短いのかもしれない。 しかし、長いとか短いとか言う基準はあくまで主体的なものだ。 私にとっては、それはとても長く感じられる。 もうすでに、主観的には十分をはるかに超える長さを生きている。 本質的には、生きることの中に含まれるほとんど全てのことに、 自分が飽きているのを感じている。
死への衝動がさほど強くないから生きている、それだけのことだろうと思う。 さもなければ、とっくの昔に自ら死を選んでいたことだろう。
もともと、人間は嘘つきだった。 そんな嘘つきな人間が多種多様なメディアを持つようになったのだから、 世の中が嘘であふれかえっているのも無理はなかろう。
流通している嘘は、自分の目で嘘と見破っていかなくてはならない。 誰もそれが嘘と教えてくれないのだから。
自分の感性で生きること、それがどんなに生き辛くとも、あるいは生き易くとも、 そういったことを一切勘定に入れずに、善のレッテルを貼られようと、 悪のレッテルを貼られようと、ただ自分の感性のままに生きること。
それが人からどう見えるかとか、それで生が早く終わるとか長く続くとか、 そんなことは取るに足らないこと。
手放す者は、招かれるであろう。
2006年06月04日(日) |
Life is sweet |
珈琲でも、麦酒でも、良いものには独特の丸い甘味がある。 それは、砂糖などの甘さとは違い、ナチュラルな程良い甘さ。
YoutubeでMiles Davisを聴きつつ、この人のトランペットにも同じ甘さを感じる。 不思議とこの甘さは、苦味や悲しみの中にも浸透していけるのだ。
"Life is sweet",I say... Whenever you're in trouble, seek and find the sweetness in the bitterness...
And something will change,try it!
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