Espressoを飲みながら

2006年07月27日(木) ある晴れた日の考察

 もともと、人間は嘘つきだった。
そんな嘘つきな人間が多種多様なメディアを持つようになったのだから、
世の中が嘘であふれかえっているのも無理はなかろう。

流通している嘘は、自分の目で嘘と見破っていかなくてはならない。
誰もそれが嘘と教えてくれないのだから。

自分の感性で生きること、それがどんなに生き辛くとも、あるいは生き易くとも、
そういったことを一切勘定に入れずに、善のレッテルを貼られようと、
悪のレッテルを貼られようと、ただ自分の感性のままに生きること。

それが人からどう見えるかとか、それで生が早く終わるとか長く続くとか、
そんなことは取るに足らないこと。

手放す者は、招かれるであろう。



2006年06月04日(日) Life is sweet

 珈琲でも、麦酒でも、良いものには独特の丸い甘味がある。
それは、砂糖などの甘さとは違い、ナチュラルな程良い甘さ。

YoutubeでMiles Davisを聴きつつ、この人のトランペットにも同じ甘さを感じる。
不思議とこの甘さは、苦味や悲しみの中にも浸透していけるのだ。

"Life is sweet",I say...
Whenever you're in trouble,
seek and find the sweetness in the bitterness...

And something will change,try it!



2006年05月24日(水) Fly high!

 適度な孤独、それがこの日記を綴るのに必要なこと。
あたかも誰も決して読むことのない、ただの一枚の白い紙に書くように。

想いを、記す。フィーリングを、記す。そこには目的なんかないのさ。
自分の、自己完結的な遊び。自己完結的であるがゆえに自由で、自発的発展性のある遊び。

Life is leela... You can see dancing Krishna...

そう、かつてこの日記は、Folding Bikeで街を彷徨うことと同じ質で書かれていた。
今日その質を思い出した私は、ひさしぶりにこの日記を更新するとしよう。

一つの時空から別の時空へ、私の「生きること」は今のところ続いている。
多くのものを失い、多くのものを得、そして何も得ることも失うこともなく。

指先すら動かすことなく、天高く羽ばたくのさっ♪



2006年01月24日(火) アクセス数

 アクセスカウンターを見たら、この日記のアクセス数は019587だった。僕が書いているはてなダイアリーは、この日記よりずっと後に始めたのだけれど、今見てみたら194507アクセス。気がつけば、はてなでつけている日記のほうが10倍近いアクセス数になっていた。はてなには、アンテナとかトラックバックとかコメントとかいろんな機能がついているし、グーグル他の検索エンジンにも有効にひっかかってくれるので、自然とそうなるのだろうと思う。
 しかしながら、えんぴつで日記を書いていると、なんだかあまり多くの人に見られていない気がして、それがかえって落ち着いて、独り言的なことを書けるという側面があるような気がする。mixi日記は半ばマイミクさんに読むようにプレッシャーがかかるような感じがあって、人の目をどうしても意識せざるを得ないようなところがある。やはりえんぴつにはえんぴつの存在理由があるのだ。



2006年01月19日(木) とても、とても個人的なことだけど

 とても個人的なことで、恋人や親友や家族にも話したくないことだけど、この日はとても大事で、記念すべき日で、きっと忘れないだろうなと思った・・・



2006年01月12日(木) 祝5周年

 過去の日記を見ていたら、どうも初めてここで書いたのは、2001年1月12日のようだ。当時は神戸市内の某地方自治体で非常勤嘱託員として勤務していて、PCはボンダイブルーのiMacで、彼女と二人で暮らしていて、家から最寄の駅が阪急御影で、駅前でいつものようにケーキやシュークリームを買って食べたり、店内で食べたりしていた。今となっては台数の増えている自転車も、当時に持っていたのは一台だけ。Bike Friday Metro7。なおあの自転車は去年の10月に友人に譲った。
 あれから5年。自分の中では手を伸ばせば届きそうなくらい近い時間にあるような気がするのに。仕事は、時々派遣で働くくらい。彼女とは、まだ付き合っているけど、一緒には住んでいない。奈良県内の実家に暮らしている。なぜか自転車だけは5台に増えた。リカンベントという、寝そべった状態で乗る自転車も含めて。ボンダイブルーのiMacはここでは置き場所がないので玄関に置かれたまま。ネットには富士通のFMVを使っている。
 たくさんのことが変わったのに、なにも変わっていない気がするが、変化をこうして書き出してみれば、やはりそれなりにいろいろ変わったことは存在するのだ。相変わらずたらたらとした生活ぶりで、特に方向性もなければ希望もない、楽なほうが好きだというくらいの志向性はあるが。大学時代の同級生の女の子が、僕のことを「放浪」というより「漂流」と評したが、なんと的確な表現だろうと思い出して驚嘆を新たにする次第。



2006年01月09日(月) 妙な納得

 なにか特定の仕事とか、なにか特定の役割をはたしてがんばっている人を見ると、えらいなあとは思うけれども、自分では決してなにか仕事や役割を持ちたいと思ったことはない。お金が必要だから働いたということは確かにあるし、気がついたら、後から考えてみれば、あの時の僕はああいう役割をはたしていたのかなあと思ったりすることはあるのだけれども。

 幼稚園に通うような年の頃には、すでにこの社会全体に−もちろんその年で社会全体なんか見えるわけがないから、目に見える範囲の全ての社会に−大声で"No"とは叫ばなかったにしても、内的、感覚的には"No"というフィーリングしか持っていなかったような気がするのだ。幼稚園、学校、道行く人々、病院、家族、親戚、道路、車、近所、警官、工事現場、ありとあらゆるものが気に入らなくなっていた。

 毎日見ているうちに、減感作療法的に反応は弱くなるのだけれども、社会的なことに関しては今でも同じ拒絶反応のようなものが、僕の細胞の中にはあるように感じられる。楽しみは純粋にプライベートな暮らしの中にしか見つけられないように思う。

職業というのが社会全体の活動の中で一定の役割をになうことであるとするならば、今動いているこの人間社会全体が気に入らない私は、やはりいかなる職業も本質において気に入らないだろうなと妙に納得するのであった。



2005年12月20日(火) 書くことは遊び

 僕が書くことは、全部遊びだよ。
他に何もすることがないから、書くという遊びをしている。
自転車は身体にはいいけど、頭にも遊びが必要だ。
僕はみんながしているようなゲームは苦手だから、
好き勝手に遊ぼうと思ったら、ただ書くことが一番の遊びになるんだ。

 どんなに社会的なこととか、宗教的なこととか、哲学的なこと、あるいは音楽的なことを書いたとしても、本心はそんな事柄に大した興味はないのさ。

子供が、石ころで遊ぶようなもの。その石ころはちょっと大きかったり小さかったり濃い色をしてたり薄い色をしていたり、まあいろんな石ころがあるけど、そういった属性は子供にはどうでもいいんだ。大事なのは、手元にあって、それで遊べること。



2005年08月01日(月) 日記とかブログとかSNSとか

 最近ははてなダイアリーとかmixiとかいろいろ流行っていて、えんぴつ日記にはない機能や魅力もあって、実を言うと両方とも私は参加しているのだけれども、それでも時々ここに文章を書きにきたい気持ちになることがあるのである。

はてなは時々コメントやトラックバックが付く。mixiはかなりの割合でコメントが付く。コメントが付くのは嬉しいことである反面、読む人の気持ちを先読みして書いてしまったり、自分のよくしってる知人である読者の誰かを傷つけてしまったりはしないかとか余計なことを考えてしまいがちだ。

もちろんここで書いたことを私の知人・友人が見ることは十分有り得る。しかしながら、mixiの日記は半分日記、残りの半分はマイミクさんにあてたお手紙のような感があり、マイミクさんの誰かの思想・信条などなどに反することであれ合致することであれ書いた日には割と強い反応が返ってくる感がある。

日記と言うより手紙と書いたのはそういうことだ。一人一人にあてた手紙ではなく、マイミクさんという数名、数十名、数百名にあてた手紙。

そこにはもはや日記に本来あるべき内省的な質は望みえないのである。
それが悪いというわけではなく、ただ単に違う質のものであるということなのだが。



2005年05月31日(火) 年齢についてのはなし

 とあるところで、いくつに見られるかということが話題になった。
私はどちらかというとルックスでは若く見られることのほうが多いが、
日記で私を知った人、文章から入った人には実際より年長者に
見られることも少なくない。

 実際のところ、誰かが私のことを24と思っても28と思っても、そんなことはどうでもいい話。

 主観的には、今生きてるのは余りのような感じがする。ある地点までは生きる必要があったが、別に今は生きてても生きてなくても良いというような感じ。

これはネガティブなフィーリングではなく、
例えるならば放課後に学校に居る子供のようなものである。

遊んでるのかもしれないし、考えごとをしてるのかもしれないし、
本を読んでるかもしれないし、勉強してるのかもしれない。

でもいずれにせよ、それは放課後であり、彼自身の学校に居なければならないという義務は、すでに果たされているのである。誰も彼にそれ以上学校にとどまるように命令する権利はないし、また彼を追い出す権利も同様にないのである。夕暮れ前に学校が閉められるまでは。


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空遊 [MAIL]

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