Espressoを飲みながら

2004年09月11日(土) 旅にまつわる思索

 かつて、いろんなところを旅してまわりたいと、激しく願ったことがありました。でも行きたいところのいくつかをまわっている内に、私が旅することを望んでいる場所、私の心の中のそのイメージと、現実に存在するその場所は全然別の物だということに気が付いてきたのです。だから、行きたいところがあっても、その場所に行って得られるのは得ることというよりも失うことばかりでした。つまりマドリッドに行って得られたのは自分の心の中のマドリッドを失うことであり、LAに行って得られたのもやはり心の中のLAを失うことであり、イスタンブールに行って得られたのも心の中のイスタンブールを失うことだったのです。

 ヒンドゥーのカルマの概念を思い出し、ひょっとしたら私はただ遠い過去にこれらの場所を訪れたいという強い気持ちを持ち、その感情をこの生において消化するためだけに旅をしているのかもしれないと思うようになりました。



2004年08月30日(月) Why?

僕は、時々、「どうして自分は人間なんだろう?」って思う。
もっと、ふわあっとしたものだったらいいのにって思う。
たとえば、霧とか、もやとか、月の光とか。

 何もしたいことなんてほんとはないんです。
行きたいところも、食べたいものも、欲しいものもありません。
誰かを愛しているわけでもないし、何かの使命を帯びていることもないのです。

そんなわけで、「人間」をしているのは、無駄っぽいのです。
ただ「生存」しているだけでも、ずいぶんつかれます。
人間って、メカニズムがややこしいですから。

もっと単純に、人間なんかじゃなく、霧とか、もやとか、雲とか、月光だったら。
やさしく、やさしく、この世界に降り注いでいられたのに。
 



2004年07月28日(水) 思い出・・・

 過去は、思い出は、巨大な山のようにも、捉えどころのない雲のようであるかもしれない。もしぼおっと夢を見続けていたら。目を覚ましていれば、思い出には何の拘束力もない。意図的に選ぶもの以外には。

 時として、昔のほうが今よりも生き生きとして、現実的にすら見えることがあるかもしれないけど・・・。それでも今、息をして、今、生きている。この地点から、なにかが動き出す。ここ以外に、スタート地点なんかないんだ。

 



2004年07月21日(水) Communication

 時に、人と人との間のコミュニケーションは難しい。伝えたいことがあって、言葉を選んで、でも言葉を選ぶともう最初に思っていたようなコミュニケーションからは遠ざかってしまっていたりして。私達が翻訳したり通訳したりするのは、英語を日本語にしたり日本語を英語にしたりする時だけではないのだ。自分の内面では言語の一種として機能しているフィーリングを、フィーリングそれ自体として直接的に他者に伝えることはできないために日本語なり英語なり何かの言語、あるいは身振り、手振りなどに変換して伝えようとすること自体がすでに翻訳であったり通訳であったりする。

 そして、その翻訳作業はしばしば難航し、稀に上手く行く。本当に、稀に。

 何かが伝わるまで、しゃべり続けなければならない。何かが伝わるまで、歩き続けなければならない。全てを投げ出すのもいいが、投げ出した後には、なおもそこに何かが為されうる可能性のある”場”が残るであろう。そしてあなたはそこで再びなにかを感じ、見いだし、そこにいる誰かになんとかしてそれを伝えようとして・・・

 終わりのない翻訳作業、終わりのない通訳があなたの人生の中で続くのである。



2004年07月13日(火) カフェ・コレット

 すっかり行き着けのカフェの一つとなってしまった、なんばパークスのAl Avisで、すっかりお気に入りになってしまった、カフェ・コレットを飲んでいた。

カフェ・コレットとはエスプレッソに少量の蒸留酒を加えたもの。ここのカフェでは、エスプレッソの入ったカップと、蒸留酒の入った小さなグラスが銀色のプレートの上に置かれた状態ででてくる。蒸留酒だから、言うまでもなくアルコール度数は高い。エスプレッソもやはり苦味の強い珈琲である。ただし、カフェインの含有量はドリップでいれた珈琲よりも少ないのだが。とにかく、刺激の強いもの同士の掛け合わせがカフェ・コレットなのだ。

 冬のイタリアをバイクでツーリングされていた方の話によると、寒い夜にバルに入り、このカフェ・コレットをくいっと飲んで冷えた体を温め、飲み終わったらすぐに店を出て、再びバイクにまたがり走り去るのが格別なんだそうだ。「それって飲酒運転では?」とも思ったが、たかがカフェ・コレット一杯分のアルコールだなんて、そんな細かいことを気にしながら生きるのは法律に適ってはいてもイタリア的では有り得ないのかもしれない。本当のところは知らないけれども。

 そんな話を思い出しながらも、今日私がカフェ・コレットを飲んだのは単にその味が好きだからである。極端な苦味、極端なアルコール度数、私は極端なものが好きなのかもしれない。あるいは、酔わせながら覚醒させるような相反する二面性を備えたところが。



2004年06月24日(木) 午後のドルチェ

 蒸し暑い午後、冷凍庫からアイスクリームを取り出し、小皿に移して抽出したばかりの熱いエスプレッソをぶっかける。イタリアではアフォガード(afogado)と呼ばれる。日本でもイタリア系やシアトル系のカフェで食べられるところがある。エスプレッソの香りと苦味、アイスクリームの甘さが好対照で手軽な割りに深い味わいのあるドルチェだ。

 今回はエスプレッソの豆は例によって例の如くLAVAZZAのQUALITA OROを使ったが、アフォガードにするならもう一段階苦味の強くてもいいかもしれない。LAVAZZAで言えばESPRESSO、珈琲豆屋さんで買うならイタリアン・ローストあたりかな。

 舌の上で甘味と苦味が溶け合ってなんともいえないいい感じ。



2004年06月11日(金) 雨の朝

 ざああざああと激しく打ち付けるように降る雨。人が昨日から予定を入れているというのにそんなことは微塵も気にしないのだ。はるか南の海から台風がやってきつつあるという。もうすぐ、もっともっと雨が降ってもっともっと風が強くなるのだろう。

 大阪に行くはずだった今日の予定をいったいどうしようかと私は思いあぐねる。一生懸命考えても、考えたとおりに行動することはまれなのであまり意味はない。降りしきる雨は淡々としかし激しく。

 



2004年05月27日(木) これもまた過ぎ去る

 OSHO TAROTというタロットカードがあって、その中の1枚に、スーフィー(イスラム神秘主義)の賢者が王に知恵の言葉が裏に刻まれた指輪を渡す逸話が書かれている。王が絶体絶命の時に指輪の裏を見るとそこには「これもまた過ぎ去る」とだけ書かれていたという話だ。

 王は幸福や悲しみと言った感情の変化に振り回されたくはなかった。それゆえ賢者達に答えを求めたが、答えを与えることができたのはスーフィーの神秘家だけであった。なぜなら数ある賢者の中で、スーフィーだけが己の感情に振り回されずに存在することを学んできたからだ。

王は国の中心であり、社会の中心だ。常にうれしいこととかなしいことの渦の中にいる。油断していると、バランスを見失ってしまう・・・。かなしいことはともかく、うれしいことと言うと純粋に良いことのように思われているが、中医学では過度な喜びは心臓に悪いと言う。では落ち込んでいるほうがいいのかというとそんなことはない。過度な喜びと同様に喜びの不足は心臓に悪いのだ。五行はバランスのアートである。

そして「これもまた過ぎ去る」と覚えておくことが心のバランスを取ってくれるとスーフィーは言う。辛いこと-過ぎ去っていく 嬉しいこと-過ぎ去って行く 悲しいこと-過ぎ去って行く 楽しいこと-過ぎ去って行く 悩み事-過ぎ去って行く 熱狂も興奮も過ぎ去って行く・・・
長い目で見れば、私達の身体、心、命、魂、それすらも過ぎ去って行く・・・もっと長い目で見れば宇宙すら過ぎ去って行く-宇宙にも終わりと始まりがあるのだ-・・・

思い出してみれば、あなたにもたくさんの「過ぎ去ったこと」があることだろう。過ぎ去った子供時代、過ぎ去った青春、過ぎ去った恋愛、過ぎ去った友情、過ぎ去った仕事、過ぎ去った愛、etc.etc...

全ては過ぎ去ってきたし、これからも過ぎ去り続けるだろう。スーフィーが彼の全存在を賭けて王に手渡した秘密の教えの指輪の言葉のように。

あるいは「ただ変化は起こり続けるという真実のみが変化しない」と言った仏陀の言葉のように。

そして「これもまた過ぎ去る」と覚えていたら、人は幸福にも不幸にもしがみつくことができない。しがみつかない人はそんなに惨めにはならない。しがみつかない人は倒れても起き上がりこぼしのように立ち上がる。
立ち上がろうとする努力さえなく、自然に。

起き上がろうと努力している起き上がりこぼしを、見たことがあるだろうか?
起き上がることに必死になれば起き上がれない。力を抜いた者のみがよく力を用い、起き上がることができる逆説。そして「これもまた過ぎ去る」と知る者こそが力を抜いて力を用いることができる者である。



2004年04月07日(水) 虚無感のある歌詞

 虚無感のある歌が好きだ。歌詞に虚無感のある歌が。

 明日があんよでないよな定め
 義理も人情も世間のことで
 赤い夕陽を背にあびながら
 江戸の夜明けを待ち侘びる
 隠密同心捜査網

 これはかつての名作時代劇、大江戸捜査網のエンディングテーマで、私は子供の頃に再放送をよく見ていたのだが、今でも夕暮れ時に人気の少ないところなど歩いているとついつい口ずさんでいる自分に気付くのだ。

特に最初の二行、

 明日があんよでないよな定め
 義理も人情も世間のことで

この行間から果てしのない虚無感を感じるのは私だけだろうか。明日自分が生きてるか死んでるかなんか誰もわからない、誰にも保証できない、けれどもなぜか明日に予定はあるし、全ての予定は自分が生きてるという確証なき前提のもとに進んで行く。

義理も人情も世間のこと、世間は義理がどうとか人情がどうとかわいわいがやがやいつも五月蝿いが、自分はそんな世間の関わりですら他人事で。自分のことは世間の知ったことではなく、自分はただ自分の命を生き、そしていつか死んでいくだけである。

 赤い夕陽を背にあびながら
 江戸の夜明けを待ち侘びる

 そう、陽は暮れかけているのだ。日没は近い。そして暗闇こそ我が仕事場であり、自分の生きる場所、そしておそらくは死に場所である。

 いつかこの闇多き街に夜明けはくるのだろうか。もう自分は十分長く待った気がする。待って待って何も起こらず、それでも自分にできることは待つことと己の務めを果たすことのみである。ひょっとしたらこのまま待ち侘びながら死んでいくのかもしれない。それでも今この瞬間の私は江戸の夜明けを待ち侘びているのである。

 隠密同心捜査網

 南無阿弥陀仏と唱えれば、そこに阿弥陀仏の全ての救いがあるという。南無妙法蓮華経と唱えたものには、法華経の全ての功徳があるという。隠密同心捜査網も同じである。歌の終わりを隠密同心捜査網で締めることにより、隠密同心の全体、その全てを万感の思いでもって歌い上げるのである。

 嗚呼、隠密同心捜査網!



2004年04月06日(火) 桜-坂本(滋賀県)-

坂本の桜

 毎年恒例のようにアップしてますが、例によって例のごとく、今年もとりあえず桜の写真アップです。今回は拙日記初登場!の比叡山のふもと、坂本の桜です!坂本、さすが坂本というだけあって坂の多い街ですが、坂を登って下を眺めると琵琶湖が綺麗〜♪


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