Espressoを飲みながら

2005年12月20日(火) 書くことは遊び

 僕が書くことは、全部遊びだよ。
他に何もすることがないから、書くという遊びをしている。
自転車は身体にはいいけど、頭にも遊びが必要だ。
僕はみんながしているようなゲームは苦手だから、
好き勝手に遊ぼうと思ったら、ただ書くことが一番の遊びになるんだ。

 どんなに社会的なこととか、宗教的なこととか、哲学的なこと、あるいは音楽的なことを書いたとしても、本心はそんな事柄に大した興味はないのさ。

子供が、石ころで遊ぶようなもの。その石ころはちょっと大きかったり小さかったり濃い色をしてたり薄い色をしていたり、まあいろんな石ころがあるけど、そういった属性は子供にはどうでもいいんだ。大事なのは、手元にあって、それで遊べること。



2005年08月01日(月) 日記とかブログとかSNSとか

 最近ははてなダイアリーとかmixiとかいろいろ流行っていて、えんぴつ日記にはない機能や魅力もあって、実を言うと両方とも私は参加しているのだけれども、それでも時々ここに文章を書きにきたい気持ちになることがあるのである。

はてなは時々コメントやトラックバックが付く。mixiはかなりの割合でコメントが付く。コメントが付くのは嬉しいことである反面、読む人の気持ちを先読みして書いてしまったり、自分のよくしってる知人である読者の誰かを傷つけてしまったりはしないかとか余計なことを考えてしまいがちだ。

もちろんここで書いたことを私の知人・友人が見ることは十分有り得る。しかしながら、mixiの日記は半分日記、残りの半分はマイミクさんにあてたお手紙のような感があり、マイミクさんの誰かの思想・信条などなどに反することであれ合致することであれ書いた日には割と強い反応が返ってくる感がある。

日記と言うより手紙と書いたのはそういうことだ。一人一人にあてた手紙ではなく、マイミクさんという数名、数十名、数百名にあてた手紙。

そこにはもはや日記に本来あるべき内省的な質は望みえないのである。
それが悪いというわけではなく、ただ単に違う質のものであるということなのだが。



2005年05月31日(火) 年齢についてのはなし

 とあるところで、いくつに見られるかということが話題になった。
私はどちらかというとルックスでは若く見られることのほうが多いが、
日記で私を知った人、文章から入った人には実際より年長者に
見られることも少なくない。

 実際のところ、誰かが私のことを24と思っても28と思っても、そんなことはどうでもいい話。

 主観的には、今生きてるのは余りのような感じがする。ある地点までは生きる必要があったが、別に今は生きてても生きてなくても良いというような感じ。

これはネガティブなフィーリングではなく、
例えるならば放課後に学校に居る子供のようなものである。

遊んでるのかもしれないし、考えごとをしてるのかもしれないし、
本を読んでるかもしれないし、勉強してるのかもしれない。

でもいずれにせよ、それは放課後であり、彼自身の学校に居なければならないという義務は、すでに果たされているのである。誰も彼にそれ以上学校にとどまるように命令する権利はないし、また彼を追い出す権利も同様にないのである。夕暮れ前に学校が閉められるまでは。



2004年11月03日(水) さようならEspressoを飲みながら

 えんぴつ日記には長い間お世話になりましたが、この度Espressoを飲みながらを閉じることにいたしました。今後、当日記が更新されることはありません。記事の中で気に入っているものにつきましては、

http://qyou.seesaa.net/

のほうに移転していくつもりです。とはいっても、単に消去されてしまうものや改訂されてしまうものもたくさんありますので、お気に入りの話とかある人は(そんな人いるのか?)至急ご自分のPCにダウンロードしておいてください。

移転作業はぼちぼち取り掛かり始めるつもりです。いつ終わるかはわかりません。

ではでは。



2004年09月26日(日) circle

 一つの円があって、始まりと終わりは同じところ。それが回転しながら上に伸びていく線であれば、螺旋と呼ばれる。
私はまわっているが、それが円なのか螺旋なのかわからない。



2004年09月11日(土) 旅にまつわる思索

 かつて、いろんなところを旅してまわりたいと、激しく願ったことがありました。でも行きたいところのいくつかをまわっている内に、私が旅することを望んでいる場所、私の心の中のそのイメージと、現実に存在するその場所は全然別の物だということに気が付いてきたのです。だから、行きたいところがあっても、その場所に行って得られるのは得ることというよりも失うことばかりでした。つまりマドリッドに行って得られたのは自分の心の中のマドリッドを失うことであり、LAに行って得られたのもやはり心の中のLAを失うことであり、イスタンブールに行って得られたのも心の中のイスタンブールを失うことだったのです。

 ヒンドゥーのカルマの概念を思い出し、ひょっとしたら私はただ遠い過去にこれらの場所を訪れたいという強い気持ちを持ち、その感情をこの生において消化するためだけに旅をしているのかもしれないと思うようになりました。



2004年08月30日(月) Why?

僕は、時々、「どうして自分は人間なんだろう?」って思う。
もっと、ふわあっとしたものだったらいいのにって思う。
たとえば、霧とか、もやとか、月の光とか。

 何もしたいことなんてほんとはないんです。
行きたいところも、食べたいものも、欲しいものもありません。
誰かを愛しているわけでもないし、何かの使命を帯びていることもないのです。

そんなわけで、「人間」をしているのは、無駄っぽいのです。
ただ「生存」しているだけでも、ずいぶんつかれます。
人間って、メカニズムがややこしいですから。

もっと単純に、人間なんかじゃなく、霧とか、もやとか、雲とか、月光だったら。
やさしく、やさしく、この世界に降り注いでいられたのに。
 



2004年07月28日(水) 思い出・・・

 過去は、思い出は、巨大な山のようにも、捉えどころのない雲のようであるかもしれない。もしぼおっと夢を見続けていたら。目を覚ましていれば、思い出には何の拘束力もない。意図的に選ぶもの以外には。

 時として、昔のほうが今よりも生き生きとして、現実的にすら見えることがあるかもしれないけど・・・。それでも今、息をして、今、生きている。この地点から、なにかが動き出す。ここ以外に、スタート地点なんかないんだ。

 



2004年07月21日(水) Communication

 時に、人と人との間のコミュニケーションは難しい。伝えたいことがあって、言葉を選んで、でも言葉を選ぶともう最初に思っていたようなコミュニケーションからは遠ざかってしまっていたりして。私達が翻訳したり通訳したりするのは、英語を日本語にしたり日本語を英語にしたりする時だけではないのだ。自分の内面では言語の一種として機能しているフィーリングを、フィーリングそれ自体として直接的に他者に伝えることはできないために日本語なり英語なり何かの言語、あるいは身振り、手振りなどに変換して伝えようとすること自体がすでに翻訳であったり通訳であったりする。

 そして、その翻訳作業はしばしば難航し、稀に上手く行く。本当に、稀に。

 何かが伝わるまで、しゃべり続けなければならない。何かが伝わるまで、歩き続けなければならない。全てを投げ出すのもいいが、投げ出した後には、なおもそこに何かが為されうる可能性のある”場”が残るであろう。そしてあなたはそこで再びなにかを感じ、見いだし、そこにいる誰かになんとかしてそれを伝えようとして・・・

 終わりのない翻訳作業、終わりのない通訳があなたの人生の中で続くのである。



2004年07月13日(火) カフェ・コレット

 すっかり行き着けのカフェの一つとなってしまった、なんばパークスのAl Avisで、すっかりお気に入りになってしまった、カフェ・コレットを飲んでいた。

カフェ・コレットとはエスプレッソに少量の蒸留酒を加えたもの。ここのカフェでは、エスプレッソの入ったカップと、蒸留酒の入った小さなグラスが銀色のプレートの上に置かれた状態ででてくる。蒸留酒だから、言うまでもなくアルコール度数は高い。エスプレッソもやはり苦味の強い珈琲である。ただし、カフェインの含有量はドリップでいれた珈琲よりも少ないのだが。とにかく、刺激の強いもの同士の掛け合わせがカフェ・コレットなのだ。

 冬のイタリアをバイクでツーリングされていた方の話によると、寒い夜にバルに入り、このカフェ・コレットをくいっと飲んで冷えた体を温め、飲み終わったらすぐに店を出て、再びバイクにまたがり走り去るのが格別なんだそうだ。「それって飲酒運転では?」とも思ったが、たかがカフェ・コレット一杯分のアルコールだなんて、そんな細かいことを気にしながら生きるのは法律に適ってはいてもイタリア的では有り得ないのかもしれない。本当のところは知らないけれども。

 そんな話を思い出しながらも、今日私がカフェ・コレットを飲んだのは単にその味が好きだからである。極端な苦味、極端なアルコール度数、私は極端なものが好きなのかもしれない。あるいは、酔わせながら覚醒させるような相反する二面性を備えたところが。


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空遊 [MAIL]

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