武ニュースDiary


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2020年06月21日(日) 「南方人物周刊2017-4-24」 金城武の隠れ身の術・2

スターとは一個の経済体

ょっとして後のイメージがあまりに輝かしいものだったからか、
金城武が歌手としてデビューしたことを覚えている人は少ない。
10代のまだぼうっとした高校生は、歌を歌うということがどういうことかも、
演技とは何かということも知らなかった。
彼が芸能界に入った理由は、
欲しがっていたバイクを買う金を稼げると説得されたからである。
当時は、火鍋店でアルバイトをしていた。
鍋の食べ方を説明しても、耳を傾ける客はほとんどいなかった。
1本のCMでもらった出演料は、
そのアルバイト1か月分の給料より多かったのだ。

芸能界の生態は日々変わっている。
その後、多くのスターが自身の事務所を設立したり、
親しい監督の会社と契約したりするようになっていったが、
金城武は、デビュー時に契約した老舗の芸能事務所フーロンに、
20年間、ずっと籍を置いたままである。
彼を誘惑して芸能界に入らせた、あのバイクは、
とっくに盗まれてなくなってしまったが。

アイドル歌手は1990年代初頭にあって、芸能界の最もきらきらした存在だった。
事務所は金城武を陳昇(ボビー・チェン)に師事させ、助手として送り込み、
発声の基礎から始めて、楽器演奏や作曲を学ばせた。
「ぼくは、見かけを売り物にするアイドル歌手にはなりたくない。
シンガー・ソングライターになりたい」
彼は当時、取材に対し、こう語っている。

ずっと後、彼がいつも監督たちに言っていたこと――
自分はただの俳優というより、フィルム・メーカー、映画人だととらえており、
俳優は映画製作に関わる1つの身分に過ぎないと考えている――
とよく似ているではないか。

先輩弟子のレネ・リウ(劉若英)の話によれば、陳昇の弟子になったら、
ビンロウ買いやトイレ掃除をやらねばならなかった。
「公平でしたよ、金城武もやったんですから」
毎週月水金がレネ・リウ、火木土は金城武の当番だった。
トイレのドアにはチェック表があり、掃除が終わるとサインをする。
金城武は自画像を描いて、掃除が済んだ印にした。

陳昇の話すところによると、
「誰もあいつのことを気にしてなかった。
ある日、奴はA4の紙に自分の顔を描いて、
『ぼくは金城武だ』と書き添え、便器の上の方に貼った。
用を足しに行くと、必ず奴の顔を目にするというわけだ」

金城武は歌を作ることに喜びを覚えていたが、ウォン・カーウァイの撮影を見て、
その面白さを目の当たりにしてからは、
少しずつ歌はやめようという気持ちになっていった。
「CD制作が面白くないと言うのじゃないんです、
でもあれはみんなで一緒になって作るものじゃないですから」
これは、金城武が「なぜ」という質問にはっきりと答えた、珍しい例である。
オタクで知られる金城武が「みんなで作る」ことを重要視しているとは、
予想外だ。

ウォン・カーウァイの「恋する惑星」の撮影現場は、ぶっ飛んでいた。
監督は台本を用意しないし、それを自分の特徴としているぐらいだ。
カメラマンのクリストファー・ドイルは、撮る画面が揺れているだけでなく、
彼自身も揺れているように見えた。
金城武が観察すると、傍らにはビール瓶があった。

「この空間にいる人たちはコミュニケーションなしで、
でも、一緒に1つのことをしている。
自分の技術を駆使して楽しんでいる」
「現場で起きることは何でもものすごく面白かった。
監督でも、カメラマンでも、道具作りでも、美術でも、録音技師でも、
映像制作というのは、どうしてこんなに面白いんだろうと思いました」
彼は、どの仕事もやってみたかった。

リー・チーガイ(李志毅)監督の回想によると、
「世界の涯てに」は、スコットランドで屋外ロケをした。
金城武の出演場面は1シーンしかなかったが、
彼は全工程を撮影班と行動を共にし、片隅に座って静かに見ていたという。
ニューヨークに留学したとき、学んだのは映画科であり、俳優科ではなかった。

今日に至っても、彼はまだ演技にあまり慣れていない。
ピーター・チャンが、カメラが回る前で話そうとすると、
すごく不自然になってしまうとこぼしたとき、
金城武は思わず手を広げ、
「ぼくらだって不自然になりますよ! 
ぼくらはやらされて、仕方ないからやるだけで。
ぼくはそう感じてます」

彼は「ぼく」と言うべきところを、よく「ぼくたち」と言い換える。
まるで人々の後ろに隠れていれば、少しは楽になるかのように。
彼が普段、より、隠れようとするのは、”金城武“の後ろである。
彼自身は、”彼“と呼ぶ。
「彼はみんなが作り出した1つのイメージだと思うんです。
当時ぼくは、その殻の中に訳も分からず入り込んで、
彼と一緒に今日まで来ました」

“彼”は決して自分ではないが、しかし、自分が”彼“に背くこともできない。
こちらの金城武は、5場面しか出番のない脇役がやりたい、
なぜなら人物が生き生きしているが、主役の方はありきたりだから。
しかし、あの”金城武“は主役をやらなくてはならない。

こちらの金城武は、あの”金城武“のために、
やりたくはないがやる必要のあることを、数多くやってきた。
ピーター・チャンの言い方によれば、スター自身が1つの会社であり、
1個の経済体であって、たとえスター本人はあまり金を使わないとしても、
芸能事務所を動かし、映画の普及を動かす。
「このことは、変えようがないんだよ」
(続く)


   BBS   ネタバレDiary 23:00


2020年06月18日(木) 「南方人物周刊2017-4-24」 金城武の隠れ身の術・1

ここから、本文に入ります。
この部分は長いの……。
劉記者が、金城武の来し方をどのようにとらえ、
どのように書いたか、少しずつ見ていって下さい。



金城武の隠れ身の術

宇宙人が降りてきた

城武と言えば、まずは非常な容姿の良さだ。
蔡康永は、「彼が姿を現すと、宇宙人が降臨してきたように、光を放つ」と言い、
リン・チーリンは、「嘘みたいにかっこいい。
どうしてこんなに、と思うくらいで、完璧」と語る。

小Sの言い方はもっと豪放だ。
「あるとき、楽屋に彼が入ってきた。
言っとくけど、私、おしっこが洩れそうになったわよ。
ほんとなの、あんなにかっこいい男性は見たことがない。
たとえ普段は特に彼のこと好きではないひとでも、そう思うでしょう」

映画で共演した李小冉(リー・シャオラン)は、
彼とツーショットをとても撮りたかったが、顔を合わせると、口に出せない。
プレミアのときまでずっと我慢して、ようやくサインをしてもらったが、
ベテランの人気女優が、このときはファンの女の子のように、
はにかみながら大喜びだった。

顔の良い男は大勢いるが、他の男たちには嫌われる。
「だが、金城武のかっこよさには誰も何も言わない」
とピーター・チャンは言う。
さらにはこんな話まである。

2013年、金城武は航空会社のために撮ったCMで、
台東・池上の水田地帯にある、1本の普通のアカギの木の下でお茶を飲んだ。
わずか数秒間のシーンだったが、なんとこの木が人気沸騰し、
「金城武の木」と呼ばれるようになって、
年間5億台湾ドルの観光収入をこの地域にもたらした。

2014年に「金城武の木」は台風で根こそぎ倒れてしまった。
この件に関し報道が相次ぎ、現地の役所が乗り出して植え直して、
この木は「池上郷にとって金の卵を産む鶏だ、全力で救う」と表明した。
後にまた強い台風に襲われたときには倒れなかったが、
それがまたニュースになったのである。

時はさかのぼって20数年前、少年時代の金城武は、
まだこのような賛美は受けていなかった。
初期の番組動画で、彼は、日本人学校に通っていたときのことについて、
「どうしたら人に好きになってもらえるのかもわからなかった。
多分ぼくの表現の仕方があまり上手でなかったのだろう。
おしゃれをする勇気もなかった」と語っている。

もちろん容姿は良かった。
そうでなければ、同級生の母親の知り合いが
CMに出演させることもなかっただろうし、
事務所が彼と契約してCDを出させることもなかった。
しかし、その綺麗さは、芸能人ならそうだろうという程度だった。

初期に彼を何本かの映画に出演させた監督朱延平(チュー・イエンピン)はこう語った。
「要するに、なかなかいいねという感じで、息をのむほどではなかった。
それは多分ジミー・リンの方だったと思う」
当時は活発で可愛い男の子が流行だった。
「台湾四小天王」の内では、金城武は2番目に年若だったが、
顔つきは一番大人びており、その上内向的で朴訥だった。
朱延平は彼のことを“若年寄”と呼んだ。

「ジミー・リンもニッキー・ウーも、とんぼ返りやダンスができたが、
金城武は踊りもそんなにうまくないので、ちょっと損をしていた。
演技の幅もあまりなかったし」

初め、金城武は朱延平のコメディ映画で“アイドル”役を演じた。
つまり、お笑いをやれず、クールさ担当といった役回りだ。
コメディの中でアイドルだというのは、あまり良いことではない。
活発で人を笑わせる者こそメインだからだ。

「金城武は『報告班長3』に出演したが、
ジミー・リンと一緒だと完全に食われてしまった。
ジミー・リンは元気で明るいが、彼の方は表情がない」
と、朱延平はある番組で振り返っている。

2人が少しずつ親しくなっていって、やっと、朱延平は、
この恥ずかしがり屋の少年もまた、
おどけてみせることができるのだと突然発見したのである。

当時の映画撮影は資金がなく、撮影現場にはおいしい飲み物などなかった。
あるのはお湯だけで、コップが並べられており、のどが渇けばそれで飲む。
監督にはささやかな特権があった。
協賛の缶コーヒー会社が缶コーヒーを20箱ほど、
撮影チームに提供してくれたのである。
これは監督用と言ってよく、朱延平は毎日水代わりに飲んでいた。

金城武が朱延平の椅子の脇に来てしゃがむと、言った。
「社長さん、コーヒーご馳走してくださいよ」
朱延平は喜んだ。この子にこんなユーモアがあったなんて。
(訳注:これがなぜユーモアかと言うと、社長さん、仕事を下さい、という意味で、
ご飯をご馳走してください、という言い方があるのですが、
武はこれをもじって監督にコーヒーをご馳走してください、
と言ったというわけなんです)


「いいよ、ひと缶ご馳走しよう、どうだい?」
缶コーヒーは20台湾元で安い。
「20元の問題じゃない、気持ちの問題だ。
後になって、彼は台湾に戻ってくるたび、
私に2万元の鉄板焼きをごちそうしてくれた。
私の投資は大変価値があったと言うわけだ。
20元のコーヒーが2万元の鉄板焼きに変わったのだからな」
と朱延平は笑う。

金城武が冗談を言う範囲は、親しい人間に限られているが、
彼と親しくなるのは生易しいことではない。
ヒロインとして金城武と恋人同士を演じたことのある葉全真は
「ほんとに変な人だった。何を考えているのかわからないので、
私もあまり近づかなかった」と話している。

撮影チームの中で、彼のことを面白いと思っていたのは、
朱延平の他は、おそらく5歳のハオ・シャオウェンだったろう。
2人はいつも一緒に蟻を捕まえたり、ままごとをしたりして、
1時間も2時間も遊んだ。

ずっと後、「LOVERS」の撮影現場で、記録映画の監督が
同じような情景をカメラに収めている。
金城武は赤褐色の小さな蛙を見つけると、興奮して掌にのせたり、
小さなカメラ、あるいはビデオカメラを構えて森の中の小動物を、
しゃがみこんで、あるいは高みに向けて撮ったりしている。
このとき、5歳の子は一緒ではなかった。

朱延平はだんだんと、お笑い担当の役を金城武に振るようになった。
「危険な天使たち」で、金城は人のまねをして粋がり、女性に無視され、
隣のニッキー・ウーはいつでも大もてだ。
後に、これは当時金城武の地位が低かったことを表していると、
分析した者がいる。
しかし朱延平の考えでは、コメディにあっては、
おかしいことこそが何よりも重要なのである。

上映当時、金城武は何度も見に行っている、それも友人たちを連れて。
見終わった後、朱延平に、本当におかしかったと電話をかけた。
「自分のコメディの演技に満足していたね」と朱延平は言う。
「私も大したものだよ、彼の喜劇の天分を最初に見出したんだからな」

後に、ウォン・カーウァイは「天使の涙」を撮ったとき、こう語った。
「金城武には特質があって、喜劇のリズム感がいい。
だから、わざと難題を与えて、口のきけない役を与え、
仕草だけで表現するようにさせたのだ」

自分のかたわらにしゃがみこんでコーヒーをおねだりした少年が、
成長して光り輝くような美しさになるとは、朱延平は思ってもみなかった。
朱延平がそれに気づいたとき、金城武は既にアジア全体の人気者になっていた。
「正直に言うと、彼が後にこんなにかっこよくなるとは思わなかった。
少年から男に成長した。本当に驚いたよ」
(続く)


   BBS   ネタバレDiary 22:00


2020年06月16日(火) 「南方人物周刊2017-4-24」記者の眼

「人物周刊」の記事は、3つの部分に分かれていると書きましたが、
公式HPには、前回ご紹介した導入部と、もう1つ、
本誌にはない、「記者の眼」という文章が載っています。

この特集は1人の記者(劉珏欣 りゅうかくきん)によって書かれていて、
その記者が取材をして感じたことを率直に書いているのですが、
先にそれを読んでからの方が面白いと思いますので、以下に。





記者の眼
なぜ金城武を守ろうとするのか?


だインタビューが始まる前から、
あの一分の隙もなく待ち構える態勢が、私に気を揉ませた。
護衛が多かったというわけではない。
金城武のスタッフ・チームは、インタビュールームに入ってくるや、
インタビューとは直接関係のない人間を1人1人、
断固としてお引き取り願った。
その中には映画の宣伝担当者までいた。

それなのに、宣伝担当者はさらにお咎めにあっていた。
「関係の無い人はいないようにとお願いしなかったですか?」
「ええ、ほんの数人ですよ、それにあなた方がいらしたら、すぐに出ますから」
「いやいや、そうではなく、あらかじめお願いしていたのは、
私どもが来る以前に、引き取っていてくださいということだったんです」
理由は、金城武が、人が少しでも多くいると、落ち着かなくなるからなのだ。

たとえ私がずっと金城武を好きだったとしても、
大スターにはおかしな癖を持つ人が大勢いるのを見てきていたとしても、
流石にこのときは思った。
これはちょっとわざとらしすぎるんじゃないか?
まさかあの伝説の中の素晴らしい金城武は、
実はお高い人間だったとでもいうのだろうか?

しかし、彼と面と向かって腰を下ろすと、
このような考えはまた消えていくのだった。
以前、こんな記事があった。
金城武と対面で取材するときは、間隔を2メートル開けなければならない。
記者が少しでも近づこうとしたら、制止される、というのである。
そのようなことは、今回は起こらなかった。
彼の方から、話しやすいように近寄ってきてくれたし、
私がICレコーダーを置けるように、
近くのテーブルを自分で動かしてきてくれたりさえしたのだった。

今回のインタビューは成功したとは言えない。
私が前に読んだり見たりしたことのある彼のインタビューが
ほとんどそうであったように、成功しなかった。
唯一成功したと言えるのは、
NHKが制作した南極旅行のドキュメンタリーである。
しかしあれは南極という環境のもとでリラックスした11日の間の撮影で、
旅行する前に撮ったものではない。
同じような条件を再現するのはほとんど不可能だろう。

私は数えきれないほど多くの人のインタビューをしてきた。
昔語りが上手な人、撮影時のことをよく覚えている人、
考えをまとめるのがうまい人、また、ユーモアたっぷりの人も、
自分をよく分析できる者もいた。
だが、金城武はどれもこれも不得意だ。

あいにく彼は極めてまじめで、ほんの軽い質問にも、眼を閉じ、
傍らを向いて、長いこと考え込む。
その姿はこの上なく美しく、時間を止めたいと思わせるほどだ。
そして目を開くと、誠実にこう言うのだ、
「本当に覚えてないんです」

もし、この覚えていない、あるいはあまり役に立たないような答えが
続いたようなときには、彼はこう言う。
「ごめんなさい。ほんと、申し訳ないです」
そこで、私はインタビューのときにはめったにならない気持ちになる。
一方では、参った参った、使える内容がほとんどないと思い、
一方では、なんていい人なんだと感嘆しているのだ。

こうなれば、周囲の取材に精を出すしかない。
私は彼と仕事をしたことのある人間を訪ねて回った。
そして2つの面白いことに気が付いた。

1つは、仕事をしたことのある人たちの多くが、
自身と金城武との関係を定めかねているということだ。
仲がいいのか? そのはずだ。
だが金城武の方もそう思っているのかは断言できない。

このつかず離れずの関係は、公の人物が公に語るときにはめったに見られない。
公の人間は普通の人よりも、もっと仲の良さを楽しそうに語ったり、
時には友情を誇張したりするものだ。
こういうつかず離れずの表現がされるとすれば、
それは特に親しくはないということを意味する。
しかし、金城武の場合は、彼自身が認めた友人であっても、
このような言い方になる。

2つめの興味深い点は、一緒に仕事をした多くの人が、彼に対し、
端から見てもすぐそれとわかる保護者的気持ちを持っていることである。

例をあげよう。
映画館で金城武が質問に答えているとする。
相変わらず答えるのが下手だ。
すると、ピータ・チャンがすぐに助け舟を出す。
「彼の言葉を翻訳しましょう」
他人に理解されないのが心配なのである。
金城武のスタッフ・チームが彼を守ろうとする感じと、大変良く似ている。

プロデューサーの許月珍はこう話す。
「彼のことを良く知ると、自然と守ろうとするようになるんですよ」
私は頷いた。
なぜなら、数日取材しただけで、その保護しようとする気持ちが
私にも芽生えてしまったからである。

よくよく考えると、43歳の男性なら、
たとえあまりハンサムすぎて宇宙人みたいになっていようと、
人の心に生まれるものは、憧れのような気持であるはずで、
守ろうとする気持ちではないのではないか?

一体その気持ちはどこから来るのだろう?
浅い結論にならざるを得ないが、
彼は一見してデリケートであるが、時代の大きな潮流に抗って流されず、
ただ良い仕事をしたいだけで、
自分について人には一切知られたくないという生き方を貫いている。
ひ弱だが、強靭で、人に尊敬の気持ちを起こさせ、
少しでも助力してやりたいと思わせてしまう。

このような俳優は損をする、とピーター・チャンは話す。
彼は今回金城武に「恋するシェフ〜」への出演を勧めたとき、こう言った。
「やってみてごらんよ。撮影からプロモーションまで。
今の世界がどんなふうなのか、見てみたらいい。
君は気に入らないと思うが、しかし、ぶつかってみてごらん。
世界を変えることができないなら、
その世界と共存することはできないかどうか、見てみたらどうだい?
もう2度とやらないかどうかは、その後で選べばいい」

今回の試みで、金城武が喜びを感じられたのだったらいいと思う。
私たちは、やはりこれからも、
大スクリーンでの彼をたくさん観たいと思うから。
(この項終わり)


   BBS   ネタバレDiary  19:00


2020年06月14日(日) 「南方人物周刊2017-4-24」 2人の金城武

「恋するシェフの最強レシピ」公開時に、
中国の週刊誌「南方人物周刊」が金城武を表紙に載せ、
12ページの特集を組みました。
リクエストを頂いたので、これを今度はご紹介します。

3つの部分に分かれています。
今日はまず、特集巻頭の文章を。





2人の金城武
本誌編集部

わあ、今日は随分話をしているなあ」
2017年3月15日、映画「喜歓你(恋するシェフの最強レシピ)」の記者発表会で、
ピーター・チャンは台上の金城武を見上げ、
驚いたというように隣席のプロデューサー、許月珍に声をかけた。

このときの金城武は、ただ普通に司会者の質問に答えていただけで、
軽やかに話に花を咲かせているとはとても言えなかったが、
10数年の付き合いのあるピーター・チャンから見ると、
これはもうめったに見ることのできない金城の状態で、
自分のチャンネルを頑張って切り替えないとできないことだった。

果たして、台から降りた金城武は、ややぼんやりとした様子で、
「台の上にいたのは、あれは誰だったんだ?」と自身に問いかけていた。

このような戸惑いは、デビュー20周年の年にもあった。
所属事務所が1枚のDVDを贈ってくれたのである。
中には全出演CMとテレビ番組が収められていた。
家に帰って昔の番組を再生し、金城武は飛び上がった。

1990年代、台湾のバラエティ番組は、大勢で賑やかに騒ぐのが主流だった。
彼は他の若手タレントと一緒に、番組でバスケットのシュートをしたり、
料理をしたり、クイズに答えたりしていた。
また、司会者が手に騒音測定器を持ち、
スタジオ内のファンたちに大声で応援するよう促し、
どのスターのファンの声がより大きいか競わせたりすることもあった。

これらを見直した金城武は、「こいつ、誰?」と自問した。
その人物の表情も仕草も話していることも、まったく記憶になかったのだ。

デビューして20年余りたっても、
金城武は芸能界の歯車の一つであることに慣れ切っていない。
彼は自分を“2人の金城武”に分けて考えている。

1人は、彼自身である。
ほとんど物欲がなく、普通の服装をし、プライバシ―を非常に大事にし、
一般の人々とは映画だけで繋がっている。
もう1人の“金城武”は、人々が作り出したイメージで、
人によってそこに投影するものが違う。

「ぼくは、絶対あの金城武ではないんです」
彼はあの”金城武“のことを「彼」と呼ぶ。
「ぼくはただ、当時、その殻の中に訳も分からず入って、彼についてきた。
今までずっと」
ピーター・チャンとの対談で、彼はこのように語っている。

新時代のスターは、自分の中に人に受けそうな属性を見つけて、それを強調する。
例えばダジャレの名手とか、気の強い女王タイプとか、
禁欲系とか、家庭円満とかだ。
時には、それまでの固有のイメージを壊して全く違うものに換え、
コントラストを作り出すこともする。
つまり、「こんな人だったのか」という驚きが、
スターの魅力を高める上で重要なカギにもなれるということだ。

だが、昔気質の金城武は、このような時代の潮流には無関心だ。
彼は人々が20年以上にわたって作り上げてきた、
あの”金城武“をひっくり返すことはしたくない。
”彼“は守りたい。

或いはこうも言える、あの”金城武“が彼を守っていて、
本物の金城武から何かを取り出して
人々に見せなくてもいいようにさせているのだと。
役の人物を作り上げること以外に、
世間と公におしゃべりをしたいことは、彼には何もないのである。
(この項終わり)


   BBS   ネタバレDiary  23:00


2020年05月24日(日) 「智族GQ」2016年12月号「トニー・レオンと金城武」・4(完)

ぼくは本当に単純

ンタビューは、晩秋の北京には珍しい晴天の日に行なわれた。
ホテルの部屋のブラインドは半ば開かれており、
金城武は足取り軽く部屋に入ってきた。
逆光になる位置に座ると、
クリーム色のフード付きジャケットのファスナーをきっちり引いた
彼の周りを、筋状の光が囲み、大柄なシルエットを浮かび上がらせた。

話し始めると、実に楽しそうで、「ピザを愛する者が勝つ」の話のときは、
ボディ・ランゲージも活発になった。
この日、彼は機嫌が大変良かった。

「1つのことを長い間ひたすらやってきて、
その間、どうしたらずっと好奇心を持ち続けることができますか?
それで悩んだことはないですか?」

実は、彼も悩むことがある。
この問題への彼の答えは「それなら、やる数をできるだけ少なくする」だった。
しかし、今は、どんな面白い場合でも、すべて楽しくできるわけではないことも、
彼はよくわかっている。
「それでも、少なくとも一部分でも面白いと思えるなら、
それを大事にしてやるだけです」

物事をやるときは、楽しくやりたいと彼は思っている。
例えば、撮影のときは、架空の存在を立体的なものにしていく過程を
大いに楽しむ。

「それ以外のことはぼくには関係ないし、したいとも思わない。
大事なことはこの楽しんでやれることで、
他のことは、何とか折りあえる方法があるなら、やるということです。
1本の映画は1人でやっているわけではなく、他の出演者もいるし、
他にいいシーンもあるのだから、それで不満ある? ということですよね?
時には満足できないこともあるけれど、だからってどうすることもできない、
自分の仕事をきちんとやるしかない」

ここ数年、彼も俳優として映画環境の変化について感じることはある。
脚本がすごく変わったし、映画人たちと話しているとき、
彼らが大きく変わってきたのに気づく。

「ウォン・カーウァイは監督であり、映像編集者であり、
会社のボスでもある、多元的です。
彼は、ぼくらが持っている概念に対し、現在の市場はどんなふうであり、
映画の内容が目指す方向は以前とどのように変わってきたのか、
人々は今、どんな方面のことを多く考慮に入れるようになり始めたのか、
などを話してくれます。
映画人はこうした変化を知る必要がある。
この市場に沿ってみんなが変わり始めたということがわかります」

「擺渡人」という作品から、ウォン・カーウァイ自身の変化も、彼は感じ取った。
初めは映画自体には全く関わらない、
若い人――張嘉佳に、あるいは新世代の俳優たちに、
このチャンスをあげたいという態度をとっていたことだ。
後になると、彼自身も我慢できなくなって、制作に参与し始めたのだが。
喜びはそこにあるからである。

「これは市場の変化のせいだろうか? ぼくもわからない。
でも、カーウァイは、彼のあのやり方だけではだめだと感じたんだと思う」

金城武は自分はものぐさだと言う。
映画業界全体の変化や流行に対し、それに関わっているという感覚はない。

「過去の自分も、未来の自分もない。
ぼくはすごく簡単で、オファーがあり、興味を持てば出演するだけ。
ぼくの唯一の任務は、その登場人物を生きたものにすることだけです」
コメディでも、悲劇でも。
(完)

    



   BBS   ネタバレDiary   23:00


2020年05月23日(土) 「智族GQ」2016年12月号「トニー・レオンと金城武」・3

現場で思いついたことの方が生き生きする

つからそうなのだろう、どんなものにも期限がある。
サンマ、ミートソース、サランラップでさえも。
この世で期限のないものはないのか」

いったん共感があれば、名作映画の名セリフは、観客の脳裏に
あの有名な金城武の様子をたやすく思い起こさせる。

1994年、金城武はウォン・カ−ウァイ自らの指名で
「恋する枠絵師」に出演した。
フーロンと契約して4年目になったときである。
これ以前は、曲を書いてはCDを出すのに忙しかった。
映画はまだ1本しか出たことがなく、映画界には足を踏み入れたばかりだった。

「恋する惑星」出演は、彼に新しい世界の扉を開く転機となった――
毎日1枚の紙をにらんで台詞を考える、予測不可能な中で作られた作品こそ、
初めて演技を楽しいと思えた作品だったのである。

また「恋する惑星」に続いて出演したカーウァイ作品「天使の涙」は、
後日、日本での知名度を確立する出世作となる。
今日でもなお、金城武といえば、観客は、パイナップルの缶詰を食べる
何志武(モウ)を、すぐ思い浮かべる。

「恋する惑星」から始まり、「傷城(傷だらけの男たち)
「レッドクリフ」を経て「擺渡人」がクランクインし、
警官223号と663号はまもなく4度目の再会を果たす。
ただ、223と663は、2人のコンビができた映画では共演場面がない。
それで金城武はトニー・レオンとの共演についての話になったとき、
深い印象を持ったのは、まず「レッドクリフ」のときだと言う。

この映画ではひげをつけなくてはならなかったので、
顔の表情をあまり大きく動かしてはいけなかった。
ところがトニー・レオンは、金城武がひげを付け終わった頃にやってきては、
笑い話をするのである。
「それでぼくは笑ってしまい、『あっ、笑い話はやめてください!』。
わざと笑わせるんですよね、ひげが落ちてしまうように」

それ以来、金城武には、トニ・レオンの笑い話は
いつもとてもおかしいという印象がある――
自分の笑いのハードルが高いのか低いのかわからないが、
しかし毎回、こらえきれず笑ってしまうのだ。

今度の再会では、幸い2人の共演が多かったので、
撮影班でのカーウァイ式予測不能な創造性は今回も保たれた。

現場では突然の閃きのために、3時間もかけて、
「ピザを愛する者が勝つ」の一章を書くようなことが、今回もあった。

初めの設定では、ピザを買った客におまけをあげるというシーンだったが、
何カットか撮ってみても、みな、どうもピンと来なかった。
現場で討論の後、ここはバックダンサーと鳴り物付きのシーンに変更することになり、
ちょうど待機していた金城武が、命懸けの愛こそ勝つ、と歌うことになった――
これでこそ、いい感じになる。

さらに、命懸けの愛こそ勝つ、は「ピザを愛する者こそ勝つ」へと発展する。
(注・「ピザを愛する」と「命懸けで愛する」の中国語はbとpの違いだけで音がほぼ同じ)
幸い撮影班の大きな特色が、道具班が非常に優秀だということだった。
金城武が、ドラえもんがいるのではないかと疑ったほどだから、何でもできた。
例えばこのようなとき、道具版の出番になると、
すぐに新しいアイディアに沿って大道具を作り、
俳優たちは火鍋を食べて待っている。
出来上がったら撮影再開だ。

このようなやり方は大変時間を食う。
しかし、たくさんの創造的アイディアが得られる。
大変なんじゃないかって? 確かに困難だ。だが、
「往々にして現場で考えついたことの方が、生き生きとして命がある」。
(続く)





文中には「恋する惑星」の前に出た映画は1本、とありますが、
「ワンダーガールズ2」と、「香港犯罪ファイル」の2本ではないかと思います。
次回で終わりです。



   BBS   ネタバレDiary  23:20


2020年05月22日(金) 「智族GQ」2016年12月号「トニー・レオンと金城武」・2

怖がらないで、真剣なだけだから

城武が前回、喜劇に登場したのは、20年前の朱延平の映画まで遡る。
「チャイナ・ドラゴン」では、車を運転しながら美女に見とれて木に衝突、
タイヤは外れ、カメラは彼が鼻血を出して
へらへら笑っている顔をクローズアップする。
「危険な天使たち」では学生に化けた潜入捜査官を演じ、
教室で,絵に描いた眼を貼り付けて居眠りをし、
当時の観客たちを笑わせていた。

それから時間があまりに経ったので、観客はスクリーンの中の、
愁いに満ちた情の深い彼に慣れてしまい、
あの喜劇俳優金城武を思い出す人はほとんどいないというだけだ。

「どうしてこういうのに出て、ああいうのはやらないのかと、よく聞かれます。
そうじゃなく、人が、これをやりませんか、と言ってくるだけなんだと
答えるんですけど」
本当は、ずっとコメディが大好きなのだと言う。

個人的に映画界の風潮を推測してみると、
「最近手にする脚本はこういうタイプのものだが、
10年前、15年前から見てくると、
数年に1度の割で変化があるようだ」と、
大体こういうことではないだろうか。

彼も、冗談だが、道具や衣装を1回しか使わないのはもったいないので、
ある時期同じようなタイプの脚本を繰り返し書くんじゃないかと、
ひそかに考えたことがあると言う。

俳優がどんな役とめぐりあえるかは、業界の環境による。
幸いここ数年、コメディが再び歓迎されるようになった。

もちろん、金城武が「擺渡人」への出演を決めた第一の理由は、
やはりウォン・カーウァイである。
「恋する惑星」で、映画が好きになった。
香港で、夜、撮影機器をかついぎ街中を無許可撮影して回ったあの日々、
ウォン・カーウァイが映画の面白さを見せてくれた。
さらに、張嘉佳の小説にも心を動かされた。
「この2人がいて、断る理由はないでしょう?」

しかし実は、ぐずぐずためらっていることもあった。
「また同じことの繰り返しになるのだろうか?」
ウォン・カーウァイは、彼のこのような心配なんか気にしなかった。
絶対、同じになどならないと思っていたからである。

確かに、今回は以前とは違っていた。
カーウァイの世界に脚本はない。
当時21歳になったばかりの金城武は、しかし、こう考えることができた。
「何でもやるよ、簡単さ。やればいい。
どうせあの人が何をしているかなんてわからないんだもの」

一方「擺渡人」はある小説を原作としている――
役の理解に影響しないよう、撮影開始前から、
小説はあまり読まないようにとわざわざ言い含められてはいたとはいえ。
金城武はそれでも前もって酒場に足を運んでは、
管春の感じを探ろうとし、脚本を読みたいと言った。

「でも、そんなこと言っても無駄な話なんだよね、
読んでも読まなくても役に立たないんだもの。
あの人のやり方は知っているのだし、
自分もそのやり方が実は好きなんだから、
現場に行って、撮影に入り、やってみるしかないわけだ」

しかし、今回は脚本は存在するので、現場で新しいアイディアが出ると、
カーウァイと張嘉佳はよく意見を交換していた。
次のシーンを考え着くと、涙を流して笑いながら、金城武を呼んで、
聞かせることもあった。
そうしてやっと、
「どんな具合か、ちょっとやってみてもらおう」ということになる。
特別真面目な俳優として、金城武も思いついたことがあると、
まずは2人の意見を求めた。
「管春はこういうふうでいいですか?」

俳優というこの道を長いこと歩んできた金城武は、
かつての何もわからぬ状態を繰り返すことはない。
今は、演技に入る前、役の人物の1つ1つの行動が成立すると、
必ず納得ししなくてはならない。

この真面目さのせいで、張嘉佳が制作発表会の席上、
まだ恐怖冷めやらぬ風情でこう話したほどだ。
「出演者は大勢いますが、一番怖いのは彼ですよ。
毎日、大きな目でこちらを見つめて、なぜこうなんですか、と聞いてくるんです。
後になって、ある日、ぼくのところに駆けてきて、言いましたよ、
『怖がらないで下さい、ぼくはただ一生懸命やってるだけですから』と」
(続く)





   BBS   ネタバレDiary 21:20


2020年05月21日(木) 「智族GQ」2016年12月号「トニー・レオンと金城武」・1

金城武は、雑誌「GQ」には中国版にも台湾版にも、何度も登場しています。
(もちろん映画が公開されるときだけですが)
2017年の「智族GQ」は、載ったとご紹介しただけで、
内容については触れていませんでした。

このときは「擺渡人」のプロモーションとしてですから、
自然、ウォン・カーウァイの話になるので、
今度はこれをご紹介してみることにしました。
ちなみに、「GQ」のインタビュアーは毎回違います。





トニー・レオンと金城武:擺渡人、再び世間に舞い戻る
時代の記憶を担う2人の男たちが
コメディを通し、おのれの別の一面を世に知らしめる


それぞれ人生の新しい段階に足を踏み入れたトニー・レオンと金城武が、
再度肩を並べ、世間に復帰した。
「恋する惑星」から「擺渡人(バイドゥレン=(渡し守り)」まで、
2人は4回共演をしている。
始まりはウォン・カーウァイであった。
20余年の後、再びウォン・カーウァイへと回帰した。

変わらないと言えるが、変化もある。
文芸映画から商業コメディへ、得意満面から淡々とした態度へ、
時代が若いイケメン俳優たちの巻き起こす怒涛に席巻される中、
時代の記憶を担った2人の男たちは、軽やかな姿態で、
“コメディ”によって、自分たちの別の側面を
世界に向け高らかに打ち出す。


トニー・レオン 心楽しい人
(すみません、割愛して、後半の金城武の部分だけ)

金城武 シンプルな人

い待機が始まる前から、金城武には予感があった。
それは当たっていた。

「擺渡人」の撮影のため、2015年7月に現場に向かったが、
「着いたら、すぐ始まるよと言われた。けれど、また延期になった」
彼は現場への往復を何度も繰り返し、
3月過ぎになって映画はようやくクランクインした。
「3月過ぎに開始しますよ、と最初から言うのでなく、
多分来週には始まるから来て、と言われる。
ところが、そのときになると、やっぱり始まらない。
また引き返すことになる」

金城武の身に降りかかったこの情況は、過去の再現である。

25年前、彼は初めてのテレビドラマ「草地状元」に出演した。
長い年月の後、そのときの経験を振り返って話してくれたとき、
あの撮影開始を待った日のことは、
彼の記憶に今なおありありと留められていた。

40〜50人乗りの大型バスで約4時間の道を、
車中睡眠をとりつつはるばるやってきて、
台南の農村の撮影現場にまさに着いたときだ。
「撮影開始の通知をもらっていたんですよ、
それで台北からバスで嘉義まで来て、まだ農村でしたよ、4時間かかった。
現場に行ったら、何しに来たんだと言われました。
『撮影があるんじゃないんですか?』と言ったら、
『ああ、日が変わったんだ、連絡行かなかったか?』って」

この2つの情況はかなり似ていましたか?――
金城武は、あの頃は、また違う大変さだったと答えた。
通信が発達していなかったし、また初めての撮影でもあったので、
何も考えていなかった、と。

しかし、今回の待機は、予想していたものだった。
43歳の俳優・金城武は完全に理解できる。
なぜなら、この映画のプロデューサーは、ウォン・カーウァイだからだ。
撮っては休みで、1本の映画を制作するのに8年かけた、
あのウォン・カーウァイなのだから。

「だから、彼がこうでなくちゃいけないと言えば、ぼくは理解します。
いいですよ、合わせられるなら、できるだけ合わせます」

そして何もできないまま3カ月が過ぎた。
ずっと待っていたのである。

本来、7月から9月までの撮影予定であったため、
撮影班が用意した衣装は、全て半袖だった。
後に俳優たちは摂氏2度の上海で、
半袖姿でアクションシーンを演じることになる。
しかも、それは突然決定され、誰もが大変な思いをしたアクションシーンだった。

これは、実にウォン・カーウァイらしい。
ひらめき、不確実性、それに厳しい基準によって、
自身の映像世界を構築するのが彼のやり方だ。
金城武にとって、苦労もしたが、忘れがたい経験でもある。

まだ若かった頃に、このようなやり方の中で、
初めて演技することの歓びを味わい、
そこから俳優になろうという思いを固めていくことになったが、
その後、長いこと、彼を困惑させる原因にもなる。
「監督とはとても仕事をしたかったのだけれど、
また同じことを繰り返すのか、という心配もあったんです」
(続く)





原文はこちらで読めます。写真もあります。



   BBS   ネタバレDiary   10:00


2020年05月17日(日) 「天下雑誌」2014年12月号「金城武インタビュー」・2

――長い俳優人生で、大きく成長したのと感じたのはいつのときですか?

金城武 成長はやはり年月によるものですね。
年齢が上がるだけでなく、物事の考え方も大きく変わります。
また、たくさんのことを経験します。
ぼくの年齢だと、おじさんやおばさんとかが亡くなったりということも
起きてくる。
経験は、きちんと経験することで、本当に感じ取ることができると思います。

でも、映画に関しては、ウォン・カーウァイのおかげで
ものすごく興味を持つことができました。
監督の映画に参加したときは、「なんでこんなに面白いんだ!」って感じでした。
脚本が無いですって?
(注・カーウァイの映画は完成した脚本が用意されることがほとんどない)
ありますよ、毎日1枚くれる。
で、「明日は同じシーンをもう1度撮る。
昨日撮ったのは使わないからね」と言うんです。
当時はぼくも若かったけど、もし今そうすると言われたら、
我慢できないんじゃないかなあ、
「また撮り直し? 先にちゃんと脚本書けないの?」って言うでしょうね。

でも、こういう監督に出会ったことで、チャンスがもらえた。
同じ動作を20回繰り返していい。
20種類のやり方をやってみせてもいい。
あのとき、ぼくは映画って、創作するって面白いなあと感じました。
文字に書かれたものを立体的なものに変える。
あの頃は、違う風格の監督、映画をなんでも試してみたい、という気持ちでした。
朱延平監督の映画で、コメディ・アクションをやったのもそうです。

――年月が成長させるといいましたが、
人は挫折から成長するということがしばしばあります。
あなたの場合、何か大きな挫折がありましたか?


金城 挫折はもちろんありましたよ。
でも、自分でも何だったか言えないんです。
多分、映画が出来てみたら、全然満足がいかなかったとか、
あるいは誤解がどんどん大きくなってしまって、
あいつはあんな人間なんだと思われたりとか、かな。

みんなが「君は男神だ」というのもそうですかね。
ぼくはこれも誤解だと思っている。
だからといって大して考えないけれど、
ただ、そんなものにはなりたくないだけです。

「どうしてそんなにミステリアスなんですか」とよく聞かれるけれど、
ぼくはこう思うんです、あなた方が知りたがるだけじゃないですかって。
あなた方が好奇心が強すぎるので、
ぼくがミステリアスというわけじゃないんですよ。
もちろん、ぼくの性格は割に控えめな方だけれど、
それも、ただ他の人が意気盛んなだけで、ぼくが大人しすぎるわけじゃない。
相対的な話に過ぎません。

ぼくにも失敗はある、
みんなが覚えていないだけ


金城 確かに挫折を経験してこそ成長があるし、
失敗を経験してこそ成功があって、
そういう成功はより確かなものだと思います。

ぼくもやはり失敗したことはありますよ。
でも、みんなあまり覚えていないだけなんです。
だから、成功もない。
本当は人生には成功、不成功なんてものはなくて、
成功は1つの過程に過ぎない。
誰でも何でもずうっと順調に行くっていうことはないでしょう?

――さっき、役の人物には特色がなければならないといいましたが、
ではあなたの特色は何ですか?


金城 ぼくの特色は何か、ぼくの特色……? うーん……答えがない。
ぼくの特色は何か? ものぐさかな?(爆笑)
もちろん自然や縁を大事に思っているとか、
多くのことは手に入れようと思って手に入れられるものではないと
考えているということもあります。

ほら、最高の監督と、最高の脚本家と、最高の俳優を集めて作った映画は、
必ず最高の映画になりますか?
たいていのことは無理やりやるものではなく、縁に任せるしかない。
けれども、それに出合ったら大切にする。
出合えなくても、「なんだ、だめだったじゃないか」とは考えないこと。
まだまだこれから物事を学んでいくんですから。
そして大切にする、一瞬一瞬を大切にする。

ぼくの特色ね? すごく答えてあげたいんだけれど、
自分はまだ成長の途中だと思うんです。
ぼくが何かを言うと、人はそれでぼくのことを定義する。
でも、ぼくは変化している、また変わらないこともある。
本当に答えが出ないときは、無理に言って、
誤解を作らない方がいいと思うんです。

――あなたの生活は比較的単純で、自分に忠実な状態でいると感じますが、そうですか?

金城 今おっしゃったことは、そうかもしれません。

――今の社会は野心が重要視されていますが、
あなたはどちらかというと自然に任せるという感じがします。
こういう社会に馴染めないと感じていますか?


金城 そうではないです。社会は今おっしゃったのとは違うと思います。
例えば台湾がそういう社会だとは言えない。
地方によっても違うでしょう、それぞれの文化がありますから。
ぼくは多分、ある地域には馴染めないかもしれないけれど、
別のところでは快適だと感じるかもしれない。

意識してピュアであろうとか何であろうとかしているのではありません。
やったことないこと、関わったことが無いことはたくさんあって、
それで当然あまり影響を受けたり、
こだわったりということがないということでしょうね。
(完)


これでおしまいです。
ウェブに原文があったので、後でURLを追加しておきます。



   BBS   ネタバレDiary 22:30


2020年05月16日(土) 「天下雑誌」2014年12月号「金城武インタビュー」・1

金城武インタビュー
男神と言われるのは誤解だよ



金城武が3年ぶりに台湾でプロモーションに参加した。
本誌は紙媒体では唯一彼にインタビューを行なった。
記者と顔を合わせるや、彼は、
「わあ、ぼくも『天下』に取材してもらえる年になったんだ」と冗談を言った。
対すること30分、その謙虚さを、ユーモアを、
さらにはスクリーンやフラッシュのもとで見るのとは、
まったく異なる金城武を目の当たりにすることになった。


画のプレミアのときであれ、記者会見のときであれ、
ステージ上の金城武は常にピシッと立っている。
フラッシュがどんなに光ろうと、金切り声がどんなに高かろうと、
その優雅さはいささかも乱れることはない。

しかし、ライトとカメラのない、台北のシャングリ・ラ・ホテル20階の一室では、
大スターの様子はこれとは全く違った。
「わあ、この年になると、『天下』が取材してくれるんですね、
ありがとうございます、ありがとう」
金城武が記者の名刺を見ながら、挨拶すると、
かたわらのマネジャーと映画の広報担当者は声を上げて笑った。

肌が非常にきれいで、眼はCMで見るのと同じようにきらきら光っている。
驚いたのは、非常に活発で、よく話すことだった。
表情も豊かで、眉をひそめたと思うと、高らかに笑い、身振り手振りも多い。
かつてウォン・カーウァイ監督の映画に出たときの話になると、
テーブルのミネラルウォーターのボトルを手に取り、
水を飲む仕草を20通りやってみせもした。
朱延平監督が、彼にはコメディの才能があると言ったのは、本当だった。

彼はいったい何を考えているのだろう? 
成長と挫折についてどのように受け止めているのだろうか? 
なぜ、自分は成功などしていないと考えるのか? 
以下、インタビューの概要である。


――映画の話題から始めて、次に人生についての話をしたいと思いますが。

金城武 映画のことを話しましょう、最初だけでなくて。

――「太平輪(ザ・クロッシング)」で一番チャレンジだったことは何でしたか?

金城 実は映画はどれもチャレンジです。
ぼくにとって一番は、その人物を生きたものにできるかということ。
今回の「太平輪」は割と悩まなかった方ですね。
言葉の面で問題がなかったですから。
中国語も台湾語も日本語もできるので。

言葉は演技する上で非常に重要なものの1つだと思います。
ソン・ヘギョは、とても努力して中国語を話していました。
口の形と発音が正しく合うように心を砕いていて、とても感心しましたね。
ぼくは、感情の表し方に専念すればよかったのですが、
その分、主人公のザークンをちゃんと演じられるのか、
非常に心配になりました。
時代の中で、2つの文化に挟まれ、家の事情に迫られ、
恋愛が引き裂かれるというのをきちんと演じ出せるだろうかと。

――泣くシーンは本当に泣いているのだと聞きましたが?

金城 はい、演技ができないから、経験に頼るだけなので。
演劇の授業を受けたことがないから違うんです。
ぼくはとても運が良かったと思いますよ。
早い時期に映画製作に関われて、大勢の大監督や俳優さんと出会えたし。
でも、やっぱり他の人がどう演じるかを見て、
それから自分はどういうやり方でやればいいかと考えるしかない。
この作品で一番プレッシャーだったのは、つい泣きすぎてしまうことですね。
すぐ涙を誘われるお話ですから。

――ピーター・チャン監督の「武侠(捜査官X)」のとき、
四川語で台詞を言いましたね。
撮影中は自分に挑戦しようというタイプなんですか?


金城 あのときは、監督に、ぼくは百九の特徴がどうしてもわからない、
とまで、言ったんですよ。
役には必ずその存在意義がなくちゃいけない、
しかし、特色がないと、存在意義は生まれない。
雲南でクランクインして1,2日経った頃、
四川語なまりで話すスタッフのがすごく印象的だなと気が付いたんです。
それで監督に、徐百九は四川語を話したらいいんじゃないかと言いました。
監督は、「自分でやるのかい?」と言いました。
ぼくが全然しゃべれないことを知っていたので。
(続く)


あと(多分)1回でおしまいです。



   BBS   ネタバレDiary  14:00


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