武ニュースDiary

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| 2003年04月13日(日) |
アイドル時代……映画撮影準備に香港へ● 期待される2本の映画(「向左走、向右走」)(星報) |
アイドル時代……映画撮影準備に香港へ
デビューの年、1992年の、多分11月28日付けの台湾の新聞記事です。
金城武、クリスマスは不在 ――映画出演準備のため明日香港へ だが、ファンのために日本でブロマイド撮影
人気上昇中の新人アイドル歌手、金城武は新アルバムのプロモーションを終え、 明日29日、映画撮影のため香港に発つ。 1、2ヶ月ほど滞在予定のため、 今年のクリスマスは台湾のファンとは過ごせない。 今年、歌謡界にデビューしたアイドル歌手金城武は、 秀でた容姿のおかげで、たちまちファンを獲得、 人気が出るのがあまりに早すぎて、 「外国人労働者」で検挙事件まで起きた。 金曲奨の受賞式典に出演したとき、 ファンが舞台前まで殺到したことからもうかがえるように、 その人気振りは、ジミー・リンにもひけをとらない。
このわずか数ヶ月で、無名の青年からアイドルスターとなり、 気持ちの方は、その変化についていけているのだろうか。 彼は、「まあまあですね。大勢のファンに取り囲まれ、 サインを求められたりしたときは怖くなることもあるけれど、 人に好かれるのが一番と考えるようになってからは、 こういう状況にも慣れるように努力しています」と言う。 有名になって、一番慣れないのは、いつでもどこでも写真を撮られることだ。 しかし、このような過渡期を、ゆっくりでも、 きっと乗り切っていけると彼は考えている。
歌謡界に入って、彼はもう1人のアイドル歌手、 ニッキー・ウーと親しくなった。 「出演するときは、いつもニッキーと一緒なんです。 ニッキーはもう何年か経験があるけど、 ぼくはどうやったらいいか全然わからないし、 すごく緊張してしまうこともあります。 でも彼が、出番の前に、カメラにどう向かえばよいのか、 どう応対すればよいのか、どう舞台を歩けばよいのか、教えてくれる。 それで、いつのまにか、ぼくたちはいい友達になったんです」 彼とニッキー・ウーは所属事務所が違うが、 彼はいつか、ニッキーと一緒のコンサートを開けたらと思っている。 もちろん、自分自身が国際的な大スターになって、 世界各地で活動できたらとも思っているわけだが。
明日、彼は香港に発ち、しばらく帰国できない。 クリスマスも向こうで過ごすことになる。 国内のファンをがっかりさせないため、 彼は、クリスマス前にあいまをぬって、日本でクリスマス用の写真を撮影し、 不在であっても心は共にクリスマスを祝いたいとのことだ。
期待される2本の映画(「向左走、向右走」) (星報)
人々を映画館に再び向かわせる方法はないものだろうか? 優れた脚本、良いキャストは必要な2大条件だ。 今、映画界は、「映画館に行きましょう、中国映画を観ましょう」と 呼びかけ続けると同時に、国産映画が本当に観客を引きつけ、 映画館へ足を運ばせる力を持っているのか、見直し中。 今年、上映される2本の国産映画「20、30、40」、「向左走、向右走」は、 この2つの条件を満たして、興業的成功を予測させる。 シルビア・チャン、ジョニー・トー、ワイ・カーファイの各監督もまた、 観客を映画館に取り戻すために努力を傾けている。
(「20、30、40」については省略)
もう1本はラブストーリー的要素の強い「向左走、向右走」。 アメリカの映画会社が投資することで、資金面の心配がないため、 金城武、ジジ・リョンの2人をキャスティング、 都会に暮らす男女の孤独な心情と愛への渇望を描き出す。 トーはジミーのストーリーを原作に選んだ。 2人は同じビルに住んでいて、 1人はいつでも左に行き、1人は必ず右へと向かう。 2本の平行線は地球上のある1点で交わる。 トー監督によれば、台北を舞台に選んだ理由はただ1つ、 台湾の観客に慣れ親しんだ場所を見せるためだ。
「香港の観客で中国語映画を見る人は多いし、 映画マーケットはともかくもまだ存在している。 だが、台湾では国産映画は見られていない。 台北を舞台とした目的の1つは、台湾の観客を映画館に連れ戻すことだ」とトーは言う。 この映画はすでにポストプロダクションを修了し、夏休みシーズンに公開の予定。 この映画を観た人は、映し出された街の感じが東京のようだと言う。 というのは、台北の変化が激しすぎるからで、 多くの人の持っているイメージは10年前のままなのだ。 「10年前の西門町と今の西門町、台北駅、MRTの駅、すべてが違っている。 実を言うと、もし実際に台北で撮影を行わなかったら、 私だって台北があんなに変わったことを知らないままだったろう」。
(星報 2003.4.9)
BBS
| 2003年04月10日(木) |
RE:GALANTサイト新CMの質問 |
[問い]
このストーリー中の、 金城武はNEW GALANT、ヒロインは別のGALANTを操ってのデートは、 行動で、互いの心を伝え合っているのです。 ふたりが心を通じ合わせたしるしの品はなんでしょうか?
・カシミヤのマフラー ・マーガレットの花束 ・村上春樹の小説本 ・古典ジャズのCD ・1カラットのダイヤモンド
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えええ???……おわかりですか……???!
BBS
| 2003年04月08日(火) |
「暗黒街」撮影の頃 ●GALANTのサイト更新 |
「暗黒街」撮影の頃
1998年に「ダウンタウンシャドー」が公開されたときは、 レイトショーでもあったので行かなかったのですが、 (今なら考えられない) 同じレイトショー、しかも歌舞伎町のど真ん中の映画館での上映だというのに、 なぜか「暗黒街」は行ったんです。どこかで評判を読んだのでしょうか。 あのどきどきするような斧の刃、血だらけの香港アクションの連続に、 見ていて体中力が入ってしまい、終わったときは疲れたけれど、面白かった。 こんなに笑えるとは思いませんでしたし。 終了後、ロビーに出てきた若い女性3人連れが 「すっげー、面白かった〜! ビデオ出たら買う!」と言ってましたね。^^ 武の動きはとにかく軽くて、気持ちよかった。思い切りがいいし、きれいでした。 血は嫌いだけど、こういう映画、けっこう好きです。 でも、他の人の主演だったら行かないかな。やっぱり怖い。
96年に香港で公開されたころの新聞記事です。(紙名・日付不明) 写真は台湾のCOLOR誌のもの。
「金城武、ユン・ピョウを師とする」 金城武とユン・ピョウがクンフーの腕を競う? 金城武のためにリメイクされた映画「暗黒街」は、 今年初め、彼が大陸におもむいて撮影した作品だ。 劇中、かなり高度のクンフーシーンがあるので、演技に迫真性を持たせるため、 武は特別にクンフーを習ったほか、ひそかにユン・ピョウを師とした。 契約解除問題でもめるユン・ピョウだが、アクション映画はお手のもの、 武は撮影中、いつも彼に教えを請うていた。
主人公・馬永貞は情あり義あり、あらゆる感情・欲望豊かな人物で、 優れた容姿で敏捷な金城武はまさに適役といえる。 劇中、彼のアクションシーンは大変多い。 監督のコーリー・ユエンは、彼のために馬車上でのコイン争いから ダンスホールでの乱闘まで用意、 武はクンフーの流れるような素早さを体験した。 何事も現場で実地に学ぶ金城武はこれらのシーンの撮影で疲れ、 1日休みをとったため、スタッフも1日の休暇を楽しむことになった。 現在アメリカでミラ・ソルヴィーノと共演中の金城武は、 「暗黒街」がまもなく上映されると聞いて非常に喜んでいる。
真剣な面持ちで監督の指導を聞く武
GALANTのサイト更新
もうご存知かもしれないけど、すっごく素敵です。 懸賞クイズのようです。
とりあえず、「ムーンリバー」にのせて語られるストーリーだけ。 なんか・・・難しい。 こちら
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Moonrise 金城武 対 GALANT 二号月光円舞曲
俺は覚えている、 一番好きなのは太陽の光に目覚める海、と言った君の言葉を。 俺は夜景を見つめては、恋しさにまた火をともす。 言いたくないが、忘れられない。君が・・・ 俺達とした約束。 君はいつも言っていた、俺が一番好きなのは俺のギャランだと。 知ってるか? そいつがまるで君のようだったからさ。君のように好き嫌いのはっきりした奴。 夜と昼の境界線のように。
4月7日、早朝、俺達の約束まで、わずか12時間。 俺の銀色のギャランも、再会を楽しみにしている。 台北から南に下り、君との約束に向かって進む。 14号線を通り、中央山脈に入る。 君の黒いギャランは、まるで一条の流れゆくきらめきのようだ。 高雄から東部海岸を抜け、中央山脈に入る。 君の言う時間と場所へ、あと45分。
ようやく俺達は出会った。 君は、月光の下、ふたり、ただ踊ろうと言う。 こんなふうに、 夜の色に染まり、 銀河をただよう、 くるくると輪を描きながら。
ありがとう、君のくれたもの・・・ 俺は・・・俺は君にあげることができない・・・君の一番好きな海を。 だが、俺が渡したいもの、それは・・・?
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このあと質問が出ます。 景品は例のDVD他です。
BBS
春のせいもあるでしょうか、なんだかくたびれた、という感じがしますので、 いつも心を優しく、熱くしてくれるイメージを今日は張りまして少しお休みします。 情報が多くても少なくても、結局ファンってくたびれるものかしら。

記事の種類によってはBBSの方にアップすることもあります。
BBS
| 2003年04月05日(土) |
金城武自伝 完結編 「仏との出会い」 |
20歳の誕生日を迎えてから、自分はもう大人だ、と強く感じ、 多くのことについて自分なりの考えを持つようになった。
そのころ、たまたま哲学というものに出合った。 哲学は奇妙なほどぼくをひきつけ、様々な興味深い思想にぼくは夢中になった。 哲学書への関心は少しずつ深まっていったが、 それはすごく啓発されたからというわけではなく、 いろいろと読めば読むほど、とても面白いものだとわかったからだ。 少し抽象的かも知れないが、これらの本は、多くのことは表面に現れた意味の他に、 深層に別の意味をもっているのだと悟らせてくれたのだ。 たとえば、「愛の反対」という簡単な命題に対して、 一般的な答えはたいてい「愛の反対は憎しみである」というものだ。 しかし哲学書は思いもよらない答えをする。 その意味を探り出すのがよけいに面白くなる。
その後、ぼくは密教を信奉するようになり、 リチャード・ギアやアニタ・ムイと同じ門下に入った。 実はぼくは仏教とは、小さい頃から切っても切れぬ縁があったのだ。 ぼくはいたずら好きで、お母さんとお参りに行くといつも、 バスに乗ったとたん、あちこち歩き回って、じっと座っていることができなかった。 ある日、お参りをすませ、バスで帰るとき、 お母さんはさっき使った数珠をぼくの手に持たせた。 すると、ぼくはいつもとは打って変わって、歩き回ったりしないばかりか、一言も喋らず、 じっと席にすわって、ときどき念仏の文句を口にしたので、 お母さんはひどく不思議に思ったという。
密教に入信してからは、人生や日常生活のことが違った見方で見えてきた。 以前よりもっと楽観的になり、縁に身を任せるようになった。 25歳になった今、昔の自分を振り返ると、ずいぶん成長したと思う。 ぼくは常に変化している。少しずつ大人になり、 新しいことに出あっていつも何かが変わっていく。
今一番願っているのは、もう少しプライベートな空間がほしいということだ。 どんなふうに私生活をマスコミから守っているのか聞かれることがあるが、 守る方法なんかない、とぼくは思う。相手にしないようにするだけだ。 人はどうしたって生活していかなきゃならないのだから。 あることから逃げるために、その自分の生活の仕方を無理して変えようとすれば、 不健康にならざるを得ないだろう。
BBS
このページは武「ニュース」と麗々しく掲げてはおりますが、 国内ニュースは全くといっていいほどフォローしていませんので、 ご了解ください。 何しろ、たまに自分がお知らせすることのできたTV番組さえ、 見逃すような人間ですので。
様々なニュースに心騒ぎ浮き足立つ今日この頃ですが、 心を落ち着けたい方は、どうぞ立ち寄って いにしえの話をお楽しみ下さい。
金城武自伝 第3回「バイクのために身売りする」
芸能界の仕事やきらびやかなスターの暮らしは、 本当はぼくの理想ではない。 もともとあまり自己表現欲のない人間で、 だから、スターになりたいと憧れたことはなかった。 だがそれも、惚れこんでいたバイクがぼくの前に現れるまではだ。 それを手に入れるために、他のことは何も考えず、ぼくは芸能界に入ることを決めた。
同級生のお母さんがCM会社に勤めていて、 ぼくにCMに出るようずっと声をかけてきていた。 その人があまり勧めるものだから、とうとうぼくも清涼飲料水のCMに出ることを承知した。 CMが放映されると、今の事務所がぼくに注目して、 素質があるからタレント契約をしないかと言ってきた。
そのとき、ぼくは自分に芸能人としての素質があるかどうかなんて、 よくわからなかったし、この業界のことも知らなかった。 でも事務所はとても誠意ある態度で、彼らのファミリーに加わらないかと誘った。 お父さんとお母さんはぼくが芸能界に入ることに反対しなかった。 ぼくは自分自身で事務所と契約するかどうかを決めた。
ぼくがまだ心を決めかねていたとき、 なんと、ずっと夢にまで見るほど欲しかったバイクが売りに出たのだ。 「こいつは絶対、買いだぞ」とぼくは自分に言い聞かせた。 ところが、家からお金をもらう考えは全然なかったが、 といって自分の貯金だけでは足りない。 あれやこれや考えた結果、唯一の手だてが芸能界に入ることだったのだ。
事務所と契約した後も、ぼくにはこの道でやっていける自信がなかった。 これはぼくの最初の正式な就職だった。 前にレストランで夏休みに働いたことはあるが、短期のアルバイトだったから。 オーナーは厳しかったし、仕事もとても辛く、つまらなかった。 芸能界に入って初めの頃は、やっぱりこの仕事も、辛いのはしょうがないんだろうかと、 いつも思っていたものだ。
初めてのテレビドラマ「草地状元」に出演したときのこと、 もう何十回もNGを出し、頭を地面につっこみたい気持ちだったし、 本当に人の顔が見られなかった。 初めてカメラの前に立つと、道を歩くだけのことが、 どうやっていいか全くわからず、体がカチカチになってしまう。 その後、経験を積む中で、このような心理的な面を少しずつ克服していくのだが。
本当は、ぼくはずっと幸運だったと思っている。 デビューしてすぐ、マスコミはぼくを台湾四小天王にまつりあげ、 大物の芸能界の先輩、アニタ・ムイ、マギー・チャン、ミシェール・ヨーと 「ワンダーガールズ2(東方三侠2)」で共演することができ、 さらに運のよいことには陳昇がCDをプロデュースしてくれた。 演技も歌も、たくさんのことを学べたのは言うまでもない。 中でも師である陳昇のもとで、ぼくは音楽をやる深い喜びを知った。 彼がぼくの人格的成長に与えた影響はとても大きい。 ぼくは彼のように自分自身の音楽を数多く作っていければと思う。 今は映画やドラマに時間がとられ、アルバム製作にあてる余裕がないけれど、 音楽は決して捨てないだろう。
BBS
| 2003年04月03日(木) |
金城武自伝 第2回 「恋人より友達」 |
子どもの頃一緒に遊んだ仲良しの友達は、ほとんどが日本人学校の同級生だ。 毎日放課後になると、一緒に近所で遊んだ。 あるとき、彼らとこっそり学校の講堂に入り込んで、 紙に火をつけて、あったまったことがあった。 ものすごく面白かったけれど、講堂の床を焦がしてしまい、先生につかまってひどく叱られた。 今、当時やったことを思い出すと、確かにとても危険だよね。
小学校生活は日本人学校で送った。 高校に上がるとき、今度はアメリカンスクールに移った。 日本人学校とアメリカンスクールは互いに近くて、両方ともぼくの家のある天母区にあった。 新しい学校は静かできれいで、設備も完備していた。
ぼくのパスポートは日本のものだ。台湾では戸籍も身分証も持っていない。 だからお父さんは考えて、ぼくを日本人学校とアメリカンスクールに通わせることにした。 インターナショナルスクールの教育制度は、台湾の学校とは全く違っていた。 自由で開放的であり、四角四面過ぎるところがなかった。 束縛されるのが嫌いで、自由な生き方に憧れるぼくの性格は、その影響を受けている。
小さい頃からぼくは球技が大好きで、学校チームのメンバーにもなった。 サッカー、バスケットボール、バレーボール、みな好きで、 どのチームにも顔を出していた。 おかしなことに、直接自分の手足を使ってする球技はなんでも得意なのに、 バットやラケットを使ってするものは下手だった。 たとえばバドミントンなんか、実はとても簡単で、やる人も多いけれど、 ぼくが打とうとすると、いつも力が入らず、コントロールもきかない。
初恋はアメリカンスクール在学中の、まだ十何歳のころ。 相手の子は同級生で、彼女と一緒に過ごしたときのことは、 今でも、1つ1つ、はっきり覚えている。 初めてのデート、初めて手を握ったこと、初めて抱き合ったこと、初めてのキス。 喜びと痛みとともに、すべて記憶の中にある。 残念なことに、ぼくと彼女がつきあった時間は短い。 彼女が外国の学校に進むことになり、ぼくらは離れ離れになったから。
その後もぼくたちはずっとよい友達で、よく電話で話をする。 彼女があちらで新しい恋人ができると、ぼくに電話してくる。 もちろん、ぼくは彼女のために喜ぶ。 彼女が彼とけんかすると、彼女は電話で泣いて訴える。 ぼくは愛の相談相手になって、彼女を慰める役目だ。 ぼくは別れてしまった恋人同士も友達になれると思っている。
ぼくは気持ちの整理が下手で、ときどき、愛なんてなんになる、と思うことがある。 誰かを愛することは喜びで、そして悩みや不安の種でもある。 ぼくは恋愛至上主義じゃない。ぼくの中では友達の占める位置の方が比重が大きい。 ぼくの一番の友人は、みんな昔のクラスメートであり、 学校で培われた友情こそ本物だ。彼らは永遠にぼくの友達なのだ。
BBS
これは、文字通り、金城武自らが語ったもので、 いくつものサイトにアップされて、日本語訳もすでにあるかも知れません。 が、そういう、いわば武ファンの「基礎知識」を、 新しいファンの方もいらっしゃることだし、ここはここで、ご紹介しておこうかなと思いました。
元々は、香港の芸能誌「YES! IDOL」に載った、4回完結の連載です。 第1回が1998年10月16日号に掲載されたことは確認済みです。 ただし、なぜ香港の雑誌か? という疑問もあり、 先行して台湾の雑誌に載ったものである可能性もあります。 ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。
第1回 「十と一の謎」
10月はぼくにとって、いつまでも大事な時だ。10月が来るたび、1つ年をとるから。 そう、ぼくは10月11日に台湾で生まれた。 お父さんは日本人だが、お母さんが日本の生活習慣になじめなかったので、 ぼくとお母さんは台北に住み、お父さんはいつも日本と台湾を行ったり来たりして、 ウナギの養殖会社の経営の仕事をしていた。 ぼくの「武」という名前には、意味があるとお父さんから聞いた。 ぼくは11日に生まれたが、十と一の字を組み合わせると「士」になる。 それでお父さんは合わせて「武士」となるよう、ぼくの名を「武」としたんだという。
小さい頃から今に至るまで、ぼくは台北の天母という地域に住んでいる。 そこは在台の外国人が多い地区で、環境がよく、とても静かだ。 お父さんは事業のために台湾に来て、お母さんと知り合った。 結婚し、お兄さんとぼくが生まれ、天母に家を構えた。
お父さんは台湾と日本での仕事が忙しく、 家でぼくらと一緒に過ごす時間はとても少なかったから、 子育ての責任はお母さんとおばあさんの肩にかかっていた。 そういうわけで、ぼくはめったにお父さんを見ることがなかった。 言葉もお母さんから習ったから、まず覚えたのは台湾語だ。 お母さんとおばあさんは台湾語で話すのを好んだから。 北京語と日本語は、後になって学校で覚えた。 今でも、自分では台湾語が一番うまく話せると思う。
ぼくは腕白な子だった。 あるとき大勢の人が家に来て食事をし、酒を飲み、談笑し、とてもにぎやかだったことがある。 ぼくも楽しくなってしまい、もともと遊びたくて仕方ないから、 その本性がおとなしく隠れているわけもなく、 食べ終わって何もすることがなくなると、すぐコインを持ってきて、茶碗めがけて投げ入れた。 今になってみると、何が面白いのかわからないが、 小さい子は何に対しても好奇心が強いものだ。
あるとき、コインがどこかへいってしまい、 他に何も新しいことを思いつかないので、ぼくは大人のまねをして酒を飲んだ。 勝手に杯をとって胃袋に流し込んだんだ。 ところがなんと! まるでのどを何かにかみつかれたように、苦しくてたまらない。 ぼくは、それがさっき放り投げたコインだとわかった。 まもなく、周りの人がぼくの様子がただならぬのに気がついた。 ぼくが何かをのどにひっかけて息ができないのを知って、急いで病院にかつぎこんだ。 お母さんはお父さんに帰ってきてくれるよう電話をした。 お父さんが病院に駆けつけたときには、ぼくはもうなんともなくなって、 ピンピンしていたけど、お母さんは気の毒だった。 お父さんに、大人がそろっていて子ども1人を見ていられないなんてと、 きつく叱られたのだ。 ぼくはといえば、そのとき危うく命を落とすところだったとも知らず、 見慣れぬ輪っか(手につける患者識別用のリングだったのだが)の観察に余念がなかった。
お父さんは仕事のため、いつもそばにいてくれることはできなかったけれど、 でも心のうちではぼくたちを深く愛してくれていることが、ぼくにはよくわかっていた。 そして家に帰ってくると必ず、遊びに連れて行ってくれた。 一家揃って遊園地にでかけ、遊んだ楽しい日々が一番懐かしい。
ぼくの中では、お母さんは典型的な母親で、いつまでも子供が一番という人だ。 お父さんはというと、これは特別な父親だ。 以前はぼくたち兄弟にとても厳しかったけれど、 ぼくたちが大きくなるにつれ、次第に寛大になり、 ぼくらを友人のように扱って、何でも話をするようになった。 こういう父親を持ったことは、天の恵みだと思っている。
BBS
| 2003年04月01日(火) |
レスリー・チャンと金城武 (小話) |
数年前、ある陽差しの明るい午後に、 私はクラスで一番の仲よしの麗麗と、什刹湖にボートに乗りに行った。 この一学期の間、一度行ってみたいとずっと思っていて、それがようやくかなうのだ。 心も軽くそこに着き、まっすぐ貸しボート屋に行った私達は、値段を聞いて呆然とした。 保証金が50元必要だというではないか。 2人でポケットを引っくり返したが、合わせてみても50元には足りない。 私達はしょげ返ってしまった。 どうする? 引き返すか? いや、そんな気にはなれない。 私が考え込んでいると、麗麗が口を開いた。 麗麗は小さなビニールの財布から、1枚のレスリー・チャンのピンナップをうやうやしく取り出した。 それを両手でささげ持ち、貸しボート屋の番人のおじいさんに差し出すと、厳かに言った。 「これは私の一番大切なものなんです。これを保証としておいていきます。 必ず戻ってきますから」 おじいさんはそれを聞いて声をあげて笑った。 そして麗麗の心からの言葉に打たれたのかどうか、 どにかく保証金を預けず、ボートに乗ってもよいと言ってくれたのだ。 ボートに乗り、ドキッとはしたが願いはかなった今、私は彼女への「尋問」を開始した。 「あんたの一番好きなのは、今でも彼?」 麗麗は謎めいた笑いを見せると、あの財布を開き、別のポケットから金城武の写真をのぞかせた。 そして得意げに声をひそめて言った。 「彼(金城武)が、今は一番好きなの」 今になっても、話があのときのことに及ぶと、私達はやっぱり、クスッと笑ってしまうのである。
*********
別に武でなくてもいい話なんですけどね。 去年の北京娯楽信報に載った小話です。(2002.9.4)
BBS
| 2003年03月31日(月) |
「向左走、向右走」の最初の映画化ストーリー(再録) |
「向左走、向右走」がクランク・インする直前の情報で、 昨年12月にご紹介したばかりの新しいものですが (ニュース原文通りではありません)、 無事ポスターも公開された今になってみると、結構面白いのと、 記録の意味も含めて、ここに上げておきます。
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「向左走,向右走」の12月14日付けのこのニュースは、 台湾の民生報の記者によるもので、 ワーナーは、初めて投資する中国語映画「向左走,向右走」のキャストを 金城武とジジ・リョンで考えていたけれど、 話を詰めていくと、けっこう制約が多いのがわかって、 アジア各国の支社に,他のキャストで代えられないか再検討するよう おふれを出したというものです。 候補は、リッチー・レン、ケリー・チャン、王力宏、蕭亞軒、孫燕姿といった人たち。 映画は12月にクランクインの予定でしたが、 肝心のキャストが決まらないため、延期が決まったと報じていました。
ワーナーは台湾、香港、シンガポール、大陸の支社の意見を広く聞いて、 武・ジジの美男美女コンビを最適としていましたが、 実際に事務所と細かい話をしていく内に難しい問題が出てきました。 例えば事務所側からの、撮影期間中はマスコミ取材はなし、という要望。 特にこの点についてワーナーは難色を示しています。 ハリウッドの場合、トップスターの撮影現場取材は普通のこと。 台湾香港のスターがそれをしないというのは理解に苦しむというわけで、 今回初めて中国映画界と接触することになったワーナーは一歩ひいてしまい、 各支社に再考せよと申し渡したのだそうです。
台湾の人気挿絵画家で作家、ジミーの小説の映画化である「向〜」は ワーナー・ブラザーズの初めての中国語映画への出資作品です。 米国他社の「グリーン・デスティニー」や「ダブル・ヴィジョン」「英雄」などの成功を見て ワーナーも中国語映画への進出を計画、 金馬奨受賞監督ジョニー・トーに舵取りを依頼。 物語の背景を芸能界に変えるけれども、 「向〜」を例えば「君のいた永遠」のような趣のロマン作品に仕上げ、 「君〜」の主役である武とジジの再共演という絶好の話題で、 「君〜」に続くブームをアジアに起こしたいという考えでした。
(以下が、映画化にあたっての多分最初のストーリー案) 実際、武・ジジはこの映画の主役としてはぴったり。 男性主人公は、台南の体育の教師で、ハンサムだけどシャイ、 ある日スカウトされ台北に行って芸能界に入るよう説得されます。 女主人公の方は、香港の三人組の女性コーラストリオのメンバー。 ですが、あまりうまくないと、グループから外されて、やり直すべく台湾に渡ります。 2人はたまたま同じアパートに住むことになりますが、 外出するとき、一方は左に向かうのが習慣で、一方はいつも右に行くため、 顔を合わせたことがありません。そうこうするうち、 大地震が起こって2人の運命を変えるのです…… 1人は台湾の人間、1人は香港人ということでも、武・ジジを想定したような役柄です。
ワーナーのある人物が明かしたところによると、 武・ジジの他に、リッチー×ケリーもまた、当初から有力で、 特に香港支社が、動員力で武に勝るとも劣らないと、 リッチーを武以上に強力に推薦。 しかしアメリカ本社は、武の日本でのマーケット実績を重視しています。 さらに大陸はF4の言承旭とケリーのコンビを、 シンガポールは王力宏と孫燕姿を、 他のところでは蕭亞軒をという状態であるとか。
「向〜」のアパートの内部の撮影は香港の撮影所で行なわれ、 台湾での撮影は外が舞台になる部分だけです。 アジア各地のワーナー支社ではこの週末、 全力でキャストを検討しなければなりませんが、 あるワーナー社員は、「武・ジジコンビが最上だと思う、 トー監督と事務所とは順調に合意しているのだから、 ワーナーの上層部も妥協して、早くクランクインしてほしい」 と話しているということです。
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すでに予告編もオンエアされた今、原作通りで正解のようですが、 1度心に思い描いてしまった体育教師の武の姿が、いまだに消えてなくならない…… いつかどこかで見てみたいな……
トー監督の配役についての心積もりは早くから決まっていたのでしょうね。 武はトー監督が好きで、香港に行くたび、トー監督と会い、 食事をしたり、お酒を飲んだり、 いつかまた一緒に仕事をしようと話をしていたそうですが、 それがこの「向〜」で実現したわけです。
BBS
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