**In my heart of hearts**
心の奥のこころ


2015年08月18日(火) 痛みの消えた夏

お盆休暇も終わり・・私のことではないものの、ちょうど昨日と今日は連休がとれていたので、そんな時期の気分も味わっているような、いないような。

昨日の朝は土砂降りだった。涼しさも伴う恵みの雨だけど、最近ほとんどない、激しい雨を見るといよいよ来たかと身構える感じにもなる。でも、そんな思いも裏切られてほどなく止んでしまい、午後からはすっかりいい天気だった。

旅気分を求めるほど、ストレスがあるわけでもなく、なんか妙に満足感と感謝の気持ちが胸を占めているばかり。こんなことって、今までなかったなと、不思議な気持ちをかみしめているような気がする。 いつもこんな夏の時期は何かに追い立てられるような焦燥感が心を押さえてきたと思う。

弟を取り戻したい。会いたい。心のおくの声が叫んでいたからだと知っている。去年とうとう、夢は現実のものとなった。母のそばで一晩を過ごした弟。
一才そこそこで、母のもとから連れ去った父。 実母の存在を抹殺するはずの父がいた。

運命という偶然が何度も働いて、弟は実母のもとへ帰ってきた。

今年は、小さいころからのつらい思いが、切ない願いのもとに初めてその姿を消したと感じられて、胸に残った傷をわすれさせた。胸がこんなにも軽い。

何度となく 書き残しておきたい言葉はこんな小さな家族の絆の話ばかり。



2015年07月22日(水) 書いていかなければ

7月も半ばを過ぎて、すっかり夏モードのはずなのに・・。今日も雨に降られた一日は涼しくて、季節がわからないくらい。 どこへ出かけるというでもなく、その願望もさして、あるわけでもなく、部屋の整理整頓がうれしい今日この頃だ。今までと同じではいられない。 カーテンを変えることにずっと意識を向けていたので、一気に店に通って、色々眺めて、折り合いをつけたものを買ってそろえた。 これまでいつかしなければと思いながら決して実行に移そうとしなかったことだった。

部屋の掃除やものの片付けを一通りした後になって、やっとすんなりと行動が伴ってきたんだな。「生活」というもの、生きることを活かすと書く。そんなことを実感できるのがやっと今になってなのかな・・。

また、これからは色々と書き綴って行かなければ、考えて文章にしなければと思い始めてきた。 感じた事を表現して残す事。大事な事だな。 思考の大事な訓練でもあることだろう。 努力を惜しんではいけない。



2015年07月11日(土) 夏本番前

新しい職場に入って、ひと月以上があっという間に流れていった。バス通勤もなじんで、この街の中心部の駅で人々の色んな顔と服装を目にするのもこれまでの日常になかった場面がまた付け加えられる。

降りるバス停までの約20分も半ばくらいから故郷らしいやさしいなだらかな連山の緑が空気を一変させる。 毎日小さな旅気分まで味わっている。

小さい頃からのなじみの風景。車に乗ってお寺参りの思い出の道。 明日にはそういえば、インドネシアから帰国した兄が夫婦で親戚周りと墓参りに母のもとへやってくる。

天気は週末の朝は夏を思わせるくらいだったけど、またしてもどんよりした梅雨のような曇り空にもどる。去年に兄たちと会ったときは、良い天気だった。老舗のうなぎ屋さんの高い食事。かなり質素だったけど・・。 あれから日本を後に一人、異国の会社へ転職し滞在する兄だった。

弟は肘の抜釘手術入院中だったかな。 その後私は、資格試験の願書作成とか、秋には私も3日間の手術入院を控えていた。入院中に過去問題集を始めるいい時間がもてた。 元気も付いてきたので、バイトでもしようと思った。インドネシアへのチケット代でも稼ごうかなとか、手術の出費がくやしかったりで。 起爆剤になったものだ。

そして半年の間、ファーストフードのハンバーガーと付き合うことになる。裏方でマニュアルどおりに焼いて、揚げて、包んでという作業も慣れるまでのおっかなびっくりを楽しみながら 仕事の息抜きにもなって続けられたものだった。

今はどうかなーと、検討中。もうそんな精神的なエネルギーがあまってない気がして。 通勤時間が長くなった分が大きいかな。

病院は近代的なスタイルで綺麗で機能的なところだ。初代は明治9年に開業していて、いまの院長が5代目だという。  研修会で話を始めて聞いたけれど、頭のきれるビジネスマンという感じのしゃべり方をされていた。

入院患者さんの名前を覚えるのに精一杯の何週間かだったけれど、ナースたちの名前など、把握してしまうまでにはまだ、接触時間が要るようだ。介護士たちは
それぞれの個性がやっと、手に取れてくる頃。 どこにおいても、何をしても他人との競争心、自分至上主義の世界との戦いが顔をもたげるものだと、今更にして分ってしまう。現実の分析には疎い自分だということね。 つまり、おばかさん。

介護の仕事はやっぱり好きなことだ。ハンディーを持つ人たちに寄り添う事が自分にとっての喜びを生み出す事、有難うと言ってもらえて、心が潤う事。大事にしていきたい。

掃除、片付け、これまで取り掛かることが億劫だったのが改善されてきたのは、怪我して休んでいた頃にマイペースで頑張ったし、それが楽しさを感じたことの下地もあるのだろうきっと。 最近はちょっと気が付けばもう体が動いてくれるし、朝目覚めてから、もうすぐになんだかんだと動かしたりしたいる。 

今までの自分ってなんだったろうかね。埃だらけの散らかり放題の部屋。 みーこの写真を目にして、鼻炎にさせたのは、私だったと、気が付いた・・・。


初めて韓国へ行ったのは2009年の春だったと思う。6年前のことか。 あの頃に真剣に部屋の片付けを考え出した。 今6年が経過して、ここにたどり着いたなあといる感慨を覚える。

日差しのない一日だったとはいえ、扇風機のお世話にはならないといけないようだ。 もう福岡の町で山笠のクライマックスへの序曲が始まる。



2015年05月31日(日) 最後の休み

一日おきに晴れたり降ったり、今日はまた光がまぶしい空になった。ようやく風邪の重たさも取れているようでもある。起きる時は鉛のように体が重くてまだまだどうなる事やらと思わされたけれど、起きてみれば頭がかなりスッキリしていてよかった。夢の中では変な緊張をさせるようなものをつらうらと追っていたのだけど。

あしたからの早起きの自信全くなし。 ぐっすり眠る自信もなし。孤独感に心がつねられているかのようだ。 静観していくだけだ。 突き動かされるようなエネルギーがわいていたのは、思えば10年前くらいまでのことかなあ・・。

自分がもうかなりの中年だというのをどう思ってるのかな。

さて、連休最後の今日は、そして日曜日ときている。人ごみが恋しかったりしないのか、私は。気になる博物館までが、やけに遠く感じてしまう。今パワーがないときだ。風邪ひいた分だけ何かをかなり消費してしまって、まだ立ち直りができていない。

精神疾患を抱えた人のことを見たり、思ったりしすぎる毎日も気が滅入る。慣れ親しんだ場所や人々と別れることも、淋しくないとはいえない。自分のことを知ってくれていた人が日常の中からいなくなる。 そんなマイナスの感情を癒すために親しい人との交流、形式的な事柄などを生活の知恵としてやっていくものなのだ。

そんな流れの中でさらに交流を深めていったり、学生時代だってそんな事を学ぶ場所であったのかもしれない。だからそこらへんから私は、違ってきたからね。

いつも何かを言いたくなくて、隠していた。片親であったし、経済的に余裕なかったし、まず家自体がなかったこと、説明したくなかった。根本のところを。

人並みでないとは自分で認めなかったから。 普通の家庭で生まれ育ったのだから。 8歳のとき破綻したとはいえ、プライドがあった。 だからそのままそのつもりで振舞いたかったのだ。
そんな自分がずっと、この年になっても変わっていない。 それでいいのか、悪いのか、私にはわからない。

さて、今日の一日洞過ごそうか。 体調次第なので、体にきかなくちゃ・・。



2015年04月16日(木) 忙しい日々

最近 色んなことが次々に起きるので、退屈してる暇はない。 先月一日は、半年間の試験勉強の最後の山、2次の実技試験を受けに朝は4時半におきて、小倉駅へと向かった。 これまでにない経験だったな。わずか5分間の実技の審査。待機時間で疲れて頭が飽和状態で惨敗だったと、呆然とした気持ちで会場を後にした。 

そんな日々の中、マクドナルドのバイトは徐々に慣れて、気分転換にもなり、一石二鳥の状態でやっている。  老人病棟の仕事も楽しかった。何を言われようが、介護する中で、得る事のできるささやかな喜びが支えてくれていた。 試験には失敗しただろうと思っていたから、このまままた、一年過ごそうという気持ちと、あそこまで、人を否定する上司の態度に、退職を決心して、病院探しを始めたりもした。

面接を終えて帰った日の事、合否発表当日だったその日、ネットで知る事ができるのはすっかり忘れていた。 ふとそれを思い出して、おそるおそる番号を調べてみると、なんと私の番号が乗っていた。



2014年05月25日(日) 自分なりに語りたいけど

新緑の5月は引越記念日、生活は夜から昼へとの激変もあり、その年は20代の卒業の年であり、仕事も生活環境も人間関係もゼロからのやり直し。孤独と自由と若さの中で燃焼していた思い出。20年前のこと。



2013年11月17日(日) 心の氷山

書きたいことがないとは言わないけれど、何も文字にできそうにない。
そんなことをいうために、これを開いたわけではないけれど。
心にあてた光はすぐに薄暗くなって見えなくなってしまうようだ。
何かを書き記すにしても、自分が何か成り切っていなければ出来ない事
のように思えてきた。 何かはっきりとしたスタンスというのだろうか、
視点をしっかりすえた根底がなくては言葉にならない気がする。
私が人と話しべたなのはそういうこともあるかもしれない。

口癖・・、表現癖というか、 〜のようなきがする、〜かもしれない
〜のだろうか。 そこから発展させる事もないまま、思考はストップする。
私の悪いクセ。 自分を知らなければという意味はこんなところにもあるの
だろう。ここは断定して書ける・・。

友人を持つという事は、自分の意見を磨いていくための試練なのだと、
学生だった時に覚えそびれたんだなと思える。 自分にバリヤーをはって
いた訳は、必死で隠しておきたいことがあったから。



2013年06月05日(水) 自分を知らなければ

誰も見ない日記だから、本当のことを書けるといいけれど、浮かんだと思ったら次には意識が誤魔化したがって消すというか、隠すというか、つかまらなくなる気がする。 そんな事を繰り返しながら、結局自分とは向き合う術をなくして生きているから、それを形として、部屋の乱雑さが物語る事はなはだしい。

最近疲れて夜は寝ぼけ眼というよりは、頭をたれて意識をなくしてすっと、眠りに入り込んでいるのに気がつくパターンを繰り返している。体調がよかった頃にそうだったように、すっと眠りに入る感覚は悪くない兆候か。

自分の本当がチラリと垣間見えた気がした。それをそのときにきちんと書き留めて置けばよかったのに、 今になると、勇気がうせる。

なんで勇気がないんだろう。また、なんで勇気がいるんだろう。誰も知りはしないのに、何を書こうと、書くまいと。 自分自身にさえ見栄を張っているわけか・・。そこがそもそもの、根本的な道の誤りね。

最後の一枚のクッキーを食べたら、何を書こうか。


ずっとずっと遡って、自分の歴史を辿らなければ。 眺めてみなければいけない。 



2013年04月27日(土) 感動を失っていくのかな

仕事について2年めの春がきているわけだ。今年の4月の気候は、とくに寒暖の差が激しくて違和感を感じたと思う。

先月の家族行事も終えて、気分もほっとしたり、力を得たりした後は、ちょうど2連休が月初めにやってきて、部屋の模様替えをやっと、重い腰を上げて始めたりした。気候もよくなって、体も動かさないわけにはいかなかったし。 思いのほか部屋はこその場の流れで機能的な形が出来て、満足した。

毎日の片付けという作業は全く、自分の中にインプットされないままで生活をしてきた私。現実の中で何も成せないことと同じだった。

いまだにそれは続いていて、間抜けなミスを繰り返しては人から認めてもらえない人生が延々と続くのかもしれない。

変えたいのなら今すぐの努力だろう。 孤独であることに負けてひがんで、思考を放棄したようなクセに引きずられてきたことにも気がづく。

人と接する中での気疲れを嫌がって、自分の好き勝手にしてきた事。負い目を言い訳にしてきたこと。 これではいけない。周りの人がそう気づかせてくれる。 自己愛が強くて、その分だけ他人を嫌って、小さい頃から育ってきた気がする。

変われるかどうか、結果ばかりを気にしても仕方が無い。やれることをやっていくだけだろうと思う。  危ない事をしてはいけないけれど、出会いパーティーに参加することまで決めてしまった。

ちょうどゴールデンウィークの真っ最中という時期に、気持ちが動いてしまったし、春の出会いに思いを寄せてもいい時期ではないのかなと。

企画会社はたくさんのパターンを用意していて、中年同士の集まり、離婚経験者中心というものを、休みの日と相まって予約をとれたのだ。

ただ何事も経験だなと、時間つぶしもいいかな。 予定の無いままの5月連休で3日間も時間があるなんて・・。 先週職員旅行で岩国、広島へいったばかりなので、遠出も気が向かない。本来ならこの良い気候の時にどこかへいってもいいのだけれど。



2013年04月12日(金) 思い出す 1

あれは何年前になるのかな・・。まだみーこも生きていたし、前の仕事に就いてから2年目くらいの、もうずいぶん前のことと思う。 ありえないような偶然を体験して、その衝撃で初めて不眠とはこういう事かなんてしったりする。 いつも寺参りで降りる駅の正面。 その日 友達に誘われてたまたま待ち合わせする場所になる。 目的の場所はもっと先だったのに、たまたま友達がランチを食べたい店へ行くのに都合がよかったからだ。

車で迎えに来るその友達が来るまで、トイレを済ませることにした。出てくると駅の前には車を降りた友達と、もう一人、車から降りて道を尋ねている男性が二人だけ立っていた。

なぜ、こんなところで、偶然にその人が会うこともないはずの父親だったのだろうか。 姿を見るのはデパートで一度ある。もうそのときから何年だろう。やはり、10年近い時間だった。

8歳のときに父が家庭を捨てて、新しい人のところへと出て行った。
もう、戻ることはないんだと、なぜか本能的に理解していた。 そんな父に
鈍い怒りを燻らせながら、淋しい少女時代が過ぎていった。 会いたいとも思わなかったし、会えるとも思わなかった。会いたいのは7歳で出会ったかわいい恋人である弟のこと。父が連れ去った血を分けた兄弟だった。

21歳になって、母の知り合いの紹介で中学校の事務室で働く事が決まった。 すると、そこは、別れた愛しい弟が成長して通う中学だという事が判った。 父はPTA役員で頻繁に学校へ顔を出していた。 私のことを親戚の娘だと苦し紛れに人に告げるのを横で聞く。

1歳3ヶ月で別れた弟は14歳の少年になっていた。 どうしても話してみたくて、いとこなんだよとウソをついて、顔をみた。


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