古畑亜紀の日記
日々の雑記帳です。思い付いた時に
気分にまかせて書きます。

2005年08月31日(水) 晩夏に思う。

本当にすきなことを仕事にするのってむずかしい。
ってよくいわれてる気がするんですけど・・。

それは、ひっくりかえすと仕事を本当に好きになるのがむずかしいんじゃないのかなあ。
自分の好きな形がそのまま仕事になるって確かにめずらしいんだけど、何はともあれ、仕事をしてるんであればそれを好きだと思った方が
なりゆきまかせみたいですけど楽しいんじゃないかと思う。

お金のために働くのもまっとうな理由なんだから、その時間を好きなことを
してる時間なんだって思えないのってもったいなくないかなあ。
それもかけがえのない自分の時間なのだから。

「本当に好きな事やってていいねえ」みたいにいわれたら嬉しい気持ちもあるけど、人生の都合とかなりゆきとか、自分ではどうにもならないファクターがらみで仕事につくこともあるんだと思う。
でも、なりゆきでやってたとしてもそれは自分の仕事なんだから無理矢理でも好きだと思いたいじゃないですか。
わたしが、別の仕事にすすんでいたら、「あートランペット吹きたかったのになあ」と思うかも知れないけどたぶんそれなりにその仕事が好きだと思う。

好きだと思う事が、好きなので。



2005年08月30日(火) 穏やかな1日

今日はほとんと1日じゅう家ですごした。

それであちこち通信連絡をして、楽譜まとめたり洗濯したりしつつ。
いまだに暑いのであんまり頭がしゃきっとしないけど、いいですね、でかけないのも。
少し掃除もできたし。

不安に思っていた事も勘違いだったことがわかって一安心。
あっというまに8月が終わりに近付いてますが明日1日も大切に!!




2005年08月28日(日) セッティングだよ。

この日は、ヤマハにいったん立ち寄ったところトロンボーンの萩原さんに遭遇。
前日にキタラでコンサートされたばかりで偶然でしたが元気そうで何より。マウスピースのショーケースを覗き込んでました。

それからキタラのリハーサルホールへ。
声楽の大友先生と石橋先生の門下生のみなさんの「腕試し」大会が開催されていて、そこにAちゃんと松田門下のNちゃんが出演してました。

Nちゃんが教育実習にいたときにマウスピースのセッティングの仕方をおしえてもらったらしい。そのとき、Aちゃんは中学生だったんであるが、彼女は「N先生にアンブシュアを教わった」といっていた。
ばたばたしていたので訂正しませんでしたが、よーく話しをきいてみるとそれはアンブシュア、というより「マウスピースのセットの仕方」のひとつであった(笑)・・・。
Aちゃん、それはアンブシュアというより「セットの仕方」トいった方がダイレクト(表現として正確)だよ!!わはは〜。
セットの仕方を早い時期に教わったのはラッキーだったと思うけど、楽器のあてかた(セッティング)といっぱんにアンブシュアと呼ばれる内容は違うと思うよ!
セッティングというのは音をだす前の段階のことであって、アンブシュアそのものは音をだすときの唇、歯、あご、周囲の筋肉すべてのことをさします。しかもそれは顔だけで完成させるものではなくてエアーとのバランスもかかわることなのです。

しかし、AちゃんはN先生に再会して一緒に出演できるのがとてもうれしそうだった。よかったね!!

Nちゃんのバラもとてもよかったです。フィンランドのマスタークラスをうけたのがすごくいい力につながったみたい!!
向上心をもって続けている姿をみることができてとてもうれしかった。

キタラから外をみると、まるで二人のためのような虹がふたつでていました。
しばらくたつと、それはよっつに増えていてほんとラッパびよりないい日でした。
帰り道にまたヤマハにより、機嫌がよかったので勢いがついてマウスピースを十数本試してひとつ買ってみた。しかしそれでも勢いがとまらないのでCDも2枚買った。
マウスピースはとても面白かったので師匠に連絡(つまり教えをこうための相談)をすぐにして実験してみることに。
でもこのCDは、どうだろう・・。
つまりは衝動買いなので、ポテンシャルが低かったせいか愛聴盤にはならないと予測されます。ま、かわってるのがはいってたから図書館的にリストが増えたと考えることにして、反省しないでおこうと思います。




2005年08月27日(土) ここは日本だよ。

今朝はまたもや
『本番中に管をとりまちがえる』という非常にいやーな夢をみたんだな。
10年くらいまえにC管を購入してからというものの、忘れたころによく見る夢で、非常に息苦しい寝覚めでした。
似たような、「忘れたころに見る夢」は他にもあります。

◆ピッコロとロータリーなど楽器がふえるにつれてこの夢のバリエーションは増えていった。
◆ダブルケースに2本いれたはずなのにひとつしかはいってなかった。
◆マウスピースをサイズちがいでもってきちゃったとかもあります。
普段使ってないはずの超浅いエッジのきつい、りむの超せまいやつがなぜか入れ代わっているという・・。※
◆衣装を忘れる。
◆キャンセルされていることに気がつかず、仕事にいったらトランペットは必要無い日で、受け付けを手伝う事になった。
◆クリアファイルに楽譜をいれておいたものの、同じ種類のをもってきたらピアノ譜(しかもその日と全然かんけいないもの)しかはいっていなかった。
◆まったく関係ない路線の飛行機等公共交通機関にのってしまい、ひきかえしても間に合わない。


これらの夢をみるとかならず速攻で飛び起きるンで、寝坊するなっていう神のおつげなのかも知れませんけどね。
ま、昨日の『すべてなしとげた』夢は気分よかったんだけど。
このような日記で白状することでトラウマから脱出しようという試みなんですけど(苦笑)。

※については、これはそういうマウスピースを使ってみるといいんじゃないのっていうラッパの神様の忠告かと思い、そういえばそういうのもあった!!と思って発掘して吹いてみたけど自分にはこなせなかったのですぐにやめました。おばかさん・・・。

管のとりちがえといえば。
ここは日本なんだけど、やはり『流派』みたいなものでわかれてしまうのって不思議ですね。
気にしないひともいるけど、気にする人は気にする。
私はポンぺルガ−の弟子なので、たまにかなり無邪気に「オケスタ以外は何をならったんですか?」てきかれるんですけど(笑)。けっこう失敬だと思うんですけどおこったことはありません。
そうすると、私は
「トランペットと音楽を習いにいったんです。」
「ポンぺルガ−の演奏が好きだったから。」
って答えるんです。
マニュアルをテに入れるためだけではないんですがわかってもらえない。
好きな音にふれていたいっていう自然な感情がなによりも強い動機なんですけど。
磨きをかけるために、なにかの流派みたいなものに骨をうずめる覚悟で勉強うすることは大切だしかけがえのないことだと思う。
でも、他の流派を否定するために学ぶのではない。
狭くするためではなく広くするために学ぶんです。

ここは日本なのに、なぜ外国のどこでならったとかでグループわけされがちなんだろう。
そんなことが起きるのは日本だけなんじゃないかと思いますが。
『どこそこスタイル』っていうけど、その環境(風土やホールや言語)にとって一番適切な方向へ成長、洗練をかさねていったら表面上スタイルが違って聞こえますね、ってだけなんじゃないかと思うんです。

今年にはいってから通算14回くらい、いろんな人から『自分はオーケストラプレイヤーになりたいので(だから、ソロとかはちゃらちゃらしてるし主眼にありませんみたいな)』って決め台詞みたいな言い方で何度も聞きました。15回になると15人目記念でおこってしまいそうだからこれも白状して解消しようという試み(笑)。
そういう『自分のめざす路線(音楽のジャンルなども含む)だけが正統派で、硬派』みたいなの平気でそのまんま信じ込んじゃってるのを自信たっぷりにいわれても・・・。
何を信じるかはその人の自由だけど、私が何を好きか、どんな風に吹きたいか、何を吹きたいかも自由だし。

自分はこれが大切!!っていうのがあるから頑張れる。
自分がそれを経験してるなら人の価値観が自分とずれていても、
「ア〜この人はタイプが違うんだな」ですめばいいけどどことなく自分の方が高級なんだみたいなそういう意識。
誰だって自分の大切なものを大切にする権利があるから、自分の夢をカタルもよし、実行にむかうもよしだけど、自分だけが全部正しいとおもってるのって危険!!否定したいところだけど、彼等を否定すれば同類になるからわたしは自分とは違うとおもうけど、否定もみさげたりもしないよ〜だ。
ただ心配になるだけ。
ばかにしたものにばかにされるっていうのが世の常だから。
尊敬と軽蔑はかならず、どれだけ上品に隠しても、ばれます。
ばれてないと思ってるのは本人だけ・・・おそろしい・・。

でもグループわけみたいなのは窮屈だからほんとのこというとやめてほしいかな・・・。
どこの流派にもはいってなかったらニセモノみたいな感覚も、共感できないなあ。気持ちがわかる部分もすごくあるんだけど。










2005年08月26日(金) ガンシュのあいさつ

今朝、私はひさしぶりに深夜にならないうちに就寝できたのもあったせいか、非常にすっきりと目覚めました。
すごく身体も元気。

どうして、早くおきなくてもいいのに目覚ましをかけておいたんだろう?などと不思議に思いながら、朝珈琲をおだやかな心境でいただく。
やっと連日の嵐がおさまって今日は1日フリータイム。
楽譜についての連絡をしておこうかなとか、ま、どこにでかけるわけでもないのでゆっくりきちんとやろう。
秋の仕込みをきちんとやろう。

...と思っていたけど、それは勘違いだった。
今日も明日もきちんと用事があったんです。
今日と明日がすでに「すませてある」夢をみてしまったせい(笑)でしばらくねぼけて今日はもう月曜日だと思っていた・・・。

しかも、時計をさかさまにつけていたので、文字盤みちがえてバスでも十分まにあうのになぜか『全タクシー出動』したところ、誰もきてるわけがなーい!!待ち合わせより40分も早かったから・・。
一瞬月日や場所を間違えたかと自信をなくしたけど、変な見栄があって問い合わせができず、ただしんじてひたすら待つのは長かった。
うう・・・全部タクシーはきつかったが、まずしさにまけちゃいかん。
このまえごちそうしていただいた方にささやかながらお礼をしようと思って用意していたプチプレゼントも家に忘れておりました。
失敬しました。

ひとりで待っている間、朝からばたばたして、落ち込んでしまった私はいきなり『ガンシュのあいさつ』を思い出した。
それは英語ではなくオーストリア語(ドイツ語っぽい)なのでしたが、アートブラスのメンバーが英語で「ひさしぶりだね、元気?」とか「ハロー」といってきたとき私もハローと答えていたんです。
でもガンシュだけは「オーストリアイントネーションドイツ語」で挨拶をしてくれた。
なんだか私はとてもうれしかったんだなあ・・・。
そしてそれを思い出したら不覚にも涙がでそうになり、
「こんなことで暗くなっちゃだめだ(そもそも自分の勘違いで早く場所についただけなんだけど、一瞬家に帰りたくなり、ちょっと気落ちしかけていた)。いいラッパふけるようにならないと。」
と思い直したんでした。









2005年08月25日(木) 貧しさに・・・

ソナタ八番を移動中にきいていたのことである。

しみーファソーラし〜ラソファミレー♪
からはじまるこの名曲に歌詞をあてた人間がいた。
それは、『しょうわ枯れすすき』だったんです。

まずーしさに、まけた〜...♪

ネタとしては面白いけどよりにもよってこれは私の最近の心の糧である『関山さんのアルバム』だったのです。
ソナタ八番の場合、そこで音節をきっては絶対にいけないところで『に、』と日本語では区切りがついているうえ、この『負けたあ〜』で妙なビブラートなんてかけたら。
センスがなければかなりただの安易なメランコリー(共感されない類いの陶酔)になってしまうであろうこの、たいっせつなメロディ。

しょうわ歌れすすきの世界は好きだ。昭和という時代のもつ、『悲しい立場の人間の心にも居場所があってよい』みたいな優しさを感じる。
でもソナタ八番にあててしまっていいのか。

笑えるネタかもと大発見した気になっていたけれども、歴史ある名曲に勝手に歌詞をつけるのはどうかと真剣になやんでみたりもした。
こういうことに真剣になれる。
というのは、まじめだからではなく徹夜で朝5時に家をでて八時に旭川で『オールランスルー』『午前2回本番(もちろんノーカット)』という事態から開放された27度の昼下がり、その時まさに自分が『枯れすすき』だったからであった。

私は七、8回はくり返して『関山さんと一緒に』昭和枯れすすきを歌ってみたのである。

すっごく楽しくて、おもしろかった!!
そこで自分の座右の銘まで思い付いているあたりやはりすべり系絶好調。
その座右の銘というのは、

『カリスマになれないやつは、バカになれ!!(古畑亜紀)』

ですっ。ああ、すごい短イ言葉なのですが私の生きる道がやっとわかった・・・。

でも1日たった今思う。
これにあてるのであればまんま枯れすすきではないのだ。
清らかな悲しみの中にも、なにか生きル力を感じさせる前向きさも見えるような気がする。上品だけどハングリーなのである。

『まずーしさーにも〜まけないで・・・せーけんにもまけなーあーいで・・・』ト歌ってみると、けっこうあうかもと思った。

でも、なんか違うかなやっぱり(笑)。
第一関山さんは、貧しくないだろう!と思ったり・・・。
スタンスが「まずしい」からはじまるのがなんかいや、ちょっとリアリティあって、歌い込もうとしても少し自分がかわいそうになってくるじゃん。
そういうのってあんまり明るくないような。
でもそんなこと(ソナタ八番を枯れすすきに例えることについて)考えなくても、たぶん演奏には差し障りないのになんで考えてんだろうか、など。

まあいいや。
バカになる。と決めたとたんすごく開けてスーパーマンになったようなおめでたい錯覚をしている私でした。















2005年08月22日(月) もちろんです。

私がこの世にうまれる100年前の話しです。

なんと、すごく早く会場いりしてみたところ音だしの部屋はもちろんなかった(もちろんあると思ってた)。
もちろん、朝から吹いておいたので寝起き状態ではなかったんです。
「ふいといてよかった。」
けど、あれっと思ったのもつかのま、やはりピアノのMさんもけっこう早めに到着。

早めにつく、ということは早く会場入りしてその分たんに楽器の物理的な準備だけでなく、気持ちも整えたいという気持ちのあらわれですもちろん。
それは、もちろんいい演奏をしたいからですよ。

そしたら、われわれはどういうわけか早くそろったので早く吹くということにいきなり決まっていきなり吹いた。
本来ならば集合時間の点呼より早い時間に突然演奏したのですう。
「え、今ですか。は?」
とかいってるうちに、
「はいりマ−ス!!」といきなりホールにいれられた。
Mさんにいたっては、会場入りして一度も椅子にもすわらず、いきなりピアノの椅子にすわったことになる。
かんがえる暇も緊張するヒマもなかった(Mさん談)。

与えられた状況でベストをつくすのですよ、もちろん。
動揺したらまけますが、開き直り過ぎても負けます、まけるっていうのは誰かにじゃなくてその状況にってこと。
ベストを尽くさせていただきました。
トランペットが好きだから。

って誰かの先祖の日記に書いてあったよん。

ちなみに、突然ですけど、エネスコはもちろん器楽奏者としてはバイオリニスト(ピアノもル−ビンシュタインに絶賛されていた)ですが、レジェンドはパリコンセルヴァトワ−ルの教授でもちろん名手であったトランペット奏者の為につくられた作品です。
もちろんトランペットとピアノの為につくられた作品です。
名手とであい、その名手との交流により自己を理解されたからこそ、トランペットの表現力、可能性に希望を見い出したエネスコ。
もしバイオリンにひいてほしかったのなら、バイオリンの為にまず作曲しそれを「気が向いたのでトランペットにも移調してみました。こんなんでどうでしょう。」と副題がつくかもね。
当時の社会体制のために、祖国のルーマニアに帰らずに一生のほとんどパリですごしたエネスコは、すべてにおいて高潔な芸術性をうしなうことはなかったといいます。
しかし同時に、彼はつねに自己の演奏において、向こう見ずなジプシーバイオリンに原点を見い出し、あたたかく情熱的で、ときおりわずかなしわがれ声がきこえるようであったと。
そして、どこか悲しく奇妙な動きをとる。
そういうプレイヤーだったようです。

もういっかいいうけど、これはトランペットの曲だよ!!
吠えてやる。でもこの怒りに私の音楽が侵食されないことも意識なくてはいけないので大変でした。
はずかしいんだけど実は私はあまりにもその繰り上げにおこりそうになってしまい、しかし同時にこれは神が与えた試練(ほんとは人為的なんだけど)であってこえなければいけないと「はいりまーす」の一声で状況に抵抗するのを諦めた。
でも、どう扱われようと、私はトランペット好きだから。


バイオリンのなにかをただまねするのではなく、エネスコが仮にトランペット奏者だったらどう吹いただろうか。というのが私のアイディアです。

まあ100年前の話だから、詳しいことはその日記には記載されてませんけど。














2005年08月21日(日) ちかごろ、

とみに、私の日記はけっこうすべってますよね〜。
なんか自分だけ、わけもなくテンション高い。すみません。

トランペットのE先生と一緒に仕事をした後、実家にてピアノのMさんとまたリハーサルをする。
Mさんは童顔で見た目は愛くるしいですが、しっかりしていてプレイに柔軟性と包容力があります。音がきれい。
フルートの国際コンペとコングレスに伴奏として参加した後、明日(つまり今日)は同門の方々との演奏会をひかえているというわりに、きりきりしてませんでした。若いのに大人だなあ。
私が最近納屋(そんなものはないがそういう状態)から発掘していた『アントンセン&サバリッシュ』は彼女の学生時代の愛聴盤のひとつだったらしい。
なので一緒にきいてみた。楽しかった。
彼女がくるまえに、そのアルバムかけながら一緒に吹いたんですよ、アントンセンとサヴァリッシュと一緒に。非常にわくわくしたのですが、自分はこの二人の世界に必要とされてない人間なのだ、と改めて自覚しましたね。
おじゃましてすみませんでした。











2005年08月20日(土) まるで・・・とおめいにー。なった〜、みたいー♪

ずっと仕込みでさらっていたら血が薄くなって参りましたので、補充するために恒例の「焼肉ウィーク」に突入しました。
焼肉やで、突然「ひびき(仮面ライダー)の歌」を聞きたくなり、かといってボーダフォンは電池がきれそうだったのでまた人頼みで布施明のをダウンロードしてもらいました。

そこで、妙にありありと歌詞が思い起こされてしまい。
帰宅後、歯をみがいて着替えてまたさらったんだけど、食べた直後は意外と血がうすいらしくてなんとなくぼうっとしてしまう。
気がつくと、私はいつのまにか思いを歌にのせて歌っていた・・・(笑)。

「まるで(留意点1ここはビブラート、しかしあくまでもゆるやかに)、
 とうめいに(留意点2、下降の際ピッチに気をつける)、
 なった〜(留意点3、吃音含まれているが、はねすぎずていねいにレガート)、
 みーたいー(留意点4、イ行ののばしであるが鼻にかからないように)・・・」

鼻歌なのであるが、マネするからには、本人に似せないと気がすまないのでだんだん解析しはじめてしまう。
しかし、マネしようとしてるのに似てこないので鼻歌をやめてまたさらう。
でも、これも自分なりの素敵な青春だと思いませんか?

今日は仕込みの成果(焼肉も含まれています)を発揮すべくがんばります。
今日もあちらこちらで知人たちも公演しているとのこと。
吹く場所は別々だけど一緒にがんばりましょうね!!



2005年08月19日(金) 若い人の

あきらめの早さをもどかしく思う(全国高総文祭あおもり'05/先輩からのメッセージ で関山氏談)。


なるほど〜。
ということは。あれ。あきらめてない私は、けっして若くないってことか(爆笑)。
いいお話なのでみなさんもグ−グル検索して読んでみて下さい。
自分も高校生になれるような気がしました。
高校生にはなれないんだけど、でもこういう気持ちになれるとすごくうれしい。
いいな〜、ヒーローってこういう話しが『まっすぐに』できる。
自分の実践した英雄体験をかたれるっていいですね。しかも現在進行形。
とくにトランペットで英雄になれるっていいよね!
単純なのでこんなときすぐにCDをきいて「なりきりタイム」を設ける。
すると、
「自分のラッパの下手さがうざい..うざいの嫌い、むかつく、だるい。勘弁してくれ」
などと思っていたいらだちも少しやわらいできて、
「よーしなにわともあれ、まねしてみよう!」と無邪気にたちなおる私です。
ポテンシャルに具体的な理由や、具体的な展望は必要がないというのが持論で・・・(人にそれをいうのは無責任かもしれないが)、どちらかというと感動がすべてのエネルギーになると思うし。
感動できないときもあるけど、きっとまた感動できるときがくると思う。

で、吹いてみたらまったく違うのでまたしょぼんとし。
でもばかなのでくじけません。迷惑でしょうがごめんなさーい。

『やさしい王様になるのだ!(ガッシュベル参照)』
が最近の私のお気に入りの言葉です。

昨日の夜私は
「めんどくさい」
などと思っていたとある練習について、逃げがきかないことを強烈に自覚したので『尻に火がつくような』思いでさらいました。
そして、とある特殊管も同様にさらう必要があったのでさらった(毎日やっとけよ)のですが、
師匠に
『このくらいにしておかないと、ピンぼけするんじゃないかな』
といわれていたセッティングの具合があったんですね。
でも、いわれた通りにやると、めちゃくちゃきついのです。
それで、
『先生ごめんなさい。私は、先生のようには吹けません。ずるいってわかってます。でも、でも!!私はニセモノになってでも生きていたいので、忘れたわけじゃないけど、セッティングは変えさせていただきます。...でも、先生にそれを報告はしません。嫌われたくないからです。いつか、わかるときがくるまで、探さないで下さい。さようなら。』
などと心の中でみっともない謝罪をして、違うセットにして練習しました。

そしたらぱらぱら妙に吹けるんです。
『この音はニセモノです!!わかってます!でも、ニセモノなんだけど、今は必要で、こうしたいわけじゃないんだけど、こうするしかないんです!ご、ごめんなさい、本当のことを教えてくれたのに、生かせないわたしはおおばかものです。』
とか勝手に追伸みたいな念をまたおくってみたりして。
もがいていたわけです。

驚いたのは、白昼夢のようなひどい暑さの中で、自分のしらないうちに結局『師匠セット』に戻っていた事です。

自分はそうした覚えはありませんが勝手にそうなってました。
よくわかんないけど、いったん別のセットにして掴んだ感覚をもとのセットに生かしたら吹きやすくなった。
ということらしいけど、そのなりゆきは自分でも記憶がありません。
だいじょーぶなのか、自分。











2005年08月18日(木) なりきりガッシュベル

このまえ二十世紀少年ていうのを読破しました。
というわけで今日の日記は「マンガ特集」です。

それは妹がすすめていた「プルートー」という近未来のマンガを探してたけど見つからなかったから、かわりによんだんですが、はまったみたいです。
結局この「ともだち」って誰なんだ。
主人公のカンナがナウシカに似ているように感じてるのは私だけなんでしょうか。

そのまえは「金色のガッシュ」です。
休暇中に読みはじめたのですが、とても感銘をうけたのですね。
練習の途中でいきづまるとひとりで
「ザケル(呪文のひとつ)!!」
などといっては壁をとばしたつもりになってる。・・・ただのヤバい人。
疲れてきたら
「ラウザルク」
とかいってみたりして・・秋葉系もびっくりなアニメへの入れこみ。
いま地下鉄で映画公開の記念で『メカバルカンの逆襲』とかいう題のついたウイズユーカードが売られてるんで、みなさんもこれを買って(おしつけがましい)、ぜひ呪文をとなえてみてください。
私はすぐに売り切れるとおもって(笑)速攻買いました。でもまだあるみたいです・・・。

先日仕事先でも、「ガッシュ」を読んでる人と『どこに感動したか』を討論しましたが、私は戦うのが苦手な『ウマゴン』が戦うことを決意したところが好きなんですね。
臆病は優しさのあらわれなんですけど、健気な闘志の目覚めに感動しました。
しかし、同じマンガを読んでいても気に入ってるシーンはずれているもので、言い争いになったりもします(笑)。
しまいにその人はむきになってる私がうざくなったみたいで(爆笑)
「ドラゴンボールの方がいい」
とか言い出したので、私はそこで心のトビラを閉じてしまったんですよ!!繊細だからさ!!っていうか、自己中でごめんねえ。はっは〜。

昨日レッスンにきていたAちゃんは「ワンピース」と「君はペット」を全巻もっているあたり、マンガのフィーリングがぴったり。
今度かしてもらうことにしました!

最近のテレビのワンピースは「ルフィ」がでてこないのがタイトルだけでわかる(というのがすでにマニアの域)から、あまり見てないとかいうのも一致しました。

ん〜でも、アニメに夢中な夏ってどうだろう。

で、昨日のAちゃんを見ていてもおもったんだけど、一番いい音って絶対その人本人のなかにすでにあるんだよなと。
だから、マネをするのも「学習の一環」としてはすごく有効なんだけど、それはあくまでも一環なんです。
最終的な目標はマネではありません。
本人が「こういう風に表現したい」というのをまずもっていないと、あたまでまねしようと思っても音がついてこないんじゃないかな〜。
いや、音は並ぶとこまでもっていけても、マネに終始してると音楽にエネルギーがない。

「こういう風に」ってのが、磨かれていなくてもいいんです、とりあえず『自分はこう感動した』あるいは、『こう感動したい』、そういうメッセージはあくまでもコピーではなくオリジナルでなくてはいけない。
このオリジナルな感動こそが、プレイヤーとしてのポテンシャルにもなるし、聞く側にたいする説得の軸になる。
同時に、学習の一環としてのマネが必要な時期に、オリジナルを育てることを意識しないままだと半端な型にかたまってしまいます。
このマネもそう簡単なものではないので、マスターしていたらブラボーものですけども、それだけでやった気になるんなら、「ものまね歌合戦」でてくださいよって話しになります。
そういう世界でも優劣はありますし、十分に人を喜ばせる事はできるので価値がないとは思いません。
でもそれは「好きな人のマネをするのが生き甲斐」というのがオリジナルな感動として強いエネルギーをもっている場合にだけ、その「マネ」にエネルギーがあるような気がします。

だから、オリジナルでなくてはいけない。
というのは断定的すぎるかもしれないけど、
その人の自主的な音楽の可能性を信じることが大切である!!と実感しました。
だって好きな様に、何も気にしないで吹きなさいっていったらすっごいよくなったんだもん。圧倒的によかった。










2005年08月17日(水) この胸に、誓う。

そんなわけで(時間のある方は昨日の日記参照)、今日は昼寝はしません、絶対に。
寝てる場合じゃないからです。ゾーンをめざすんだ!!
みなさんも暑いけどがんばって。



2005年08月16日(火) アルツハイマーについて考える。

震度3の地震があったらしいのですが、そのころ私は暑さで気を失っていて、気がつきませんでした。
まあ、鈍感ってしあわせなことなのかもね。
自分の鈍さに感謝をおぼえた・・・。地震も「ここちよい揺らぎ」みたいな。
窓をあけていたので、そとからたまたま御近所に里帰りしてるらしいちっちゃなこが、「おばあちゃ〜ん!!大丈夫?おばああちゃーん。」と何度も絶叫するのを聞いた。
その声が、けっこうしばらく続いていたんですよ。
私は、ひょっとすると自分は、その子たちとは他人のつもりいたんだけど、自分のことを『アルツハイマーしていて、若いつもりで孫を忘れているおばあちゃん』なのではないかと思ってしまった!
だから、早急に子供の不安をほどくために、アルツハイマーしてる場合ではないから飛び起きないといけないかなと。
でも、寝てた(笑)。ひどいばあちゃんじゃ。
めまぐるしかったんじゃ〜。
そのぐらいねぼけていたのでした。
たぶん、孫じゃないと思う・・。
気がとおくなって起きたので、すぐにパソコンをたちあげて押尾コータローのをきくつもりだったけど、手前にあったのがハイテンションなグレイで、「名前も過去も心でさえも、いらなーいー、求めあう二つのからだがぁ、あるっ、それだけでいいい!!」という歌からはじまったんだけど。
「あつい時にあつい歌だ・・・」とおもっておどろいた。洗脳された感じ。
寝起きに聞くといちばん刷り込み強いっていうけどそうかも。
うっかりぼけっとずっと歌いまくられてしまった。
アントンセンとサバリッシュのを探すの忘れてたし。
あのぶっとんだびっくりサバリッシュを聞きたいんだな。
よし自分もサバリッシュみたいな音楽家としての「ゾーン」にはいろうと。私だって思うわけですよ。ま、理想はアートとか頂点にあるはずなんですが、その手前にある「普通にやっておくのが普通」みたいなものにてこづり、アーティストのゾーンは経験できてない。
でも、十年前のいまごろ、十年後の自分はこの「ゾーン」を体現できるすごいとらんぺったーになってるはずだったぞ。
『待て、次号』みたいな毎日がどのくらい続くんじゃ!!
第45巻ぐらいまで続いて、「作者の都合により休刊します。」みたいなことにならないかとおびえてすこーし、いやかなり、寒くなったりなんかしてさ。
待たなくてもやってくれてる方々がたくさんおられるこのリアルな世界で、時代はサバイバルなのに..暑くて昼寝してる場合ではないです。


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2005年08月15日(月) ハートの味噌汁

とあるお店で、「豚汁」をいただいたところ、輪切りのねぎがハートの形になってぷわんと浮いていたんです、、かわいかった。

今日はピアノのMさんにきてもらって練習した。
きれいな音で一緒にできて楽しいです。

その楽譜にフランス表記で「ためらうように」ってあるんだけど、たぶん、日本でのためらうのと、西洋人のためらうのってあらわし方がちがうんじゃないかと思った。
「いえ、そんな、あの。。私には、とても勿体無いお話で。私なんて、そんな立派なものじゃないですし。」みたいに、さがれるところまでとことんさがるのが謙譲の日本の美徳みたいなのあるけど。
もちろん、西洋にも謙譲の精神はあるし、はじらいがないわけではないんですが、
ためらっていても力のベクトルまでは後退してないんですよね。



2005年08月14日(日) ハッピーバースデー理絵ちゃん

今日は妹の理絵ちゃんの誕生日です!
なので、いくつかプレゼントしてきた。
お墓参りもいってきて。

久しぶりに実家の家族とゆっくり会話もし、理絵ちゃんの広島みやげと旅行記を中心に楽しく過ごしました。


そもそも自分ができあがってない自分にとりましては、人の心配をする立場じゃないんだろうとも自覚してますが、
最近あちこちで耳に挟む話や出会う状況をみて、「もったいないだろう。」とよく思い、「あなたにはその状況をこらえるだけの、そして打破していくだけの価値があるのだ」と心の中で勝手に惜しんでいることがよくおこる。
なのでだらだら日記も長くてすみません。

誰にでもたぶん、自分が思ったような評価を受けられないとか、なんかむくわれないとか、そういう気分にはまるときがあると思います。
でも、それが擦り切れた夢ならば捨てていいと思うけど、自分にとって輝いているなら捨てなくていいんじゃないかな〜とよく思う。

人の話しを聞いてると、挫折のストーリーに対して、意外に優しい見解を示す人々がたくさん存在することもわかりました。
たとえば、
「とある学校で演奏実技の順位がびりだった生徒がいた。実技以外はトップクラスだったけど楽器だけいまいちである。その生徒は、周囲との自分の差にたえかねて、しかも多少ばかにされたりもしたように感じたので、楽器に対する意欲を失った」
というストーリーがあって、薄情な私は「ふうン。」と思っただけだったが、人々のコメントは優しかった。
「環境が、その人の才能をつぶしたのだ。」
「他の環境におかれていたらその人は健やかに成長できたかもしれない。」と。やさしい。天使のようです!!
・・ちなみに私は天使じゃないですね。
「そんなにまわりがいやならでていけばいいじゃん。別のところで吹けばいいじゃん。」とかで発想が終止したあたり、人として冷たすぎるのかも。なんか、思い遣りとかがたりてないのかな。と少し反省してみた。

環境すごっく大事。もちろん影響されます。
まあ、実技がびりだということは、あまりかっこうよいことではないかも。
でも、びりはびりなりに自分の姿をみせていけるんじゃないですか。
がんばれば必ず一位になれるという程甘い事をいうつもりはないです。
シビアなところで、死ぬ程がんばっても結局順位はびりかもしれないんですが、がんばってもその結果びりで何が悪いんでしょう。
自分よりうまいひとがたくさんいるのって、そりゃプライドが傷つくこともあるけど、こえていく楽しさとか目標もそのぶんたくさんある。

勝ち負けがすべてじゃないとか、きれいごというつもりもないです。
すべてじゃないけど、大事なことのひとつだと思うし。
やはりシビアに常にジャッジされてるものですし。
敗北感をばねにするってのも、おすすめしたくない。
じゃあ勝ったらやめるのかってことになってくる。
なんとなく自由じゃないでしょう。

健康的なポテンシャルを保てない時って、特に長く続けていれば体験しがちなことでしょうけど、別になんで吹くのか、論文とかで証明する必要もないわけだし、説明する必要もない。
夢の中にいるときは誰だってがんばって練習できる。
でもそれが見えなくなったときも、楽器はかならずそばにいてくれるはずだから。
そばにいるんだけど、自分が手放せばそれで必ず音は止んでしまいます。
自分の音がいい悪い、どのくらいよいとかは自分の願いどおりではないかもしれないんだけど、
「いいプレイヤーのかわりはいっぱいいる。でも、あなたの音をだすときに、あなたのかわりはいないんだ。」
ということを、伝えられる人になりたいと思う。
どうやったら伝わるんだかよくわからないんだけど。
伝わらなくてもとりあえす自分がそう思っていることにする。

夢を求めれば、現実が見えてきて、「イカロスの翼」みたいだなっておもうことがある。
近付こうとすればするほど、逆に「ロウでできた羽」は太陽の熱でとかされて落下するみたいなね。
でも落ちてる場合じゃないよ。人生永遠じゃないし、かといってたぶん明日終わるわけでもないんだから、とりあえず吹いてみましょうよ。











2005年08月13日(土) 才能の持ち主

お盆になりました!
前後不覚になるような暑さでしたが、北海道民にとっては貴重な「夏らしい夏」を堪能できてこれも楽しいのではないかと思います。あまりにも疲れてしまうので帰宅すると速攻電源オフ状態。
去年は八月はすでに寒かったですからね。
今年も夏は七月でおさまって八月は雨がはいっていきなり湿るとの予報でしたが、あたったのは「湿る」だけで十分暑いしかなり晴れていることしきりです。
うっとうしいですが、最近掃除にめざめた自分は「湿度が高いときは汚れが落としやすい」と「掃除の本」に書いてあったことに勢いづいて床磨いたりもしました。

というわけで、「才能」について思う事をしたためます。
みなさんのまわりにも「センスのよい人」「筋の良い人」「勘の良い人」いらっしゃると思いますが、同時にそういう人をみて、「もっとこうしたらよいのにもったいないなあ」と感じることもあるんじゃないでしょうか。
あそこどまりじゃないよなって。

そうなんです。光るものをもっている人は確実にたくさんいるんだけど、本人はもともと持ち合わせていて当たり前の感覚なので、多少の自信はあるにしろ、はたからみたうらやましさは実体験できない。つまり、だから、貴重な才能なのに、あんまり大事にもしない。欲がない。ので、もったいないのです。
しかし、センスのよい人というのは、本能的に「自分よりセンスのない人」と感じた人の話しはまず響きません。たとえ褒め言葉であっても流してしまうので、意外と自信もありません。
なので、センスがよければよいほど、「もっと上のセンス」オンリ−でうけいれるけど、それ以下は却下してしまいます。正しい忠告であってもです。
ある意味これはとっても正解(半分正解)です。けど、「筋、センス、勘」が『比較的よい』のになぜ『抜群』にはいたらないのか?というときに、「バランスをとる」という感覚がないと持ち前のうらやましい才能が生かしきれないってことなんです。

部分的な才能が一流にならぶくらいの輝きをもっていても、いろんな勉強をいろんな角度からしないと完成にむかっていけないということです。
勘に恵まれている人は、自分の得意な勘以外の部分をあなどりがちです。
もちろん、わざわざ勘をつぶす必要もないんですけど。
勘以外の部分を吸収しようとするとこきに、一瞬その人はスムーズじゃなくなるし一瞬不器用になるけど、乗り越えたらもっと柔軟で強くなっているから、不安にぶつかっていく対価は必ずあると思います。
幸い、教える立場になる時間にも恵まれて、いろんな人たちと接してみて、よい意味で『勝ち気な』才能にもたくさん出会いましたが、「5年後、10年後」さらにのびているだろうか?と考えると、心配なタイプもたくさんいる。
人の心配をしてる程自分にはゆとりがないんですけど(笑)、たてえば「自分はそのへんの人よりいい勘をもってる」と思われる場合、今いる畑に固執せずもっと大きな、もっと高きをめざし、もっと深く掘り下げる、そういう世界に前進していってほしいなといつも思います。
持ち前の才能にふさわしいだけの勉強をしてほしい。

あなたの才能には、苦手な種類についての努力をするだけの価値がある。
それはきっとあなたにもっとゆるぎない喜びを与えてくれる。
逆をいえば、学ぶこと、力を積み重ねて自分をつくることについて、それをやっても意味がない人は存在しないんじゃないでしょうか。

カリスマプレイヤーの夢のようなひととき・・・というレッスンは一生できないかもしれないけど、もっとのびることができるんだ、ということを方法論として必死に伝えたいなと思います。
自分とは違う才能にたいして、自分とまったく同じ方法だけを提示してもうまく交流できないので、ない頭を駆使して考えてみたい。









2005年08月07日(日) 調節するんだよその2

というわけで、調節するんだよその2です。

「上下の歯を平行に」
これもよくきく言葉じゃないでしょうか。
これもごもっともだし賛成です。
「平行にしなさいっていわれました。」といってその通りにしてるらしい(もちろん、いわれた時にその人に感動したから素直にうけいれてるので、それはとても幸福な経験です。)けど、平行にしようとしてまた変になってる子をよくみる。ていうか自分もしょっちゅうありますけど。

でも、たとえば、
「左右の手の高さを、左右同時に完璧に水平に同時にあげてください。」
なんとなくそんな感じにはなるけど、分度器ではかられたら多分水平にはならないと思うのね。バレリーナとかダンサーとかはできるのかもしれないけど。

まあ、試行錯誤でつかんでいくものだし、いろんなアドバイスをもとに経験からわりだしていくしかないんですけど。

歯の噛み合わせって、たとえば歯医者さんで歯形をとっても、何通りにもでできるって御存じですか?
下顎を左右にきりきりって動かすとわかると思うけど、下顎もその時の具合で上顎との接点がかわるんです。
つまり、下顎は上下だけでなく左右にも動く性質をもっているので、ただ上と平行なだけではベストな位置からこんどは「微妙によこずれ」することもありえるってことだ!!
だから、ただ平行なだけじゃだめなんだよ〜。
「平行って大事なんだ!!」と胸がいっぱいになり、すぐにやろうとするのはとてもよいんだけど。

それを、下の歯を前にだしなさいといわれて、本とに奥からまっすぐ毎回、前にだせるか(しかもだしすぎはダメ)って考えてみてください。
車庫入れバックですると、線の前でとまってたりはみ出てたり、まっすぐはいらないのと似てると思うんですけど。得意な人は得意ですけど、不得意な不得意ですよね。
慣れたらよくなってきますけど。

それを、「前にだせばいいんだろ」とばかりにただやみくもに前にだしても、不自然きわまりなく、ただ不安定になるだけです。
一番自然な(普段ぼんやりしてるときに閉じている)口の状態から徐々にひらいていくと、左右にずれないで平行にならんだ位置をつかみやすいかと思います。そこが顎にも負担がかからない位置のはず。
これを楽器を吹いている時にぱっとできるようになるととてもよくなります。
たんすの後ろにたって、奥から引き出しつつくみたいに押し出しても多分それはギャンブルじみています。たんすのうしろから、ひきだしの半分だけ前におしだしてごらんっていわれてもなかなかできないでしょ。
しかも、下顎という引き出しは、左右にずれることができますからもっとつかみがむずかしいじゃないですか。

神の掲示のような一見どまんなかな言葉も、理解するときに注意が必要なんです。
下の歯は上の歯に平行なつもり、だけど下の歯を前に出す時に下顎がまえにでちゃう、すると案外なぜか下の付け根に力みがはいったり口の中の面積がせまくなってつまり気道がせまくなったりもする・・・.
歯は若干だしますけど、あごは若干ひくんですよたぶん。
歯をだそうとして、顎までもってかれてると、吹きにくいかもね。
顎(顔の下半分)が前にでてあがってると音の指向性がなくなる(私の場合)ので、耳当たりはいっけんなだらかで音だしのときとか、とある練習のときは楽なんですけど、演奏ではあんまり使えません。

平行とか前にだすとか、だし具合と出す方向を調節しよう。
以上あくまでも個人的な所見です。
というわけでおやすみなさい。




2005年08月06日(土) 調節するんだよ!!

先日、とある学校で、3年前にそのこにとってはおそらく最愛の師匠に「ハをあけろ!」といわれたものの、なにか身につかないでいる子に遭遇。私が
「もっとハをあけたら。」というと思い出したらしい。
しかし、思い出したけどやはりいまいちあかないというか、逆に超吹きにくそうになってしまう。
目標としてはかみしめてるんだけど、即マスターできないのでそのうち忘れてしまったらしい。

他の人はどうか知りませんが、私もハは空けますが、しかし、1ねんじゅう、常にマックスであけて固定してるわけではないのでわ?
気道を広く確保しやすくなるし歯をあけるの賛成。でもそこで固まってるわけじゃないかな〜。
と思ったので、
「ハはあける。でも、1ねんじゅう最大にあけてるわけではなくて、空けてふけるようになったら、そのあける幅は厳密にがっと一番おおきくしてる必要はなくて、開き具合を調節するんだよ。」
「えっ、開き具合をかえていいってことですか。」
「もちろんです。開けないと、閉じられないし、どちらか極端なものしかできないと音が動かせなくなる。自在に調節できるようになるために、まずは、開けてないから開くことからはじめるっていう意味だったんじゃないかな〜。開きたいときに開ける、中くらいでよいときはそうできる、目標は調節できるようになることであって、1ねんじゅうコンクリートでかためておくことではないんじゃないかと、私は思うけど。」
というと運良く飲み込んでいただけて、ノイズも消えて、非常に突然いい音になってフレーズもふききれるようになった。
まわりの子たちも大喜び!!

たまたま、先生や先輩にいわれた言葉のインパクトの強い一部分を覚えていて、他の捕捉説明や実際そばで音をきいて感じたことはなんとなく記憶が薄くて、時間がたつとずれた勘違いみたいになることもある。
自分がけっこう勘違い記憶の素質に恵まれているため(笑)、「受け取り間違い」みたいな人生のロスがありました。
まあ、そういう経験が人に伝える時生きてくるわけで、きっと吹くのも教えるのもうまい人はこういう経験を整頓しているのでしょう。

その子は、けっしてハをあけられなかったんじゃなくて、そこまでがっつりあけなくてもよいようなところまで「マックスあけ(しかもそれをがんばり系で固定)」して身動きとれなかったわけです。
だからあけて単音キープはできるけど音を移行するとバランスをつくれない。
すべてのことをマックスに開いたままで吹こうとして、融通きかなくなった(ふけなくなった)と感じたため、「自分は開けないからだめなんだ。」と思い込んでたみたいです。
開く事はできてる。
でも調節ができてない。別の言い方をすると柔軟性が、そこなわれている。
正確にいうと、調節はできるんだけど、しちゃいけないと思い込んでいたため、ほんとはできることまでが、できなくなっていたんです。
そういうこにただ歯をあけなさいといっても硬直してしまいます。
この調節を、「あけろ」といわれただけで自動的にやれてしまう人は「あけろ」でマスターできるけど、単に、「絶対一生がっつりあけろ」って思い込んでしまうと逆に吹けないところがでてきちゃう。
もったいない!
まじめさの悪循環をたちきる、そういうアイディアが教える方にも必要なのでないかと思います。というか、自分自身がそういう悪循環を自分で発見していかないとのびない!!とあらためて思った次第です。








2005年08月05日(金) 音楽まっさかり&関山幸弘氏マスタークラス

いろんな音楽祭やフェスティバル、学生や一般バンドのみなさんにはコンクールとみんなトランペットまっさかりな夏のシーズンをおすごしかと思います。

私は今日はたまたま自宅で仕込みに励んでいます。
ほんとはいろいろ挨拶したい人、聞きにいきたい演奏(自分が忙しいときほど聞きたいコンサートがはいってるものです)など、音楽の好きな自分ですから振り切って自分を磨くのもかなりの辛抱が必要。
死して屍拾うものなし、自分を磨くのって時間がかかりますね。
忙しいからといって、あるいはちょっとだるいからといって吹きもせず、または「聞く、音楽をあびる」という栄養も補給しないでいると確実になによりもまず感覚が衰えます。
感覚っていうのは、単に唇がかたくなるとか身体のバランスが変になるとか、音程が狂いやすいとか具体的なものだけじゃなくて、客観性がトータルで失われてしまうってかんじでしょうか。
何に問題があるのか発見する力が、栄養つけなかったりさらい不足でいるとねぼけてくるんです。
漠然と、「たくさん問題があるんだ。」ってのはわかるんですけどね。
ああ〜みなさん、ほんとに聞きにいけなくてごめんなさい。
東京で世話になってんのにこっちでお世話できなくて超ふとどきものな自分ですみません。ほんと、残念だ。しかし今はさらわなくてはいかんのです。

暑いんですが、寒いよりは吹きやすいのかも。

ちょっと日記に書くには時期がずれましたが、先週土曜日N響の関山幸弘氏の公開マスタークラスを受講してきました。
3時間にわたって実践的で適確なアドバイスをされて、人間的なユーモアをまじえながらのとても楽しい時間でした。
というより音が何より人間的だと思います。それが卓越した技術を身につけるための指標なのだとあらためて実感しました。
ソロを題材にしたレッスンでしたが、オーケストラスタディに連結していけることがたくさん含まれていて基本は一緒だなと。
勢いでソナタアルバムを購入し、サインをしてもらったりして超シンプルに「はしゃいだファン」行動を『即実践』して、まるで良い演奏を自分がしたかのような明るい充足感を覚え(笑)。
帰り道「ビバ!インターナショナルジャパン!!セキヤマ、サムライ、スシ。ワンダフル。ニホンゴ、ハナセマス」とか思っていた。。なぜこう単純なのか。。
あくまでも実践的な方法論はもちろん、「トランペットっていいな。」「音楽っていいな。」そう言う気持ちを与えてくれた関山氏に感謝いたします。
ただうまさに打ちのめされるような感動ではなく、あたたかさと安らぎを感じ取ることができ、受講しただけでもかなりファイトがうまれました。
アルバムも今年すでに第2作がリリースされる予定だそうです。愉しみだなあ。
第1作はゆとりのある自信作というかんじですので、みなさんもぜひきいてみてください。
以外に録音のすくない「ピルス」、「ソナタ八番」なども含まれています。












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