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2006年02月28日(火) 再び治療

明後日から、治療のために相方は入院する。といっても一泊の短いものだ。

癌の治療は終わって、これからは再発に気をつけながらも普通に生活できると思っていたのに、まだまだ道のりは長いようだ。

癌は増殖の早い最も悪いタイプで、おそらくこの2年以内に再発するだろうと宣告を先日受けた時、半分は覚悟しているつもりだったけれど、実際に言葉できちんと言われてみると、言葉は重くて、笑うに笑えない状況だった。

これからの治療は、癌の増殖を抑えるもので、本来は再発してから使うものだ。だが、現在どこで再発しているかわからず、おそらく再発が見つかったときには手遅れになりそうだから、今もう再発しているものと予測をつけての治療になる。

それでも、治療することがまだあることを喜ぶべきなのだ。

ほんの数年前にはこの薬は開発されておらず、同じ癌にかかった人はみんな再発を繰り返して死んでいったのだから、この時期に罹ったことを感謝して、そして今までに癌で苦しんだ人たちからもらった医学の進歩に感謝しなくてばならない。

抗がん剤のムンテラを受けているとき、「あなたの治療をこれから先に同じ癌に罹る人のために役立ててください」といわれて、まだ今癌を克服したわけでもないのに、なんだか不思議な感じがしたけれど、医学の進歩とは、医者や製薬会社が導いたわけではなくて、病気になった人たち、患者さん達が導いたものなのだ。


2006年02月27日(月) 無いことにしてしまえば

昨日の日記を書いてみてから思い出したこと。

ボクや父に酷く当たった後、母親はよく吐いていた。トイレに顔を突っ込んで、おそらくは10分くらいはそうしてこもって出てこなかった。心配になって背中をさすりに行ってみたりもしたけれど、母親はもう遠いところにいて、ボクの手の届くところにはいなかった。

また、母親はあまり食事を取らなかった。ご飯茶碗にほんの少しだけよそって、「ママはこれでいいの」と言った。ボクは子供心に、こんなに少しで大丈夫だろうか、と心配になったものだが、食べ過ぎると戻してしまうから、と母親は言って、殆どご飯を食べなかった。

そのとき、母親が苦しんでいるのに、成長期のボクはがつがつとご飯を食べていて、そんな自分は悪いような、醜いような気持ちになって、なんとも後味が悪くて、ご飯が好きじゃない気持ちになった。
それでも一方でおなかが空くと、食事を楽しみにしている自分がいて、そのアンビバレントな感覚は、現在のボクの心にも受け継がれている。

「私食欲ってものがないのよ」と話した女性がいるけれど、食欲などというどちらにも転がりかねない制御不可能なものを抱えて生きるよりは、無いことにしてしまったほうが幾分楽なように思える。

同じように、人が嫌いとか、興味ないとか、無いことにしてしまえば、苦しむことがないのだから。

そうして、無いはずのものが無性に欲しくなって、時々爆発的にむさぼってしまう・・・

闇に隠れて食べ物を抱え込んで食べたり、
肉欲の関係に溺れたり、
沢山の買い物に囲まれてみたり、
悪意をばら撒いてしまったり

そうして放出したあと、再び無いことにしてある日常にまでリセットする。その行為の矛盾に気がついてしまったら、もうできない見せ掛けの日常に。


2006年02月26日(日) ご飯抜きの罰

時々無性に、食べ物を食べたくなくなる。

食べたくなるの逆で、そういうときの心境はやはり病んでいるのだろう。人は、食べたり眠ったりを肯定できないときは、おそらくネガティブなものに引きずられていくときだ。

それは生きていることを否定するようなもので、生きることから逃げようとする弱さや、今すぐに何かしらを示したいという器の小ささの現われのようなもので、もう子供どころか十分にいい大人の自分がまだこんな表現で持ってうだうだしていること自体がまったくもう!・・・という感じだ。

そういう時はやたら自罰的なときで、こんなボクには食べる資格なんかないと本気で感じちゃっているのだけれど、もう一方では、食べないでいることでやってくる空腹に耐える自分という行為でもって、苦しみを受けているから許してもらえるのではないかというメカニズムが潜んでいる。

子供の頃に親に受けた罰則の1つはご飯抜きだったけれど、そのときに出来上がった心理構造がそのまま今日まで生きているのだ。


2006年02月25日(土) 心の交換

人は思い出だけで生きていけるか?

あまりに早く先立たれてしまうと、まだ思い出は蓄積されず、むしろ長く生きられなかった同胞への思いが強いだろうし、しばらくをともにしたものならば、其処には寂しさがこみ上げてくるだろう。
長くをともしたならば、それはもう人生の共有者であり、それを失うことは半身を捥がれるようなものだろう。

半身を捥がれてしまっては、もう生きていくことは困難で、そうなってしまってからはもう誰も長くは生きていない。それほど深く愛したものならば、もう心も半分受け渡してしまっているからだ。


しかし、ここには、もう半分、相手が残していった心が残る。自分の心を半分与えたのと引き換えに、ここにかつては他者であったはずの心が残っていて、もう一度生気を与えてくれるのだ。

この、心を半分交換するという行為は、本当に愛していなければ成立しない。真実の愛でもって、初めて心は等分に行き渡るのであり、愛の模倣でしかないならば、心は動かないままだろう。

其処には、ただの喪失しかない。対象は自分の延長でしかあらず、きちんと他者として存在しておらず、半分どころがすべてを取り込んでいたために、死んでしまったものが何かもわからないまま、失った穴だけをなぞり生きていく羽目になる。
そうなればもう、悲しみは永遠のものとなり、癒してくれるものもないと感じる。

違うのだ、深い愛の果てには、悲しみを癒すだけのものがちゃんと心に備わっているのだ。深い嘆きのあとに、再び人が生きていくことを取り戻す。それは、もう一度愛するためであり、何を愛するかといえば、自分を取り巻く様々なものを、受け止めていくことなのだ。

だが、それが再びたった人の姿になりえるのかどうか、今のボクにはわからない。


2006年02月24日(金) 今生きているものもいずれは死ぬというのに

考えてみれば、ボクはよくよく心が弱い。衰えていくものを見ることが辛いのは、自分ももた衰えていくものだからだ。

それは人間にとっては普遍的な恐怖であり、衰えていくことに反するように、外見を細工しようとして美容整形や髪の毛の移植を行ったりする。あるいは子供に未来を託し、自分のできなかったことをさせてみたりして、釣り合いをとろうとしていく。

それはひとつの理のようなものであり、よいとか悪いとかいう概念では人くくりにできないだろう。老いを受け入れていくことや喪失していくことを受け止めていくこと、其処に悲しみというものが欠落しているならば、それは大変にバランスが悪いことであろう。

いったい、長く生きていることがどれほどの価値があるのか。ボク達は、すでに死んでいる人のことを新しく知るときには、その人が死んだということにそう悲しまないが、今現在生きている人が、自分はまだ生きている時空間において死んでいったなら、少なからず悲しいと感じるだろう。

この感覚の違いは何なのだろうか?

同時代を生きているもの、という連帯感のようなものが、ここにはあるかもしれない。ボク達はまさに今の時代を生きていて、不安な感情を多いに抱きながらも、ここを理解している。他の時代の空気ではなく、この時代の空気を吸って生きているということには、何かしらのシンパシィが沸くだろう。

もし、浦島太郎のようにタイムスリップしてしまったら、やはり違和感に苦しむだろう。子供の頃はずっと、ここじゃないどこかにいけるならば、時代を超えてでも行きたいと思っていたけれど、ここを離れては生きていけないのではないか、と今は思う。


2006年02月23日(木) リバー・フェニックス

最近になって、リバー・フェニックスという俳優の出ている映画を見た。ボクは彼を初めて見たし、その映画“スタンド・バイ・ミー”は、まだ少年時代の彼が出ていたので、それほどリバー・フェニックスという青年を知ったわけではない。
けれど、生前の彼がとても輝かしい俳優であり、美しく才能を持っていて、そして若くして亡くなったことは知っていた。『スタンド・バイ・ミー』という物語自体とても良かったので、ほかの彼の出演している作品も見てみたいと思っている。

その節思ったことがある。

ボクは、スポーツ選手を応援することが苦手で、それには自分がスポーツに興味が殆どないからだと思うのだけれど、もう一方で、スポーツ選手というものは、年老いていくにしたがって、人生のもっとも素晴らしい時期から遠ざかってしまうという運命を背負っているからだと思う。

もちろん、いい記録を出し続けることだけがすべてではないし、引退後に今度は若い世代に教えていくことで、自分の成し遂げたものを繋げていくことも大変有意義なことだといえる。
だが、第一線で活躍していたものが、段々と衰えていく様はとても辛く、そのことを熟知しているスポーツ選手たちは、もっとも華やかな時期を持って引退していくのだ。

美しい女優さんも、また、当初の華やかな美しさをずっと保つことはできない。若い少女達には少女達の魅力が、大人の女性には大人の魅力があるとしても、そのとき世間を浮かれさせた独特の魅力は、ほんの一瞬の輝きにすぎず、特に女優はその変化の中でどう自分を表現していくかという苦しみにたたされる。
失われていくアイデンティティに対して、新しく獲得していかなければならないのだ。

リバーは、まだ若木のしなる様な頃に、さっさと天に召されてしまった。ボクがこれから見ようとしているリバーは、まだ生きていて未来をも含んでいるのに、現実の彼はもう未来を絶ってしまっている。フィルムの中で生きながら、同時に死んでいるのだ。


2006年02月22日(水) 苦しみが少ないように

ボクの飼っている犬達のうち白いの2頭は、ある犬に憧れて迎えた。

その犬は、とても綺麗で賢く、そしていつまでも子供のような明るさがあった。ボクはその犬にすっかり恋をしてしまい、その犬の子供のうち、なるべく柄の似ている子犬を譲ってもらった。

一度、ボクの家に預かったこともあって、3ヶ月程一緒に暮らしたこともあった。親子で並べるとよく似ていたけれど、どう見ても父親のほうが美人だった。

やがて、犬が5歳になるころ、もう一頭子犬を迎えることになった。その子犬を迎えることにしたのは、憧れていた犬の孫であったことと、姿がとても似ていたからだ。
そうしてボクの家には、その犬の娘と孫がいる。


今、その犬は癌と戦っている。少し前に見つかって手術もしたけれど、残念ながら転移していたのだ。転移はどんどん広がり、もう時間は長くない。飼い主も、毎日一生懸命看護している。本当に、奇跡が起きて助かって欲しいと思うけれど、せめてもの、苦しみが少ないようにと祈るばかりだ。


2006年02月21日(火) 明日に繋ぐ

気持ちが重くなると、何もしたくなくなってしまう。体も重たくなって、何もしないままベッドに入って、何をするでもなくぼーっとしている。

しかし現実はそうはいかず、仕事にも行かねばならず散歩もしなければならず、ヴァイオリンもレッスンしなければならない。職場では普通の顔をして、何事も無かったかのように振舞わねばならないし、気持ちは押し殺してしまわなければいけない。
逆に、することが沢山あるから、また明日に繋がっていくともいえるから、こうして仕事やら散歩があることを歓迎したほうがいいのかもしれない。

以前、癌になったばかりの頃は、季節ひとつ分くらいは、今思うと落ち込んで何もできなかったけれど、今回はもうここまでにして、明日からはちゃんとしよう、と思って、夜になってから弱音機を取り付けて、ヴァイオリンを弾いた。

弱音機をつけた音はいまいち美しくないけれど、今日レッスンをすれば、明日も明後日も、気持ちに負けないでやるべきことをやりつづけられると思ったから。


2006年02月20日(月) 悪い知らせ

今日で癌の再発の検査が全部終了、二人して聞きに行った。病院の待合室は、午後の特殊外来だけあって、其処にいる人が全員同じ癌の患者だった。以前もそう思ったけれど、この待合室は必ずペアでいて、たいていは男女、つまり夫婦で座っている。癌になる年齢を考えると、40代50代頃の夫婦が、悲痛な面持ちで座っているのだ。
其処にボク達が入っていくと凄く浮いている。なんていうか、睨まれているような感じがするくらいで、ごめんなさいボク達も仲間に入れてください、と思いながら端のソファに座った。

先生の診察を待つこと50分、その間にボクは眠くなって、少しうとうと眠ってしまった。この時間までにめいいっぱい働いていたし、検査の結果もいいものだと期待していたからだ。

診察は、ほかの人に譲っていたら1番最後になってしまった。最後に入っていくと先生も疲れているようだった。

結果は、現在のところは再発も転移も、画像に写るレベルでは見当たらないとのことだった(しかし、手術の時には4つの小豆大の転移が見落とされている)。この段階では転移はない、とボクもふんでいたのだが、その後の話は少しシビアだった。

遺伝子レベルで調べた結果、このタイプの癌はたいていは二年以内に再発すると宣告された。その確率がどのくらいかわからないが、先生の手ごたえではかなりの率で再発するらしい。ボクはこの先生とは知り合いなので、淡々と聞いていたけれど、気持ちは動揺していた。かなり筋をあたって主治医に選んだ腕のいい先生なのだ、言っていることは間違いではないだろう。

どうしても転移をとめたいからと、再発を防ぐための薬を注射で投与するため、来週は入院をすることになった。薬の副作用を心配しての入院だから、それ自体はたいしたことではないのだけれど、これから先どうなっていくのか、現実感がなかった。


2006年02月19日(日) ベトナム料理

東京から友人が遊びに来てくれて、一緒に近所のベトナム料理屋に出かけた。ボクはアジアの食べ物では、自国を除けば、1番美味しいのは韓国のご飯で、次がベトナムだと思っている。(しかしほかにはタイ料理しか食べたことがないか)
ベトナム料理といえば生春巻きで、以前ボク達はこれにこって、家でもライスペーパーを買ってきて、生春巻きもどきを作って食べた。なぜもどきかというと、香草がないので、代わりにシソの葉を使っているからだ(こちらも美味しい)。ライスペーパーにつけるタレだって売っているのに、なぜか普通のスーパーには香草を置いていないのは不思議だ。

この店はどうやら店員さんもベトナムの人のようで、何人かのベトナムの人を見ていると、みんなどこか似ていた。単独で一緒にいたら、日本人とそう変わらないような気がするけれど、ちゃんとネイティブな特徴ってあるものだな、と思った。この店の女の人は綺麗な人で、ちょっとアムロナミエっぽい顔立ちだった。

ボクは相方を見ていても、常々アムロナミエは沖縄っぽい顔じゃないなぁと思っていたが(Coccoとかが正統派か)、案外もっと南のほうの人に近いかも知れない。南にいけば行くほど濃いわけでもないのだ。沖縄のルーツとか、相方に聞いてみたけれど知らないらしい。文化的には、中国との交流が深かったようだが、その血はどこから来たのだろう。


2006年02月18日(土) テーブルウェア

先日注文したスープ皿とプレートを取りに、コンランショップに出かけた。コンラン卿が作った雑貨のセレクトショップだが、とても面白い品が沢山で、見ていて本当に飽きない。

今の家に住んでから、初めて、お皿を一式大量に買ったのだが、早速新しいお皿に食べ物を載せてみたら、それだけでテーブルの雰囲気が変わった。皿が違えば味までランプアップするようだ。

ショップにも沢山のお皿や、それ以上に沢山のグラスやコップが並んでいたのだけれど、テーブルを飾るという文化も、古今東西普遍的なものだ。人間以外の生き物は、食事を飾ることはしない。味や匂いは味わっていても、見た目の美しさや、まして食べ物を載せる器のことを気にするなんて、人間はなんて不思議な生き物だろう、と他の動物からは思われているかもしれない。

人間は、食事や眠ること、そういった様々な行為を装飾して楽しむ種族なのであり、その性質を持って文化を発展させてきた。それが他の生物にとっては害でしかないと解っていても、それをやめることはできない。人間にとってそれは、食べることと同じように生きていくのに必要な部分なのだろう。


2006年02月17日(金) 影なくしては

全体的にボクの日記は暗い。

ということはよく解っているつもりだ。ボクは仕事柄、人間の心とは何か、その仕組み、やりとり、そういったものを常に考えることを要求されているので、どうしてもこうなってしまうのだが、時々、ふとわれに返る時がある。
強迫的に心を解析して、自分の中の闇をすべて照らし出してしまおうという気持ち、そうして安心したいのだろう。もちろん、そんなことができるわけはない、できないからこそ人間なのだけれど、知り尽くしてしまわないと、恐ろしくて仕方が無いように思うのだ。

その闇の部分を心において置けないならば、代わりに何かを犠牲にしなければならない。それが強迫的な行為を呼んでくるのだ。

ボクは、自分が怖い。自分の中にあるものの醜さがもれ出てくることが怖い。醜いものなど誰にでもあるもので、それと折り合いをどうつけるかが大雪なのであって、醜さを拭い去ろうとしているときは、それと向かい合っていない。背中を向けて逃げ去っても、影は必ず付きまとう。

もし影を失ってしまったら、もう人は2人になってしまう。昔、小学生のときに見たドラえもんの話に、のび太が自分の影を切り離して、手伝いなどをやらせているうちに、影と自分が逆転して、影が自分に、自分は影になってしまいそうになるという話があった。とても怖くて、知っているドラえもんの中で1番怖いと思っていたのだけれど、大人になってからある日この話題になったとき、結構何人かがこの話が怖かったことを覚えていた。

小さな子供だって、何が恐ろしいことかはちゃんとわかっているのだ。


2006年02月16日(木) 空想の子供達 2

ボクと相方が出会って何年かした頃、ボクは家を建てた。安心して住めるような家。親の決めた職業は皮肉にもボクにある程度のお金を作った。親は今でも、ボクを正しく導いたことに満足しているだろうし、ボクのジレンマは一生消えない。

“いい子じゃなくても、愛してくれただろうか?”

多分愛してくれたのかもしれない。言いつけを守らなかったら、発狂するのじゃないかと思うと(ボクの家系は精神病者だらけだ)、とても勇気が無かったし、低いパーセンテージだって、部分的に愛してくれれば十分だった。

相方が癌になってから、ボク達のシェルターに影が差した。ここにいれば安全だと思っていたのに、内側から攻撃を受けるなんて侵害だった。これは親を裏切っている罰かとさえ思ったし、今でも少々は思っている。

相方はいつも、親の言うことに適当に返事をしていた。
『どうせうるさいからさ、はいはいって言っておけばいいから。』
そういって、沢山の言葉を飲み込む相方のことを、歯がゆく思ったけれど、ボクだって同じことだった。違うのは、ボクの親はボクには何も言わなくなっていて、相方の親は未だに連れ戻そうと必死なことだ。

ボクの親は、あまり子供に興味がないのだろう。ボクの妹の赤ちゃんにも、それほど興味を示さなくて、妹はとても傷ついた。ボク達は母親に関心を持って欲しくて、心に穴が開いた寂しがりだった。相方は、自分が1人の人間としてきちんと認めてもらえることに諦めている人間だった。




あの夜、相方は親に怒る夢を見て、隣でボクは血まみれの子供を抱き上げる夢を見た。一年前に相方は癌になって、それからいろいろなことがあって、本気で親に怒れるようになってきた。相方の親は、心配だ心配だというばかりで、『大丈夫だよ』とは一度も言ってくれなかった。
かわりに、ボク達の友達が、沢山手紙やメールをくれて、みんな『大丈夫だよ』と祈ってくれた。ボクの両親さえもが大丈夫だと励ましに来てくれた。周囲にとても救われたけれど、1番支えて欲しかった存在に大丈夫だと言ってもらえなくて、相方はとても傷ついたのだ。


夢とはいえ、相方は初めて本気で怒った。だからボクはもう、相方の変わりに怒る気持ちはうせた。今まで、お人よしで飲み込まれていく相方にイライラしたりしていた(ボクの問題が其処にはある)のに、今は、相方の母親のことも客観的に考えられるようになりつつある。

ボクの中から生まれたのは、相方の代わりに怒っていたボクであり、相方の心の中にあるはずだった感情だ。ボクは相方の代わりにボクの中にその感情をとどめ続け、今相方の体に戻っていった。正しく怒ることができれば、その先にまた次のプロセスがやってくるだろう。

きちんと扱われなかった時代に、無理やり忘れていたものを取り戻し続けて、人は自分を取り戻していくのだ。


2006年02月15日(水) 空想の子供達 1

夢を見てから、どこか血なまぐさい気持ちが漂っている。それは不愉快だとかそういうのではなくて、何かが自分と皮一枚隔てたような感じで、ボクの腕の中に何かがいるようなイメージだ。

それがどんな意味を持つのか、ボクは少し、知っている。

多分、ボクは子供を生んだのだ。

勿論それは空想上の子供で、もう1つ言うなら、相手は小さな子供じゃない。




ボクと相方は、同性同士で一緒に暮らしている。それは、寄り添うような関係であり、ともにあるものであり、異性同士のようにかみ合うようなものではない。お互い補っていても、同性同士ならではのシンパシィと、半身なる遺伝子の不在がここにはある。

ボクは、ありのままのボクを愛してもらえなかった子供だった。ママの気に入るように振る舞い、ママの選んだ職業についた。どんなに心に言い訳を並べたって、ボクが女々しく親に愛されようとし続けていることに変わりはない。

相方は、何でも思い通りにさせようとする親から逃げてきた子供だった。洋服も髪型も食べ物も職業も何でも全部決められて、自由は1つもなかった。神様さえも決められて、家族全員金の鎖をしていた。毎日飲み歩いて、友達とつるんでばかりいて、帰ると親はヒステリーだ。
父親は何も言わず、助けてもくれない。

ボク達は最初、ちっとも気が合わなかった。
ボクは本の虫で絵を描いてた。
相方は飲んだり遊んだりが好きで、遊びのテリトリーが違った。

ボク達は犬が寄り添うように一緒に眠った。
本当にぐるぐる巻きにまきついて、ピッタリくっついて眠った。
それは友達でもないし、今思えば恋人でもない関係だった。

ボク達はそのうち、お互いの親を知るようになった。一緒に過ごすうちに喧嘩をしたりもしたけれど、たいした喧嘩をしないぐらいには十分大人になっていた。

ボクはもう随分前に、大分親の問題は片付けていた。自立して、自分で稼いだお金で飯を食えるようになってから、振り返ってみた親はただの人間だったことに気が付いたのだ。
ボクと会った当時の相方は、まだ、親から逃げてきたばかりだった。逃げてきたくせに『家は仲良し家族なんだ』と言った。そりゃいいね、と思ったけれど、その割には辛そうで、そのうちボクは辛らつになって、相方を苦しめた。相方が自分で気が付く前に、ボクは“真実らしきもの”を暴いたのだ。それは本当に暴力的で、相方はますますボクにしがみつた。

それはボクの中のエゴだったけれど、どうしても言わずにはいられなかった。

“ボクは不幸だったってことを認めている!
お前のその見せ掛けの仲良しなんて反吐がでるぜ!”

20年近く自分をだまし続けて、ボクはもう真実から目を背けることにうんざりだった。


2006年02月14日(火) 神様の分

愛とは何か?という問いには人の数の分の答えがあるだろうし、愛を知らないものには答えようが無い。

愛するものがいたとして、そのものが本当に喜ぶものは何か、というのはなかなか難しいことでもある。欲しいものは何か?それを、他者から贈られたら嬉しいか?それをどんな風に扱うだろう?
そんな風に相手に思いを寄せながら、ああでもないこうでもないと何かを贈ろうとする行為自体に、もうすでに愛は発生しているだろう。


愛とは、相手を気にし続けることだ。こちらの充足とともに消え去るものではなく、いつもいつ何時も、この心の中に相手を浮かべていることだ。それは自分と錯覚するのではなく、あくまで自分と違う他者であり、それでもなお、関わり続けていくような存在。それは人生の最初には母親によって提供される関係であり、願わくば子供達はそうしていつも母親の意識にすんでいられたらと思う。


しかし、母親だって、けろりと子供のことを捨ててしまっている時がある。恋人みたいに振舞っていたって、いざというときに自分の心にはいないことだってある。人をいつも心に住まわせておくことは、時には重荷となりえるのだ。自分が精一杯のときにも、ずっと自分以外の何かを置いておく、

それを般化し普遍的に仕立て上げたものが、多分神様なのだ。神様はいつもあなたの心にいるというのはそういうことなのだ。ボク達は、何処かにもう1人分くらいの余地を残しておくべきであり、その目的は愛するためであり、愛することによってまた自分をも愛せる。


2006年02月13日(月) 魂は二度生まれる

子供達は、愛されなくては人に成長しないから、今生きているものは皆、誰かしらに愛されてきたことになる。
両親が酷くっても、毎日が酷いわけじゃなくて、ほんの少しはいいことだってある。彼らは気まぐれになら小さきものを愛するだろうし、部分的には愛してくれているときだってあるからだ。誰かが食べ物を与えてくれなければ、もう死んでこの世に居ない。

本当なら、連続する確かな愛が、人を育てるのに必要不可欠なのだが、無いものは仕方が無い。ボロボロと穴の開いた土壌であっても、根を張れる場所を探して、土台を求めていくしかないし、そうやってでも、何とか人は生きながらえていくものだ。

だが、成長となると違う。きちんとした土台が無ければ、成長することはできず、あるいは部分的にしか伸びることができずに、ある部分は幼いままで、もっとも外側の部分、殻だけが大きくなっていく。そうして、心は子供のままで停止し、成長することのできなかった寂しいかつての子供が、大人として生きていくのだ。

大人になってからでも、愛されるチャンスはある。友達から、恋人から、老いていく両親から、関わるすべての人から、そして自分自身の変化によって、世界にもう一度、生まれなおすことが、できるかも知れない。


2006年02月12日(日) 血に塗れた子供の夢

昨日のショックを引きずったまま、相方とボクは夢を見た。相方は、今までに言えなかった家族への不満をぶちまけている夢だったらしい。今まで諦めていた思いに火がついたのか、どちらにしても、怒るというプロセスまでたどり着いたのは、夢とはいえ1つの進歩だろう。

同じ日、ボクが見た夢。

夢の中で、ボクは学校のような建物に居る。校舎を結ぶ渡り廊下、鍵のかかった窓、寂れた下駄箱・・・そんな中を潜り抜け、ボクは病院に向かっている。病院から電話がかかってきて、ボクはまだ見ぬ患者の元へたどり着こうと必死になるのだが、学校はどこか迷路めいていて、行く先がおぼろげになってしまう。

気がつくと病院の裏口まで来ていて、ボクは集中治療室に入っていく。其処には、まだ5、6歳と思われる少女が横たわっている。子供の体はうっすらと血がにじんでいて、腹には包帯が巻いてある。子供は、自分で自分の腹を割いて、腸を切り取ってしまったのだという。子供の瞳は鉛色で、ボクは其処に生きる価値を見出せない、孤独を見ている。ああ、またこういう子供だと、この惨状を前にボクは妙に冷静だ。

子供はすでに手術を終えていて、側では医師が、子供の親に対して怒っている(その場に親は居ない)。親に愛されない子供は、世の中に絶望し、腹を切った痛みさえ感じていない。

ボクは子供を抱き上げる。そのときボクの皮膚にも子供の血がにじむ。ボクは、感染症のことがちらりと頭をよぎり、手袋をしないなんて危険だな、と思いながらも、そんな手袋をして抱いても、この子には伝わらないだろうな、とも思う。

無表情のまま、子供はボクの腕の中にいる。抵抗もしないが、しがみつきもしない。ただ、包帯だらけの子供の手が、ボクのほうに伸びてくる・・・


目が覚めても、血の匂いが漂うような夢だった。


2006年02月11日(土) 恐れていては何もできない

ここ数日、相方は検査を受けていた。癌の手術をしたのが2月、ちょうど一年になり、先日の放射線治療が終わって、一通りの癌の治療が終わってから3ヶ月が経過していた。

検査の結果を10日に聴きに言ったとき、新しく検査が1つ追加されたので、すべての検査の結果はまた後日になったわけだが、そのとき先生からは、再発する確立が高いことを再度宣告された。

若い年齢であること、すでに転移が始まっていたこと、治療に対して幾つか不利な条件を重ねていること。解ってはいたけれど、改めて言われると重たく感じる。先生は、『何としても再発を防ぎたい』と言ってくれたのだが、逆に、どうしても再発する運命だといわれたように思えてしまって、金曜日は二人とてもブルーだった。

ボクはもしかしたらやっぱり、一人ぼっちになってしまうのかも知れない、と不謹慎ながら思ってしまった。もし癌が再発しても、とことん一緒に付き合う覚悟はしているつもりだし、死んでしまうならその瞬間まで手を離さないで一緒にいようと思う。けれど、そのあとどうやってボクは生きていくのか、ちょっと想像が付かない。

しばらく時間がたってみたら、随分考えが先走りしているものだ、と思えてきた。現在治療は上手くいっていて、もしかしたらの確率の話をしているだけなのだ。交通事故にあう確率だって、なんだって、世の中には同等の危険が潜んでいるのだから、このことに特別な考えを持ち過ぎるのは、やめたほうがいいだろう。


2006年02月10日(金) チョコレート

3泊4日の仕事を終えて、ようやく家に帰ってきた。何かお土産をと思うけれど、特に東京でなくてはないようなものも思いつかず、雑貨屋でチョコレートを買って帰ることにしたけれど、ヴァレンタインデーを目前に控えて、どこのデパートもチョコ売り場に人が殺到していた。

いろんなメーカーのいろんな種類のチョコが並んでいて、いったいこの中からどれを選んだら良いのか、選んでいる女の子達はどうやって選んでいるのか、不思議になる。
以前に食べたことがあるゴディバとか、三越のサティー、北海道のロイスチョコくらいしか知らないけれど、きっとチョコレートにも好みがあって、そうして沢山の種類が必然的に生まれたのだろう。そうでなければ、1番美味しいメーカーを残して、つぶれてしまうものね。

ボクはヴァレンタインデーはどのみち泊まり込みの仕事で家にいないし、同性愛者なので、どちらがどちらにあげるという法則もない。別にもともとチョコを贈る日ではなくて、恋人にプレゼントをする日だったみたいだけれど、その頃にはチョコレートってもう少し特別なものだったのかも。

チョコレートって甘くて美味しくて、ちょっと忘れがたい味。毎日腹ペコで食べ物を欲しがっている頃に、米軍さんが配ったチョコレートって、ちょっと想像できないくらいの食べ物だなと思う。


2006年02月09日(木) オレンジタワー

引き続き東京にいる。

ホテルを東京タワー側に取ったので、夜中タワーがオレンジ色にライトアップされて見えた。青山なので、少し離れているけれど、以前東京タワーの近くを通ったときにはとても大きく見えたものだ。

こういう夜景の中のオレンジ色はどこか生臭いような不安をあおる。赤い月と似たような感じだ。青白い月は、同じ不安でも、よそよそしいような不安なのだが、この色による違いは、やはり赤系統の色ということにあるだろう。(トンネルの中のオレンジ色も、子供の頃は怖かったのだけれど、あれは眠気覚ましの色って本当かしら?)


ボクの母親は赤色が嫌いで、赤い色の服は一切与えてくれなかったけれど、赤に何の色を見たのだろう。ボクは、血の色みたいだから嫌いなのかしら?とか、女の人の色だからかしら?とかいろいろ考えたけれど、母親にとって何かを引きずり出すようなニュアンスを含んではいたのだろう。

真意はわからないけれど、赤い色は美しくて恐ろしい。


2006年02月08日(水) 3日間の不在

今日から3日間東京で仕事になるので、昨日から東京にいる。夜に新幹線に乗って移動してきたのだが、夜でも結構人が沢山乗っていて、みんなこうして仕事のために長距離を移動しているのだな、と思った。

今日は本当は相方の検査結果がわかる日だったから、本当は一緒に聞きたかったのだけれど仕方が無い。どうも家庭をお留守にしているお父さんのようだな、と思うとちょっと心苦しい。ついでに、ヴァイオリンに触れないことも辛い。

火曜日の朝にレッスンをしたのだけれど、『ヴァイオリンと離れるのが寂しい』といったら、先生も悲しそうな顔をして、『そんな悲しくなることを言わないで』と言ったので、先生も本当にヴァイオリンを愛しているのだ、と思った。
以前先生が、ロシアから来た人の相手をしていて一週間ヴァイオリンに触れなかった時とても辛かったと話して、来る日も来る日もヴァイオリンを触っていてもそう思うんだな、と思った。

ボクの商売道具はこの心そのものだけれど、だから、時々疲れちゃうと、心が麻痺しちゃうんだけれど、それでもまた交わりたいと思うのだから、やっぱり心を合わせることが好きなのかな。


2006年02月07日(火) ウラディミール・マラーホフ

リトルダンサーを見てから、またバレエへの熱が再燃している。といっても、ボクは勿論バレエは過去にもやったこともないし、見に行ったりすることもない。クラシックを聞いているうちに自然とバレエ音楽も聴くことになり、さてバレエは?ということで買い集めたCDが幾つかあるだけだ。

それより以前に、絵を描くときの参考に、バレエの雑誌を一冊買ったことがある。もう10年くらい前だろうか?それはマラーホフという美しい青年が特集されたダンスマガジンだった。特にこの青年を知っていたわけではなく、たまたまバレエの雑誌を買おうと思い立ったとき、たまたま書店に並んでいたのがその本だったのだ。

それから時間が流れて、つい先日、大好きなくるみ割り人形のDVDをやっと見つけた。今までまったく無かったわけじゃないけれど、いまひとつピンとこなくて、やっと出会ったそれをよく見てみたら、王子役がマラーホフだったのだ。クララ役の女性も大変美人で、ボクはこの小さな縁に嬉しくなりながら、DVDを買って帰った。

そうして、初めて見る動いているマラーホフは、本当に美しかった。雑誌に、羽根のように着地するというようなことがかいてあったけれど、本当に彼は、しなやかに、まるで羽根が生えている人のように飛ぶのであった。

あまりの美しさに、動きのひとつひとつも見入ってしまう。バレエは本当に美しい。体の動きは循環する力動によって支えられ、流れる動きと、真摯な指先と、相対するような動きが心に訴えかけてくる。


2006年02月06日(月) 剣の舞

ハチャトゥリアンの『剣の舞』は、一度聞いたら忘れ得ないくらい印象的な音楽だ。剣という言葉に相当するような激しい、テンポの良い曲なのだが、ボクはこの曲を子供の頃に聴いたのだが、子供の頃こそはこうした印象的な曲に魅力を感じてしまうものだろう。

考えるに、剣という鋭いもの、男性的な武器と、舞という女性的なやわらかいものとがともにある、そのことがまず魅力的なのだと思う。鋭い剣を盛ったまま踊る、アラビアのイメージを色濃く思わせるこの曲だが、作者のハチャトゥリアンが、グルジアで生まれ、あの国境地帯の出身だと知れば納得できる。いまだ民族紛争のさなかにあり、安定しない国だが、それだけに様々な民族の音楽を聴いて覚えていたという。

アラビアの、あの三日月のような鋭い刀(シミターという)を指の延長に携えて激しく踊る様は、想像するととても心が高揚する。命を懸けて何かに陶酔するようなニュアンスはやはり格別魅力的だ。


2006年02月05日(日) 美しさとは

中原淳一という画家がいて、それはそれは素敵な美しい女の人を描く人だ。ボクも大好きだけれど、彼には沢山のファンがいて、最近の有名な人だと、美輪明宏氏が彼の絵を著書の表紙に使っている。

美しい人が大好きで、それは男性でも女性でもそうなのだけれど、ボクは美しい女の人には、その中に潜むきりりとした男性のような清潔さが好きだし、美しい男の人には、やわらかい羽毛のような感触を備えているならば良いと思う。

何を持って美しいというかは人それぞれだが、美しいものとは見目の丹精さだけではもちろんないだろう。人は生まれてすぐにはその外見は、神様から与えられた造形だけが呈示されているだろうが、年月を重ね、いくつもの体験をし、もしくは体験をしないでいるうちに、その生き様が外見に表れてくることは必然である。

心動かすことが少ない人生を送ってきた老婆に会ったことがあるが、真っ白の白髪に、皺のきわめて少ない顔はとてもアンバランスで、どこか恐ろしい人に見えた。よく笑えば笑った皺が、怒った顔をしていれば怒った皺が、どんどん刻み込まれていくのだろう。

世の中を睨み付けて生きていけば、目つきはそのように変化していくだろうし、恐ろしいものばかり見ていた瞳は、何も映し出すことがなくなっていくだろう。

顕されている外見と、その中にある心とが、寄り添うようにあっているならば、それはその人そのもので、それだけで安心できるような存在だろう。
外見と心が著しく不一致なら、おそらく動物達のようにカンのいいものは、警戒して側に寄らないだろう。


2006年02月04日(土) 死者では足りない

ボクは一日の大半を、ニュートラルな心に保つ必要がある。目の前のものを相手に、それに流されること無く、しかしきちんとかかわること・・・
そうすることには随分慣れてきているので、得に混乱することもなくやれていると思う。

しかし、そう振舞いすぎて逆に自分自身がどこかに行ってしまっていると感じる時がある。それはまるで、自分の心がどこにもいないような感じで、そういう時は自分の中に空洞を見るような気がする。

それでは本当の意味できちんとした対象に慣れていない。ボクは空虚な存在として相手の前に提示されるものではなく、ボクという人間があって、其処に1人の人間としての様々なものが漂っていて、その上でニュートラルでなくてはならないのだ。

ボクが死んだままでは、相手は死者を相手にするだけだ。相手が欲しているのは魂を持った対象なのだから、ボクは生きていなくてはならない。生きて生きて生きてそして其処に在り続けることを、続けていく力を、ゆっくりとでいいから養って生きたい。


2006年02月03日(金) 心ここにあらず

『食べちゃいたいほど可愛い』とは言ったもので、人は人を食う。最近それを深く感じている。ただしこの場合、食うのは血肉ではなくて魂だ。

食うものの前に食われるものがいる。そこには一方的な関係もあれば相補的な関係もある。相補的な関係としてはやはり血のつながり、母親と子供との関係がもっとも多くあるだろう。
一方的な関係は、食うか食われるかの関係にまでは陥らない。そこには明確な他者としてのラインが存在するため、摂り食われる前に逃げ出せるからだ。

それでも魂を分け与えていると感じるときがある。魂が食われて失った部分を、どうやって回復したら良いのかわからないときがある。音楽を聴いたら良いのか、食事を取ればいいのか、どうしたらいいのかわからないまま時間をぼうっと過ごして、眠って、また元に戻っていくのだけれど、これは果たして元に戻れたのだろうか?もう魂は無くなってしまったのではないだろうか?

どんどんそぎ落とされて、最後に残るものが何なのかわからないような心もとなさが恐ろしい。ボクは、急に死んでいなくなってしまう人は、こんな心境を抱えているのじゃないかしらと時に思う。

当たり前だけれど、ボクの腕は1人分なのだ。


2006年02月02日(木) ケーキ

相方の検査は無事終わって、結果は来週になる。検査は相当辛かったようで(痛いという点で)帰ってきた相方はすっかり疲労していた。
代わってあげることもできないけれど、聞くからに恐ろしい検査で、とても受ける勇気がないけれど、そうしなくてはならない状況になれば仕方ないということだ。命がかかわってくるのだから、相方も受け入れざるを得ない。

がんばったご褒美に、ショートケーキを買った。単純だけれど、ボク達はイチゴの載ったショートケーキが1番好きなのだ。紅茶とケーキを前にして、お疲れ様の乾杯を(紅茶で)した。

ケーキには特別な効果があると思う。特別なときに食べるものであり、お祝いのためのものであり、普段は贅沢なもの。毎日ケーキを食べていたらきっとこんなにうきうきしないだろうから、やっぱりケーキは時々食べるのがいいと思う。昔からの風習でも、ケーキは同じような意味合いを持っていたんじゃないかしら。

貧しい農民達が、年に数回だけ、沢山のご馳走を盛って祭りをする。その日ばかりは美味しいものをほおばり、ダンスを踊る。それは毎日がんばって地道に働いたご褒美なのだ。ご褒美があるから、また明日頑張れる。大人だって子供だって、報われると信じているから明日に向かって生きているのだ。

相方の頑張りが無駄にならないように、検査の結果がよいものでありますように!


2006年02月01日(水) 1年

明日は相方は病院に行く。手術後初めての大きな検査をしにいくため、つまりは再発していないかの検査をするためだ。

多分大丈夫だろうと思いながらもやっぱり不安は付きまとう。癌が発見されるときだって、多分大丈夫だろうと思っていたのに、結果は悪性だったのだから。
あとからあとから悪い情報が追加されて、希望の変わりに不安と諦めが追加されていったのだけれど、いざそれが現実ならば仕方ない。諦めて受け入れるしかなく、また心とは流動的で、時間を追うごとに、それがそうなることであったように感じていったのだ。

しかしそれは表面上のことで、病気はひそやかにボク達の心を蝕んでいった。冬から初夏にかけて、ボクは仕事と生活に最低限必要なこと以外、何もする気持ちに慣れなかった。絵も描けないし、本も読めないし、犬の散歩も怠りがちになっていった。

その中で唯一手にしたのはヴァイオリンだった。何しろ先生が出した課題が背後から追ってくるのだから、やらざるを得ない。そのことも考えた上でのレッスンだったが、そうしてよかったと思う。暗い家に、週に一度ヴァイオリンを背負った先生がやってくる。先生のヴァイオリンはボク達の憧れであり夢となった。先生のために選んだ紅茶、お菓子、そうしたモノたちが、死にゆくボク達の心を外に引っ張り出してくれた。

先生にこの気持ちを言葉で伝えたことはないし、これからも伝えるつもりはない。いつか音に載せて先生のために演奏ができたらと思う。


ロビン