カウントシープ
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2005年11月30日(水) お絵かきケーキ




今日は我が家でホームパーティを開いて、ついでにメンバーの一人に本日誕生日の者がいたので、にわかにバースディケーキが登場。
注文は友達に任せておいたら、こんなケーキがやってきた。まだまだ万博の余韻は残っているようだ。
このケーキ、ナイフを入れるのにちょっとためらいを感じてしまったけれど、えいやっと気合をいれて8等分してしまった。
ひよこまんじゅうもそうだけれど、ある程度大きさのある、可愛い形をしたものって食べるのにどうにもためらう気持ちがでてしまう。『たべっ子どうぶつビスケット』とか『おっとっと』とかくらいのサイズになるとなんら抵抗はなかったのだけれど。

いや、子供の頃のほうが抵抗ないのかもしれないな。


2005年11月21日(月) チャイナ・ローズ・ペタル




我が家は家長が紅茶党なため、毎日のお茶はすべて紅茶と決まっている。紅茶の茶葉は常に切らされることなく、幾種類も用意されている。今思い出せるだけでざっと、フォートナム&メイスン4銘柄、マリアージュのエロス&マルコポーロ、ディルマ2銘柄、ヨークシャー4種、そのほかに6種類ほど。(開封されているのは7缶)これらを適当にまわしながら飲んでいるのだが、ボクとしては紅茶はとても味わいがあって、飽きることがない。

と思うけれど、これはボクが紅茶を好きだからであって、対して好きでもない人にとっては、どれもたいした差がないんだろうな、とも思う。というのは、ボクは対してコーヒーが好きではないから、どれをのんでも多少苦い飲み物だな、と思うくらいなのだ。きっと、紅茶以上に味わいがあるであろうが、どうにもコーヒーは酔ったような気持ちになるので、飲めないわけじゃないけれど、苦手なのだ。

さて、いつも悩むのは(ヴァイオリンの)先生に出す紅茶の葉だ。先週は何を出したっけ?と、かぶらないように気をつけているつもりだが、しょっちゅう飲んでいるとどれを出したか忘れてしまうのだ。ちゃんと記しておけばいいのだけれど、そこまでするのもねぇ・・・
先生に好評だったものは、写真のチャイナ・ローズ・ペタル。薔薇の花びらをトッピングするよりも自然な薔薇の香りがGOOD。青い缶も美しい。


2005年11月20日(日) 悪意の行方

心の中に悪意が増殖していくときがあって、無差別に何もかも排斥したくなるような感じだ。きっと、こういうときに、無関係な対象を巻き込んだ犯罪は起きるのかしら?と思うけれど、たぶんこんな感じは誰にでもあるのだと思う。
そこから、この感情をどう扱い、持って行くかによって、自傷や他害に発展したりしなかったりするのだろう。もちろん大多数の者は他害にも自傷にもいたらず、考えの中でそれを収めていくし、そうした機能が、十分に心が育った人間には持ち合わせているものだ。


2005年11月19日(土) 2台目のヴァイオリン

ヴァイオリンを始めて半年。2人で一台を共有で使っていたけれど、2人ともそれぞれのヴァイオリンをもとうということになり、もう一台増やした。
今度のヴァイオリンは、最初のものに比べたら随分音もいいものを選んだ。いい音を聞けばそれだけ耳が育つ、との先生の考えからだ。

先生は、どうしたらボク達の音がよくなるか、いつも考えてくれている。ボク達の出来る範囲の中で、何処が悪いかを探して修正してくれるから、毎回のレッスンでいつも手ごたえを感じることが出来る。
これはボク達が大人になって、習うモチベーションが高いせいなのか、言葉での理解が早いからなのか?子供の頃に習った習い事と比べたら随分すんなりと入っていくのが不思議。今ピアノを習ったら、もっと楽しんで弾けたのかしら?と思ったり。

もし、ヴァイオリン以外の楽器を習う機械があるならば、ボクはチェロが弾きたい。もともとチェロをやりたかったこともあるし、オケの演奏を聴いていても、ボクはチェロの音色がやっぱり好きだ。


2005年11月18日(金) クラリネット

ボクを苦しめる対象が居て、とても辛いのだけれど、辛い先には気づきがあるのだと思う。ボクが喜ぶような心地いいような言葉ばかり並べられていたって、きっと生ぬるくって手ごたえがないだろうから。

苦しめる対象と言ったけれど、ある意味ではありがたい対象なのだ、とポジティブシンキングにGOだ。

話変わって、今日はエルンスト・オッテンザマーというクラリネット奏者の演奏を聞きにいった。ボク達の先生も演奏していたから行ったのだけれど、クラリネットってとってもまろやかな音だった。全体的にまろやかで、時々とっても楽しい音に変わるから不思議だ。

ボクは、実はクラリネットを、トランペットの一種だと思っていたので、もう少し騒がしいラッパの音を創造していた。だから、木管楽器のやわらかい音にびっくりしたし、「ボクの大好きなクラリネット」のイメージも変更することになった。
オーケストラのそれぞれの楽器にスポットを当てた演奏を聴いていきたいな。


2005年11月17日(木) カップは3つ以上

もうすぐ先生の誕生日、ということで、今日はレッスンの後に小さな誕生会を行った。
用意したのは、小さなラウンドのフルーツショートケーキと、象のエルマーのクリップと鉄腕アトムのイラストが小さく入ったブックカバー。象のエルマーを選んだのは、先生が我が家で使うマグカップが象の模様だからだ。

マグカップは全部で5種用意した。犬・動物・羊・象・オーケストラの5つなのだけれど、先生はいつも象のカップを取るので、たぶん象が好き・・・という予測の元にエルマーを選んだ。

レッスンを始めてから、マグカップを選ぶときは、いつも最低3つ選ぶ。もちろんひとつは先生の分なのだけれど、このあたり、ボク達が先生のことを大好きなのがわかってしまって恥ずかしいから、カモフラージュに?もうひとつふたつ選んでみたり。


2005年11月16日(水) 真っ暗クローゼット

朝シャワーを浴びていたら、相方が血相を変えて飛び込んできた、
「犬がいない」と。一番若くて一番大きな犬が消えたというのだけれど、立ち上がったらボクより大きな犬がいったいどこに消えるというのだろうか?

結局ウォークイン・クローゼットの中に閉じ込められていた(閉じ込めたのは寝ぼけていたボクらしい)のだけれど、暗いクローゼットの中に、ちょんと座って出してもらえるのを待っていたらしい。一声なけばいいのに、黙って待ち続けるのは行儀がいいのか、絶対見つけてもらえるっていう核心があるからなのか?

ボクの親は押入れに閉じ込めて反省なんていう古典的なお仕置きはしなかったけれど、逆にボクは押入れ−というよりクローゼットの中に興味があった。いつか読んだ『スケートを履いた馬』の中で、文字通りスケートを履いた馬と一緒に主人公の少年コンラートは南洋に旅に出る、その旅の入り口が洋服ダンスなのだ。

それはともかく、うちの奴らはみんなのんびり屋なのか、頭から靴下を被せて目もみんな覆ってしまっても、とってもらえるまでじっとしている。でもそれも一緒にいるときだけで、ボク達の姿が見えなくなるととたんに不穏になってしまうのだ。
家の中にいるとわかっているときは見えなくても大丈夫だけれど、初めてのコンビニの前では不安になるみたい。それだけボスに依存して生きる生き物なのかな、犬ってやつは。
もしボク達が居なくなったら、この3頭の中で誰がリーダーになるのかしらと思うけれど、一番若い雄犬がリーダーになりそうだ。


2005年11月15日(火) 遺伝子

唐突だが、母方の従兄弟が発狂してしまったようだ。もうしばらく前からなのだが、ああ、やっぱりか、という感じ。ボクの祖母も精神病で死んだし、血族の中に精神病が多発しているから、そういう遺伝子があらかじめ組み込まれているのだろう。

ボクは、母方も父方も同じくらい精神病を持つ家系だから、その子供のボクはさらに遺伝子を受け継いでいると推測される。幸い、と言っていいのか、ボクと妹ははっきりとした精神病を今のところ顕してはいない。まあ、ゲイっていうのも精神病に含める風潮もあるから除外はできないかもしれないけれどね。
ボクは奇しくもゲイだから、子供が生まれることはないのだけれど、もしボクが子供を作るとしたら、そのことはとても気にかかるなぁ。

従兄弟は近いうちに精神病院に入院しなくてはならないと思う。本人は拒否しているが、それがもっともいい選択だと思うから、この週末にはまた家族会議だ。もう何年も・・・もう10年以上も会っていないおじさん達に会うのはそれだけで緊張するのに、難題が待っていると思うと週末は気が重い。


2005年11月14日(月) BLOOD+

昨日録った第1話を見た。以下はその感想なり。

すごい 絵の クオリティ に驚き。
さすが攻殻を作ったスタッフですよほんとに美しい!
ついでに冒頭の女の子同士ぺたぺたしているのも、これはボク達に対する餌ですか?ものすごくどきどきしてしまいました(アホ)
文句なしにサヤは可愛い!唇が妙に色っぽいしすこぶる可憐だ。

モチーフは吸血鬼ものなのか?タイトルどおり血まみれ。一番ゾクゾクしたのはサヤの口元にハジが血の滴る手を寄せたシーンか。キスシーンはとても印象的だった。ファーストキスってこれかぁ!みたいな衝撃でしたが。

ハジがチェロの奏者っていうところも自分の中では嬉しい設定。ハジは昔のアニメなら確実適役とか、物語に混乱をもたらす困った二枚目っぽい外見だ。長髪で前髪が長くて、青白くて、チェロを弾いて寡黙(かどうか解らないけど)これがヒロインの対の役なら、なかなか珍しいキャスティングじゃないかしら?


2005年11月13日(日) 聞いてくれる

久しぶりに実家に帰って、数ヶ月前の誕生日プレゼントを渡して、ちょっとだけヴァイオリンを披露してきた。曲はゴセックのガボット、鈴木メソード第一巻の最後の曲だ。
両親は、ヴァイオリンを感心して聴いてくれた。ボクはそれがとても嬉しかった。聞いてくれるようになったのだ、と思ったのだけれど、よく考えたら、聞いてくれるようになったのではなくて、聞いてくれないと決め付けていただけじゃないかしら、とも思った。

昔の母親はいつも怒っていて、子供のことに関心がないように思えた。けれど、本当は怒っているときもあるけれど、怒っていないときもあって、聞いてくれないときもあったけれど、聞いてくれるときもあったのかもしれない。ただ、ボクがそう思い込んでいただけかもしれない。

もし時間をさかのぼれるのなら、たくさん確かめてみたいことがあるように思うけれど、今からだって知りえることがたくさんあるのだから、これからのかかわりを続けていきたい。


2005年11月12日(土) 眠るときのおまじない

急にどんどん寒くなってきて、上着が必要になってきた。
ボクはちくちくするものが嫌いだから、あんまり冬着は好きじゃないのだけれど、それでも寒いとウールが恋しくなる。ウールは、ボクの大好きな羊の毛なのだけれど、ケモノは苦手なのだ。

なのになのに!無印でうっかり買い込んできたソックスはみんなウールもの!足首がちくちくしたらいやだなと思いながらも、買ってしまったものはしょうがない(無印良品)、気合入れて履くか!みたいな。

ボクは羊が好きなのだけれど、いつから好きになったのかわからない。あのもこもこ具合なのか、それとも宗教的要素なのか(キリスト教信者=羊・羊飼い=イエス・キリスト)、それとも眠るときカウント・シープするからなのか?

眠るときの恐怖は今でも忘れられない。ボクは小さなころちっとも眠れなくて、でも、母親に怒られるから早く眠らなくっちゃと焦って、結局眠れない日々が続いた。夜が怖くて怖くて、怖い夢が怖くてまた夜が怖かった。
眠れないことは辛いけれど、それ以上に母親が怒るのが怖かった。眠れないの、と夜中にそっと告白すると、母親の不機嫌な顔が返事の変わりに返ってきた。
だけれど、ひょっとしたらそれは、たくさんの日々のうちのほんの数日のことで、ひょっとしたら、眠れないボクを抱きしめて眠ってくれた日があったのかもしれない。
触られるのが大嫌いなママだったけれど、ある夜にはボクを抱きしめてくれて、一緒にひっついて眠れる夜が一日でもあったなら、ボクはそれを365日思い出して、毎晩眠るときのおまじないにしただろう、と思いつつ、

そんなマザコンでいいのだろうか?と思ったりもする。


2005年11月11日(金) 動機

ボク達が毎日やることのなかで、やらなくてはいけないことは、犬の世話とヴァイオリン。犬は毎日生きていて、世話をしてやらなくちゃいけないから、仕方ないけれど、ヴァイオリンは別に毎日弾かなくたっていいはずなのだ。
どうしてヴァイオリンを弾くのか?先生とのレッスンがくるからには、レッスンししておかないとかっこうがつかない、というのはある。ボク達は先生が好きだから、先生には誉めてもらいたいばかりだ、というのもある。
先生は誉めて育てるほうだけれど、自分自身でがんばったことにたいして誉められることほど嬉しいことったらないから、やっぱり頑張りたい。

頑張った先に実ることってすごい喜びだ。
頑張らなくてできちゃうことよりも、きっと嬉しいことで、
世の中には頑張ったってできないことも山ほどあって、その度に自尊心もプライドも傷つくのだけれど、
だからこそ、ボクは、手ごたえを感じるヴァイオリンを、とてもよき相手として楽しんでいるのだ。


2005年11月10日(木) 確かなもの

ずっと絵を描いていないが、球体間接人形のフェイスにペイントしていたりして、絵に近いことはしている。別に絵が嫌いになったわけじゃない。いつだって、会議中だって絵は落書きしているし、頭の中ではいろいろ構図を考えているし、上手い絵に出合うと簡単と尊敬と嫉妬もする。だけれど、今はまだ描けない。

描けない理由は・・・単純にほかのこと(ヴァイオリンや人形)に忙しいからと言い訳もできるけれど、今は描こうと思えないからだろうか。自分の限界などとっくにわかっているつもりだし、限界に左右されないで自分の書きたい絵を描いたらいいということも知っているつもりだ。
でもでもでもでも、描くより先に人形に手が伸びてしまうのは・・・

自在するものが欲しいのか?手に触れる対象が欲しいのか?

相方が癌になって、一人ぼっちになるかもしれないと思ったころから、ボクはどこか弱っているように思う。ゲイのボク達の関係など、世間的にはただの他人であり、病気を理由にしてボクから相方を奪っていくように思えた。「今はあなたに預けておく」という向こうのママの言葉は宣戦布告にも思えた。ボク達を引き離さないで欲しいと思うのに、ボク達をつなぐものは、世間的にはただの友情、なのだ。紙切れ一枚といえど、結婚の証明書もなく、残してあげられる相続物もない。

ボクは遺言を作ってあって、ボクが今までに稼いだお金は全部、相方にいくようにしてあるけれど、それだってたいしたお金じゃない。逆に相方が先に死んだって、遺体はボクから引き剥がされて沖縄に持ちされれてしまう。ずっと一緒にいられないのだと思うと、今、目に見えて触っていられる間に確かなものを沢山作っておきたいと思うのだけれど、
確かなものを得ようとして、得られるものなどまたひとつもないのだ。


2005年11月09日(水) 秋の帳

夕方の窓の外の景色がとても美しい季節になった。
澄み切った青空に日没が訪れ、端から鮮やかな茜色に染まり、やがて紫色がさして夜の闇を導いてくる。その怖いくらいに鮮やかなオレンジ色や、雲の切れ目や、もう日が落ちるときの寂しいような気分が入り混じって、何度も窓にとらわれながら仕事をする。

ボクの職場は半地下か9階の二箇所なのだが、半地下には暗い帳が、9回には去っていくオレンジ色が、どちらももう戻りえない今日への別離を感じさせる。それは寂しいと同時に今日一日を乗り切った安堵でもある。

日に日に日没が早くなるこの季節はとても寂しいし、毎日冷たくなっていく空気や、黄色くなっていく街路樹、そういったすべてのものが、どうにも寂しいと感じていた例年にくらべて、今年はなんだかいつもと違う。

長い(相方の)治療という冬のような時間が終わったからなのか、それとも、別の要素なのか?ボクは最近は寂しさよりは何か生き生きとしたものを求め、それを感じようと行動し、多少の手ごたえも得ているように思う。
思うに、病気になってもたらされたもののひとつに、今の、少ない自分のン赤でできることを、指先の届くところから少しずつはじめる、ということがあるのじゃないかしら?
思うようにできなくたって、動き出さなかったら、そこから少しも動けないのだから。


ロビン