umityanの日記
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2007年12月31日(月) 僕らの旅パート23。24.

 朝6時に目が覚めた。のび太君もほぼ同時に起床。朝風呂に行くことになった。他のメンバーはまだ船をこいでいるようだ。バスタオルを手に持ち僕たちは坂道を歩いた。例によって、のび太君は先を歩く。おかしなやつだ。さすがに、朝は入浴客が少ない。僕は昨日と同じコースをたどることにした。閑散とした朝の浴場は、それなりに良い。のび太君は、温泉プールがよほど好きなみたいだ。何故かそこにいつまでもとどまろうとする。さもありなん。数名の女性客が湯船につかっているからなあーーー。そちらの方が気になるのだろう。僕は、なまぬるい湯が嫌いだ。さっさと次のコースへ歩みを進めた。すっつかり「ぶらちん」が板についた。郷に入っては郷に従えだ。

蒸気室、サウナ室、熱湯の湯、冷水の湯。そして、元の温泉プールへと戻ってきた。のび太君はまだいる。「そろそろ出ようか?」と声をかけると、ようやく彼の重い腰があがった。コッテージへ戻り、レストランで朝食をとることにした。ハムエッグにトーストというシンプルな食事だ。結構おいしい。

朝食を済ませ部屋へ戻ると、皆、起きていて僕たちの部屋へ集合した。「昨日の残りのビールを飲みあげようぜ」と、ネズ君が言う。
ビール瓶は部屋の外にケースごと置いていた。夜の冷気で、冷え心地は良好。僕たちは昨夜と同様、コンクリート階段を利用して開栓に成功。「ごくごく」と、のどを潤した。皆、よく飲むぜ。と、そこへ、清掃車に乗った管理人らしきおじさんが我々を発見。「オー・ノー・ドリンクだめ」と言い、手で×印を作った。僕たちは「知らなかった。ソーリー・ソーリー」とひたすら謝り、何とか笑いでごまかし難を逃れた。おじさんが 出て行ったすきに、こっそりと、不燃物入れのゴミ箱へ空瓶を捨てた。旅の恥は何とかと言うが、大事に至らず幸いだ。

ドライバーさん他、数名が食事に行った。食事後、この村を出る。僕は例の彼女を起こしに行き、ドアをノックした。食事後出る旨を告げると、支度してから来るという。皆が戻り、彼女を待つていると、なんと、盛りだくさんの荷物を持ってやってきた。恐らくは野宿やヨガのための道具類でも入っているのだろう。災いは忘れた頃にやってくる。案の定、僕が彼女のアッシーに。まああ、乗りかかった船で、僕は快く彼女の荷物を運んだ。結構重い。

ドライバーさんの助手席へ、スネ夫君。その後ろの座席へ僕(ジャイアン)、彼女、ドラえもん君が座り、その又後部座席に、ネズ君とのび太君が座った。紅一点を乗せて、車は来た道をすいすい戻る。道すがら彼女はよくしゃべった。退屈させまいと気を使ったのだろう。写真を見せたり、クラシックを吹き込んだCDを聞かせてくれたり、はたまた、カナリヤのさえずるがごとく、賛美歌みたいな曲を歌い出した。妖精の魔法に当たったのか、皆、こっくり、こっくりとやり出した。

車はようやく町中の通りへ出た。その時、スネ夫君が「この町に間欠泉が出る場所があるので、そこへ行きたい」という。皆に異論は無かった。というのも、スネ夫君はあらかじめ、旅の計画の中に、そこを組み込んでいた。ドライバーさんの案内で到着した。看板が掲げてあり、一件の店があった。入場料が結構高かった。皆、中まで入ることを躊躇していた。それを察したのか、スネ夫君一人が、「僕が代表で見てくるよ」と言って中へ入っていった。僕たちは、店で売っていたアイスキャンデーをしゃぶりながら外で待っていた。十数分でスネ夫君が出てきた。「どうだった?」と」聞くと、結構高いところまで、水が噴き上がり、圧巻だったらしい。

そこを出て、車は再び走り出した。彼女もしゃべり疲れていたのか、眠気を催したらしく、僕の肩に首を乗せていいかと聞いてきた。皆の目が気になったが、僕は快く了承。本来なら、彼女の肩を引き寄せてやりたかったが、さすがにそこまでは出来なかった。うんんんんん、良いことは長くは続かないものだ。車が給油と相成った。残念・・・・・。

僕たちはガソリンスタンドで、小用をとった。店舗の中には、菓子類やらボトル類が売ってあり、若い売り子の女性がいた。僕は、馬鹿の一つ覚えみたいに、「ウエアー・ザ・ラバトリー?」と言うと、にっこり笑って、その方向を指さしてくれた。ななんと、ここにも、竹ずつに鍵が結んであり、それを利用して扉を開けるようになっている。ちょっと、不思議な気がした。僕はお礼にと水のボトルを買った。売り子の女性が聞いてきた。「アー・ユー・ジャパニーズ?」と。僕はすかさず「イエス」と応えると、にっこり笑った。前もそうだったが、この笑みは何を意味しているのだろう?。笑顔がきれいだったので、まず間違いなく歓迎の笑みだろう。

ガソリンも満タンになり、僕たちの車は高速を通って、一路、宿泊所を目指して走った。ある地域まで来たとき、再びスネ夫君が口を開いた。このあたりに「スヌーピー館」があるという。是非、そこを見たいと言う。これもスネ夫君の当初の計画だったらしい。僕たちは彼の綿密な計画に脱帽だ。立派な建物の中に、いろんな写真やマンガが展示されていた。子供はマンガが好きである。お土産でも買いたかったのだろうか?。何人かが、ちゃつかり、買い物袋をぶら下げていた。さすがは父だ。お父さんだ。僕には無用の品だったので買わずじまい。それでも、面白い場所が見学できて、これも記念になった。カメラに収めたことは言うまでもない。

そうこうするうちに、午後も3時を回った。宿泊地(坐禅堂)に到着するのは4時過ぎになるらしい。その前に彼女を自宅まで送り届けることになった。なんと、彼女の自宅は、我々の宿泊所から、遠くない場所にあった。まさに隣保班である。僕たちに声をかけたことが偶然とはいえ、彼女はラッキーな女性と言うことになる。これも又、縁だろう。彼女の家の前に車が着いた。彼女は丁寧に僕らにお礼を述べた。ドラえもん君がすかさず僕に言った。「ジャイアン、荷物を運んであげなくちゃ」と。僕の役とは最初から分かっていたので、即実行。家の玄関に荷物を置いた。彼女は僕に両手を広げてきた。なるほど、これが抱擁ってやつか?。僕も自然と彼女の体に手を回した。何秒の抱擁だったのだろう?。短くもあり、長くもあり。僕は再会の言葉を述べ、彼女の前を去った。振り向きはしない。もう二度と会えない可能性が強い別れ。どんな別れでも、一応、辛いものである。恐らく、皆の気持ちもそうだったに違いない。

かくして、僕らは、無事に宿泊所にたどり着いた。方丈様、ご夫妻の出迎えを受けた。「どうだった?」と聞かれたので、「いやああーーー、かって経験のない秘境の地で素晴らしかったです。ちょっと、恥ずかしかったですけど」と応えた。ご夫妻は笑っておられた。ここで僕たち五人の旅は部分的に幕を閉じる。

というのは、僕(ジャイアン)と、のび太君は一足早く、日本へ帰らねばならず、飛行場に近い町のホテルで一泊することになる。スネ夫君、ネズ君、ドラえもん君とは今日でお別れだ。三人は一日遅れで日本へ帰る。僕とのび太君は方丈様ご夫妻へ、感謝の言葉と事業の成功を祈願している旨を述べた。又、日本へ来訪の折は立ち寄って欲しい旨をつげ、固い握手を交わした。

ネズ君が、寂しそうな顔をして僕たちを見た。僕たちも同じ気持ちだ。もう、懐かしくさえ思える坐禅堂での寝泊まりは出来ない。僕とのび太君は、残る三人と固い握手をした。ドライバーさんが、いつもの駅まで車で送ってくれると言う。有り難いことだ。僕と、のび太君は、後ろ髪を引かれる思いをしながら、坐禅堂を後にした。

今宵は町のホテルで一泊だ。部屋は別々。良かったぜ。あらかじめ予約しておいたホテルへ僕たちは足取り重く向かった。

僕の旅日記もあとわずかで完結する。出来れば2007年中に終わらせたい。後、2時間しかない。焦りながらでも、先を急ごう。

僕とのび太君は無言のまま、すっかり乗り慣れていた電車に乗った。色んな思いが胸中に蘇る。人種は違っても好意的に振る舞ってくれたこの地の人々。ただただ、無事に終えつつあるこの旅に乾杯だ。

程なく電車はホテルに近い駅に到着した。荷物を引きずりながら、出口へ向かった。のび太君が通過ゲートの機械にカード式切符を投じた。カニのはさみみたいな扉が開かない。開かないまま切符が戻ってきた。僕が次に切符を投じた。一発でオッケー。再びのび太君が挑戦。開かない。「ジャイアンが入れたからいけないんだよ」と、僕に抗議の一言が。「そんなことはないよ」といって、隣に設けられている案内所へ事情を説明すると、なんと、彼のカード式切符は「ブロウクン」と言われた。「何で僕のが?」と、彼は苦虫をつぶしたような表情になり、ご機嫌斜め。新しいカードに交換出来る場所が近くにあった。一件落着だ。ただ、ここでの時間のロスが思いがけない事態を招く。

路上へ出て、ホテルへ向かった。すぐ近くにあった。あらかじめ予約を入れておいたので良かった。ホテルとの折衝は僕の役目。つたない英語がまあまあ通じた。僕たちの部屋は最上階の14階。エレベーターで10階より上に行くには、渡された部屋のカードが必要だった。「なるほど、これもセキュリティーの一つか?」と思わず感心した。

部屋はかなり広く、中央にキングサイズのベッドが設置され、何故か枕が四コもある。「ここは 四人で 泊まれる部屋なのか?」と、一瞬、面食らった。「VIP待遇のもてなしだぜ」と嬉しくなったが、やはり、一人じゃ寂しい部屋だ。仕方がない。窓から外を眺めた。見晴らしは最高。夕日にビルが染まっていた。

おっと、こうしてはいられない。僕とのび太君には、当地での最後の遊興が待っていた。ナイトクルージングを予約していたのだ。時間が迫っている。僕たちは焦りながら、一階へ下りた。電車切符のトラブルのため、案内してくれるという通訳さんが既に帰っていた。おまけに、通訳さんの電話番号を記載していたメモを、のび太君が紛失している。

ここで、僕とのび太君はちょっとした言い争いを。「確かに電話番号を聞いたはずだ」と僕が言えば、「いや、聞いていなかった」と、反論する。これじゃあーーー水掛け論だ。予約メモがあったので、それをタクシーさんに見せることにした。ホテルからタクシーを呼んでもらい、運転手さんにメモを見せた。アジア系の運転手さんだった。見事、「分からない。知らない」と断られた。理由が分からない。時間は過ぎていく。僕は通行中の外人女性を呼び止め、尋ねた。親切に教えてくれたが、タクシーに乗るのはもったいないという。電車で行けばいいと言う。そう言って、乗り場を指さしてくれたが、らちがあかない。

僕は半ばあきらめた。予約代金一人あたり一万円近くが無駄になるが、仕方がない。そんなとき、のび太君が別のタクシーがホテルの先の角を曲がったところに停車しているのを見つけた。僕たちは走ってその場へ駆けつけた。メモを見せると、どうやら分かったようで、オッケーという。乗船時間に間に合うかどうか不安だったが、見事、目的の波止場へ到着。運賃は10ドル近くだったので、チップを含め、12ドルを手渡した。喜んでくれたようだ。

僕たちは乗るべき船まで急いだ。乗船待ちをしている人たちが、大勢いた。港から町のビルを眺めた。それはそれは高層ビルにイルミネーションがともしてあり、美しい風景だった。このカメラアングルを、のび太君が見逃すはずがない。大勢人のいる前で、得意のカメラをパチパチとやり出した。周りの人たちが興味深げに彼を見ていた。と言うより、カメラを見ていたのかも知れない。

そうこうするうち、乗船の時間がやってきた。入り口の扉が開き、僕たちは通路を通って、船に乗り込んだ。船は日本で言う観光船の親分みたいなものだった。いよいよ1時間半のクルージングが始まる。指定された席からは夜景の全貌が見渡された。僕とのび太君は、言い争っていたことをすっかり忘れていた。インタバルを置いて出されてくる料理に舌鼓を打ちながら夜景を堪能した。海に浮かんでいるように見えるブリッジのイルミネーションは幻想的な輝きを呈していた。船の中央には広いスペースがあり、老若男女の夫婦、もしくは恋人達か分からないが、音楽に合わせてダンスに興じていた。夜景は見飽きたのだろうか?。率直な意見を述べれば、日本の夜景の美しさと、さほど変わらないという印象だ。ただ、外国で見る夜景だから、それなりに意義があるように思える。料理はおいしかった。僕たちはビールとワインを追加で注文し、すつかりご機嫌。

船は揺れることもなく時間を消化し港に戻った。僕たちの旅は終わった。明日はいよいよ帰国だ。キングサイズのベッドが待っている。初めて一人で寝る一夜。僕はどんな夢をみるのだろうか?。











2007年12月30日(日) 僕らの旅パート22。

彼女の部屋まで行くと、「娘の写真を見せるから中へ入って」という。僕は一瞬ためらったが、信用ある僕のことだ。彼女は何の疑いもなく僕を招き入れた。薄暗い部屋の中にベッドが置かれ、スタンドの明かりがともっている。彼女はバッグから、娘の写真やら、カナダにある自宅の写真を取り出した。小学生くらいの、かわいい娘が写っていた。家はウッドハウスみたいで、近くに森林ががあり、川もあるようだ。やはりネイチャーなんだと改めて思った。写真の後に、パスポートまで見せてくれた。もっと若いと思っていたが、実際は40才とのこと。恐らく、自分を信用してもらいたいために、僕にそうしたのだろう。長居は彼女の迷惑になるかと思い、明日の出立時に迎えに来るからと告げて、部屋を後にした。

袖ふれあうも多少の縁とか言うが、旅はまさに、色んな縁と出くわすものだ。その縁が良かれ悪しかれ・・・・。部屋へ戻ると、皆がワインやらビールを飲んでいる。「どうだった?」と聞くので、「かくかくしかじか」と説明。一応それで落着だ。僕もビールを飲もうとしたが、栓抜きがない。「どうして蓋を開けたの?」と聞くと、なんでも、コンクリート階段の端っこにビール瓶の蓋をかませ、上からたたくと蓋が取れるそうだ。あまり強くたたくと、瓶が割れることもあるのでご注意とのこと。早速試した。見事に成功。誰の発案かと問えば、のび太君の経験上の産物らしい。「さすがわ、のび太君。されど、のび太君」だ。こういう時はドラえもん君が頼りになるかと思っていたが、力任せばかりでは、ダメなようだ。

本来なら、部屋での飲酒は御法度。ある種の後ろめたさはあるが、こうやって飲むのは、スリルがあって面白い。後で書くことになるが、やはり、悪いことは出来ないものだ。見事、発見されてしまう。ひとしきり飲んでダべって、さあ、お休みタイムということで、皆、部屋へ帰った。

「僕たちもそろそろ寝るぜー」と言うと、のび太君が「ジャイアンと同じベッドで寝るのは初めて。どうやって寝ようか?」と言う。どうも、同性愛者の人たちの事を気にしているようだ。僕は特に気にもならないが、のび太君の事を思って、敷き布団の真ん中に区切りを入れて、その左右に背中合わせで寝ることになった。僕はジーパンを脱いで、タイツ姿になったが、のび太君は、衣服を着けたままベッドインしたようだ。このあたりが彼の面白いところだ。

今日の諸々の出来事が脳裏をかすめた。僕たちの旅もやがて終わろうとしている。楽しく過ぎた時はもう思い出となる。うつらうつらしながら、そんな事を思い、いつの間にか深い眠りに落ちたようだ。


2007年12月29日(土) 僕らの旅パート21。

僕たちは不思議な感覚にとられながらコッテージへ戻った。のび太君とドライバーさんはまだ、姿が見えなかった。「食事に行くかあーー」とスネ夫君が言う。とりあえず四人(スネ夫君・ネズ君・ドラえもん君・ジャイアン)で行くことになった。レストランは歩いて二・三分の所にあった。中にはいると、随所に丸テーブルが配置され、ウエイトレスさんはいない。料理人だけが数名いた。どうもセルフサービスのようだ。

僕たちはテーブルを確保し、飲み物、食べ物を注文した。酒類は置いていないようだ。仕方なくなにやら分からないボトルを注文したが、いやはやこれは非常にまずかった。女性向きのドリンクのようだ。料理の方はまあまあーか?。何組かのカップルが食事をしていたが、わいわいがやがやとやっているのは僕たちだけ。これも日本人の特性か?。

ひとしきり食事が終わり、器をシンクへ戻していたとき、誰かが僕の肩を「ポンポン」とたたいた。「おやっ?」と振り返ると、ダークブラウンの髪をした一人の女性が、にっこり笑って、流暢な英語で話しかけてきた。英語圏の人だ。当然と言えば当然。背丈は1メートル60センチ弱。小柄な美人だった。何故、僕に話しかけたのかよく分からない。想像するに、英語が話せそうな唯一の人物と思われたのか、さもなくば優しそうな僕の顔に好感を持ったのかも知れない。(これは相当のうぬぼれではあるが)。最悪の発想をすれば、一番のスケベーと見られたのかも知れない。連れの三人は僕を置いて戻ってしまった。「僕にも恋の花が咲くか?・・・うっしっしー」とほくそ笑んだが、そんな色恋の話しではなかった。

手っ取り早く彼女の弁を言えば、「いつここへやってきたのか?。いつ帰るのか?。どこの町から来たのか?。もし可能なら、町まで一緒に車で送って欲しい」との依頼だった。いわゆるヒッチハイクってやつだ。「僕一人では判断できないので、皆の同意があればいいよ」と伝えた。彼女は僕たちの部屋まで来るという。

皆が僕とのび太君の部屋へ集合した。彼女の話を伝えると、皆、諸手で賛成、さもありなん。美人だからなあーー。あたかも枯れ木に咲いた一輪の花だ。彼女はシングルマザーで、一人であちこち旅しているらしい。仕事はファーマシー。薬剤師みたいな仕事という。娘が一人いて、娘の名は「サクラ」。フーテンの寅さんを思い出した。国籍はカナダで僕たちが寝泊まりしている町にも家があるという。偶然とは不思議なものだ。これには皆、驚いた。

更に驚いたことに、彼女はどうも自然崇拝者のようだ。自然を愛し、自然のままに生きる人。一頃はやった「ヒッピー」とは違う。要するにネイチャー。ナチュラルが人生の目的なのかも知れない。歌がとても好きと言うことで、僕たちの前で、臆面もなく披露してくれた。まるで、妖精が奏でるメロディーのようだった。

のび太君はすかさずカメラのシャッターを切った。こういう面はさすがに兵。抜け目がない。僕たちは彼女と共にベッドに、ちょこんと座り、それぞれのツーショット写真をカメラに収めた。良い記念になることだろう。ただし日本へ帰ってから誤解を招かないようにしなくちゃ。皆の同意が得られ彼女も安心した様子。「ちょっと、周囲を散歩しない?」と彼女に誘われた。皆、本心はそうしたかったに違いないが、なにせ、英語が分からない。結局、僕が代表して彼女と外へ出た。

外はすでに薄暗く、寒気が頰を伝う。僕たちは並んで歩き出した。もちろん、阿部元総理さんみたいに手はつながない。つなごうと思えば彼女はそれを許したかも知れない。考えすぎかあーーー?。「ここには寺院みたいな建物があるのよ」と言って、そこへ案内してくれた。確かにそれはあった。中を覗くと、数十人の人たちが、「ヨガ」みたいなことをやっていた。さすがにメディテーションの村だ。ただ、僕にはもう一つなじめなかった。彼女も恐らく、こんな瞑想を実践しているのかも知れない。「僕たちにもその瞑想を体験したら?」と誘いをかけたかったのだろうか?。真意は分からない。奇妙に体をくねらせ、何かにとりつかれたようにうごめく姿は異様に思えた。僕たちの坐禅はこういうものではないと、彼女に説明したかったが、僕のつたない英語力では、彼女に通じたかどうかは不明。

「山をもう少し下ると、小さな町があり、そこにダンスホールがあるので踊りにいかないか?」と誘われた。残念ながら僕は最近の若い男女が踊るようなダンスは知らない。照れながら断った。彼女もあきらめたのか、来た道を引き返し始めた。半ばまで来た頃、道の横にベンチがあり、ここでだけ、タバコが吸えるという。僕に「吸うか?」と聞くので、人からもらって吸うことはあると応えた。奇しくもポケットには、スネ夫君からもらっていたタバコを持っていた。タバコはあるが火がない。すると、彼女は誰かが捨てたらしい簡易マッチが転がっていたので、それで火をつけてくれた。

もうあたりはすっかり暗くなっている。こういう場合は、美しい星を眺めながら、愛の一言でもささやき、ぐっと抱き寄せ、キスでもするのがドラマのワンシーンの定番だが、僕にはその勇気がない。恐らく許してくれたと思うが、まだ、愛が芽生えている訳ではない。たわいもない話しをしながら、そのままコッテージまで送り届けた。今思うと、「もったいなかったなあーーーー」という気がするが後の祭りだ。又、これで良かったとも思う。僕への信頼感が倍増したに違いない。人間関係は信頼感が一番だぜ。

いよいよ、お休みタイムとなった。のび太君との魔のダブルベッドが待っている。さて、どうしたものか?。


2007年12月28日(金) 僕らの旅パート20。

僕はふるちんで、次の建屋まで歩いた。山の寒気がちくちくと肌を射す。建屋に入ると、部屋が二つあった。一つは蒸気の部屋。もう一つはサウナ室だった。最初どちらに入るか迷ったが、とりあえず蒸気の部屋を選んだ。中にはいると、白い煙で、廻りが見えない。目が慣れると数名の先客が、静かに座っていた。臆せず空いている席に腰掛けた。頭や腕や背中から、どくどくと汗が流れ出る。あたかも一年の毒気をはき出しているかのようだ。

10分くらい、いただろうか?。たまりかねて部屋を出た。ちょうどそこへ、ネズくんがいた。サウナ室から出てきたのだろうか?。僕を見るや、「この部屋いいよ」と言う。「ええつ、そう?」と、中に入ろうとすると、自らも又、中へ入っていく。蒸気がないので、部屋はよく見渡せた。砂時計があり、腰掛ける場所は三段式になっていた。なんと、その一番上の席に金髪の若い女性があぐらを組んで、右手仁ペットボトルをもち、「うんんーーーうんんーー」と、うなり声をあげながら坐っていた。まるで、阿弥陀如来様が座っているような呈。思わず合掌礼拝をしたくなるような・・・・。僕は笑いをこらえながら椅子に腰掛けた。ネズ君が「ここはいいよ」と言ったのはこのことだったか?。彼女は時折、ボトルの水を口に含ませていた。シェイプアップして、美を手に入れるのは、女性にとって大変なことなんだーーーと改めて思う。

しばらくして、ドライバーさんが入ってきた。「にこっつ」と挨拶を交わし、僕たちはしばらく無言のまま、音も立てずに落ちていく砂時計を見ていた。 ネズ君へ「スネ夫君はどうしたの?」と尋ねると、彼は、マッサージを受けているとのこと。「まさか、水中バレー?」と聞くと、そうではなく通常のマッサージらしい。僕もやりたかったが、どうも料金が高いみたいで、今回は見送りだ。

砂時計が底を打った。僕とネズ君は、阿弥陀如来様に未練を残しながら部屋を出た。出際、「ちらっ」と一瞥を投げると、なんと怖い形相で睨み返された。思わず我が息子に目をやると、いきり立つどころか、恐怖で縮みあがり丸くなっていた。色気もへったくれもないぜ。ドライバーさんはまだ頑張っている。

「さあーー次はどこだ」と僕とネズ君は石の階段を登った。と、そこには灼熱の地獄ならぬ熱湯の風呂が待っていた。美女二人が平然とつかっている。「にこっつ」と笑顔を交わし、僕たちは恐る恐る、片足から沈めていった。「こりゃあーーたまらんばい」と、僕たちは這々の体で熱湯室を後にした。手足が真っ赤っかだ。

更に階段を上ると、そこには冷水の洗礼が。片足をつけると身も凍るような冷たさ。真夏の美女幽霊なら抱かれても心地良いが、ここはごめんだぜと、早々に退散。

一通り混浴巡りは終了した。帰り際、温泉プールを覗いた。のび太君は既にそこにはいなかった。ようく考えてみると、ここはまさに野外に混浴場を設置したラブホテルだ。どおりでカップルが多い。となると、我々、とっちゃん坊や達は、ほも六人組ということになるか?。奇異な目で見られても仕方がない。


2007年12月23日(日) 僕らの旅パート19。

僕たちはこのこんもりと茂った山の中に何があるのか?興味津々だった。受付には数人のスタッフがいて、今日の宿泊の受付をしている。二人一組で三部屋をチャーターした。スネ夫君とネズ君の兄弟ペア。ドライバーの方とドラえもん君。のび太君とジャイアン(僕)がペアを組んだ。宿泊費を払い、それぞれにゴム紐付き鍵が渡された。料金は至って安かった。

「さーて。いくべー」と、スネ夫君の元気の良い言葉に促されて、僕たちは坂になっている山道をテクテク歩き始めた。まずは宿泊する建物を探すことに。
あちこちにコッテージが建っている。なるほど。あの中のどれかか?。残念ながらまだ裸族の姿は見えない。行き際、帰り客と見られる外人男女に会った。軽く会釈をして通り過ぎた。

僕たちは受付で示された地図と番号札を頼りに、部屋を探した。2〜3分歩くと、通路の右手に何棟も連なったコテージがあった。無事に発見だ。二組の部屋が隣接し、スネ夫君の部屋が横の棟だった。まずは荷物を入れ、このヌード村の温泉へ行くことに。温泉につかった後は、ここに設けられているレストランで夕食を採ることになった。のび太君と僕は部屋へ入った。こぎれいな部屋である。なんと、そこにはダブルベッドが一つ。真ん中にでデーンと据え付けてあり、壁際に長いソファーが置かれていた。洗面設備はここになく、どうやら共同のようだ。開口一番、のび太君が「えええつ、今日はジャイアンと二人で、このベッドに寝るの?」といかにも、嫌そうに言う。「そりゃああーーー僕だって嫌さ」と言いたかったが、ぐっと制した。

とりあえず温泉へ行くことに。僕たちは部屋を出て、再び山道を登った。しばらく行くと平地へ出て、そこに温泉らしき施設と、プールみたいな大小の浴槽が外に設置されていた。何人もの男女が、すっぽんぽんで歩いている。「うひゃあーーーつ、これかあー。ヌード村って?。混浴温泉の親分みたいなものだぜ」と少々、期待はずれの感があったが、とりもなおさずここは外国。

しばらく観察すべく、ベンチに腰掛けた。どうしたわけか?、のび太君は、つかつかと一人で何も言わずに山の方へ歩いていく。「僕は置いてきぼりか」と少々不満だったが、恐らくこの山の全貌をカメラに収めるべく、好位置をさがしに行ったのだろう。数分待ったころ、彼は山を下りてきた。どうも、好条件の場所はなかったみたいだ。まだ、遠くからではあったが、裸の男女のうごめく姿が垣間見られた。期待と不安が同時に押し寄せた。

僕たちは脱衣所らしき建物の扉を開けた。中では老若男女の外国人が、何の屈託もなく着替えをしていた。僕たちはあっけにとられながら、見よう見まねで、脱衣した。大小のバスタオルが一枚ずつあてがわれている。日本なら当然、バスタオルを腰に巻いて外へ出るところ、こちらでは、臆面もなく、すっぽんぽんで外へ出る。なるほど、これがヌードってやつだ?。目前で外国人
裸女の姿を観察するのは初めての経験。珍しくもあり、恥ずかしくもあり、怖くもあり、嬉しくもありだ。

「じいーーーっ」と、目を凝らして美女の裸体を見入る事も出来ず、ただ、何となく自然を装いで観察するのが精一杯。おっぱいは、お椀型から、どんぶり鉢型。中には焼いた餅を「だらり」と引き延ばした型まで、とりどりだ。卑猥な話しになるが、僕は昔から疑問に思っていたことが一つあった、それは何かと言えば、外国の女性は髪の毛が金髪なら、下も金髪かどうか?と言うことだ。それを確かめるべき最良の機会が、このヌード村でやってきた。

僕は何気なく美女の裸体を眺めた。頭の毛は金髪。しからば下はどうだ?。よく分からない。なにやら、わかめみたいな、もずくみたいな、得体の知れないものが、ぼんやりと網膜に写った。色までは識別できなかった。多分、金髪なんだろう?。となれば、白髪の人は白髪なんだろうか?。疑問は深まるばかりだ。

そこんなくだらないことに事に頭を巡らしているようでは、僕はあんぽんたんの際たる者だ。のび太君と僕は小温泉プールへ向かった。最初、バスタオルを腰に巻こうかと思ったが、のび太君が「そんな事をしたら、ここではかえっておかしい」と言う。彼は堂々と外を歩いていく。僕も遅ればせながら彼の後に続いた。バスタオルを肩にかけ、やや前屈みになり、両手を、おへその上あたりにかざした。やはり恥ずかしい。僕は純粋な日本人だぜ。

小温泉プールには階段がついていた。おそるおそる階段を下り、湯船に身を沈めた。プールの縁廻りにはずらりと老若男女の外人が陣取り、僕達を眺めた。きまりのの悪いことこの上なしだ。プールの湯は何度くらいあるのだろう?。
日本の温泉に比し、ややぬるめだった。深さは1.5メートル以上はありそうだ。僕たちは首までつかりながら、空いている縁を目指した。

やっと、自然体で周囲を見回せるようになった。な・なんと、ほとんどが男女のペアーだ。僕たちを含め男同士のペアーはほんの数組。いわゆる同性愛者の人たちだろう。あごひげを生やした年配の男性に若い男性が寄り添っている。男女のペアーは体を寄せあい、いちゃいちゃしている。僕たちもそういう目で見られているかも知れない。「こりゃああーーー場所を間違えたぜ」と思った。

プールの真ん中には広い空間があり、一組の男女が、水中バレーのような演技をしていた。何事かと思いよく観察するとバレーのようでバレーではない。男性が リード役で女性は、うっとりとした表情で瞑想に浸っているようである。女性は男性に身を任せ、ぽかぽか浮いたり、下半身を沈めたり。男性の片
手は、どうもマッサージをしているようだ。なるほど、瞑想マッサージとはこういうものか。後で聞いた話だが、この村は「瞑想の村」とも言うそうだ。お金を出して頼むと、この瞑想マッサージをしてくれるそうだ。僕は遠慮した。

「そろそろあがろうぜ」と僕はのび太君へ言った。どうも彼はまだこの場へいたいらしい。「じゃあーーお先に」と僕は一人で、次なるコースへと赴いた。やや、すっぽんぽんにも慣れてきた。ぼいんの女性ともすれ違ったが、意に介せず。時はわずかであれ、人を環境に慣らすものだ。恥ずかしかった気持ちがやや薄れた。












2007年12月22日(土) 僕らの旅パート18。

車は抜きつ抜かれつしながら高速をひたすら走った。車の波とその向こうに見える風景を眺めながら、皆、何かに思いを馳せていた。多分。まだ見ぬヌーディスト村への期待と、瞬く間に過ぎたこの旅へのほのかな郷愁が心をよぎっていたのだろう。そんな時、スネ夫君が「もう12時を回ったので、どこかで昼飯でも食おうや」と言う。皆、即賛成だ。

車は高速を出て、二車線の道へ入った。相変わらず、ブドウ畑は見え隠れしながら続いていた。しばらくして車は木立の中をぬって走った。静寂な森の中に、大きな古びたホテルが見えた。壁にはツタの葉っぱが縦横無尽に張り付いている。「いやあああーーーロマンチックなホテルだぜ。ラバーと来るには最高!!」と、スネ夫君が言う。ごもっともだ。僕たちは車を降りて、ホテルの玄関口まで歩いた。レストランがあった。料金表を眺めてびっくり。一人あたり云千円もする。「うんん、こりゃあーー高いわ」と、スネ夫君が言う。僕たちはあきらめた。のび太君と僕はホテルをバックに、あたかもここに泊まったかのごとく、メンバー一をカメラに収めた。

後ろ髪を引かれながら、僕たちは新たなレストランを探した。木立を抜けると小さな町に到着した。ナポレオンが流されたという島、セントヘレナみたいな名前の町だった。レストランが軒を並べていた。又、女性のためのエステチックサロンの看板がやたらと目立つ。スネ夫君が「ここは美しくなりたいという女性の願望を満たすべく設けられた避暑地みたいなところ」と言う。ドロ湯、がた湯などがあった。なるほど、ここも温泉地か?。「ところで、目的地は?」とドライバーさんに聞いたところ、ここから、ひと山、ふた山を超えたところにあるという。いやはや遠いところにあるものだ。だからこそ秘境なんだろう。

レストランに入った。都会のレストランと違い、まさに温泉町の食堂と言った感じだ。金髪の若いウエイトレスさんがメニューを持ちながら、「アー・ユー・チャイニーズ?」と聞いてきた。僕たちはよく、そう問われる。ネズ君が「ウィー・アー・ジャパニーズ」と、たどたどしい英語で応えると、ウエイトレスさんは、「にこっ」と笑って、メニューを置いて去った。この笑みは何だったのか?。想像するに、歓迎の笑みだったに違いない。そう解釈しておこう。ビールを注文し、めいめい好きな料理を頼んだ。ここでも、運ばれた料理を見てびっくり。山盛りだ。すべてがラージだ。肉料理を頼んだドラえもん君は、皆の視線が、ばかでかい肉に集中したので、一人で食べるのを悪いと思ったのか、皆に切り分けてくれた。優しいぜ。ドラちゃん。美味しかった。

ランチが終わった。いよいよ、車は山の方へ続いている道を駆け上っていく。もう、左右の風景は木立ばかりだ。舗装されたエスジーカーブに体を何度もぶつけあいながら、僕たちは子供のようにはしゃいだ。行けども、行けども目的地は見えない。一山を超えて下り坂になった。やがて、平地にたどり着くと、ちらほらと民家が見えた。「えええーーっ、この辺?」とあたりを見回せっど、裸族の姿が見えない。ドライバーさん曰く。「もう、一山こえなくちゃねーー」と。「落ち着いて、落ち着いて」と、スネ夫君が皆をなだめた。車はもう一山越えて、下りの中腹にさしかかった。そこから脇道へ入っていった。しばらく走ると道の横に関所みたいな建物が有り、そこから上には車が入れない。中の様子は全く分からない。傍らに駐車場があり、車が何台も停まっていた。のび太君が興奮したような口調で、「一杯客がいるぜ」と嬉しそうに言う。やっと到着したのだ。時は既に午後4時を回っていた。










2007年12月21日(金) 僕らの旅パート17。

僕たちは甘い妄想を抱きながらすやすやと寝に就いた。朝6時。外人さんは坐禅に来なかった。さもありなん。得体の知れないとっちゃん坊や達が行儀悪く寝ている。きっと、びっくりしたに違いない。洗面を済ませ、例によって、朝の清掃に赴いた。一夜にして庭の通路は落ち葉のジュータンだ。掃き寄せても無駄なように思えるが、禅とは「無駄なことを、せっせとすることだ」と方丈様が教えてくれた。要するに、「何にもならないことでも、一生懸命にやっているその姿に仏法が宿っている」ということなのだろう。

僕たちはただひたすら落ち葉を掃き寄せた。終わって、母屋の台所へ行くと、そこにはドラえもん君が朝食の準備に汗している姿が見えた。既に、味噌汁はだしが取ってあり、今まさに豆腐を、ばかでかい手のひらにのせ、碁盤状に刻もうとしていた。よく見ていると、なかなかうまい。僕には出来ない芸当だ。僕たちは配膳を手伝い、味噌汁の完成も間近。最後にお玉みたいなもので、味噌を溶き、ネギとわかめを入れて完成か?。

方丈様がにこにこ顔で登場。奥様はまだ、昨夜の疲れの為か、出てこられなかった。あるいは、もう既に出勤されていたのかも分からない。僕たちは六人で、ドラえもん製作の味噌汁に挑戦。汁をすすり、方丈様が言った。「うんん、おいしいよ」。僕たちも、遅ればせながら、「美味い、美味い」と言って、お代わりまで頂戴した。和やかな会話の中での朝食となった。

後片つけが終わり、部屋へ戻った。さあああーーー、いよいよ、秘境のヌード村へ出発だ。気がせいたが、その前にレンタカーをチャーターする必要がある。幸い、方丈様が英語が話せる日本人ドライバーを紹介してくれた。ありがたいことだ。彼はその秘境の村へ行ったことがあるという。とりあえず。レンタカーを借りに、ドライバーの方と、スネ夫君、ドラえもん君が行くことになり、ネズ君とのび太君とジャイアンは、ここで待っていることになった。

20分くらい経っただろうか?。ドライバーの方とドラえもん君が戻ってきた。「あれっつ、スネ夫君は」と聞くと、レンタカーを運転してこっちへ 向かっているという。スネ夫君は国際免許証を持参していたので、こちらでも乗れるわけだが、いっこうに戻ってこない。「ドラちゃん、どこで別れたの?」と聞くと、途中で追い越してきたという。「なんでスネ夫君の車に乗らなかったの?」と聞くと、「怖くて乗れないよ。だから断った」という。この件に関してはスネ夫君も怒っていたようだ。なかなかスネ夫君の状況が分からず、心配していたが、やっと携帯電話が通じ、道に迷いかなり遠くまで行ってしまったらしい。今、戻ってきているという。事故じゃなくてやれやれだ。一時間を経過した頃、スネ夫君が戻ってきた。「すんません。道に迷ったみたいで」と、にっこりしながら言う。安堵感に包まれた一瞬だ。さあーーー、車もチャーターできたし、いざ出陣。僕たちはレンタカーに乗り込み、ひたすら高速を走り続けた。


2007年12月20日(木) 僕らの旅16。

僕たちはジャズホールの中へ導かれた。350人以上はゆうに入るという大きなホールである。照明・設備も見事なものだった。ほぼ、中央の席があてがわれた。奥様の知人、友人、スタッフの家族、工事関係者の人達が招待されている模様。満席に近い。本番さながらに、ウエイトレスのコスチュームを着けた女性達が注文を聞きに来た。「何か気がついたことがあったら言って欲しい」と事前に言われていたが、とてもとてもそんな指摘が出来るほどの余裕はない。取りも直さず、採用が内定している、とりどりの女性達の姿がきれいだった。第一に笑顔である。サービス業とは笑顔の業である。笑顔にうっとりとしながら、僕たちは飲み物と、メニューを指さしながら適当な食べ物を一品ずつ注文した。前・前夜祭とは言え、僕たちにも多少の遠慮がある。今宵は飲んで馬鹿騒ぎするには場違いである。皆、しんみりと、紳士らしく振る舞っていたのがおかしい。

舞台ではまさにリハーサルが行われようとしていた。ドラムとピアノ、それにボーカルの女性が綿密な打ち合わせをやっていた。かくして曲目が決まると、リズミカルに女性が歌い出した。僕たちはドリンクを飲みながらそのメロディーに合わせ、貧乏揺すりならぬ足踏みを始めた。一曲が終わるたびに、割れんばかりの拍手だ。僕はフォークソングしか知らない男だが、ジャズも聴いていると胸に響くものがあり、いいものだと思った。

何曲うたったのか覚えていない。静かに目を閉じて歌に聞き入った。ほぼ、一時間が過ぎただろうか?。リハーサルが終わった。僕たちは感動の余韻を残したまま、ドリンクと残りの料理を片つけた。ちらほらと来賓達が帰って行く。奥様に「おめでとう」の言葉を残して。僕たちも長居は禁物かと思ったが、一応、方丈様が席をたたれるまでいることになった。来賓がほぼ引けた頃、僕たちも席を立った。まだまだ、準備が残っているにもかかわらず。方丈様と奥様が二台の車で僕たちを宿泊所まで送り届けてくれた。いたれりつくせりに、僕たちは大いに恐縮した。

帰り際、日本人街のスーパーに立ち寄った。翌朝の食材の買い出しである。このスーパーは既に承知済み。のび太君が食材のでかさに驚き、カメラに収めたスーパーである。豆腐、ネギ、納豆、牛乳等がカゴに収められた。翌朝の食事当番はドラえもん君に決定。いかなる味噌汁が出来る事やら楽しみとなった。

ねぐらへ到着。僕らの旅もいよいよクライマックスを迎えることになる。明日明後日は、方丈様、奥様ともども店舗の開店で大忙し。我々は邪魔になってはいけないので、一泊二日の小旅行が計画されていた。な・なんと、ヌーディスト・ヴィリッジ(ヌード村)へ赴き、温泉に入ろうという趣向だ。初めての経験だ。まさか?男も女も真っ裸かの混浴かあーー?。想像するだに、嬉しくもあり、怖くもある。皆の心は複雑さながらだ。

僕たちは、早朝、外人さんが坐禅にこないことを、かつ、明日以降の旅が記念すべき旅とならんことを任じつつ蒲団にすべりこんだ。


2007年12月19日(水) 僕らの旅パート14〜15。

僕らの旅パート14。

 母屋へ行くと、方丈様が我々のために朝食の準備をなされていた。「こりゃあーーまずい」と僕たちもお手伝いし、方丈様をまじえ、朝食をとりながらにこやかに会話が弾んだ。今日の日程に話しが及ぶと、方丈様より建築中の多目的ジャズホールの開店が明後日なので、今日は前、前夜祭に我々を招待するとのこと。願ってもない幸運に出くわした。午後の3時に日本人街で待ち合わせることになった。

「それじゃーー今日はみんなで日本人街へいくかあーーー」とスネ夫君が提案。皆大喜び。初めて五人そろっての町探索だ。僕たちは電車とバスに乗って日本人街らしき一角へ降り立った。日本人街はチャイナタウンに比べるとかなり小さく、ワンブロックの中に押し込められたようにたたずんでいた。日本語で書かれた看板が目立つ。確かに、日本にいる感じである。

中心の広場を挟んで食堂街と商店街が向かい合っていた。僕たちは、まずは腹ごしらえと、食堂街へと赴いた。「うどん」が食べたかったので、店を探すと、すぐ目の前にあった。「ここにすべー」と中にはいると、日本人らしきウエイトレスさんが注文を取りにやってきたが、日本人ではなかった。やはりここは外国なのだ。

メニューは日本語で書かれていたが、料金はドル表示。丸を二つ足すとほぼ日本円になる。かなり安い。僕たちはビールを頼み、あとはめいめい好きな麺類を注文した。僕は シンプルな「卵うどん」を注文。程なく運ばれてきたが、いやああーーーー量が多い。「すべてがラージだぜ」と皆、笑いあった。

小用を足すべくレスト・ルームの位置を尋ねると、なんと、帰ってきた言葉は、「となりの店へ行ってください」との事。隣の店へ行くと、既に使用許諾がなされているのか、快く使わせてくれた。もち、帰り際、「サンキュー」の一言をウエイトレスさんに述べた。この辺が大事なんだよなあーー。

ただ、ここでも感じたことだが、店内はこぎれいでも、レスト・ルームは片隅の一角へ追いやられ、中は狭く小汚なかった。日本とはまるで逆だ。何を大事にするかという価値観の相違なのかもしれない。

待ち合わせの時間にはまだ二時間ばかりあった。僕たちは町中を見学した。日本の食材が大量に置かれたスーパーがあった。いやあーーー、中に置かれている商品のでかいこと。のび太君はすかさず、そのでかい商品群をカメラに収めた。どこかの店のスパイだと疑われることもなかったので幸いだ。沖縄から出店している人や、日本の都会から来ていたおばさん達と出会った。「まあ、そうなの、おほほほ・・・・」と、よくしゃべる元気なおばさんだった。日本語が通じることに僕たちは一種の安堵感を覚えた。

約束の時間が迫ってきた。この町にあるお寺が待ち合わせの場所だった。「コンコン」と大きな扉をノックすると、頭を丸めた若い日本の僧侶が僕たちを出迎え、茶を出してくれた。こちちらへ来てまだ五年目だそうだ。いやああ立派な寺である。日本の仏教がこういうところでも、息づいていることを嬉しく思った。

しばらくして方丈様がやってきた。僕たちは二台の車に分乗し、開店2日前という多目的ジャズホールの現場へと向かった。


僕らの旅パート15。

 およそ、10分程度で車は現地へ到着。通りに面したビルに大きな看板が掲げられていた。奥様の名前からつけたと思われる屋号が
太陽光線を浴びてサンサンと輝いていた。

僕たちは方丈様に引率され、おそるおそる中へ入っていった。まさに工事の最終段階で、スタッフが慌ただしく動き回っている。寿司バー、ワインバー、和洋食のレストラン、その奧に350名以上は入るかと思われるジャズホールが設けられていた。僕たちは邪魔にならないように、柱のそばにたたずんだ。方丈様は奥様を捜しに店内をうろうろしていたが、なかなか見つけられじ。それほど、店内は広く、ごった返していたわけだ。のび太君はここでも、テーブルに広げられていた設計図を見て、写真をパチリ。「おいおい、そんなことして大丈夫か?」と聞くと、「ノーープログラム」と言ったので皆大笑い。「ノープロブレム」じゃああないの??と、ネズ君が訂正。のび太君は知らぬ存ぜずの顔。「こりゃあーー明後日の開店に間に合うのかしら?」と、皆、不安な様子。

なんでも、この建物と敷地は市当局が提供してくれたらしい。今、内装を必死で行っているわけだ。費用も億円をはるかに超えるとのこと。これには驚いた。方丈様と奥様は、この店を含め数店舗をきりもみしながら、借金を返していくという。こんな異国の地で日本人がアメリカン・ドリームに挑戦している姿に驚いた。また、こういう地だからこそ
、それが実現できるのだろう。いみじくも、方丈様が言った。「事業に失敗したらすべてを手放し、山奥の小さな寺で暮らすさ」と。
うんんんん人生とはまさに異なもの、奇なものである。

奥様が見つからないと言って、方丈様が戻ってきた。僕たちは邪魔にならないように、とりあえず外の喫茶店で、前・前夜祭の開幕まで待つことになった。ネズ君とドラえもん君とのび太君は店内でコーヒーを飲む。方丈様とスネ夫君とジャイアン(僕)の三人は、店の入り口横に置かれたベンチに腰掛けた。タバコを吸うためである。この地では店内はどこも喫煙は禁止。外で吸うのはかまわないが、ポイ捨ては厳禁。スネ夫君はいつも、愛用の吸い殻入れのケースを持っている。僕も、スネ夫君から一本タバコを恵んでもらい、方丈様共々、プカプカやりだした。くらくらっと、めまいが走る。煙が大気に溶けていく。生きていることを実感。道行く人たちが怪訝な目で我々を見る。

方丈様が言う。「こういう異境の地での、かしこい生き方は自分の主張を持つこと。人に追随ばかりではいけない。すぐ、だまされてしまう。いかに自己確立をはかって生きるかかが大事だ」と。なるほど、そうかもしれない。タバコを堂々と吸うのも自己主張の一つだ。要は、ポイ捨て等、法を犯すことなく、決まっている規則は規則として遵守すればいい。原を決めてかかることが大事なようだ。

前・前夜祭の準備が整った由。僕たちは再び会場へと赴いた。そこには既にオーナーたる奥様が待機していた。僕たちは丁寧に招待の感謝を述べた。階段の下に設けられた、小さな庭に、仏像様が安置され、船の形をした大きな生け花用器がが置かれている。そこの前で方丈様と奥様のツーショットをカメラに収めた。

さああ。いよいよ、準備が出来たジャズホールの中へ案内された。


2007年12月17日(月) 僕らの旅パート13。

うっすらと朝が明けかかった。時は午前5時半。入り口のドアが「ガラガラ」と開いて、誰かが入ってきた。「誰かなあ?」と思ったが、そのまま寝ていると、僕の寝ている横とその隣で、二人の外人の方が坐禅を始めた。丁度ドラえもん君と僕の間である。「こりゃ^^まずい」と、即、僕は蒲団をたたんだ。体操服姿で寝ていたので、着替えの必要はなかった。僕も見よう見まねで、足を組み坐禅を始めた。なんと、こういう事を察していたのか、ドラえもん君は既に坐禅を行っていた。いやああ、さすがはドラえもん君だ。予知能力を働かせたのだろう。

反対側の単(坐禅したり寝起きするところ)には、スネ夫君とネズ君、のび太君の三人が寝ている。状況を把握したのか?、のび太君も起き上がり、静かに坐禅を始めた。スネ夫君とネズ君はさすがに大物兄弟だ。時折、いびき音をたてながら爆睡を続けた。こういう状況では起こすことはしない。それぞれがそれぞれの持分で行動する。

いびき以外には物音がしない静寂の時間が流れていく。「いつまで続くのかなーー」と、僕はいたくなってきた足を交互に入れ替えながら思った。これも試練である。その試練が更に追い打ちをかけた。なんと、フランス帰りの方丈様が、おごそかに登場。僕の横の単で、坐禅を始めた。僕は外人さんと方丈様の間に挟まれ、身動きの出来ない状態に。まいったぜ。

「心頭滅却すれば火も又涼し」という。僕は姿勢を正し、微動だにせずに坐ることに勤めた。とは言うものの、雑念が頭を駆けめぐる。「日本で飲んだ小料理屋の焼酎は美味かったなあ−−−。のりちゃん先生はどうしているかなーー?。僕のキープはまだ残っているかなあーー?」。とめどもなく雑念が浮かぶ。

スネ夫君とネズ君の爆睡はまだ続いていた。時間がどのくらい経ったのだろう?。時計を見るわけも行かない。僕はあげている足を入れ替えた。丁度そのとき、僕の隣に坐っていた方丈様が立ち上がり、部屋の隅こつり下げてある鐘を一つ鳴らした。静寂の中で、「コーーーン」と。きれいなメロディーが聞こえた。方丈様はそのまま出て行った。二人の外人さんも出て行った。顔は全く分からない。一人は女性のようだった。終わったのだ。

僕たちは大きく息を吐いて、背伸びをした。まだスネ夫君とネズミ君の爆睡は続いている。のび太君が言う。「坐禅もなかなかいいよね」と。しかりだ。終わってみると、もっと坐っていたいなあーーーという衝動に駆られる。すっかり目も覚めた。朝の清掃をしようかと思ったとき、スネ夫君とネズ君が起きた。「何かあったの?」と、聞いてきた。かくかくしかじかと説明すると、「へーーーそうだったの」と、平然とした様子。やはり大物だ。

清掃を終え、僕たちは母屋の台所へ向かった。


2007年12月16日(日) 僕らの旅パート12。

僕たちは最後のワイン工場を求めて車を走らせた。三件目である。ほとんどの工場が通路から横道へ入る。門をくぐると駐車場があり、建物がおごそかに建っていた。僕たちは例によって、試飲を試みた。今までと違いやや口当たりがよかった。「これは相当にいいよ」とガイドの運転手さんが言うので、勧められるままに、ネズ君と僕は一万円相当の物を一本ずつ買ってしまった。後で、そっと、耳打ちされたが、ここの販売員さんは同性愛者であるとのこと。「ガイドさんは何でもよく知っているぜ」とあらためて感心した。ここで、方丈様(宿泊所の家主たる住職様)への土産が出来た。

既に午後を回っていた。僕たちは適当な場所で昼食をとり、帰路の途中でアウトレットの市場へ立ち寄ることになった。ブランド品や洋服や貴金属類の商品が山のようにあるという。どうも、のび太君やドラえもん君はここで、山の神や従業員達への土産を調達したいらしい。ブランド品と聞いても僕は全くの門外漢だ。

アウトレットの市場は中心が駐車場で、その廻りをドーナツ状に店舗が取り囲んでいた。僕たちは端のほうからぐるりと一巡した。とある店舗でドラえもん君と、のび太君が真剣に商品を見ていた。なんでも、「コーチ」というブランドのバッグを二人とも買ったようだ。「コーチねえーーー。土佐の高知じゃあるまいし、知らないなーーー」と、僕は全く触手が動かなかった。恐らく、彼らは、旅行へ行く代償として、山の神から所望されていたのだろう。「一体いくらだったの?」と聞いたが、二人とも値段は教えてくれなかった。山の神にばれるのを恐れたのかどうかは知らないが、まああいいか。後悔先に立たずだが、僕も買っておけば良かったと今、悔やんでいる。

車は一路、集合地点を目指して走った。日も暮れかからんとする頃、町中へ入った。ツアーの同乗者である家族ずれを最初にホテルで下ろした。別れを惜しみつつ、再会をの弁を述べた。車内は僕たち四名のみとなった。車はホテルではなく宿泊所のある駅まで送ってくれた。ありがたいことだった。僕たちはテクテクと歩き、宿泊所へ。

まだスネ夫君は帰ってきていない。僕たちは坐禅堂で荷物の整理をしたり、ゴロゴロしていた。やがて、スネ夫君が戻ってきた。開口一番、「今日の夕食は奥様の経営する寿司バーへ行くべー」と言う。「ええーつ、うそーー、本当ーーー」と、僕たちは思わずはしゃいだ。寿司バーは港の近くにあり、電車で行くことになった。20分程度電車に乗り、そこから歩いていく。既にスネ夫君は目標を地図で確認済みだ。例によって、下駄を「カランコロン、カランコロン」と」言わせながら僕たちを先導していく。10分ばかり歩いただろうか。
とある店舗の前で立ち止まった。そこには大きな看板が出ていた。「ここ、ここ」と、スネ夫君は言って、店の中へ入っていく。

店内はかなりの広さで、通路を挟んで長い弓なり状のカウンターと、かなりの数のテーブルが設置されていた。ほぼ、満杯状態である。奥様の計らいで、カウンターに僕たちの席が設けられていた。きれいどころのお姉様がメニューを聞きに来て、僕たちは各々、好きな物を注文した。飲み物はビールを注文。
頃も良く、奥様が登場。「味はどう?」とにっこりしながら聞いてきた。「そりゃーーもう、美味い決まっている。」皆、「日本の味だーーーっ」と、盛りだくさんの料理に舌鼓を打った。「もうしばらくするとジャズホールで次のステージが始まるから、食事の後はそっちへ行きましょう」という。なんと嬉しい計らいだろう。ジャズホールは、寿司バーに併設して建てられていた。

田舎者の僕たちは、本格的な生のジャズを聴きながらワインを傾けるなんて、日本ではほとんど経験がない。「こりゃああ最高の贅沢だぜ」と皆、大喜び。僕たちはワンステージを勤める女性シンガーの声に聞き惚れながら、夢うつつ状態。帰り際、僕はシンガーのCDを一枚購入した。どうやって宿泊所へ戻ったか定かには覚えていない。夢うつつだったに違いない。多分、電車に乗り、来た道を帰ったのだろう。

帰り着いた時、門の前に一台の車が停まっていた。なんと、中からここの 家主である方丈様が降りてこられた。一瞬緊張した。フランスから帰ってきて、弟子である僧侶野方が送ってきたらしい。偶然とは不思議なものだ。ネズ君と僕は、ぱっと機転を利かして、方丈様の荷物を持ち、母屋へ運んだ。

方丈様は旅の疲れも見せないで、母屋の台所で僕たちと対面した。既に60才を過ぎておられるだろうか?。温厚で優しい顔立ちをなさっており、、いかにも人生を達観しているような風格を覚えた。事業家である奥様との馴れ初めは、いかなる事だったのか分からないが、もちつもたれつ良い関係のように思えた。僕たちはそれぞれに挨拶と御礼を述べた。方丈様に気を使わせないように、僕たちは早めの寝を取った。


2007年12月14日(金) 僕らの旅パート10〜11。


僕らの旅パート10。

昼食を済ませ、僕たちはぶらぶらしながら、迎えのバスを待った。定刻に迎えが到着。これから、旅の定番とも言うべき、ブリッジの見学だ。さしてブリッジを見ることに興味はなかったが、コースとあらば仕方がない。

人は何故、新しい橋が出来ると見に行きたがるのだろうか?。思うにブリッジにまつわる言葉は多い。レインボー・ブリッジ。心の架け橋、世界の架け橋・・・・。要するに、人間の心の奥底には、結ぶ物、つなぐ物に対すに、郷愁、愛着、安堵感みたいなものが潜んでいるのだろう。

僕たちは橋の入り口にある広場へ着いた。さながら観光地だ。土産品店がちゃんとある。まあ、それはいいとして、のび太君は早速、三脚を立てカメラアングルを定めた。僕もデジカメに橋を収めた。この橋は歩いて渡ると、ゆうに30分以上はかかるそうだ。僕たちは渡ることはあきらめ、橋の上から水面を眺めた。空の青と相まってきれいな水面を呈していた。何を思ったか、僕はここで「ベイ・ブリッジ」と刻印を押した野球帽を買ってしまった。誰にやる予定もない。かぶって鏡を見たら、「とっちゃん坊や」丸出しの自分に嫌気がし、すぐバッグにしまい込んだ。

ブリッジを後にして、僕たちは大リーガーのフランチャイズがある野球場へと向かった。ホームランが出ると「海ぽちゃ」で有名な球場である。併設してサーカスの`テント小屋も建っていた。海を挟んだ対岸から球場を見ると、海面に半球形の洞穴がいくつも見えた。これはホームランのボールが海へ落ちたとき、それを拾いに行くために船が洞穴で待機しているのだそうだ。なるほど。こりゃ面白いと思った。

ここで、僕たちの今日の旅は終わりを迎えた。再び駅まで送ってもらい、電車で宿泊所まで帰ることになった。既に乗り慣れた電車。迷うこともなく無事に帰還した。一足早く、スネ夫君は帰着していた。町のあちこちを一人で散策してきたそうだ。なんと、足下を見ると、「下駄」を履いていた。中華街で購入したのだそうだ。

夕飯は彼の「カラン・コロン」という下駄の音を聞きながら、五人そろって、レストランを探した。道行く人たちが、不思議そうな顔をしていたのが面白い。昨夜は日本食レストランだったので、「今日は中華にしよう」とスネ夫君が言った。皆、賛成だ。徒歩で15分の所に店を発見。中に赴くと、丸テーブルがあり、僕たちは一番奥の席を確保。ここで、再び、酒と日本のビールを飲むことになる。それにしても、旅に出るとアルコールを皆、よく飲むことよ。日本ならば、とっくに「のんべー」のレッツテルを貼られてもおかしくない。

皆、心地よい疲れを伴っていた。明日は「ワイン」を求めての長旅が待っている。食後の後は大人しく寝に就くことになった。もういびきも気にならず爆睡だ。


僕らの旅パート11。

2日目の夜を迎えた。僕たちは毛布にくるまり、膝を抱えて寝に就いた。寒くはない。心地よい疲れが睡魔を呼び寄せた。目が覚めると朝六時。例によって庭の清掃を行い母屋へ行くと、既に、昨日会った外人の修行僧が朝食の準備をしていた。恐縮至極である。

メニューはパンにハムエッグ。バター、ジャム。各種漬け物類。コーヒーとくれば定番の朝食。心がこもったものならば、何を食べても美味しい。僕たちは感謝の念を述べつつ、食らいついた。

さあ、いよいよ今日はワインの生産地巡りだ。ワインのなんたるかも知らない僕たちは、興味津々だった。ここで、再びスネ夫君は別行動を。今日も自分の行きたいところへ、自由に行くとのこと。道先案内人がいないのは寂しくもあるが、仕方がない。

僕たち四人は、足取りも軽く、昨日の待合い場所、ホテルまで出かけた。1時間近く、早くに着いたので、近くの喫茶店でコーヒ−を飲むことになった。慣れない英語で注文すると、これまたでかいカップに、なみなみとコ−ヒーが注がれていた。ネズ夫君が「こんなに飲めないぜ」と言う。しかりだ。「すべてにスケールがでかいのがこの国の特徴」と思うのは日本人。こちらではそれが普通なのだ。

僕たちはお腹をだぶだぶ言わせながら、待合い場所へと向かった。既にバスは着いていた。先客有り。日本人の家族連れが乗り込んでいた。ワインをお茶代わりに飲んでいるという兵。うらやましくもあり、うらやましくもなし。

バスの運転手さんは今度は日本人の男性だった。バスは市内を抜けて、遠くへ遠くへ走っていく。方角は分からない。高速料金は当地では無料。かなりのスピードだ。社内では専らワインの話で盛り上がっている。運転手さんがワインのあれこれを説明する。良いワインが出来るには、ブドウの完熟度が大事らしい。、完熟となれば。当然、畑の立地条件と天候が関係する。この地はまさに世界有数の良種ワインの生産地とのこと。「へーーーーそうだったの」と我々は無知ぶりをあまねく露呈。

どのくらい車は走ったのだろう?。やがて車窓からの眺めが一変した。1.4〜1.5メートル位の背丈のブドウの木が道路を挟んで延々と植えられている。見事だ。僕たちは車窓からカメラを向けた。どこまでが誰の持ち主なのか全くわからない。

車はひたすら走りながら、とあるところで、横道へ入った。門が開いており、車はその中へ吸い込まれていった。ワインの生産工場らしき建物が厳かに建っていた。中にはいると、そこでワインのテースイング(試飲)が出来る。僕たちは料金を払い、小さなグラスにそそいでくれたワインを持ち回ししながら口に注いだ。何種類も飲んだが、味はさっぱりわからじ。顔がほてってくるのを感じるばかり。

頑丈に仕切られた扉の向こう側では、特別テースイングができるとのこと。我々の代表で、ドラえもん君が中へ入っていった。同乗者だった家族ずれも一緒だ。僕たちは、彼がどんな顔をして帰ってくるのか待っていた。

やがて扉が開き、皆戻ってきた。開口一番、「この人ったらテースティングのワイングラスを一人で飲みあげたのよ」と、さもびっくりしたらしく、家族連れの日本人妻が笑いながら言った。ドラえもん君は平然とした様子。こりゃああーー大物だぜ。まさにそんな印象を家族ずれに与えたらしい。

僕たちはドラえもん君に聞いた。「ところで、味はどうだったの?」と。彼曰く。「うんん・・・わからない」。それもそうだ。日頃飲み慣れていないワインを急に飲んで、味が分かるはずもない。僕たちは大笑いだ。まあーーーこういう事もあって、その家族連れとも名刺を交わすほどに親しくなった。

その家族連れの父親は日本の大都会の中でガラスの工事業を営んでいるとのこと。娘二人と妻の四人連れだった。僕たちは蔭で、「妹の方がかわいいな?いや「姉がかわいいぜ」とか何とか、ささやきあった。いつもの悪い癖である。

僕は図らずも、そこで一万円相当のワインを一本購入。僕にとって、一番口当たりが良かったからだ。今宵の晩餐会で飲もうかとも思ったが、生来貧乏性の僕のこと。その思いをばっさり、たち消した。

複雑な味覚を残し、又、顔を紅色に染め、次なるワイン工場へと車は走った。先ほどと同じくここでもテースティングに及ぶ。この際と、手当たり次第に挑戦したが、今ひとつ、僕の嗜好にあわない。ぱっと、正面を見ると、頭に看護婦さんのかぶるみたいな、ホワイトのずきんをかぶった、牧歌的な美しい娘さんがいた。「メイ・アイ・カメラ・オッケー?」と聞くと、にっこりわらってオッケーの返事が。僕はすかさず真正面からシャッターを切った。残念ながらここでは買わずじまいだ。牧歌的娘さんの美しい姿が記念に残った。

さらなる良質ワインを求めて、もう一件、訪れることになる。紙面が長くなった。次回に回そう。この文を書きながら僕も少し酔ってきたみたいだ。















2007年12月13日(木) 僕らの旅パート8〜9。

僕らの旅パート8。

 まどろみの中で朝を迎えた。僕たちはめいめいに起床し、寝具を片つけ、堂の外へ出た。冷気がほほを打つ。気持ちがよい。雲一つ無く、快晴模様。礼儀として、朝の清掃に及んだ。ここは修行の場。清掃も修行の一つだ。僕たちはほうきを持ち、縦横無尽に散らばった葉っぱを一つ所へ掃き寄せた。五人で清掃すると、瞬く間に、敷地内の通路がきれいになった。

終わると、坐禅道の横に併置して立っている母屋へと赴いた。そこの台所で、坊主頭の外人男性が我々のために朝食をこしらえていた。感謝の念を述べ、テーブルに腰掛けると、ビッグなホットケーキと粥らしきスープが運ばれた。僕たちも手伝い、「いただきます」と言って、口にほおばる。うまい。

朝食後、僕たちは今日のスケジュールを消化すべく、電車に乗って、町の中心地まで出かけた。相変わらず人が多い。もう、奇妙な目で人から見られることもなかった。「早、この町に同化したのかなあーー」と思った。と言うより、多民族国家だから、我々が歩いていてもそう違和感がないのだろう。

僕たちはホテルまで直行した。本日のツアー集合場所である。ここで、スネ夫君は単独行動を取ることになった。「僕は一人であちこち探索するよ」と言う。もともと、彼は自分の行きたいところへ、自由に行くのが好きな男である。旅の分かった人は皆、そうなのかもしれない。旅慣れしていない四人が残された。

約束の時間にマイクロバスが着いた。僕の頼りない英語だけが頼りか?と思ったら、迎えに来たのは若い日本人女性。にっこり笑顔で迎えてくれた。バスに乗ると既に先客が。違うホテルから乗ってきたのだろう。6〜7名の日本人らしき客が。僕たちは挨拶を交わし後部座席へ乗り込んだ。

流暢な日本語(当たり前か)で、ガイドさんが本日の日程等を説明した。まずは市内のあちこちを巡って、ちょっと郊外まで赴くとのこと。僕たちは盛りだくさんのコースを選択していた。一日かけて町の全貌をつかもうというわけだ。市の庁舎、協会、公園、野球場、アウトレットの市場、海浜市場、ブリッジ、市内のディスカウントスーパー他、後どこを見たのだろう?。もう、記憶の彼方だ。そうそう、幾重にも段のある急角度の坂道も見たっけ。

傑作な話がある。とある町の区画に入った頃、ガイドさんが説明した。「ここほ同性愛者の人たちがたくさん住んでいるところです。同性愛者であるか否かを見分けるには、ズボンの後ろポケットをみるといいですよ。白いタオルやハンカチみたいな物が、ポケットからたれています。そいう人を見たら同性愛者と思ってください。くれぐれもご注意ください」とのこと。僕たちは複雑な気持ちで笑った。同性愛者の人たちは、この地では市民権を得ているのだろう。そう思った。人が誰を愛しようと自由だ。要は、人それぞれが心平和に生きて行ければよい。

どうも、その話を聞いてからか?、のび太君の様子がおかしくなった。僕と並列して歩くことを避けるようになった。いつも先を歩くのだ。同性愛者と間違えられるのを嫌ったためだろう。「了見の狭いやつだ」と思ったが、まあいいか。ジャイアンと、のび太君では不似合いだ。僕だって、しすかちゃんが良いに決まっている。その不似合いがカップルになっているケースを時々見かけるから、世の中はまさに不可思議だ。

もう一つ、日本ではあり得ない事があった。あるスーパーマーケットで、小用を足すべく、販売員さんに「ウエア・ザ・レストルーム?」と聞いたところ、孫の手みたいな棒に鍵がぶら下がっている物を手渡して、レストルームの方向を指さしてくれた。僕は「意味が通じたのかなあーー?」といぶかしく思いながら、その方向へ行くと、なんとトイレはあった。ただ鍵がかかっている。「えええつ、この鍵で開けて入るの?」と、びっくりしながら、鍵を回すと、そこは雪国ならぬ、白い陶器の部屋だった。何故こういうう場所に鍵をかけるのか理解できなかった。思い当たる節があるとすれば、恐らく犯罪の温床になりがちな場所なので、鍵をかけているのだろう。

一つ気になったことがある。この地みたいな文明国はハンカチのいらないところと聞いていた。要するに用を足して手を洗い、日本なら口にくわえたハンカチで手を拭くわけだが、ここではほとんどの場所でペーパータオルが置いてある。ハンカチがいらないわけだ。そこまでは良い。後がいけない。置かれているボックスから、使い捨てのペーパーがあふれ、あちこちに散乱している。いつ掃除をやっているんだろう?と、やや気分を害した。日本の方がよほどきれいだと思った。

孫の手を返しながら、五ドルのチップを差し出した。販売員さんは表情一つ変えずに受け取り立ち去った。そのとき思った。「五ドルはやり過ぎだったか?」と。まあいいか。人の親切には倍にしてかえしてあげなくちゃーーー。

かくして今日の旅はまだまだ続く。

僕らの旅パート9。

町の中をツアーバスはすいすいと走る。又、とある区画へ入った。同じ色をした家屋が並んでいる。ガイドさんが「家の色が同じなのは広く見せるためにそうしている」と言った。なるほど、これも知恵だ。庭は家の奧にあるそうだ。どおりで、外から植樹が見えない。又、商店のガラス窓には、ほとんど格子戸がはめられていた。これは盗難防止のためにしているそうだ。

どんな世界にも富と貧困はある。富が均等に配分されたら、恐らく人間は怠け者になってしまうだろう。自由主義経済の社会は、努力して富を稼いでいくところに魅力があるのかもしれない。競争により経済も発展するわけだ。要はやむにやまれぬ事情により、富の配分から洩れる人たちも出てくる。行政はそん人たちを援助する役割も担わねばならない。
それでも、貧困はなくならない。この地でも、カンカンを路上において、坐っている人たちを見かけた。何とも言えない複雑な気持ちになった。まさに町の中はいろんな様相を呈していた。

僕たちはガイドさんの色んな説明に「ほほう、ふーーん、なるほど」と相づちを送りながら、やがてバスは山道を登っていった。小高い丘の頂上では、この市の全貌が見渡せるという。さすがに観光地だ。頂上にはちゃんと遠めがねが用意してあった。

僕たちはそれを覗くこともなく、崖下に広がる風景を眺めた。それはそれは美しい眺めだった。真っ青な空が広がり、山と海の間に大小のビルとマッチ箱みたいな家屋がたたずんでいた。ガイドさんが、「ここで記念写真をどうですか」と言う。もち、僕たちは賛成。仲良くチーズをしてパチリだ。

山を下り海辺のレストランで昼食をとった。小型の観光船が行き来していた。僕たちは窓辺に近い一角に腰を下ろし、ウエイトレスさんに注文の合図を送ると、きつい目でにらまれた。「「まちなさい」と言うことだろう。「客あたりが悪いぜ」と思ったが、この混雑ぶりでは仕方がない。やっと、我々の所に、さきほどのウエイトレスさんがやってきた。よく分からないメニューを指さししながら、あれこれと頼んだ。メニューにはラージからスモールまで段階があるようだ。僕たちはこの際と、ラージを注文したところ、山盛りの料理が運ばれてきた。ビールも女性のブーツみたいな入れ物に、なみなみと注がれている。「うひゃーーーばかでかいぜ」とびっくり。さっそく出された料理をのび太君がカメラに収めた。

ドラえもん君は、肉料理を注文。肉があまりにでかかったので、一人で食べることを躊躇したのだろう。僕たちに切り分けてくれた。結構美味しかった。会計は一人あたり20ドル程度。そう高くもない。帰り際、僕たちをにらんだウエイトレスさんと別れの抱擁をした。お乳廻りが大きく背中まで手が届かなかったが、感触は抜群だ。

バスが迎えにくるまで、時間があったので、港町の商店街を散策した。置かれている商品がすべてチョコレートばかりの店へ入った。見たたこともないチョコレートが山ほど積んであった。荷物になると思ったが、手頃なやつをいくつか購入。

午後からは観光の目玉とも言うべき、ブリッジ(橋)を見学することになる。







2007年12月12日(水) 僕らの旅パート8。

まどろみの中で朝を迎えた。僕たちはめいめいに起床し、寝具を片つけ、堂の外へ出た。冷気がほほを打つ。気持ちがよい。雲一つ無く、快晴模様。礼儀として、朝の清掃に及んだ。ここは修行の場。清掃も修行の一つだ。僕たちはほうきを持ち、縦横無尽に散らばった葉っぱを一つ所へ掃き寄せた。五人で清掃すると、瞬く間に、敷地内の通路がきれいになった。

終わると、坐禅道の横に併置して立っている母屋へと赴いた。そこの台所で、坊主頭の外人男性が我々のために朝食をこしらえていた。感謝の念を述べ、テーブルに腰掛けると、ビッグなホットケーキと粥らしきスープが運ばれた。僕たちも手伝い、「いただきます」と言って、口にほおばる。うまい。

朝食後、僕たちは今日のスケジュールを消化すべく、電車に乗って、町の中心地まで出かけた。相変わらず人が多い。もう、奇妙な目で人から見られることもなかった。「早、この町に同化したのかなあーー」と思った。と言うより、多民族国家だから、我々が歩いていてもそう違和感がないのだろう。

僕たちはホテルまで直行した。本日のツアー集合場所である。ここで、スネ夫君は単独行動を取ることになった。「僕は一人であちこち探索するよ」と言う。もともと、彼は自分の行きたいところへ、自由に行くのが好きな男である。旅の分かった人は皆、そうなのかもしれない。旅慣れしていない四人が残された。

約束の時間にマイクロバスが着いた。僕の頼りない英語だけが頼りか?と思ったら、迎えに来たのは若い日本人女性。にっこり笑顔で迎えてくれた。バスに乗ると既に先客が。違うホテルから乗ってきたのだろう。6〜7名の日本人らしき客が。僕たちは挨拶を交わし後部座席へ乗り込んだ。

流暢な日本語(当たり前か)で、ガイドさんが本日の日程等を説明した。まずは市内のあちこちを巡って、ちょっと郊外まで赴くとのこと。僕たちは盛りだくさんのコースを選択していた。一日かけて町の全貌をつかもうというわけだ。市の庁舎、協会、公園、野球場、アウトレットの市場、海浜市場、ブリッジ、市内のディスカウントスーパー他、後どこを見たのだろう?。もう、記憶の彼方だ。そうそう、幾重にも段のある急角度の坂道も見たっけ。

傑作な話がある。とある町の区画に入った頃、ガイドさんが説明した。「ここほ同性愛者の人たちがたくさん住んでいるところです。同性愛者であるか否かを見分けるには、ズボンの後ろポケットをみるといいですよ。白いタオルやハンカチみたいな物が、ポケットからたれています。そいう人を見たら同性愛者と思ってください。くれぐれもご注意ください」とのこと。僕たちは複雑な気持ちで笑った。同性愛者の人たちは、この地では市民権を得ているのだろう。そう思った。人が誰を愛しようと自由だ。要は、人それぞれが心平和に生きて行ければよい。

どうも、その話を聞いてからか?、のび太君の様子がおかしくなった。僕と並列して歩くことを避けるようになった。いつも先を歩くのだ。同性愛者と間違えられるのを嫌ったためだろう。「了見の狭いやつだ」と思ったが、まあいいか。ジャイアンと、のび太君では不似合いだ。僕だって、しすかちゃんが良いに決まっている。その不似合いがカップルになっているケースを時々見かけるから、世の中はまさに不可思議だ。

もう一つ、日本ではあり得ない事があった。あるスーパーマーケットで、小用を足すべく、販売員さんに「ウエア・ザ・レストルーム?」と聞いたところ、孫の手みたいな棒に鍵がぶら下がっている物を手渡して、レストルームの方向を指さしてくれた。僕は「意味が通じたのかなあーー?」といぶかしく思いながら、その方向へ行くと、なんとトイレはあった。ただ鍵がかかっている。「えええつ、この鍵で開けて入るの?」と、びっくりしながら、鍵を回すと、そこは雪国ならぬ、白い陶器の部屋だった。何故こういうう場所に鍵をかけるのか理解できなかった。思い当たる節があるとすれば、恐らく犯罪の温床になりがちな場所なので、鍵をかけているのだろう。

一つ気になったことがある。この地みたいな文明国はハンカチのいらないところと聞いていた。要するに用を足して手を洗い、日本なら口にくわえたハンカチで手を拭くわけだが、ここではほとんどの場所でペーパータオルが置いてある。ハンカチがいらないわけだ。そこまでは良い。後がいけない。置かれているボックスから、使い捨てのペーパーがあふれ、あちこちに散乱している。いつ掃除をやっているんだろう?と、やや気分を害した。日本の方がよほどきれいだと思った。

孫の手を返しながら、五ドルのチップを差し出した。販売員さんは表情一つ変えずに受け取り立ち去った。そのとき思った。「五ドルはやり過ぎだったか?」と。まあいいか。人の親切には倍にしてかえしてあげなくちゃーーー。

かくして今日の旅はまだまだ続く。








2007年12月09日(日) 僕らの旅パート7。

僕たちはめいめいの出で立ちで、食事どころを探した。「確か、日本食レストランの看板があったぜ」と、ドラえもん君が言った。そう言えば交差点の一角の店舗に「すし」と、ひらがなで書いてある。そく、そこに決定した。店内にはいると、ほぼ中央に回転寿司の機械がぐるぐる回っている。見慣れた光景だ。店長や従業員は日本人かと思ったが、そうではなく、大半が韓国人だった。内一人は留学生らしい女性。かわいい女性だ。のび太君はすかさず、「ここで記念写真を撮ろうや」と言って、例のカメラを向けた。僕たちは女性を中心に、にんまりと笑いカメラに収まった。僕も遅れをとるまいと、デジカメでぱちり。

まずは、アルコールだ。スネ夫君(本旅の主催者でネズ君の兄)とドラえもん君(皆の共通の友人)二人は「ジャパニーズ酒」。ジャイアン(僕)とネズ君(スネ夫君の兄)、のび太君(僕の仕事仲間で弟みたいな人物)の三人はビールを注文。つまみは定番の「枝豆」に、回転寿司から適当なものを選択。後は、なにやら分からない皿物を注文した。僕たちは乾杯で気勢をあげた。

料理の味は可もなく不可もなし。料金もまあーまあーだ。お腹も満杯になり、めいめいが慣れないドル紙幣を出しあった。スネ夫君が「今日はこれくらいにして寝るべー」と言う。皆、同感だ。今日は旅の初日。やや疲れ気味。
僕たちはテクテクと、来た道を引き返した。明日からが本番である。

到着すると、犬の出迎えを受け、僕たちはねぐらである坐禅堂へと消えた。坐禅堂は部屋の中央に文殊菩薩様が安置してあり、部屋の周囲に「単」と呼ばれる修行僧の修行の場がある。一人、畳一枚分の広さの中で、寝起きし食事をし、坐禅に明け暮れる。ここの坐禅堂は10人以上が修行できる立派な建物だった。恐れ多くも、僕たちはその貴重な場をねぐらとして借りたわけである。

僕たちは極力、離れた位置に場を取った。そうなることは当然と言えば当然だ。いかに他人の「いびき」から遠ざかるかが、安眠の第一条件である。第二条件は人より早く睡魔と仲良くなることだ。そうとは分かっていても、枕が変わるとなかなか寝付かれないもの。いろんな事が頭を駆けめぐる。

日本の事を思った。家族の事を思った。そして父、母のことを。今、僕がここ、異境の地にいることが、まだ信じられなかった。ほんの一日しか時間が経っていないからだろう。数日もすれば、その思いもかき消えるかもしれない。
夜な夜な、一度、洗面に起きた。皆、上品に寝ているのか?、いびきはさほど耳につかない。僕は、その後、うつらうつらとしながら、朝を迎えることになる。






2007年12月08日(土) 僕らの旅パート6。

僕たちは再び電車に揺られて目的地へ向かった。電車はもうスピードで走り抜けていく。おんぼろながらすごい馬力だ。新幹線並と言って良い。30〜40年年前に開通したコンプーター制御の無人電車らしい。さすがは文明大国だ。
僕は心なしか恐怖を覚えた。脱線でもしたらまず、命の保証はないだろう。

皆、黙りこくり、感慨にふけっている様子。僕もふと、故郷を思った。「故郷は遠きにありて思うもの。そして悲しくうたうもの」。啄木の詩を思い出した。やはり、遠くへ行かないと故郷の味はわからないものだ。元気なのは僕の弟(仕事仲間の友人)ばかりだ。例によって、いかにも高級そうな一眼レフのカメラで、電車の壁に掲げてあるマップをカメラに収めていた。実際、このマップが、後々、役に立つとは、そのときは夢にも思わじである。

風景をぼんやりと眺めながら40分ばかり経った。スネ夫君が「おおっつ、ここだここだ」といきなり席を立つ。僕たちも置いてきぼりを食わないように、慌てて荷物を持ち、電車を降りた。スネ夫君はあたかも、我が町1へ来たかのごとく、すいすいと僕たちを先導していく。さすがは計画の緻密さには定評のあるスネ夫君だ。紅葉したカエデの街路樹がきれいだった。これでもかと言わんばかりに大きな葉っぱが、歩道を埋め尽くしていた。「こりゃあ掃除が大変ばい」と、久々にドラえもん君が口を開いた。「ドラちゃんなら、お腹から魔法の吸塵機械でも出したらどう?」と、言おうかと思ったが、今はそう言う状況でもない。皆、少々、くたばりかけていた。

15分ばかり歩いただろうか?。ある一角から塀が木造に変わった。塀の中には大小の木立が生い茂り、枯れ葉のジュータンが敷かれていた。その奧に木造の建物がたたずんでいる。スネ夫君が「着いたばい」と笑顔で言った。我々は「ここかあーーー」と、静寂そのものの家屋に目を馳せた。でっかい二匹のセントバーナード犬の出迎えを受けた。人慣れしているようで、しっぽをふりふり、僕たちを歓迎してくれた。時は既に夕方を回っていた。日没も間近だ。

奥方が僕たちを待っていた。スネ夫君の先輩にあたる家主はフランスへ飛んでいて、あいにく留守とのこと。奥方へ挨拶を済ませると、坐禅堂へ案内してくれた。そこには既に夜具の支度がしてあった。「「寒いけど大丈夫かしら?」と奥方が言う。すかさず、ドラえもん君が「大丈夫です。皆、田舎もんですから」という。僕たちも併せて、「はい。はい」と応えた。「よーーく考えてみると、田舎もんて寒さに強いのかなあ・・・・」と思ったが、まあいいか。

ここで、奥方の紹介をしておこう。どこで、ここの方丈(住職さんの事をそう言う。家主さんのこと)さんと知り合ったのか不明だが、小柄で上品な顔立ちの女性である。昔、ダンサーをしていた(今もそうかもしれない)とのことで、めっぽうジャズ好き。当地に数店舗の多目的ジャズホールを経営している。当地のみならず、全米に名の通った店らしい。はからずも、僕たちが着いた日は、新たな店舗の開店の数日前。ラッキーだった。忙しい中、僕たちのために、色んな準備をしてくれていた。後で書くことになるが、開店の前夜祭に招待され、ワインを片手に、本場のジャズを堪能することになる。

それぞれに、ねぐらを定め、「さあーーー夕食でもくいに、近くまで繰り出すか」と言うことになった。ねぐらも決まり、明日からの当地探索に、我々の心は躍った。


2007年12月07日(金) 僕らの旅パート5。

到着ロビーでスネ夫君(本旅の主催者でネズ君の弟)が待っていた。彼は1時間早い到着便で、当地へ降り立った。開口一番、「待ちくたびれたぜ」である。ごもっともだ。僕たちは、この旅への参加を快く引き受けたくれたスネ夫君へ慰労と感謝の言葉を述べた。硬く手を握り合って、いざ出陣だ。

のび太君は、早速、円をドルに換金した。僕たちはすでに日本で換金済みだったのでその必要は無い。結構高い手数料を取られたよし。こういった面は意外と、のび太君は大様である。まずはスネ夫君の案内で宿泊所まで赴き、荷物を置いて、その後の行動を決めることになった。

まずは電車に乗るらしい。発着所まで歩いて行く。道すがら空を眺めた。透き通った水色の空が、どこまでもどこまでも続いていた。空気が美味しい。もう、ここは違う大陸なのだ。「この空は日本までつながっているんだよなーーー」と、変な感動を覚えながら僕たちは歩いた。道すがら、現地の人たちがもの珍しそうに我々を眺めていた。さもありなん。小太り、大太りあり、スレンダーあり、中肉中背ありで、奇妙な集団とみられても仕方がない。おまけに、のび太君は何を血迷ったか、首からは定番の一眼レフカメラをぶら下げている。とっちゃん坊や達の旅行とすぐ分かってしまう。

言うことを聞かないのが、のび太君の特徴。こうと決めたからには我が道を行くである。さっそく、パチパチと目につく風景を撮りだした。やれやれだ。
僕たちは、20ドルばかりで電車の周遊券を購入。これで数回は乗れる。スネ夫君の後ろについて、電車に乗り込んだ。空席有り。各々、席を陣取る。方角はさっぱり分からない。頭に詰め込んだスネ夫君の知識だけが頼りである。

30分ほど走っただろうか?。大きな駅で一旦下車した。明日行くことになっている市内観光ツアーの集合場所を確認する為である。地下から路上へ出た。目の前には、見たこともない変わった形状のビルがそびえたっていた。また、多種多様な人種の人たちが往来し、ごった返していた。「これが発展を遂げた文明国の姿なのか?」と改めて驚いた。すべてにスケールがでかい。

集合場所は日本でも名の通った、とあるホテル。地図を頼りに探し当てた。ホテルで小用を足すべく、ボーイさんに、「ウエア・ザ・ヲータークローゼット?」と尋ねると、怪訝そうな顔をされたが「オー・ラバトリーね」と言われて、その方角を指さしてくれた。僕たちには、ちょっと背丈の高い小用陶器にむかって、記念すべき放尿を行った。ネズ君が「僕たちにはお子様用陶器で丁度いいや」とか言ったので、皆大笑いだ。

ホテルを出て、僕たちは宿泊所のある目的地へ向かって再び電車に乗った。





2007年12月06日(木) 僕らの旅パート4。

長い仮眠状態から目が覚めた。時計を見やると、到着2時間前を表示していた。「いよいよか」。僕の心ははやった。弟は幾分か緊張しているように見えた。しばらくすると、「しとぴっちゃん、しとぴっちゃん」という歌を思い出さるように、荷車をカタコトカタコトと言わせながら、例のおばさまが、朝食なのか?昼食なのか分からないまま、食事を運んできた。あまり腹は空いていなかったが、とりあえず残さず全部食べた。ドリンクは、まあまあ飲めなくもないジャパニーズ・ティーを選択し、心を落ち着けた。程なく機内アナウンスが着陸の準備を告げた。

いよいよ着陸態勢に入り、ほとんど衝撃を感じさせないまま、機は滑走路を滑った。無事に到着だ。ジャイアン(僕)と、のび太君(弟)は、再び意味の分からない笑みを浮かべた。無事なる到着への安堵の笑みだったのか?。

手荷物を携え、長い通路を歩いた。後の二人、ドラえもん君とネズ君は先に降りたようだ。足は短いが歩くのは結構早い。僕たちが手間どったのだ。入国を目指して僕たちは人の後ろを追っかけながら、テクテク歩いた。川端康成さんの「雪国」という小説の有名なくだりを思い出した。「トンネルをくぐると、そこは雪国だった」。僕たちの場合は、長い通路をくぐるとそこは怖い怖い入国審査だったということになるか。各コーナーには長い行列が出来ていた。白線が引かれてあり、そこを先頭に、僕たちは今や遅しと順番を待った。恐怖が現実のものとなった。審査官は黒人の女性。怖い大きな声で、「ネクスト」と呼ばれる。弟が僕に「先に行って」というので、「ネクスト」の声におびえながら、僕はおそるおそると進んだ。

僕のばかでかく写ったパスポートの写真を見ながら、審査官が英語で聞いてきた。「旅行の目的は何か?」という。僕は慌てて、シーサイティング」と応えると、審査官が「サイトシーング」と、僕をにらみながら訂正した。僕は「イエス・イエス」と、苦笑い。次に「どこへ泊まるのか?」と質問された。宿泊先はホテルではなく、スネ夫君の先輩が建立した坐禅堂である。二世、三世の人や外人の人たちが、坐りに来たり、寝泊まりする。そこを借りているとの事。住所を控えていなかったので、そく弟を手招きで呼び、事なきを得た。最後に「何日滞在するのか?」と聞いてきた。僕は慌てず、「ワンウィーク」と応えた。両手の指紋を押捺し、写真を撮られて無事にパスだ。弟は何の質問もされずにパス。兄は辛いぜーーーー。

荷物を受け取り、ここで、五人のメンバーがそろうことになる。まだ見ぬ大地の空を仰ぐのも、もうすぐだ。


2007年12月04日(火) 僕たちの旅パート3。

僕たちは狭い通路をぬって、我が席を見つけた。ジャイアン(僕)とのび太君(友人である弟)は隣の席。後の二人はばらばらの席だ。僕たちの席は右側の三人掛け。僕は通路側。弟は真ん中だった。窓際には外人さんが座っていた。腰掛けるやいなや僕と弟は顔を見合わせて、にんまりと意味不明の笑みをこぼした。この笑みは何だったのか?。思うに、この窮屈な席への不満と、異境の地へ飛び立つ不安と期待が微妙に絡み合っての笑みだったのかもしれない。

機内を見渡した。ほぼ満席の状態。意味不明の言語が飛び交っている。僕たちは、なすすべもなく狸寝入りを決め込んだ。後の二人はどう過ごしているのか席からは見えない。夢うつつの中で本寝入りになりそうな時、肩をポンポンとたたかれた。目を開けると、フライト・アテンダントのお姉様が、ピンセントで挟んだおしぼりを差し出した。「へーーーー、手渡しではなかったのか?」と、一瞬びっくりして受け取った。幾分か汚れていた手を拭き清めた。

しばらくすると、あの有名な「子連れなんとかだったっけ?」、大五郎を乗せたような荷車をカタコト、カタコトと押しながら、フライトアテンダントの女性達が弁当を配り始めた。僕たちの通路の担当女性は、腰の廻りが通路の幅と同じくらい大きなミドルエイジのおばさまだった。席の前へ来るやいなや、「ミート・オア・チキン?」と聞いてきた。僕はすかさずチキン・プリーズと応えたが、弟はミートにしたかったが、おばさまの声の勢いに恐怖感を覚えたのか、慌ててチキンと応えてしまったらしい。大笑いしたことだ。

そう言えば何かのコマーシャルであった場面を思い出した。「ミート・オア・フィッシュ?」と聞かれた青年が「フィッシュ」と応えると、怖い顔をしたおばさまから「チキンオンリー」と言われて、困憊している様子。まさにその場面とそっくりだった。

そう腹も空いていなかったが、先はまだ長いということで、お子様用テーブルみたいなものを倒して、慣れないフォークやスプーンで、おそるおそる口に運んだ。床に獲物を落とさなかっただけでも幸いだ。味は可もなく不可もなしって所か?。

食事が終わればまた眠くなるのが必定。再び僕は浅い眠りに就いた。弟もほっとして眠っている様子。機内では写りの良くないスクリーンで映画を見ている者もいた。何時が過ぎたのだろう?。ふっと、時計に目をやった。「まだこんな時間しか経っていないのか?」と、意気消沈。「苦もまた楽なり」という言葉があるが、とてもそんな気分ではない。長く椅子に座っていると腰と尻が痛くなるのだ。短い足を交互に重ねども、一時しのぎに過ぎない。我慢、我慢だ。「美しい空と大地が待っている」。そう、いい聞かせた。

生理現象は時を待たない。搭乗前にビールを飲んでいたため、尿意を催した。機内後方のレストルームへと赴いた。数人の外国人が立っていた。「順番待ちかな?」と思ったが、そうではなかった。尻が痛いので立っていたのだろう。
扉を押してルームに入ると洋式トイレが僕を待っていた。最近、男性も座って用を足す人が多いと聞いたが、大和撫子?じゃあない。大和男子たるもの、坐って用を足せるか?と変に気負って、立って用を足した。要は、飛び散らさなければいいわけだ。機の揺れに合わせて、僕も体を揺すりながら、小さな一物を慎重につまんで、散らすことなく見事に成功。ほっとする瞬間だ。水を流すべくペダルを踏むと、バキュームカーが高い音を出して物を吸い込むがごとく、奇妙な音を出して、「どどどーーっつ」と、僕の尿が消えた。僕の尿はいずこに?。大気のもずくとなったのだろうか?。

変な事に気を回しながら席へ戻った。まだまだ先は長い。僕は再び眠りに落ちた。





2007年12月03日(月) 僕らの旅パート2。

僕たちの旅は関空から始まった。田舎から高速バスと国内線を乗り継いで三人。関空で他の一人、彼はスネ夫君(友人)の兄で、今回の旅に参加する事になっていた。まだ、ニックネームをつけていなかった。ネズミ男君では失礼に当たるので、ネズ君と命名しておこう。本旅の主催者スネ夫君は、成田から出発することになり、一名増えて総勢五人の旅と相成った。

まずは、ジャイアン(僕)と、のび太君(弟)と、ドラえもん君(友人)の三人は、田舎のバス停で待ち合わせた。各々が、ど田舎風出で立ちで、大きな旅行ケースを、ガタゴト、ガタゴトと引ずりながら登場。にんまりと笑いながら、まだ見ぬ異境の地への旅に思いを馳せている。バスに乗り込み国内線ロビーへ到着。搭乗にはまだ時間があり、レストランでで昼食をとる。ビールとつまみと、幾品かを注文し、乾杯の後、無事なる出発を祈願した。

さあ、いよいよ第一関門、国内線荷物検査のゲートをくぐる。なんなく通過だ。一時間ちょっと空を旅して関空へ到着。そこにはネズ君(スネ夫君の兄)が、我々の中で一番大きなケースを携えて待機していた。初めて合うネズ君の顔は、スネ夫君(友人)とよく似ていた。兄弟だ。当然と言えば当然か。

ここで四人がそろった。国際線搭乗までには2時間ほどある。ドラえもん(友人)とネズ君(スネ夫君の兄)はレンタルの携帯電話を受け取りに。ジャイアン(僕)と、のび太君(弟)は、その必要なしということで、とりあえず一週間の保険加入の手続きに応じた。最高額の設定で一万数千円を支払う。万が一の為の手当だ。遺族を悲しませないためにも、これくらいの配慮は必要だろう。

搭乗前の手荷物検査ではジャイアン(僕)、ドラえもん君、ネズ君の三人は何なくパス。のび太君が「チューブの歯磨き粉」を没収される。容量がでかすぎたのだ。「うんんん、これじゃーー先が思いやられるぜ」と思ったが、その程度で済んだから幸いだ。のび太君曰く。「ジャイアン、歯磨き粉貸してね」と。ジャイアン曰く。「あああ、いいよ」と。

いよいよ機内へ乗り込みだ。キャビンクルーの女性の出迎えを受けた。僕たちは照れながら、我が席へと向かった。これから10時間の長い空の旅が始まるのだ。




2007年12月02日(日) 旅の思い出パート1。

僕たちの旅が終わった。たくさんの思い出を残して。結論から先に書いておこう。想定内のことではあったが、楽しかったの一言だ。如実に感じたこと。それは色んな人たちの愛、優しさ、親切さである。さもありなん。田舎から出てきた、とっちゃん坊や風、四人連れの男たちは、マナーを知らず、英語を知らず、いかにも哀れなジャップと見えたからに違いない。

すべてにスケールがでかかった。さすがに世界ナンバーワンと自称するアメリカだ。色んな人種が大股で歩いていく。足の短い僕たちはどう急いでも追いつけない。すらりと伸びた八頭身の女性達は美しかった。「エクススキューズミー、ッナイト、デート、オッケー?」とかなんとか言ってみたかったが、その勇気はない。

際だったこと。女性の尻のでかさだ。僕たちは目を白黒させながら見入った。「よくもまーーー、あんなに育ったことよ」と、思わずホルスタインを連想した。また、当地は空気が美味しかった。気温も地中海式気候らしく、平均気温10度前後。朝夕は冷たいが、日中は暖かい。空は透き通った青空を呈し、太陽光線が異様にまぶしい。日本では見たことがない輝きだった。表だってタバコが吸えない国だから、空気が美味しいのもうなずける。

おっと、外出の時が迫ってきた。詳細は徐々に書いていこう。










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