umityanの日記
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2006年03月26日(日) そっと、おやすみ。

ぽかぽか陽気のこの頃。やっと春がきたなあーーーと実感。桜の花が今や遅しと、開花を急いでいる。猫の「もこ君」が、ソファーでうたた寝だ。仰向けになって、四つ足を天井に向けている。「贅沢なやつだ。そこをどきなさい」と、追い払うのも気が引けた。

そんな春の日曜日。僕は残務整理を片つけて、パソコンのスイッチを入れた。ニュースを見たが、これと言って感動するものなし。相変わらず世の中は不透明で、どこへ向かっているのか定かには読めない。綾小路君麻呂さんの漫談を思い出す。いつも、車の中で聞いているから、かなり、暗記してしまった。「我が息子にどんな嫁が来るのか、先が読め(嫁)ない」。まさに、そんな感じだ。

僕もこの陽気に誘われて、ついうたた寝をしてしまった。いやあーーーー昼間寝ると、夜が眠れないんだよなー。酔っぱらって午前様の時はすぐ寝込んでしまうのだが、素面の夜はそういかない。そんな時の解消法として、昔は羊さんが一頭、二頭・・・・と数えるのが定番だった。何度も実践したが、途中まで数えて、何頭だったか分からなくなり、最初に逆戻り。これがいけないんだよなーーーーー。かえって、気が散り、ますます睡眠が困難に。

てなわけで、羊を数えることは止めた。このごろ、やっている事と言えば、宇宙の事を考えることである。宇宙ーーー、この膨大な宇宙。我々はどこからやってきて、どこへ去っていこうとしているのか?。これもずばり、読めない。なんでも、彗星が生命をもたらしたという説がある。さもありなんと思う。しからば、宇宙はどうやって創成したのか?。ビッグバンが生じ、刹那の刹那の時間で、宇宙ができあがったと言われている。それじゃああ、ビッグバンの前は何だ?。無か?。何もないところからどうして、星が誕生するんだ?。謎は深まるばかり。

思うに、「無」のとらえ方が間違っているのだろう。無から有が生じることが実験で確かめられている。と言うことは、頭の中で考えている無とは違った無があるのかもしれない。宇宙創生の謎を解き明かすことができれば、ノーベル賞は間違いなしだ。ノーベル賞のも一つ上の賞を作っても良い。ノーベル宇宙賞だ。

宇宙が創成され、どんどん膨張しているそうな。ただ、無限の膨張を食い止める働きとして、ブラックホールがあるそうだ。ブラックホールが、いずれ、宇宙の膨張を食い止め、収縮に向かう。ついには、宇宙創成時の原点にまで戻ってしまう。また、無が支配し、再びビッグバンが起こる。宇宙は想像もつかない時の流れの中で、これを繰り返しているのだろうか?。
こういう事を考えていると、分からないから、ついには寝てしまおうと言うことになる。鼻提灯だけが、膨張と収縮を繰り返すことになる。

今、とても興味を持っていることがある。それは「反物質」の存在だ。物質は原子でできている。原子は原子核と電子。原子核には陽子と中性子がある。人間も、石ころも、木も、すべて、原子でできているから、物質である。電子はマイナスの電荷を持ち、陽子はプラスの電荷を持っている。その反対の電荷をもっている物質があってもよい。中性子は電荷を持たないが、反中性子があるという。それらが「反物質」らしい。

反物質の存在は確かめられているそうだが、銀河系の中では、反物質の量は少ないという。違った銀河系の中では、反物質だけの星もあるかもしれない。なんでも、物質と反物質が出会うと、一瞬にして消滅し、莫大なエネルギーが放出されるそうだ。これじゃあ反物質とふれあうのも大変だ。

想像するのはただ。ロハである。ひょっとすれば反銀河系、反太陽系、反地球があって、反僕が存在しているかもしれない。宇宙ネットを使って僕たちが会話できるかもしれない。僕が物質で、君が反物質。僕たちは出会うことはできないが声を聞くことぐらいは許されるだろう。僕が「愛しているぜー」と叫ぶと、反僕は、「物質のおまえなんか愛していない」と答えるかもしれない。「おやおや、反物質は心まで反対なのか?」と疑いたくなる。良かったぜ。銀河系は物質で充満していて。

僕もいずれ、宇宙空間に原子として散らばることになる。願わくば、再びビッグバンによって、新たなる銀河系で物質としての僕が存在して欲しいものだ。そう願ってやまない。ただ、時間がかかりすぎる。宇宙の謎は本当は身近なところにヒントがあるように思える。まだ、誰も気がついていないだけのこと。僕は眠れない夜にそのヒントを見つけたい。今、ふと思ったが、そのヒントは、僕が知らぬ間に行っている鼻提灯の膨張と収縮のなかにあるかもしれない?。どうやってそれを確かめるんだーーーーー。おっと、睡魔が襲った。おやすみ。






2006年03月21日(火) 「なごり雪」が僕を泣かせる。

最近、無性に好きになった歌がある。「無性に」と、書いたのは以前から好きだったが、ただ僕の歌うレパートリーになかっただけのこと。それがどうしたわけか、さるスナックで知らない女性が歌っているのを聞いたとき、胸にジーンとくるものがあった。

もったいぶるのは止めよう。何という歌かと言えば、あまりにも有名な、イルカさんが歌っている「なごり雪」という曲である。伊勢正三さんの作詞作曲だったっけ?。歌詞もメロディーもすこぶる良い。

「汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる。季節はずれの雪が降っている。東京で見る雪はこれが最後ねと、さびしそうに君がつぶやく。・・・・・・。動き始めた汽車の窓に顔をつけて、君は何かを言おうとしている、・・・・」。いやああ、。なんと素晴らしい詩なんだろう。

僕も何回となく、駅のプラットホームから人を見送ったことがある。そんな時の気持ちと言えば、「早く汽車がでないかなあーーー」という思いばかり。汽笛が鳴って「おや、出るかな?」と手を振れば、汽車はまだたたずんだまま。こんな時って、きまりが悪くて、顔を背けてしまう。やっと出て、やれやれだ。「駅の喫茶店でコーヒーでも飲んで帰るか」という事になる。

ただ一度だけ、感極まった時がある。僕がさる会社に就職して、アパートを借りた頃、母が遠方からやってきて、あれこれと部屋の中の段取りをしてくれた。そんな母を駅まで送り、プラットホームで見送ったときのこと。母の淋しそうな横顔を見て、涙があふれそうになった。じっとこらえた。涙を流したのは汽車が出た後である。

その時は思わなかったが、今、振り返って考えてみると、男兄弟三人いて、たとえ次男坊であっても、母親にとって子供は優劣なく、かわいいものなんだと。残念ながら僕には三人も子供がいない。

この「なごり雪」という歌は、大学を卒業して故郷に帰っていく恋人との別れを描いたものかもしれない。あるいはそうでないかも?。目の当たりに光景が浮かんでくる。僕だったら母の時とおなじように、「おいおい」と泣くかもしれない。

そう言うわけで、最近はスナックのカウンターレディの「さっちゃん」に、この歌を所望している。イルカさんにも似た声で歌う彼女もまたいい。途中から僕もマイクを握って、彼女の歌のじゃまにならない程度につぶやいている。今の時節と相まって、この歌は最高だ。焼酎も湿っぽくなり、口に注ぐ回数が減ってしまうようだ。そろそろ、「ノリちゃん先生」、もしくは歌の帝王、「安さん」でも伴って、スナックのドアをたたくかあーー。


2006年03月20日(月) たまにゃ机上整理もいいものだ。

月曜日。今日は彼岸の谷間だ。「エイヤー」と勢いで、パートさんを明日の中日まで休みにした。土曜日から休んで四連休である。「あなたは休む人。僕は働く人。不公平だーーーー」と叫んでも、しがない超零細事業主。しかたなかんぺ。静まりかえった事務所兼書斎で何をすべきか考えた。まず、思いついたことは、日頃やっていない机上周りの整理をすることだった。

あるわ、あるわ。無造作に散らばったクリップ、鉛筆、ボールペン、はさみ、ノリ、ホッチキス、付箋紙、不特定多数の書類に宣伝用チラシ。おっと、耳かきまで三本も出てきた。商売をやっていた母のところからくすねてきたものだ。耳を掻きながら考え事をすると、結構、良い案が浮かぶ。案といっても、遊ぶことの案ばかりだから始末に悪いが?。

「さあ、片つけるぞ」と、僕の心はいきり立った。が、どうも、生来の貧乏性がわざわいして、物を捨てられない。綾小路君麻呂さんの漫談を思い出す。「今の中高年は、物を捨てられない時代に育ったのです。亭主や女房が食べ残した物。犬が残した物。仏壇に上げた物。何でも口に入れないと気がすまないのです・・・・」。「僕は中高年ではない」と、反論しつつも、物を捨てられないという点では、同じ穴のむじなか?。

ところが今回は違っていた。昔は書類の山に囲まれて仕事をするのが男の条件で、美徳と思っていた。今はそう思えない。急いでいるとき、物が見つからないと、かえって、いらいらするし、ミスも多くなる。やはり、適当に整理整頓すべきなのだ。深ーーーく反省し、今回は二度と使わない、見ない物は片っ端から処分することにした。筆記類も鉛筆、マーカー、ボールペン、マジック類と、種類ごとにわけ、ペン立てに納めた。ほかの物も種類ごとに分別。書類棚から、二度と受注が来そうにないファイルをことごとく洗い出した。買っては放り込んでいた書物も、今は、ネットでの検索の時代。ほとんど見ることもないので、段ボール箱に納めて、外にある倉庫へしまった。

かくて今、机には広いスペースができて、パソコンだけが静かにたたずんでいる。書棚も必要最小限のもので占められ、すっきり、くっきり。快感だーーーーー。我が書斎とは思えないほどにきれいになった。
この状態をいつまでも継続したいと思うが、はたして、どうなることやら自信はない。「継続は力なり」と、我が心に言い聞かせた。

最後の締めは、重機で掘ってもらった裏庭の大穴に不要物を投げ入れ、昇天させること。僕は長い棒で不器用に不要物をかき回し、昇天を早める。風向きで煙が我が体を襲ってくる。穴の周りを回りながら、この煙を避ける。これが結構楽しいんだよなーーー。

三寒四温の今日この頃。今日は寒である。だだっ広くなった書斎で、変に感心しながら、この備忘録をしたためた。


2006年03月19日(日) 今日は彼岸の日曜日。

昨日から春の彼岸に入った。中日はあさってだが、今日は日曜日。恐らくあちこちの寺はお参りで忙しいことだろう。僕も実家に眠る父や祖父・祖母の墓参りに行きたいのは山々なれど、仕事の段取りがつかず、毎年ご無沙汰している。

兄との確執も、墓参りが疎遠になっている理由の一つかもしれない。兄は、病気で子供を亡くした。実家よりやや遠隔地に相談もなく新たな墓をこしらえた。その際、先祖の遺骨も全部移してしまった。母も僕も弟もずいぶん反対したが、そこが長男の強みだろう。母も今では何も言わない。確かに、険しい山道を登ったところにある山墓よりは、見晴らしの良い霊園墓地に葬られた方が、仏さんも幸せかもしれない。兄はそう考えたのだろう。僕はそう思わないのだが・・・。これも兄に対する反抗か?。

僕は昔、思ったものだ。今でもその気持ちはある。いつしか、機会があったら、全国、いや世界を股にかけて行脚したいと。「幸せ求めて三千里?」。願わくば、999のメーテルのような心優しき女性を伴っての行脚なら最高だ。その道程で倒れても何の悔いがあろう。「懐に忍ばせた幾ばくかの金子は、メーテルよ!!。すべて君のものだ。煮るなり、焼くなり、蓄えるなり、僕を葬るなり、君の自由にしてほしい」。こう叫んで、命を引き取りたい。心優しきメーテルは大河のごとき涙を流すだろう。

かくて、僕の亡骸は火葬に付され、山でも良い、海でも良い。風に乗って宇宙空間を漂うことになるだろう。宇宙空間こそ、まさに僕の故郷かもしれない。従って墓は必要ない。これはあくまで僕の空想である。空想の世界なら成り立つにしても、現実にはあり得ないなあーーー。僕があまりに格好良すぎるぜ。

空想は空想として、僕は次男坊。結局、分家と言うことになる。分家は分家からスタートだ。昔は一族が同じ墓には入ったが、今はそうでないところが多いようだ。今のところ、僕は根無し草。将来どう事が展開していくのか、まだ分からない。

兄との確執はさておいて、彼岸は先に逝った先祖さんに感謝する日。35億年の遺伝子を紡いで、今日の我々がいる。先祖さんに近況報告と感謝の念を述べても罰は当たるまい。僕も遠い空から「ありがとう」と、感謝の念を捧げよう。


2006年03月10日(金) 焼き鳥が飛んだ話。

いよいよ税務申告期限も間近に迫ってきた。仕事に携わっている人たちは、最後の追い込みで奔走していることだろう。我が付き合いの事務所もしかり。「何か差し入れを」と、昨日は車で30分のところにある、「日本一の鯛焼き」を買いに行った。道すがら、よそ様の庭に咲く梅の花がきれいだった。赤、白、ピンク。黄色。色も多彩だ。「きりり」と点に向かって咲いている様は、実に猛々しい。

店で鯛焼きを15個求めた。箱に入れてくれる。10個入りと、6個入りの箱がある。10個の分は良いとしても、5個の場合は箱に1個分の隙間ができる。僕は5個で良いと言ったが、隙間ができると、持ち運び時の振動で「鯛焼きくん」が泳ぎ出すという。僕はそーっと持って行くからそれでもかまわないと言ったが、店の店員さんが怪訝そうな顔をしている。うんんん。1個ぐらい多くても仕方ないかと、あえて6個を求める始末に。

ふと、思った。「鯛焼きが日本一なら、サービスも日本一でなくちゃ。客のニーズに応えるのが日本一の名にふさわしいだろう」と。まあ、店の立場から言えば、箱のサイズにあった数量が見かけもよく、きれいに収まるという配慮なんだろう。差し入れしたときに箱の中身が1個たりないと、「僕がつまみ食いしたと」思われないでもない。不満ではあったが、そう思うことにして、一件落着だ。

家に帰りパソコンのスイッチを入れると、なんと待ち望んでいた韓流歴史大河ドラマ「海神」が最終章まで配信になっていた。まさか、パートさんのいる前で、ドラマに興じるわけにもいかない。パートさんの帰宅時間の5時が早く来ないかと、僕の気はせくばかり。事務所兼書斎を出たり入ったりしながら僕は時間を過ごした。

やっと、僕の時間がやってきた。と、その時、弟(仕事仲間)から、電話が。
彼が所属している団体が主催した落語の講演会が成功裡に終わり、協力感謝の弁と、焼き鳥でも食らおうと誘いがあった。僕は一瞬考えた。僕の体は、月・火。水の夜遊び三連ちゃんで、結構疲れている。かつ、山の神の頭上には黒雲が漂っている。「いかにすべきか?」。とりあえず7時に会おうということで、約束。まだ、2時間はある。その間に、「海神」のドラマを一本見ようと接続。いやあ、はまってしまった。混乱した社会の中で織りなされる男達、女達の人間模様。苦悩と喜びと戦いと・・・。正義と野望と真実と・・・・。優しさと信頼と裏切りと・・・・。それらのすべてが複雑に入り交じったこのドラマは僕の心を虜にした。配信の一本を見終わったとき、僕の心はすっかり疲れ切り、焼き鳥が飛んでしまった。弟に丁寧に、「今日は用事がある」と告げて4連チャンを免れた。山の神の頭上の黒雲が「すーーーと」消えたようだ。

おっと、パートさんが来たようだ。この続はあらためて書くことにしよう。


2006年03月06日(月) 朝から弱犬の遠吠え。

しとしとと降る三月の雨もいいものだ。風もない。僕は今、書斎兼事務室の窓から外を眺めながら、この備忘録なるものをしたためている。あまりにも静かな朝の一時。外には人一人っ子見えない。「おーーい。誰かいないか?」と叫んでも、応えるのは猫の「にゃん吉」だけだにゃん。最近、外遊びを覚えたようで、二本の前足を器用に使って、扉をこじ開ける。賢いと言えば賢いが、妙に腹立たしく思うことがある。にゃん吉も僕から好意を抱かれていないと知っているのか、日常的によそよそしい。山の神にだけはべっとりと甘えているようだ。

以前、山の神に言われたことがある。「食事を与えている人が一番信頼されているのよ」と。まあ、そうかもしれない。山の神が留守の時は僕が食事を与える。そのこともあって、一応、僕も家族の一員と思っているようだ。ただし、全幅の信頼は得られていない。

朝の静寂が猫のにゃん吉の話になってしまった。時々都会のことを思う。早朝から人の波が中心地へ向かって行列をなす。昔は僕もその一員だった。今、田舎から、そんな光景を想像すると、昔見た銀河鉄道999の一場面が浮かぶ。その場面とは、機械の体に改造すべく集められた人間が夢遊病者みたいになって、行列を組み、歩いている姿だ。サラリーマンの姿をそうとらえては悪いが、今のご時世。なんとなく勤労者に元気がないように思えてならない。一番元気があるのは政治の世界だろうか?。良いことでの元気ならば歓迎だが、どうもそうではない。

目前に迫っている増税の嵐。少子化社会の中で、苦肉の策として、扶養家族が多いところ、いわゆる子供を沢山産み育てる家庭には、優遇税制をしくという。結構なことだ。ただ、そんな目先の対策ではたいした効果は生まれないだろう。どうすれば良いのか?。僕にも分からない。ただ、安心して何人でも子供を育て、かつ、生活をエンジョイできる環境をつくるにはどうすればよいか、英知を絞って考える必要があるだろう。僕にはまだ、体製造能力は備わっているが、育てる能力があるやなしや?。難しいところだ。
いやはや、朝から頭の痛い話になってしまた。この辺で仕事に戻ろう。


2006年03月05日(日) 僕の大失態。

つい最近こんなことがあった。遠方から頻繁に当地へ出張してくる40がらみの男性がいて、いつもの小料理屋で親しくなった。話を聞くと、独り身。金はあり、飲む暇はあっても嫁さんをもらう暇はないわけだ。その時、僕の頭にピイーンとくるものがあった。

僕主催の忘年会で、助っ人として、手伝ってくれた程よい女性が二人いたっけ。引き合わせれば恋の花が咲くこともあるやもしれぬ。そう思い早速、段取りを。見事、小料理屋で二人の女性と彼を引き合わせることに成功。僕とノリチャン先生は脇役で、補助いすに座り、飲みながら状況を観察。

いやあーーー皆、よく飲むわ食べるわ・・。すっかり意気投合し、二次会、三次会まで足を運ぶことになった。二人の女性は、職場では姉・妹みたいな関係で、同じ仕事をしている。なんでも、仕事の契約がとれないと首も危ういらしく、新顧客を紹介してほしいと再三、頼まれていた。彼の出現はまさに千載一遇。恋の花が咲き、契約成立に至れば、一石二鳥だ。

彼はさすがに歌も話術もうまかった。歳の功である。と言うわけで、二人のうちの一人と、翌日はデートの約束が交わされた。「気が早いぜ」と思ったが、彼は出張の身。時間的制約があるわけだ。

「いかが相成ったか?」と、気をもんでいたところ、彼から小料理屋のママさんにメールがあったようだ。僕に伝えてくれとのこと。「今度紹介してくれるときは、子持ちじゃない人をお願いしまーーす」と。うーーーんんんんん・・・・・・。さもありなんか?。

実は二人の女性とも、今流のことばで言えば「X1」の人達だった。僕は気にもとめていなかったが、彼は初婚。人と人との縁は交わることもあるし、そうでないこともある。今回は縁がなかったことになるのか?。なかなか難しいものだ。デーとした女性は25歳の若さで、なかなかかわいい人である。子供が一人いる。「僕が独身だったらどうしただろうか?」と一瞬思ったが、やはり、その立場になってみないと分からない。従って何とも言えないか。

そんな彼から、再びママさんにメールが入った。脳梗塞で今、入院しているとのこと。「ええーっ」と、僕は我が耳を疑った。早い処置だったので、半月ばかりで、退院できるとのこと。彼に悪いことをしたかなーーーと、つくづく反省の昨今である。彼の身が大事に至らなかったことが幸いである。一日も早い彼の回復を願い、再会したときは心から謝ろうと思っている。






2006年03月02日(木) 「きりり」から「あでやか」に。

早、三月。この季節は良い。きりりと梅の花が咲き、追い打ちをかけるようにあでやかな桜の花が咲く。「桜に桜の花が咲く。何の不思議はなけれど」。誰かがそうささやいたが、自然の営みとはすごいものだ。「きりり」から「あでやか」に。こんな美の競演に遭遇できる時代を生きていることは誠に幸せである。おまけにぽかぽか陽気が心を和ませる。

若い頃は冬が好きだった。ほっぺたを真っ赤にして冬将軍と相対した。手袋もつけず、白い息で、かじゅかんだ手を温めながら、数キロの道をてくてく登校していた。今思うと、そんな姿に一種の美学を感じる。文章で書くときれい事になるが、要は貧しかっただけのことかもしれない。それでも、目はまだ見ぬ遠い世界に向いていたように思う。そう・・・、将来にたいする希望やら夢みたいなものが胸中にあった。

最近の子供達は、どうだろう?。これでもかと言わんばかりに防寒着を身にまとい、幸せそうに登校している。時代が変わったのだ。世の中が豊かになれば、それはそれでいいわけだが、果たして、今の子らは、未来を見据えた夢やら希望を持っているんだろうか?。

多分、あるには違いない。ただ、いみじくも最近、高校生の「意識調査」なるものの結果が、日本青少年研究所から出された。日米中韓の4カ国の高校生にアンケート調査を行ったところ、ほとんどの項目で日本は最下位。その結果を僕なりに一言であらわせば。「シラケ」である。友人も少なく、勉強もしたくない。親子関係も希薄。希望も期待も見えない。これじゃああ、「何のために生きているの?」と言いたくなる。その答えがあった。文化的娯楽(漫画、テレビ、映画、遊び等)に一番興味を感じているようだ。要するに、食べていけ、おもしろ、おかしく、自由に人生を過ごせたらよいと言うわけだ。僕にとっても、それは理想なんだが・・・・・。

そんな日本人に、米中韓の人たちは、結構、好感をもっているというから不思議である。自由の国、日本は外国人の目に、退廃前の一瞬の輝きとして映っているのかもしれない。「安易に流される」という言葉がある。日本の経済的豊かさが、ひょっとすれば、安易に流された輝きを生み出しているのかもしれない。方向性を持った輝きならばいいのだが、今の日本に、その方向性が見えない。単なる堕落、退廃で終わってしまわないだろうか?。心配である。願わくば、荒川静香さんのように、真に輝く若人で、世の中が満ち満ちしてほしいと願わざるを得ない。冬から春へ季節が変わった。僕の心もすでにそうである。


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