umityanの日記
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2005年05月31日(火) 五月よさらば。

あと2時間弱で六月だ。五月よさらば。来る六月も僕の好きな季節。何となれば、結構、暇が出来るからだ。怠け者の僕にとっては、もってこいの月。雨もよく降るし、じめじめと、うっとおしいが、文明の利器、クーラー様があるぜーーー。ゆっくり、ごろ寝が出来るというもの。この怠け者!!!!。

じいさんや、ばあさんが生きていた頃は、文明の利器も高嶺の花。したがって、団扇か扇風機だ。よく回らない扇風機に苛立ち、足で蹴飛ばしながら、ごろ寝をしていると、じいさんに頭を「こつん」と団扇でたたかれたものだ。今にして思えば、良き思い出である。いまや、団扇も扇風機も押入れの片隅で、埃をかぶっている。贅沢になったものだ。

六月は衣替えの時期でもある。冬服が夏服に変わる。長袖が半そでになる。
女性も、ぷらぷらの二の腕をさらしながら、大胆なポーズで町を闊歩する。これも、夏へむかう風物詩か?。官公庁や、民間の企業でも、室内のクーラーがスイッチオンになる。仕事もはかどるだろう。ありがたや。ありがたや。わが零細事務所でも、今や遅しと、スイッチがガタガタと鳴っている。

僕はと言えば、執拗に汗をかく。てなわけで、四月から既に、半そでのTシャツで頑張っている。家にいる時はそれで十分だ。もちろん外出時は、それなりの身だしなみはしていた。昨今の温暖化傾向を考えれば、衣替えの時期は、五月、もしくは四月に変更してもいいくらいだ。習慣とは恐ろしいもので、いまだに衣替えが六月一日とは、これいかに?。

ところで、世界第二位のエネルギー消費国となった中国は大変なようだ。電力の需要に供給が追いつかず、更なるエネルギー源を模索している。石炭を燃やせば環境汚染、温暖化を促進するし、かといって、代替エネルギーが簡単に手に入るわけではない。現に、国際間の摩擦が生じている。日本との関係においてもそうだ。

世界中が豊かになることは大いに歓迎だが、それまで地球という星がもつことやら?。もう既に限界にきていると、ある学者が何かの本に書いていた。まさにそうかもしれない。

我々に出来ることは何だろう。少しでも温暖化や地球環境の汚染を遅らせるためには、「田舎へ泊まろう」ではないが、「昔へ戻ろう」という方法しかないのかもそれない。極力、ごみを減らし、エネルギーの消費を節約する。衣替えは早くなって可。冷暖房は気温が30度以上、5度以下にならないと入れない。団扇を愛用する。早寝、早起きで、電力の消費を抑える。太陽エネルギー、海洋エネルギーを活用する。その他、考えられることは山とある。要は、いかに実行できるかだ。

思うに、どれ一つをとっても難しいなあ・・・・・。皆、昔に戻ってしまえば、もはや、経済の発展も、科学の発展もおぼつかなくなる。果たしてそれでいいのか?。僕の貧弱な頭では、なんの結論も見出せない。ただ、言えることは、環境問題を制したものが、世界の覇者になることだけは確かかもしれない。





2005年05月30日(月) 詩に内在する生と死。

最近、ポイムというか、詩に対する興味が復活したようだ。
思えば、若かりし頃、ゲーテ、ハイネ、ヘルマンヘッセなどの詩を紐解き、愛しい人へのラブレターとして、したためたものだ。詩の鑑賞というより、わが心を伝える、「あて」、「だし」として利用していた。詩の本質、本意など、まるで分かっちゃいなかった。

女性から、「あなたはロマンチストね」という言葉は返ってきても、成功に至るためしは無かった。それもそうだろう。人の言った言葉の受け売りでは、良識アル女性なら誰もが、そっぽを向くのがおちだ。女性の心琴が震えるわけもない。僕も若かったぜ・・・当時は。今も若いつもりだがーー。やはり、詩を書くことは下手ではあっても、自ら手を下さなくては心なんて伝わらない。

以来、詩で人の心を動かそうなんて、大それたことは止めた。その僕が詩みたいなものも読んだり、書きたくなったから不思議だ。いくつか理由がある。日記と言うか、備忘録と言うか、文章で書いていると冗長になる。詩みたいに、言葉を厳選して短く書いても、意は十分、伝えられるし、後々、読んでも分かるだろう。そう思ったことが一つ。と、色んな人が書いている詩を垣間見たとき、幾たびか衝撃を受けたことがあったからだ。

どんな詩にも、生への執着と死への恐怖が内在しているように思える。作者以上には真意を理解できなくても、なんとなく言葉の威力に圧倒されるのだ。おめでたい僕は、「ひょっとすると、これは僕のことでは?」と、大きな勘違いをすることもある。やはり、生と死が深く内在しているからこそ、わが事として、考えてしまうのだろう。

集団で自殺する人が後をたたない。何故だろう。一元的世界から見ると、生も死も同じこと。単なる原子の濃淡の違いだ。ただ、そう考えるに至るには執着をなくさねばならない。神、仏でもない我々にそれが出来るのだろうか?。

否である。しからば、執着を持って、生きることに専念しなくてはなるまい。死への恐怖心、大いに結構ではないか。僕は思っている。お迎えがくるまでは、ひたすら生きてやるぞ・・・って。

卑近な話だが、よく、男性用トイレに、「ちょっと待て。もう一歩前へ」とかなんとか書いてある。失礼な張り紙だぜと思うが、人生も同じことだ。死のうと思う前に、「ちょっと待て。まだ早い」と、どうして思えないのだろうか?。諦念の気持は、お迎えが来たときで十分だ。執着も度が過ぎると、悪になるかもしれないが、人間は適当に執着をもたなくちゃ。

かくして、僕が再び詩に目覚めたのは、これも執着である。今更、絶世の美女に思いのたけを伝えようとは思わない。生きている証として、はたまた、死の恐怖を払拭せんがために、時々詩の世界に身を投じたいと思うだけである。
ある坊さんに聞いたことがある。「座禅は安楽の法門」であると。僕に言わせれば、こうなる。「詩は生死の法門である」と。だから、詩を読み、書くわけだ。

なんか、自分でも何を言っているのか分からなくなった。こういう時こそ、詩的に表現すべきだったか?。



2005年05月27日(金) お粗末な詩を一題。

五月の空も、あと数日となった。いよいよ、これから梅雨にはいる。農家にとっては恵みの雨が降る。その前に、麦刈りで大変だ。麦の穂が見事な黄金色に染まり、風になびいている。美しい田園風景。ふと思った。この麦畑一面が、金の延べ板だったら、一体、何万個の金のネックレスが作れるのだろうかって?。いやはや、さもしい考えである。もっと、ましな発想はできないものか?。

ここで作られている麦はビールの原料になる。今年も、昨年同様、猛暑がささやかれているの。この麦たちが大いに働くことになりそうだ。まだ、ビアガーデンには行っていないが、おいしいビールが飲めることになる。まさに麦の恵みである。

ところで、麦の実りとは裏腹に、わが仕事は、のらりくらりの日々。順調な船出を祈願した正月だったが、五ヶ月もたつと大波小波にさらわれて、方向定まらずである。まあ、人生とはそういうものかもしれない。いつも順風満帆というわけには行くまい。だからこそ、生きていて面白いと言えるわけだ。

     数日を残した五月の空。
     恵みの雨の梅雨空が、
     今や遅しと、気を伺う。
     
     黄金色の麦の穂。
     はからいも知らず、
     ただひたすら、
     たわわに実り、風になびく。

     祈りを捧げた門出の日。
     時の流れは無常にも、
     大波小波でわが心を揺する。

     麦の恵みは、稲穂への橋渡し。
     定まりなき娑婆世界は、
     波のうねりに似て、
     生への勇気を与えん。

お粗末でした。さああ、そろそろ飯だ。
     

     

     
     
     


     
     


2005年05月22日(日) 五月の雨はいいものだ。

五月の雨・・・。しとしとと降っている。こんな雨が好きである。日々の罪や垢が洗い流されていくようだ。片隅に咲いている花々が、雨に打たれて、なんともみずみずしい。命を吹き返し、またあらたな命を育む。自然のサイクルは、なんとも巧妙で、不思議である。こんな時、旅に出たいと思う。

今日は久々に仕事のない日曜日。書斎の窓から外を眺め、思いついた言葉を羅列してみた。上の言葉を詩的に表現するとこうなる。

       しとしとと降る五月の雨。
       こんな雨が好き。
       罪や垢が押し流されていく。
       旅に出よう。

       片隅にこっそり咲く花。
       みずみずしく命を育む。
       自然が語りかけてくる。
       旅に出ようと。
       
てなことになるか?。お粗末でした。いやああ、本当に五月の雨はいいものだ。六月になると、今や遅しと、不快感を背負った梅雨が追いかけてくる。借金とりや、貪欲な女性に追っかけられるよりはましであるが。

それはそうと、昨日の土曜日は、故郷へ帰り、友人達と親交をもつ予定だったが、見事その目論見がはずれた。僕の刹那の旅が挫折したわけだ。欲せざる時にやってくるお飯の種。嬉し悲しやである。

仕方なく、夕方より、最近出来た郊外型大型店舗へ出向いた。いやああ、野球場よりは広いか?。田んぼをつぶせば、瞬く間に町へはやがわりだ。ふと、「これでいいんだべか?」と思った。最大多数の最大幸福。みなで渡れば怖くない。食糧難の時代が来れば、その時、考えればいいということだろう。

僕が買ったもの。電気バリカンの親分みたいなもの。庭木手入れ用である。と、スコップの子分。これも、園芸用のものか?。なんとなれば、無尽蔵に伸びた垣根の枝葉を、この文明の利器で散髪に行ったがごとく、綺麗にするためだ。スコップは薔薇の館のご婦人からいただいた、薔薇の苗木を移植せんがために使うものだ。

おりもよく、今日は五月の雨。天気を見計らい労働にいそしむことにしよう。
       


2005年05月20日(金) 今日の思考回路はめちゃめちゃだ。

あれよ、あれよと言う間に、五月も三分の二を消化した。世の中の喧騒とは裏腹に、静かに僕の日常が過ぎていく。地震の恐怖さえ、今では遠い過去のように思える。やはり、人間って、現金なものよ。事あるごとに目くじらをたてるが、何事もなければ、いつの間にか、それも忘却のかなたへと追いやる。

何かの本で読んだが、人間の脳は忘れる技術を持っている。でなければ、もうとっくに脳はパンクしているはずだ。忘れるから新しいことを吸収できるわけだ。ただ、何かの拍子に、忘れていたことを思い出すことがある。夢を見るときは、そうかもしれない。忘れていたことが夢の中に出てくる。いいことなら良いが、悪夢だったら、一刻も早く忘れたいぜ。表面では忘れたように思えても、潜在意識はちゃんと、覚えているわけか?。脳ってまさに小宇宙である。生成から消滅するまでの記憶をきちんと脳に刻んでいるに違いない。おっと、今日は観念的な話になったようだ。こういう事を書くつもりではなかった。

先ほど遅ればせの朝食をとった。テレビでは、最近、復活したらしい、「隣のばんごはん」とかいう番組をやっていた。突然、大きなしゃもじが、家の中にずかずかと入り込んでくる。夕食をとりながら、団欒している家族は大慌て。晩御飯のおかずが映し出される。僕はふと思った。「みんな、食べているものは同じなんだなーー」と。そりゃあ、当たり前か?。

それにしても、母親は偉いと思う。使い慣れた鍋やコンロで、見事に調理を演じ、テーブルに配膳する。手をかけた料理が美味くないわけが無い。家族でつまめば、美味さは倍増する。まさに、庶民的日常風景だ。映像はそんな光景をあまねく映し出す。

時々、都会の高級レストランで、若い男女、もしくはシニアのカップルが高級料理をつまんでいるシーンを見ることがある。確かにかっこよく、僕も一度といわず何度も経験したい気になる。「状況は最高。後はプロポーズするだけか?ウッシッシー」という風に、事が運べばいいんだがーー。現実は厳しいよなーー。

ところで、僕は何が言いたいのか?自分でも分からなくなった。こういうことかもしれない。田畑に囲まれ、人、一人っ子いない静かな部屋で瞑想していると、庶民的な日常生活と、あでやかな都会で繰り広げられる、格好のよいセレブ的生活。その両方にあこがれている僕の心が見えますってことか?。。片方だけだったら変化が無くて息が詰まるからなーーーーうんんん。

いやいや、僕の本当の心は今、旅に出たいと叫んでいるようだ。そういえば、近々、旅行の話があったっけ・・・・。



2005年05月18日(水) 薔薇の花を差し上げたい人。

先日、薔薇の館の住人(大先輩の奥さん)から、電話があり、鉢植えの薔薇を頂くことになった。花より団子がすきな僕だが、人の好意を無駄にしてはなるまいと、即、車で出かけた。先月までは、ほとんど咲いていなかった薔薇が、いやああ、ものの見事に咲き乱れている。薔薇の花で覆われたゲートをくぐると、そこは雪国・・・。おっと、間違い。薔薇の国だった。

一瞬、思った。999のメーテルがいれば、僕はひざまずき、一本の薔薇の花を手折り、愛を込めてメーテルに差し出すだろう。メーテルは言うに違いない。「あら、もったいない。こんない美しい花を手折るなんて、罪深い人」とかなんとか。「いやああ、ごもっともです」と言って、僕はしゅんとなる。いけない。いけない。アニメの見すぎか?。

正直、驚いた。僕のイメージしていた薔薇の花の色は赤か、もしくはピンクがかった白ってところだ。ところが、さにあらず。いろんな色が交じり合った大小の花が、あまたとあり、「これ薔薇ですか?」と尋ねると、「みんな、そうよ」と、何の不思議も無いような顔で答えられた。

確か、誰かの句だったと思うが、「薔薇の木に薔薇の花咲く。何の不思議もなけれど」というのがあった。自然はありのままを、裏切ることなく当たり前に実行する。だから何の不思議も無いというわけだ。薔薇の館を訪れ、この観念を見直さねばなるまいと思った。「薔薇の木に、不思議な花の咲く。大いに不思議だ」ということになるだろう。よくは分からないが、薔薇も品種改良されて、今では何百種、何千種とあるのだろう。

薔薇の花は情熱の代名詞だ。男は情熱の証として、いとしい女性にこの花を手向ける。「あなたの唇は、この花にも増して美しい・・・・」とかなんとか、キザナ言葉で、女性を口説こうとする。女性も、その言葉に、ほろりとくる。たとえ、好きでない男性からの贈り物でも、一応受け取るだろう。その後の薔薇の花の運命は如何に?。僕のあずかり知らぬところだ。ともあれ、世の中は幸せか?。

そうそう、中高年女性をターゲットにした綾小路君麻呂さんの漫談を思い出した。「中高年女性の厚化粧。口紅をつければ、唇だけが若返り、まるで、あぜ道に咲いた彼岸花のよう・・・・」。これはあくまで、漫談の世界での話し。現実とは違うと思いますが、ここで、一応陳謝しておこう。

僕の好きな花といえば、やはりコスモスの花だ。思いでがいくつもある。山口百恵さんの「コスモス」という歌。これもそうだ。娘と母親の思いを歌っているが、何故か、男の僕が歌って涙を流しそうになる。母親は娘だけのものではない。息子である僕のものでもあると、僕は言いたいのだろうか?。分からない・・・。

まだある。道路沿いに植えられた、色とりどりのコスモスの花が風でなびいている様は、どこか郷愁を誘う。あんなにか弱いながらも力強く咲いている姿に、「生きる」ことに対する、ひたむきな情熱を感じるのだ。

そして、今も心に深く残っているコスモスの思い出といえば、数年前に見た、「釈迦内柩唄」という演劇。焼かれた人骨の灰で育った一面のコスモス畑。主役を演じた有馬理恵さんはせっせと、灰を畑に運ぶ。コスモスの一つ、一つの顔はみな違う。色んな人の思いをこめて、咲いている。あまりにも衝撃的なせりふだ。有馬理恵さんは僕が薔薇の花を差しあげたい女優さんである。


2005年05月16日(月) 貪欲についての一考察。

貪欲ということについて考えてみた。ぱっと思いつくのが、「だぼはぜ」という魚だ。えさらしきものを水中に放り込むと、手当たり次第にむさぼりつく。「ぱくっ」と食いつくのだ。釣り人にとっては面白い。僕も昔、海岸で、このだぼはぜを、よく釣っていた。僕も、だぼはぜ釣りに貪欲だったわけだ。

貪欲と言う言葉は、辞書によると、「次々と欲を出し、どこまでも満足しないこと。非常に欲張りであること。また、そのさま。金銭欲、物欲、だけでなく知識欲にもいう」とある。

辞書にあるとおり、必ずしも悪い意味として使われるわけではない。知識欲が旺盛な人にも貪欲な人と言う。学問の探求も、はたまた日本経済の発展だって、この貪欲さがなければ、実らなかっただろう。

ただ、僕が今、考えている貪欲とは、男女関係の中における貪欲性についてである。「愛は惜しみなく奪う」。まさにこれは、貪欲性の表れだろう。男も女も、そんなにまで貪欲に愛されたら幸せ冥利に尽きるわけだが、現実社会はそんなに甘くは無い。貪欲な愛のなかには、知らず金銭欲、物欲という厄介なものが見え隠れしている。

要は、そういった欲に対して、どこまで寛大であるかどうかだ。見過ごせるかどうかだ。愛と言うベールに包まれていると、その欲を見逃してしまうこともある。ある日、ふと冷静になったとき、猜疑心が生じる。そして気付くわけだ。貪欲なのはいいが、果たして、そこに「思いやり」という気持があるんだろうかと?。

貪欲も度が過ぎれば、いやらしさ、醜さに変わってしまう。計算高くなり、相手の心理をたくみに利用するようになる。愛というベールが、そういう感情を包含しているうちは良い。ただ、いかんせん、愛と言うベールは、次第に、思いやりと言う崇高な感情に打ち破られてしまうのだ。破局である。

笑うセールスマンの喪黒福造さんも言っていたっけ。「だから言わないことじゃない。欲もほどほどにせにゃーーーオッホッホーー」と。

貪欲の反意語は何だろう?。「無欲、少欲、淡白、無気力」という言葉が該当するのか?。これらの言葉もいい意味でも、悪い意味でも使われる。僕は常々、貪欲な女性は嫌いだった。貪欲であることに気付かないうちはいいが、時の経過とともに、愛というマントが剥ぎ取られ、露呈した醜さに唖然とする。とどのつまりは破局。懸命な女性は言うだろう。「わたしとて、あなたの貪欲さに辟易しているわよ」とかなんとか。少欲を自負してきた僕には、これはショックな言葉だ。

ただ、よく考えてみると、少欲が果たして美徳なのか?。少欲も少欲をむさぼると、貪欲とちっとも変わりはしない。今まではそのことに気がつかなかった。貪欲も少欲も極端に走ると同じである。同じならば、何が大事なのか?。やはり、思いやりなのだ。思いやりがあらゆる物を包含していれば、少欲であれ、貪欲であれ、関係はない。愛も継続する。

中庸という言葉がある。考えや行動が一つの立場に偏らず中正であること。極端に走らないなどの意味で使われるが、この考え方にも、是非があるだろう。事を荒立てない面では是かもしれないが、優柔不断、あいまい、いい加減というレッテルを貼られても仕方がない。

僕の結論だ。貪欲、少欲、中庸であれ、その根底に「思いやり」という気持が満つ満つしていれば、思考や行動も円滑に行き、愛も継続、持続できると思う。男女の間においては、特にこの思いやりを一番大切にしたいものだ。





2005年05月14日(土) ゲーテの詩を紐解いた。

どんよりとした曇り空。五月の空にはこういう日も多々ある。秋ではないが、なんとなく物憂く感ぜられる。恐らく近まりつつある、梅雨の前ぶれに心が騒いでいるからだろう。とは言え、僕にとって梅雨は嫌いではない。なんとなれば、雨が多いため、外出もある程度制限され、ゆっくりと思考できる時間がもてるからだ。早く来い、来い、梅雨ちゃん。歓迎だぜ!!。

それはそうと、昨夜、ネットであちこち巡回していた時、ある記事というか、メッセージに気が付いた。そこには、「励ましのメールが欲しい」と書いてあった。何があったかは分からない。何か、励ましの妙案はないものかと頭をひねっていた時、ふと、昔読んだ、ゲーテの詩を思い出した。早速、世界名詩集という本を、書棚の奥まったところから取り出した。いやああ、随分とご無沙汰だった。少々、埃をかぶっていたが、紐解いてみると、みずみずしい詩が、あまたと僕の目に飛び込んできた。

目指すは「ゲーテ」の詩。あった。あった。昔、この詩を読んで、いたく感動したものだ。再度、心にきざまんがために記載しておこう。

     困難な時期にある友だちたちへ。

  この暗い時期にも、
  いとしい友よ、私のことばをいれよ。
  人生を明るいと思うときも。暗いと思うときも、
  私はけっして人生をののしるまい。

  日の輝きと暴雨風とは、
  同じ空の違った表情に過ぎない。
  運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
  好ましい糧として役立てよう。

  魂は、曲がりくねった小道を行く。
  魂のことばを読むことを学びたまえ!。
  きょう、魂にとって苦悩であったものを、
  あすはもう魂は恵みとしてたたえる。

  未熟なものだけが死ぬ。
  他のものには神性が教えようとする。
  低いものからも、高いものからも、
  魂のこもった心を養うために。

  あの最後の段階に達して初めて、
  私達は自己に安らいを与えることができる。
  その境に至って、父によばれつつ、
  早くも天を見ることができる。   (高橋健二訳)

いやあ、素晴らしい詩だ。この詩にも、一元的ものの見方が描かれているような気がする。「日の輝きと暴風雨は同じ空の違った表情・・・すべては原子の密度の違い、濃淡の違いだ。喜びも、悲しみも、心も、死も生も、同じ原子の違った表情だ。欲と執着を離れれば、日々の出来事が違った表情で見れるに違いない。

分かったようで、分からないことを書いてしまった。男と女についても同じかもしれない。十人十色である。それぞれ違った表情を持っている。欲と執着を離れて相手を見れば、違った表情に気が付くはずだ。そこから心の平安に至ることもあるだろう。

ますます分からなくなった。それもそのはず。僕なんかすっかり欲の権化と化してしまっている。「幾ばくかでも欲と執着を捨てて、一元的に物事を眺めなさい」。ゲーテはそう言っているのかもしれない。ありがたい詩である。




2005年05月11日(水) 地球環境は、もはや限界に来ているのか?。

今日から、本格的な仕事体制に入った。どうも、中途半端な連休みたいなのがあると、仕事や、身の回りのペースも狂ってしまう。どこにも行けずじまい。仕方がない。ゆっくりと、部屋の掃除でもするかと思っていたが、それも成就せず。休日は休日で、雑用が山のようにあり、結構疲れる。主夫もつらいぜ。掃除する気になど、とんとなれなかった。こんなとき、代行車ではないが、代行ロボットがいてくれたら有難いと思う。たらふく飯の犬、猫じゃ、癒しにはなっても、掃除あれこれの代用にはならない。

「御主人様、次はどこを、お掃除しましょうか?」。「いやああ、もう十分だ。肩でも揉んでほしいなあーー」。「はい。分かりました。強さはこのくらいでいいでしょうか?」。「いたたたーーー。強度をワンランク落として。いやあ結構、結構。気持がいいぜ」。こういう代行ロボットの出現を誰もが待っているに違いない。

こういう時代が、早くやって来たら良い。昨今の、技術革新には目を見張るものがある。実現するのも、もう間近だろう。「技術立国、日本、万歳!!・・・」と叫びたいところだが、今日、駅の中の本屋さんで、衝撃的内容が書かれた本を見つけた。思わず買おうとしたが、2400円。うんん、時給3時間分か?。立ち読みで、あらすじだけを追えばいいかと消極的になり、買わずじまい。最近、外部収入が少ないから仕方がないか。本当は買いたかった。

本の結論は、既に、地球環境が限界に来ているというもの。温暖化、オゾン層の破壊、北極、南極の永久氷土の崩壊、世界的人口増、農業、工業、いろんな面からの地球環境の限界を説いていた。さもありなんと思う。

自然の恵みに、育まれた昔の地球はどこへ行ってしまったのか?。いみじくも、ロシアの有人ロケットに乗った、ガガーリンが言った。「地球は青かった」と。今もそうなんだろうか?。恐らく、今は、青と灰色がしのぎを削っている状態かもしれない。いずれ、「地球は灰色だった」ということになるのだろう。「灰色の地球を青に戻せ」と、叫んでも手遅れになる公算は強い。

例をあげれば、いとまがない。植物や動物、鳥類などの絶滅種の拡大がその顕著な例だ。身近では、めだかがどこへ行ったかを考えれば分かる。少なくとも10年以上前は、至る所に、めだかがいた。僕ものどかな、あぜ道を、童となり、麦藁帽子をかぶり、めだかすくいに興じたものだ。めだかの為に水槽を新調し、彼らの可憐な泳ぎを見るのが楽しみだった。

今や、あぜ道に沿って走るクリークをのぞいても、めだかの一匹もいない。あえて、何かがいるとすれば、悲しそうな顔をした蛇君、やせ細った蛙君ぐらい
か?。どちらかというと、僕の苦手な生きものばかりだ。綾小路君麻呂さんの言葉ではないが、「皆さん、この現実をどうお考えですか?」と言うことになるだろう。

列車事故、飛行機事故に代表されるように、身近な危険に対する危機管理もまだ十分ではない。「地球はまだ大丈夫」という安易な先入観があるのか、大きな存在に対する危機管理も不十分である。目先のことで精一杯で、手が届きませんと言うのが本音かもしれない。母なる大地が、きっと泣いているだろう。







2005年05月09日(月) いつものパターンが変化した日。

今日、のりちゃんと、和服のママが経営する小料理屋へ行った。あらためて言うまでも無いが、いつものパターンである。

ママの店にはカラオケがなく、常にBGMが流れている。ママは、根っからのフォークソング好きだ。高校時代に、部活でフォークソングをやっていたらしい。もちろんボーカルだ。店へ入ると、今日は五輪真弓さんの曲が流れていた。なんと、ママも口ずさんでいるではないか。様になっているからいい。歳に似合わず、笑顔もかわいい。客もはやるわけだ。
僕たちは、あっけにとられながら、生のビールを注文。演歌ではなくて、こういう歌を聞きながら飲むビールも最高だ。五輪さんの曲では、僕は「合鍵」という歌が好きだった。どうも、ママは知らないようだ。「この曲は僕だけのもの」とつぶやくと、ママはポカンと口を空けていた。「ウッシッシー」と僕はほくそえんだ。

最初、気がつかなかったが、四畳半の部屋に、のりちゃんとビジネス上の付き合いがある客が来ていた。のりちゃんは、すかさず、客との話にのめりこんでいった。「僕をほっといてどうするんだ?」と言いたかったが、今日は、のりちゃんに花をもたせようということで、彼らの話にくわわらず、もっぱら、ママとフォークソングについて語った。

類は類を呼ぶのだろうか?。しばらくして顔見知りの一見客が登場。彼もフォークソング大好きの男。僕たちは三つ巴でフォークのあれこれについて過去の記憶を呼び覚ました。次から次へと、知っているフォークシンガー達の名前と歌を連呼した。

高石ともやさん、マイク真木さん、南こうせつさん、伊勢しょうぞうさん、イルカさん、ビリーバンバンさん、カルメンマキさん、はしだのりひこさん、井上揚水さん、谷村新二さん、青い三角定規さん、さだまさしさん、もちろん、森山良子さん、加藤登紀子さん、武田鉄也さん、他にも多々、名前と曲が挙がったが、なにしろ、浅学の僕のこと。名前の漢字が思い出せない。

何を思ったのか、ママがイルカさんの「なごり雪」をかけて、自ら歌いだした。何度も、何度もである。特にこの歌が好きだそうだ。さもありなん。なかなか上手い。「客の気持はどうなっているの?」と、言いたかったが、言えなかった。歌も気にならないのか、のりちゃんは、相変わらず客との話しに夢中だ。自分を立ててくれる客とは馬が合うのだろう。こういう日も珍しい。僕のお株が奪われたって感じだ。まあ、いいだろう。

フォーク談義も尽きた頃、顔見知りの客が帰った。僕ものりちゃんを置いて帰ることにした。とりあえず、割り勘で自らの分を支弁。そっと、帰ろうとしたが、のりちゃんが気付き、「すまなかった」という顔をしていたのが印象的だった。

家に帰り、パソコンのスイッチをいれ、いつものごとく、一通り巡回した。
ふと、さる人のポイムに目が留まった。世の中には変わった人もいるものだ。なんだか、ずしんと迫り来るものがあり、考えさせられた。とりあえず今日は、おっと、もう10日になっていた。寝ることにしよう。
   


2005年05月08日(日) 長かった連休も終わったか。

いやはや、長かった連休もやっと、今日で終わりを告げる。良かった。良かった。連休とは何も関係がないのに、一人ほくそえんでいるこの僕も相当におめでたい人間だ。

ところで、昨日の土曜日は、今、旬の総会とやらが催された。嬉しいかな、僕は仕事で出席できなかった。総会後の懇親会には出席予定だったが、それも、危うくなっていたところ、ボスを始め、数人の仲間が待っていると言う。嬉しくて涙がちょちょぎれるぜ。てなわけで、僕も遅ればせながら合流。

既に二次会だ。行き先は決まっていた。僕が一旦勘当され、不死鳥のように復活を遂げたあの店。四人で出陣とあいなった。過去は過去。僕としてはなんのしこりも無いが、ママにとって見れば、今までは気のおけた僕でも、今は気のおけない僕ということになるのだろう。まああ、それは仕方がないことだ。満月の目玉から三日月の目玉にに変身したママの横顔を伺いながら、僕も言葉には相当の注意を払った。信頼を取り戻すには、もちょっと、時間がかかるだろう。

僕たちは例によって、点数がでるカラオケに興じた。なんと、ボスが最初から94点と言う高得点をマークした。十八番としている「やすらぎ」という歌だ。「あなたがその気なら仕方がないわよねと、・・・・」。ボスの哀愁のこもったこの歌を聞いていると、まさに、安らぎが欲しくなるから不思議だ。

次に、僕と同じ年の古ちゃんが歌った。彼は美声の持ち主で、歌もすこぶる上手い。安心して聞いていられる。点数もさぞかし高いだろうと踏んでいたが、さにあらず。僕はその時思った。以前、ママが言っていたことがある。「歌が上手いから高い点数がでるとは限らないのよ」と。「ええつ、何故?」と聞いたが、その理由は分からずじまい、恐らく機械との相性かもしれない。もしくは、設定の仕方か・・・・?。

今日は最高齢のボスに照準を併せて設定されているのでは?と、一瞬、いぶかしく思ったが、それじゃああということで、僕が挑戦した。数少ないレパートリーから、17番の「神田川」。これは名曲なんだよなーーーー。この曲を聞き、歌い、何度、涙したことか?。遠い青春の思い出の曲だ。キャベツをかじって、四畳半ふすま張りの部屋で、悶々としていた頃を思い出す。

「あなたは、もう、忘れたかしら?。赤い手ぬぐいマフラーにして、二人で行った横丁の風呂や。一緒にでようねって言ったのに。いつも私が待たされた。・・・・・・」。いいんだよなあー。このフレーズ。僕も随分待って、(風呂屋ではなくてバス停だった)振られたことを思い出す。しゅんとして、部屋に戻り、りんご箱ベッドのなかで泣いたっけ。

いかんせん。時の流れはすっかり僕の純な心を曇らせてしまったようだ。やましい感情が入り乱れて、機械が判読できなかったのだろう。見事、ボスに負けてしまった。世間とはこういうものだ。おっと、世間を責めてはいけない。機械に頼った僕がいけなかった。又の機会にしようということで、ボス共々、帰還とあいなった。

まあ、人生色々だ。要は限りある生をいかに楽しく生きるかだ。すべからく人生を乗り切っていけますように・・・アーメン。南無・・・・。


2005年05月06日(金) 今日は連休の二谷間だ?。

今日は連休の谷間の谷間。ということは、二谷間目と言うことになる。天気予報どおり、昨夜から雨。今朝までその余韻を引きずっている。いま、小康状態。まもなく、先日来の五月晴れに戻るだろう。ビアガーデンもオープンしている。うきうきである。

それはそうと、超零細事業主の僕としては、谷間だろうが、山の頂上だろうが関係は無い。ただ、がむしゃらに、ひたすら走るばかりだ。鞭を当てれば、ますます走るし、たずなを引いてやらないと、止まらない日々。

二・三日前に友人から同窓会の誘いがあった。高校時代のクラスメートが集まるのだそうだ。僕たちの仲間は、よくもまああ、集まるのが好きと見える。僕とてその例外ではないが・・・・。立ち止まるには丁度良い機会だったが、あいにく、その日は、はずせない仕事が待っていた。皆と同じように時間が取れればよいのだが、そうもいかない。車で故郷まで飛ばし、帰ってきても一日がかりだ。仕事を反故にするわけにもいかない。口をぽかんと空けて待っている扶養家族のことも考えなくてはならない。世帯主は辛いぜ。

ただ、いつも思うが、友人がいることは良いことだ。他人には話せなくても友人には色々と話せる。恐らく、利害の絡まない無垢の世界を共有し、今日までそれを引きずっているからに違いない。困っていれば真剣にその相談に乗ることも出来るし、また、こちとらも、乗ってもらえる。この関係は生きていく上で、一番良い関係かもしれない。

特に親しかった高校時代からの友人が数名いる。酒を飲み交わし、喧々諤々と夜を通して、世のあれこれを語る時が一番楽しい。それに、先公が加われば、最高のシチュエーションが整う。昔の失態を笑いでごまかしながら、強くもない酒を「ゴクリ」と飲み込む。いわゆる苦き良き思い出だ。

残念ながら、今回は失礼した。と、思うのもつかの間。今日、また、別の友人からテルあり。何でも、ビジネスで世界的に大成功した同窓生の講演会と、試写会があるから参加しないか?と言う。宝石が絡んでいると言う。宝石かーーーー。女性ならいざ知らず、石ころにはあまり興味は無い。そりゃあ、同窓生のよしみで、本物が99パーセント引きで販売があるというなら、触手も動くのだが。鉄人ではなく、愛人1号、2号、3号、4号、5号さんに、ばら撒いてもお釣りが来るかもしれない。これもかなわぬ春の夢だ。万に一つもありえないだろう。

いけない。いけない。なんと、さもしいことを考えるんだ。「オッケー。今のところ何も無いから入場券買っといて」と、返事をした。同窓生から、大成功した人が出るのは名誉なことである。働けば働くほど蓄積されていく人。働いても働いても両手からこぼれていく人。島倉千代子さんの歌ではないが、「人生いろいろ。人もいろいろ」である。いずれであっても、大事なことは本人が幸せかどうかということである。独楽鼠の僕としては、働いても、働いても両手から怒涛のごとくこぼれていくが、まあ、幸せだから、それで由としなくちゃ。とほほ・・・。

まずは、友と再会が出来る。それが楽しみだ。


2005年05月05日(木) こどもの日だ。でも子どもがどこにもいない。

五月五日、こどもの日。午前中晴れ、午後から曇り。夕方、小雨の一日だった。僕も今日だけは休日。子供を遊びに連れて行こうと思ったが、子供はいない。周りを見渡せど、他人様の子供だっていない。一体子供はどこに?。

テレビのニュースでやっていた。年々子供の数が減少しているそうだ。24年連続で減少とは驚きだ。よく引き合いに出されるが、総人口に閉める15歳未満の子供の割合が13.8パーセントで、65歳以上の割合は19パーセントを超えている。2030年になると、65歳以上の人口の半分以下に子供の数が減るそうな。由々しいことだ。

何故、子供の数が減っているのか?。理由ははっきりしている。女性が、というより、夫婦が子供を生まなくなったからだ。じゃあ、何故子供を生まなくなったのか?。これにもいくつか理由がある。まず第一に、子供を育てるのにお金がかかりすぎる。第二に、子供に手がかかりすぎて、自分の人生をエンジョイできない。(いまや、大人が遊ぶ時代だ)。第三に、共稼ぎのため、育児に専念できない。(じっちゃん、ばっちゃんが近くにいない。核家族化の弊害か)。

よく考えてみると、大人のえて勝手な理由ばかりである。又、それを容認し続けた行政側にも責任があるだろう。今更、幾ばくかの手当てを出すから、子供を生んでくださいでは、世の中が納得しないだろう。子供が将来を担う宝であるならば、もっと、抜本的改革、あっと驚くような改革が必要だろう。

たとえば子供を三人以上生んで、非行もなく15歳まで立派に育てた家庭には金300万円のご苦労様報奨金を出す。満15歳までの子供の教育費をすべてただにする。満5歳未満の子供の医療費をただにし、かつ、介護保険を適用し、共働き夫婦の支援をする。さあ、たくさん生んでちょうだいなと国家的に宣伝する。

そうは書いたものの、どこかおかしい。というのも、すべて金で片つけようとする姿勢が丸見えだからである。これじゃあ、育てられた子どもが、かわいそうかもしれない。何はなくとも愛情。夫婦に愛があれば、その愛から生まれた子どもは、まさに二人の分身。貧乏はしても愛を持ってはぐぐめば、きっと立派に子どもは育つはずだ。そんな分身なら何人いてもいいはずだ。

偉そうなことを書いてしまった。「それならあなたは子どもは何人いるの?」と問われたら、返す言葉が無い。ただひとつ言えることは、「僕はまだ現役ですぜ」、という言葉だ。


2005年05月03日(火) 一元的物の見方。

すこぶる良い天気とは今日のような日を言うのだろう。五月の風を背に、午前中に一仕事。午後に一仕事を終えた。仕事の成否はクライアントの満足度が目安になる。今日は大成功だぜ。思わぬご褒美があった。

とは言え、仕事を終えた後はさすがに外出する気になれない。ストレスはなくても、疲れはある。おっと、これは間違いか?。疲れがストレスであり、ストレスが疲れなのでは?。まあ、どちらでもいいか?。

刹那の時間、仮眠をした。これがいいんだよなー。パッチリとお目覚め。六時に夕食をとった。習慣とは恐ろしいものだ。我が家は決まって六時に夕食だ。山の神の鶴の一声で、「わおーーー、もう夕食か?」ということになる。さあ、今宵も長いぜ。何して遊ぶかな?。

ところで、最近、「生きて死ぬ知恵」という本を買った。駅の中の本屋に寄ったとき、題名の本を何気なく取り上げて立ち読みをした。体にビビッツと来るものを感じた。かの有名な「般若心経」というお経が、詩的に、分かりやすく解説してある。柳澤桂子と言う人が著者である。「般若心経」も色んな解説本が出ているが、なかなか難解である。

人一倍背伸びしたがる頃、哲学書とか、こういった部類の本を結構読んだ。実際は何も分かっちゃいなかった。ただ、今回は違った。著者が書いている「あとがき」を読んだ時、「そうか、そうなんだ。そうだったのか。」と、妙に納得するものを感じた。

著者は書いている。「赤ちゃんが生まれたとき、母親のお腹に乗せてやると、一人で乳首に到達する。本能的に自己と他者を区別している。この傾向はどんどん強くなり、自己と他者という二元的な考え方に深入りしていく。二元的な見方をすることによって、執着や欲が生まれる」と。

しからば一元的に物を見るとどうなるのか?。著者は続ける。「我々は原子から成り立っている。原子は動き回っているから物質の世界が成り立つ。宇宙のレベルから、この原子を見たとき、原子の密度に違いがある。これが宇宙を一元的に見たときの景色である。」と。

「あなたもありません。私もありません。けれどもそれはそこに存在するのです。物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。一元的な世界こそが真実で、私達は錯覚を起こしているのです。宇宙の真実に目覚めた人は、物事に執着することがなくなり、何事も淡々と受け入れることが出来るようになります」と。

これが、お釈迦様の悟られた境地であり、般若心経の真髄なのかもしれない。昔、友達と議論した時など、「色即是空、空即是色の世界だよ」とか何とか言って、したり顔をしていた。今、思うと、何にも分かっていなかった。分かっちゃいないことすら分かっていなかった。もちろん、今でもそうかもしれない。ただ、この本に触れた時、何となく、「いや、まてよーー」と思えるようになった。この本の題名にある、「生きて死ぬ知恵」とは、すなわち、生も死も一元的に見れば、一緒であり、あってないのに等しい。動き回る原子の濃淡の違いと言うことになるのだろう?。そのように考えれば死も怖くはないわけか?。いやーーーーー、まだ怖いぜ。

如何せん。日々、欲の権化として、利のみを追求するようになった僕に、欲やら執着を捨てることができるだろうか?。二元的世界にどっぷりと浸かってしまった今、否だろう。否かもしれないが、いつか、著者の語った言葉に、深く共鳴する時がくるかもしれない。その時が僕の死であり、また生なのかもしれない。




2005年05月01日(日) 叔父・叔母の日。

五月の初日。今、雨がしとしとと降っている。昨夜は雷を伴って、かなり激しく降った。大地が乾燥していたので、この雨は救いの雨だ。僕はこんな雨が好きである。行事目白押しで、浮かれ気味だった四月とおさらばし、青葉若葉の木陰に、静かに体を休める時、生の息吹をあまねく感じることが出来る。そんな五月・・・・。大好きだぜーーー。(メーテルがいればメーテルに叫びたいところだが)。

巷では、総会、総会と忙しい月かもしれない。株主ならぬ僕としては、何の関係も無い。ただ、雑多な仕事のあれこれがある。独楽鼠みたいに働いても、これは苦痛ではない。例によって、今日も午後4時から仕事。約2時間ほど空き時間ができた。この備忘録をしたためることにした。

そういえば、五月の八日は母の日。男たる僕にとって母はかけがえの無い存在。山ノ神も毎年、気を使って、幾ばくかの金銭を送付している。以前は、身に着けるものを送っていたようだが、これがなかなか難しい。帯に短し、たすきに長しだ。やはり、金銭が手っ取り早くていいのかもしれない。

母の日の後は父の日だ。父は既にいない。今や僕が父。どうも父の日は影が薄いようだ。僕も父が存命のころは、何もやっていなかった。従って、僕にも何のプレゼントも来ないだろう。まあいいだろう。父の日の代わりみたいな休日がある。勤労感謝の日である。11月だったっけ。やはり男は狩人なのだ。「勤労に感謝しています。これからも馬車馬みたいに、バリバリ働いてください」と言うことなのだろう。涙が出るぜ。

思うに、子供の日、母の日、父の日、勤労感謝の日、敬老の日とかがあるが、何か一つ欠けていませんか?。時々思うが、「叔父・叔母」の日を作ったらどうだろう。兄弟よりは、叔父・叔母にお世話になることが多いはずだ。そんな叔父・叔母に感謝の意を込めてありがとうと叫ぶ日である。

先日、叔母がなくなったから、余計、そう思うのかもしれない。小さいころ、よく可愛がってもらった。大人になり、随分と疎遠になっていたが、この叔父・叔母の日があると、もっと、密接に親交していたに違いない。

そう、山の神に言うと、「あんた、休日ばかり作ってどうすんのよ。叔父・叔母が何人いると思うの?。一人で勝手にしたら」ときた。さもありなん。ごもっともです。僕一人で、静かに感謝することにしよう。

ところで、その叔父・叔母の日はいつにするか?。仕方がない。僕の誕生日と一緒でいいだろう。まだ、国民の休日に昇格していないことだしーー。



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