umityanの日記
DiaryINDEXpastwill


2001年07月30日(月) 腰を振って歩いていますか?

タバコをやめて8ヶ月が終わろうとしている。何の抵抗もなくやめれれた。特に意志が強いわけでもないが、思い立ったらそうしないと気がすまない性格が功を奏したのかもしれない。こういう性格は一長一短があるが、うまく転べば、どんどんいい方向へ行く。僕の場合はそうだったのだろうか?。おかげで、書斎はきれいだし、車の中もきれい。窓のカーテンもクリーニングにだしたら、真っ白に変化した。これが元々の色である。不便と言えば、客がきたとき、灰皿を台所まで取りにいかなければならないことだろうか。いいままでは、必ずテーブルに載っていた灰皿の存在や、ライター、マッチのありかが、とんと気にならなくなった。なくて当たり前。テーブルが狭いから、今は何も乗っていないのだ。人間の頭の構造って本当に現金なもので、無責任なものだ。自分に関係がなくなると、すかっとわすれるようになっている。そうでなくては、頭もパンクしてしまうだろう。初恋が忘られなかったら、先へ進展しないし、新しい恋に着手することなんて出来ない。忘れるから、どんどん先へいけるし、他人さえも平気で傷つけることができるのだろう。
もちろん、謝ることを忘れたら、これは致命的である。
それはそうと、腰の周りが6センチばかり大きくなった。タバコを止めて大食いになったわけではなく、また間食をするわけでもない。結局、食べものの消化がよく、吸収される割合が大きいから、それが、贅肉になったのだろうか。昔のお気に入りのズボンが入らない。ファスナーがとまらないのだ。これではいけないと、金魚運動機なる機械を仕入れて足を乗せて腰を横に振っているが、果たしていかなる効果があるものや。元に戻すには相当の努力が射るようだ。どうも、最近、歩くとき、マリリンモンローみたいに腰を横に振って歩いているような錯覚におそわれる。まああ、モンローさんみたいにセクシーなヒップなら、町を歩くと、振り返って見られるだろうが、笑うセールスマンタイプの僕じゃ、「気がふれた人が歩いている」と、避けて通られるか、そっぽを向かれるのがおちだろう。いずれにしても、タバコを止めたという幸と、腰周りを大きくしたという不幸の両方を手にいれてしまった。さあ、これから、その不幸を追っ払うべく頑張らなくちゃ。


2001年07月29日(日) 足が痛い。蜂に刺されたようだ。

右足のひざから下の、むこうずねの横の肉が妙に痛いなあと思って、ズボンをめくって見ると、なんと、10円玉の太さに赤くはれているではないか。そういえば、昨日の作業のときに、足に「ちくり」という痛みが走ったことを覚えている。これくらいは日常茶飯事なので、気にも留めていなかったが、今朝から「ぽっかぽっか」と熱を帯びている。オロナイン軟膏でも塗っておくか。うんん、どうもこれは「蜂」に刺されたらしい。僕のおいしそうな練馬大根もこれじゃああ、人にみせられない。----------。てなわけで、足に違和感をかんじながら、見事に仕事をこなした。やれやれである。今日は蒸し暑いけど、曇り空。オフィスにクーラーを入れ、時折、庭先に植えた朝顔に目を向けながら、この日記を書いている。これは日記というより、だらだら記といったほうが良いかもしれない。それはそうと、参院選の投票日だというのに、えらく落ち着いているのは何故?。その答えは次の三つのどれでしょう?。1.まだ未成年である。2.不在者投票で済ませた。3.今回は棄権だ。正解は2番目の「不在者投票で済ませた」である。最近、不在者投票をする人が増えているそうである。また、昨夜、ラジオを聞いていたら、外国にいる人も、投票できるのだそうだ。ただし、今回は、選挙区ではなくて、比例代表選挙のほうだけらしい。いずれにしても、画期的なことである。21世紀初の国政選挙。
小泉内閣は「聖域なき構造改革」を掲げた。日本国民のみならず、世界がこの選挙に注目している。いかなる結果がでるか、わからないが、今、日本は抜本的改革が必要であり、その改革を成功に導かねばならない。改革に失敗すれば、日本は崩壊するだろう。21世紀は改革の世紀であり、飛躍の世紀にしなければならない。なぜなら、子孫に残すべき置き土産が何もないからだ。


2001年07月28日(土) 久しぶりの雑草刈り。蛇と遭遇せず。ラッキー。

今日は久しぶりに雑草刈りをした。長袖のシャツに長ズボン。長靴をはいて、頭にタオルをかけ、麦藁帽子をかぶる。まさに、野良仕事に精出すお百姓さんスタイル。これが実に僕に似合っている。真正面から見るとまるで、「りんご売りの少女」みたいにかわいい。自分で言うのもおかしいが。そういえば、昔、高校時代の仮装行列では、白衣の天子、看護婦さんに変身したことがあった。大きな注射器をもって、運動場を一周した。あとで、鏡をみたら、我が姿にうっとり。僕って女性に生まれてきたがよかったのか?。ふっと、そう思ったこともあった。おっといけない。野良仕事の話が、とんだところへ脱線してしまった。雑草刈りには、鎌がつきもの。今まで使っていたものは、刃こぼれがひどく、切れそうになかったので、新しく新調することにした。7500円の出費だ。痛い。だが、この鎌は業務用のなた鎌である。柄が長くよく切れる。得意の振り回しカット方式で、雑草を一網打尽である。僕が鎌を持ったときは、危ないので、まず人は近寄らない。僕も仕事がやりやすい。「何故、振り回すのか?」って。それには理由がある。僕の大嫌いな蛇を敬遠するためである。雑草をバサバサやると、蛇が驚いてにげてくれるだろうと、期待しているからである。どうも、蛇と雷だけは御免こうむりたい。最近は蛇も幾分か少なくなった。やはり、農薬のせいなんだろうか。蛇だけでなく、蛙も、当然おたまじゃくしも、めだかもアメンボウも、みずすましも、とんと見かけなくなった。友人が言っていたが、生態系の変化。これはゆゆしいことであると。ある種が絶滅に瀕している。いままでいたものがまったくいなくなると、やはり淋しい。「何も害を加えないのに」と思う。
またもや脱線である。雑草刈りのとき頭の中は、いつも蛇さんで一杯。よかった。よかった。今日は出会わなくて。ひとしきり汗をかいて、「おお腰が痛い」。僕も年だなあ----」。今が20代だったらどんなにかいいだろうと思う。もっともっと冒険と旅が出来るからだ。冒険と旅の話は、また何時の日かすることにしよう。仕事の後は、シャワーを浴びて、ビールでも、と言いたいところだが、僕は家では一滴もアルコールをたしまない。どんなに暑く、汗をかいてもだ。いつも、シーシーレモンの飲み物で済ます。以外と僕みたいな人も多いそうな。さああ、こよいはゆっくりと休憩して、明日のハードな仕事に備えることにしよう。


2001年07月27日(金) すかっとさわやかなこと。

タフマックの僕もややダウン気味。それもそうだ。この暑さ、不景気、心配ごと。不摂生。これだけでもダウンする理由には十分である。なにか、すかっとさわやかな事はないものか?。元気のでることはないものか?。「ただいま宇宙人との交信に成功しました。高度な文明を持ったエイリアンが地球に向かっているそうです。友好関係を築きたいと言っております。着陸地点は今のところ、判明しません。世界中の皆さん、決して暴挙にでませんように。かれらは友好関係を求めています。----------」。こういう身を心もしびれるような画期的なニュースが欲しいなあ。今は、どこを見回しても、暗い、悲しい、あきれ果てたニュースばかりだ。
友好関係といえば、昨今、日本は近隣諸国との間に、摩擦を生んでいる。いわずもがな、教科書問題、靖国神社参拝の問題である。教科書問題は歴史を正しく表現、理解することを前提にしなければいけないだろう。誇張や歪曲、美化があってはいけない。今、アジアの近隣諸国が、日本の歴史教科書の記載の訂正を主張しているには、それなりの理由があるのだろう。そうであるならば、お互いが十分に話し合って、納得のいく形を模索すべきだろう。排他的であってはいけない。一方、靖国神社参拝の問題は小泉氏が言っているように、二度と、過ちを犯してはいけないという反省と、そこに眠っている御霊に心からの冥福を願うことであるならば、何も問題はないように思えるが、根は深いようだ。要は、そのことをいかに近隣諸国に理解してもらうかだ。人間はもっと素直でありたいものだ。


2001年07月26日(木) 精進落としだ。パート3。

そうそう忘れていた。精進落としパートスリーを書かなくてはいけなかった。
さんざんアルコールを食らって、僕達は帰途についた。カラオケで90点をだして、ボトル1本せしめた喜びにひたりながら、友をホテルまで送っていった。もう0時を回っていた。明日は、母親の仏壇にお参りして帰るのだそうだ。もう一人の友人は明日は仕事。時間に余裕があるのは自営業の僕だけである。「ちょっと羽目をはずしすぎた精進落としだったなああ」と反省しつつ、僕も、いつ醒めるともわからない船をこいだ。案の定、翌日はバタンキューであった。昼近くまで頭ががんがん。友から携帯に電話が入っていた。即電話したところ、平気な顔でスカッとした様子。酔っ払って羽目をはずしたのは僕だけだったのか。情けない。まあ仕方がないか。自分で弁護した。彼は今日中に帰ればよいとのことで、せっかくのチャンスなので、新しく拡張された遺跡めぐりに彼を連れて行くことにした。5月、別のフレンドが来たときに行った遺跡である。その時は緊張のあまり、ほとんど遺跡を見ていなかった。何故って、美女と一緒に回る遺跡めぐり、緊張しないほうがおかしい。「男って純情なんだなあ」とあらためて思う。今回は男同士。あがる理由もない。いやああ、広いのなんのって。見て回るのに、相当の時間が必要だ。まあ急ぐ旅でもないということで、ゆっくり見学することにした。それにしても、よく歩いた。ゴルフで18ホール回った感じだ。人間の英知が築いた古代都市国家のたたずまいに、「へーーー」とあらためて、感動した。「女王、卑弥呼はこんな場所で、如術を行っていたのか、どんな顔をしていたのだろう」と、頭のなかを、美形の女性の顔が何人も浮かんでは消えた。思えば、人類の歴史は戦いの歴史だったのかもしれない。敵から身を守る為のいろんな施策があった。古代は環濠、中世は城、しからば現代はなんだろう。核兵器なのか。人間もやはり野性味を失っていない動物。戦いの本能を奥深く宿している。それを制しているのは、理性と兵器の均衡なんだろうか?。変なことを考えてしまった。友は母を亡くした悲しみもさながら、それ以上に自分を守ってくれた母の力と愛情に感謝しているようであった。
49日にはまた会うことにしている。(完)


2001年07月25日(水) こう暑いと愚痴ばかり

こうも暑いと気分がわるくなる。夏だから暑いのは分かっているが、「どうしてこんなに、どうして、何故、何故」と問いたくなる。少なくとも昔はこうではなかったような気がするからだ。いよいよ、地球も火の玉となって燃え尽きてしまうのか。太陽に地球が飲み込まれてしまうんではないかというような,錯覚さえ覚える。いや、これはもう錯覚ではなくて、近い将来、そうなるのではないかと不安にさえかられる。もちろん、今、地球に生きている我々には関係ないことではあるが。最近テレビ等で見たが、地球環境問題に関する京都議定書なるものの遂行に関して、アメリカが、反対しているそうで、残念である。地球温暖化、この暑さはとりもなおさず、人間生活が生み出した環境破壊といってもよいだろう。。人間自らが、協力して、破壊を食い止めなければ、子孫の明るい未来はないだろう。暑さのせいか、愚痴ばかりをこぼしたくなる。いけない。いけない。話題を変えよう。
先日、ネットで暑中見舞いをいただいた。涼しかった。魚が海で気持ちよさそうに泳いでいた。かなたを見るとバンガローがあり、過ごすには最適の離れ小島。「いいなああ」。思わずつぶやいてしまった。水戸黄門ではないが「人生苦あれば、楽もある」。汗水流して働いて、のんびりとバカンスを楽しむことがあってもいいだろう。だが、僕は貧乏性なので、働いて働いて、じっと手ばかり見ているるほうかもしれない。働いた果実は両手の隙間から、こぼれていく。バカンスにいける余裕などないではないか。真夏の夜の刹那の夢と思えば、それもまたよし。僕もすかさず、おかえしの暑中見舞いを送った。感謝、感謝のネット郵便だ。ネットの郵便ってはやいのなんのって。今受け取り、見てすぐ返事が相手に届く。いわば、声のきこえない電話みたいなもの-----文字と絵で電話しているようなものだ。おまけに動画ときている。涼しいうえに、楽しい。こういう文明の利器はおおいに活用すべきだが、環境を破壊するような文明の利器は御免こうむりたいね。また、愚痴が出始めたようだ。この辺でペンを置こう。


2001年07月23日(月) 涼を求めて!!暑い日の雑感。

梅雨も明けて見事な晴天が続いている。温度計をみると30度を越している。昔はこんなに暑かったっけ。なにか、すかっとさわやかな涼を求めて、どこかへ旅をしたいなああ。そういう衝動にかられる。涼と言えば、花火は夏の夜空を彩る風物詩であるが、先日は痛ましい事故がおきた。どっと繰り出した花火見物客が、橋の上で息も出来ないほどの過密状態。花火が終わり、方向性を失った観客は右往左往し、ついには将棋倒し。幼い数名の命が奪われた。なんと言うことだ。どんな状態でも、秩序ある行動がとれれば、こういう惨事は起こらないはずなんだが。悲しいかな、人間は、秩序を指揮されないと、秩序を守れない。指揮がないと、誰でも、われ先にと行動してしまうからだ。理性ある人間も他の動物とちっとも違わないではないか。何かをやろうとすれば、いつも危険は隣り合わせにある。やはり、集団が移動するときは、集団の心理を十分理解し、石橋をたたいて渡るほどの用心深さがあってもいいのだう。と同時に、危険に近寄らないことも大事だろうが、最初からそれが予測できないから厄介である。また、お互いに、「譲り合い、助け合い」の気持ちがあれば、もっと、おだやかに事がすんでいたかもしれない。残念である。反省点はいくらもある。
涼の話が、あらぬ方向に行ってしまった。
最近、フレンドから暑中見舞いが届いた。きれいな絵ハガキと、におい袋が添えてあった。嬉しいものだ。5月に会って以来、まだ数ヶ月しか経っていないが、もう随分、時が流れたような気がする。それくらい、日々の雑多に追われ、過去を回想する余裕を失っていたのだ。手にしたハガキが何故か、温かく、懐かしく、元気でいてくれたこと、僕を忘れずにいてくれたことが、何よりも嬉しい。僕はまだ、何のお返しも出来ていない。フレンドが忘れた頃に、「あっつ」と驚かしてやるのも、これまた一つの「涼」かもしれない。「待ってて頂戴ね」。そして今は、ただただ、有難うという感謝の気持ちを伝えたい。
さああ、今から仕事だ。今日もがんばるでーーー。フレンドちゃん。


2001年07月21日(土) 精進落としだ。パートツー。

友が遠方より来て帰った。母親の葬式だった。僕も出席し、夜は精進落としで、遅くまで飲んだ。友は次男坊で長男がすべてを取り仕切ったので、とくに何もすることはなかったようだ。こういう言い方が良いかどうか分からないが、こういう点では次男坊以下は楽かもしれない。ただ、何何坊であっても、悲しみや流す涙に差はない。恐らく通夜の日は帰らぬ母親の姿を見て、友もひそかに布団の中で泣きじゃくっていたに違いない。男ってそういうものだ。やたらと、他人の前では涙をみせない。僕も次男坊だから同じことをするだろう。その夜は、もう一人の親しい友達を呼び出して三人で5件もはしごをしたようだ。最初は焼き鳥屋に行った。いつも込んでいる老舗である。二件目が小料理屋。一見客が皆、顔見知りで友達という、ノンベーが集まる店である。ままいわく「あら、いらっしゃい」。もっと他に言い方はないものか?。ここでひとしきり、だべって歌った。三件目は20代の若い女性で、むんむんの、クラブ。しゃなりしゃなりのママさんがいて、「先生、いつも有難う」と言われる店である。ままの笑顔を見ると、つい「また行かねばなるまい」と思ってしまう店である。ここで、ふたしきり、焼酎をのんで、若い女性たちと、ファッションの話から、恋人の話から、もう何でもござれで、楽しく過ごした。男三人に三人の女性だから、誰もひがむものもいなくて、上々。おまけに時間無制限で5000円程度。「わおーーー」といいたくなる良い店。時計を見た。まだ10時半。どうも中途半端な時間である。じゃあもう一件ということで、歌って踊れる店で、ほとんど外国人(フィリッピン、ロシア、他)が接待してくれるところに行った。彼女達は日本語が上手である。「いい男ね」と言われると、まんざら悪い気はしない。「男は度胸だ」と言うことで、三人とも前のステージで大声を張り上げて歌った。もちろん、僕は古い歌だが、イングリッシュソングで、「ラブストーリー」を歌った。彼女達いわく。「お兄さん上手ね」。僕いわく「そう?」。まあこんな感じである。友たちもそれぞれに意気投合。佳境に入ったかなとおもったころ、ボーイさんが「時間です」と来た。延長は止めて帰ることにした。うんんん、どうも後味が悪い。そう思ってふっと、看板を仰いだら、あった。あった。カラオケ道場スナック。過去二回、僕が90点以上をだして、ボトルをまんまとせしめた店である。「さああ、そろそろ挑戦すっか」ということで、少々酔っ払っていたが、足を踏み入れてしまった。占めて五件。ご和算では?。良くわからなくなったので、ネクストタイムにしよう。(続く)


さあ、いよいよ打ち止めのラストストアー、五件目の店に足を踏み入れた。「わおーっつ」と叫びながらはいると、ママさんと、従業員が手持ち無沙汰で、退屈している様子だった。僕達は、ひとしきり、挨拶を終え、カラオ道場で、のどを競うことになった。僕は過去二度ほど、栄冠を勝ち取ったが、いつも柳の下にはどじょうはいない。あとは総討ち死にで、辛苦をなめてきた。喜んだのは、百円玉の目をもった、ママさんだけである。今宵は、返り討ちにだけはなりたくないと、エンターテーナーの友人二人がお供で、僕も心強かった。客はいなかった。例によって、焼酎のお湯割をたのみ、いざ挑戦。精進落としの友人が、しょっぱな89点をたたきだした。さすがにつわもの。ママも、一瞬、どきっつとしただろう。審査員に、つのだひろ氏に似た、ひげもじゃらの男がいる。これがじつに辛いのだ。彼の得点がもう少したかければ、90点クリアは間違いなしであったのだが。もう一人の友人も無難に80点代。僕は、つのだひろ氏の「メリジェーン」を歌った。わが持ち歌を歌われると、つのだひろ氏も悪い気はしないだろう。そこをねらったわけではないが、どうしたことか、今度は最初の二人の審査員の点数が辛く、85点どまりだった。「うんん悔しい」と思えど、ようは、力が入りすぎで、音程がふらふらしていたのだろう。解説はいらないか。幾たびか、同じ状態が続いた。「うんんん今日も駄目か。それじゃ、最後に一曲ずつ歌ってかえるっぺ」ということで、まずは友人の一人が、またもや無難に80点代。次に精進落としの友人が、「点数の出る歌いかたをするか」と変なことを言って、なにやら、まじめな歌を歌いだした。なななあああんんと、93点、93点、84点で、平均90点。「わあおおおおおおっつ、ついに出たぞ」。われわれは小躍りして喜んだ。ママは、冷静に「90点がでたのは久しぶりね」と、目玉をくりくりさせて、喜んでくれた。見事、ぼとる一本げっと。僕が、ちょびちょび、いただくことにした。僕も、悲願がかない、とりの僕の歌は80点。まあ、こんなものである。0時をまわり、人もまばらになった街角をタクシーで岐路についた。友人のひとりは明日、いや、今日は出勤日である。(続く)























2001年07月20日(金) 精進落としだ。パートワン。

友が遠方より来て帰った。母親の葬式だった。僕も出席し、夜は精進落としで、遅くまで飲んだ。友は次男坊で長男がすべてを取り仕切ったので、とくに何もすることはなかったようだ。こういう言い方が良いかどうか分からないが、こういう点では次男坊以下は楽かもしれない。ただ、何何坊であっても、悲しみや流す涙に差はない。恐らく通夜の日は帰らぬ母親の姿を見て、友もひそかに布団の中で泣きじゃくっていたに違いない。男ってそういうものだ。やたらと、他人の前では涙をみせない。僕も次男坊だから同じことをするだろう。その夜は、もう一人の親しい友達を呼び出して三人で5件もはしごをしたようだ。最初は焼き鳥屋に行った。いつも込んでいる老舗である。二件目が小料理屋。一見客が皆、顔見知りで友達という、ノンベーが集まる店である。ままいわく「あら、いらっしゃい」。もっと他に言い方はないものか?。ここでひとしきり、だべって歌った。三件目は20代の若い女性で、むんむんの、クラブ。しゃなりしゃなりのママさんがいて、「先生、いつも有難う」と言われる店である。ままの笑顔を見ると、つい「また行かねばなるまい」と思ってしまう店である。ここで、ふたしきり、焼酎をのんで、若い女性たちと、ファッションの話から、恋人の話から、もう何でもござれで、楽しく過ごした。男三人に三人の女性だから、誰もひがむものもいなくて、上々。おまけに時間無制限で5000円程度。「わおーーー」といいたくなる良い店。時計を見た。まだ10時半。どうも中途半端な時間である。じゃあもう一件ということで、歌って踊れる店で、ほとんど外国人(フィリッピン、ロシア、他)が接待してくれるところに行った。彼女達は日本語が上手である。「いい男ね」と言われると、まんざら悪い気はしない。「男は度胸だ」と言うことで、三人とも前のステージで大声を張り上げて歌った。もちろん、僕は古い歌だが、イングリッシュソングで、「ラブストーリー」を歌った。彼女達いわく。「お兄さん上手ね」。僕いわく「そう?」。まあこんな感じである。友たちもそれぞれに意気投合。佳境に入ったかなとおもったころ、ボーイさんが「時間です」と来た。延長は止めて帰ることにした。うんんん、どうも後味が悪い。そう思ってふっと、看板を仰いだら、あった。あった。カラオケ道場スナック。過去二回、僕が90点以上をだして、ボトルをまんまとせしめた店である。「さああ、そろそろ挑戦すっか」ということで、少々酔っ払っていたが、足を踏み入れてしまった。占めて五件。ご和算では?。良くわからなくなったので、ネクストタイムにしよう。(続く)


2001年07月19日(木) 海の日に寄せて

7月20日は祝日、海の日だ。海と言えば、思いでもたくさんある。遠くまで泳げることを自慢したくて、一人で沖まで行き、なんだか急に恐くなり、あわてて岸に戻ったこと。「ああああ、だれも注目していない。疲れたなあ」と、がっかりしながら泳いだこと。山瀬まみさんではないが、海にぽっかり浮かんで流れ行く雲をみていたら、いつのまにか、あらぬ方向に流されていて、大慌て。時には海の中で、縮んで丸くなった一物を取り出して、太平洋に放尿したこともあった。沖の場合は、誰にも疑われずに処理できるが、人が一杯のところではそうもいかないようだ。冷たい海水の一部分がやけに、生暖かくなり、「おや変だぞ」と気付かれてしまう。おまけに、あぶくが「ぶくぶく」と浮かび上がってくる。何もしらずに、その海水を口に含んでははきだし、呼吸をしている人もいる。おめでたいことである。これは、かならずしも、僕の経験ばかりではなく、友達をも含めた経験であることをまず、断っておかなければならない。「弁解がましいぞ」と言われそうであるが。いずれにしても、生命が海から生じたのであれば、われらは「海の子」である。しかるに、長い地上生活は、われわれを「海の子」から「山の子」というか、「平地の子」へ、変えてしまった。最近、泳げない人が結構いるそうである。確かに、小さい頃から水泳教室に通わされて、プールで泳ぐことは得意な人も多いが、海となると事情は違う。海は塩辛いし、寄せては返すし、生き物だから、扱うのが厄介である。プールのようには、うまくいかない。海では、オリンピックみたいに早く泳げなくても良いが、少なくとも海に体を任せ、いつでも一体感を体得できるようになれば幸いである。その海であるが、最近、どんどん汚れてきている。われわれの先祖が海から生じたことを思うとき、海を汚くは出来ないはずだ。海は甲羅を焼くところではない。母なる海の懐に抱かれて、悠久の歴史に思いをはせる場である。「海をきれいにしよう」。「海で泳ぐことに慣れよう」。「決して自信過剰になってはいけない」「海に優しく抱かれよう」。海の日に寄せてなんだか、説教じみたことを書いてしまった。


2001年07月17日(火) ホスピス病棟に叔母を見舞って(3)-(6)

僕はインターネットで予約していたホテルへ向かった。大きなホテルかなと思っていたが、そうでもなかった。値段も安いからこんなものだろう。すんなり、チェックインできた。やせ衰えた叔母の姿が頭から離れず、どうも、ホテルで静かにテレビを見ている気にはなれない。シャワーを浴びて、食事にいくことにした。海とも山ともつかない異国の地で、一人街をさまようのも淋しいものだ。こんな時、フレンドでもいれば、少しは心もやすまるのだが、現実はなかなか思うようにはいかないものだ。
駅の周辺をうろうろしていたら、こじんまりした小料理屋を見つけた。中に入ると、中年のママさんが一人と、お客が一人いた。カウンターがあって、冷凍庫のなかに、魚が安置されていた。早く食べてもらいたそうな目をしていたが、どうも、食指が動かない。とりあえず生のビールに枝豆と冷奴を注文した。ここの店は居酒屋みたいに、値段が壁に貼ってあり、良心的な店のようだ。湿度が高く、汗びっしょりだったのでビールがおいしかった。中ジョッキで生を二杯も飲んでしまった。つまみはと言えば、冷奴の次が、鮭のオイル揚げ----これは本日の目玉商品らしい。、イカ納豆、これが実においしかった。ビールの次に焼酎のお湯割を頼んだ。やがて、サラリーマン風の客が数人やって来た。ビールを飲みはじめた。ほぼ小1時間たっただろうか。時計は8時を回っていた。さああ、アルコールはそこそこ飲んだ。最後に「おにぎりはないかなあ」と言ったところ、シャリ、ご飯はありますとの事。「じゃあそれ、お願い」と言って、漬物で食した。いやあああ安上がりのうえに、味も上々。とりあえずホテルに戻ることにした。まだ9時前である。夜のネオン街に繰り出すには、金は十分でも、心が今ひとつ燃えない。叔母の見舞いが本題に付き、静かにベッドで横になることにした。(続く)

ほどよく利いた空調のせいか、ぐっすり寝込んでしまったようだ。朝は5時半に目がさめた。場所が変っても、目はほぼ同じ時間にさめる。朝食には早いし、もうひと寝入りすることにした。おお、もう7時半か。深寝入りをしたようだ。すぐおきてシャワーを浴びた。今流に言えば「朝しゃん」ってとこだ。8時に朝食に下りた。和食と洋食。朝はやはり和食が良いようだ。例によって、卵、のり、味噌汁、鮭に漬物。お決まりのコースである。この程度が胃にもたれずによい。
さあ、今日は時間の許す限り、叔母のそばにいてやろうと思った。9時に病院に到着した。それにしても、患者さんの多い病院である。朝から一階は外来の患者で、ごった返していた。僕は7階へ急いだ。7階はまるで、まだ深い眠りの中にあるかのごとく静かだった。案の定、叔母も息苦しそうに寝ていた。僕が来たことにもきずいていない。看護婦さんたちに挨拶をして僕はベッドのよこの椅子に腰掛け、叔母の眠りにあわせて、うつらうつらすることにした。もちろん、真のねむりではない。頭の中はピリピリしていた。10時ごろ、看護婦さんが様子を見にやって来た。いや、まず驚いた。ホスピス病棟の看護婦さんたちは、それはそれは、親切丁寧、思いやりのある言葉使い、すべてにおいて、普通の病棟の看護婦さんたちと違って見えた。別に看護婦さんたちの良し悪しを比較しているのではない。心のケアを中心とした看護であれば、当然と言えば当然なのかもしれないが。今日、叔母を担当する若い看護婦さんが僕に話があるという。僕は個室に案内された。多分、叔母のこれから先の運命と言うか、状況についての説明でもあるのだろう。僕は何をいわれても、心の準備は出来ていた。もちろん、看護婦は自分の領域を越えてしゃべることは出来ない。僕は単刀直入に聞いてみた。「叔母の余命はあとどのくらい?」。もちろん彼女に答えうる資格はない。ただ、察するに、年を越すことは難しいようだ。看護婦さんは僕に聞いてきた。「叔母さんはどういう性格の方で、どんな趣味をおもちだったのですか?」今後、叔母に接していくときの参考にしたいとの事だった。なるほど、ホスピスとは、家族同然の一体となった心のケアをめざしているのだと言うことを理解した。確かにそうだろう。どんなに、医者や、看護婦や、設備が優秀であっても、家族同様の心のケアがなくては、患者の本当の心の平安は得られないのだ.僕は叔母について知っていることを彼女に告げた.また彼女は担当医ではないが、チームを組んでいる医師を紹介するから、聞きたいことがあれば聞いてくださいと、医師との接見を取り計らってくれた。
思ったとおり、叔母の余命は年を越せそうにはなかった。(続く)


もうここまでくれば、一気に書かねばならないだろう。日が経つと、心の高ぶりもしぼんでしまうからだ。ホスピス病棟に移ったと聞いたときに、叔母の余命について、ある程度、覚悟を決めていた。驚きはしなかった。よく人が「人生は命の長さが問題なのではない。いかに命を燃焼させたかが問題である」と言う。こういう第三者的表現には大いに嫌悪を感じる。命の燃焼がどうこうのなんて、本人以外には分かるはずもないではないか。本人にだって分からないかもしれない。ただ、叔母は自分の余命を知ってか知らずか、ホスピスに身を投じ、達観として生を全うしたいと心に決めたのだろう。僕には叔母が「十分に命を燃焼させた」なんて、到底思えない。生も死も人生の裏表。ただ形をかえただけであり、宇宙の真理、絶対的なものは、何も変っちゃいない。要は宇宙に生まれ宇宙に帰っていく。これが、絶対的真理であり、さけられない宇宙の法則である。叔母はたぶんあきらめと同時に、そういう宇宙の真理にきずいたのだと思う。僕はそう思って叔母の最後を見取ってやりたい。今、そう考えている。
昨日と違い、今日の叔母は始終、眠ったり、移ろう眼で僕の顔を眺めているだけだ。僕は「ゆっくり休んで」と、笑顔で応えるのみ。時が流れて、昼を告げた。昼食だ。僕は叔母に外で食事をしてくるからと言い、しばらく、ベッドから離れることにした。(続く)

病院の外へ出た。蒸し暑い。何でも梅雨が明けたとテレビかラジオが言っていたそうだ。今の僕には関係のないことだった。ぶらりと近くを歩いてみることにした。どこにいってもあるような平凡な風景。そういう印象だ。レストランか喫茶店か、そういう店を探して歩いた。病院の周りを一回りする頃、小さな喫茶店を見つけた。中に入ると業務用の埋め込み式エアコンが気持ちの良い風を僕に送ってきた。小気味の良い中年の女性と愛想の悪いアルバイト風の若い女性がいた。僕は昼の定食を告げると、中年の女性が、今日は昼の定食(いわゆるサービスランチのこと)はありませんときた。「えええっ、そうか今日は土曜日で、サラリーマンはお休みか」。ぼくは自分に納得しながら、メニューを見て、「冷やめんにしようか」言ったところ、すかさず「冷麺でしょう?」と訂正されてしまった。「なるほど」と言って思わず笑ってしまった。ここは日本といえども異国の地なのだとあらためて、自分のいる場所を確認した。
30−40分いたであろうか。そう美味くも感じない冷麺を食し、アイスコーヒーを飲んで、病院に戻った。
叔母はベッドに座って食事をしていた。というより、はしは、もう動いていなかった。おもむろに、お膳を下げて欲しい旨を看護婦さんに告げ、再び横になった。ちょうどそのとき叔母の母方のいとこがやって来た。もちろん僕は初対面である。なんでも、こちらには叔母の母方の親戚は結構、いるのだそうだ。それも、ほとんど、いとこで、叔母の母方の叔父、叔母はもう亡くなっていないのだそうだ。僕は数少ない父方の親せきである。そうか、叔母は孤独ではなかったのだと、少し安心した。いずれにせよ、近い将来、父方であれ、母方であれ、親せきは何らかの形で顔を合わせることになるのだろう。ひとしきり、今までのいきさつや、今後のことを話し合った。こういう機会がもてたことは、今回の見舞いは良いタイミングだったのかもしれない。
午後2時を過ぎた。もうお別れを言わなければならない。いとこが来てくれたので良かった。
僕は叔母の手をとって、言わないつもりだったことを言ってしまった。「叔母さん、病気なんかに負けちゃいけないよ。やっつけなくちゃ。たくさん食べて体力をつけなくちゃ」。ホスピス病棟は病気の治癒の為に、励ますところではないと分かってはいたが、思わず言ってしまった。励ましてしまった。後悔はない。僕は叔母に手を振った。叔母もじっと僕を見据え、手を振った。「またくるからね」という言葉を最後に僕は後ろを振り向かずまっすぐ、病院の外へ出た。(続く)




2001年07月16日(月) ホスピス病棟に叔母を見舞って(2)

叔母は比較的元気そうに見えた。僕に弱々しいところを見せたくないと思い、少し、無理をしていたのかもしれない。叔母はじーっと僕の目をみつめていた。あれこれと昔話をしていると、医者がやって来た。いろいろと、具合を尋ねて、本人の希望することを聞いていた。看護婦はしきりにメモをとる。叔母は的確に話をしていたようだ。今は病状もやや安定しているとのこと。医者の回診が終わって、程なくしてリハビリの先生がやって来た。「今日、どうします?。すこし散歩しようか」と声をかけられた。叔母は「そうですね」と言って、先生に抱きかかえられるようにして車椅子に移った。今は一人では何も出来ないのだ。肝臓に出来たガンが腰に転移して、両方の骨盤やらをこなごなに砕いているとの事。まともに椅子に座ることは痛みがあって苦痛なのだ。それでも、モルヒネかなにか知らないが、痛み止めの薬を飲み、ほんの短い時間なら、車椅子にのれるらしい。僕は、後ろから椅子を押した。複雑な気持ちだ。叔母の顔は見えないが、座れて動けることの喜びを感じているようだった。観葉植物があり、窓の外側に大きないけすがあった。黄金色のコイが悠々と泳いでいた。叔母は、楽しそうにコイを眺めている。ゆったりしたコイのしぐさは、叔母の心の平安と同調しているのだろうか。「そろそろ帰りましょうか」とリハビリの先生が言った。叔母は「はい」と返事をして、部屋へ戻った。再び、ベッドに横になり、少し疲れたのか、目を閉じたり開いたり、うつろな表情に変った。多分、薬の影響かもしれない。僕は叔母の手をとって、「安心してやすんだら」と声をかけた。もう5時を回っていた。僕はホテルのチェックインをするので、明日またくると告げ、病院を後にした。(続)


2001年07月15日(日) ホスピス病棟に叔母を見舞って(1)

新幹線に乗ったのは何年ぶりだろう。トンネルがやたらと多い。この欠点をのぞけば、早くて、乗り心地も悪くはない。時折、窓から外が見えた。ひしめきあって建っている家々。ビル、工場。そして、眼前に広がる田園風景、野、山。驚いた。意外と緑が多い。田んぼの早苗もさることながら、あちこちに緑が一杯である。それもそのはずだ。レールは山間部を通っているわけであり、緑が多いのは当たり前だろう。ここが落とし穴かもしれない。緑が多いと地球環境もまだまだ大丈夫だと錯覚してしまう。本当は緑は激減しているのじゃなかったのか?。頭の中でそんなことを考えていた。そうこうしているうちに、のぞみと言う名の電車は目的地の駅に「すーーーっ」と滑り込んだ。人の後にくっついて、いざ出口へ。今は便利な自動改札口。出口の機械に切符を滑り込ませた。な、なんと、見事にシャットアウトだ。最初からその予感はしていた。駅員がやってきて、「この切符は大きいから通りませんよ」と言って、手動で出してくれた。なんで、僕の切符は大きいのか?。質問しようとしたが、因縁をつけていると思われたくなかったのでやめた。駅構内から外に出た。さあ叔母の入院している病院へ直行だ。時間は午後三時を回っている。病院はタクシーで5分程度の駅から近いところにあった。受付で入院名簿の確認をした。確かに叔母の名前がホスピス病棟にあった。ホスピス病棟---テレビでみたことはあったが、実際に足を踏み入れるのはこれが最初である。ナースステーションで面会名簿に記入し、看護婦が叔母に告げに行った。すぐ僕は叔母と面会できた。叔母は4人部屋の入り口に近いところにいた。僕を見るなり、「無理せんかてよかったのに」と目を潤ませて力のない声でいった。僕は「大丈夫、大丈夫」と言って、骨と皮だけになった叔母の手を取った。数年前の法要以来の再会である。
(続く)


2001年07月12日(木) 冷えたグラスに冷えたビア。

昨夜は久しぶりに早く寝た。疲れていたのだろう。それもそのはず。一昨日は例によって午前様。仕事を終えて時計を見たら、午後6時。「そうか、暖簾はつるされたか」。思わず、脳裏に暖簾が浮かんだ。とそこへタイミングよく、中国人女性と結婚した友人から電話。話があるとの事。これ幸いと暖簾をくぐることにした。霜を張り巡らしたように冷えたビアグラスになみなみと液体を注ぎ、ごくごくと飲み込む。これが実にうまい。やはり、ビールは冷えたグラスに冷えたビールにかぎる。実は今までそのことをしらなかった。別に知る必要もなかったが、無知とは恐ろしいものだ。以前は、出してくれる普通のグラスでそのまま飲んでいた。バラの木にバラの花が咲く。何の不思議もなけれど。ところが、一見客のひとりがいつも冷蔵庫のようなところから仰々しく運ばれてくるグラスでビールを飲むのだ。「へーーーー彼専用のグラスだな」と取り留めて気にしていなかったが、どうも、差をつけられているようで、僕も冷えたグラスを頼んでみた。いやああああ、びっくりこいたの、なんのって。実にうまいのだ。グラスの冷気と冷えたビアがぶつかり合い、引き締まった味をかもしだす。別の表現を使えば、暖流と寒流がぶつかりあうところで成長した魚を食べているみたいなものである。「どんな味」って?。それはもう、筆舌しがたいほどの妙味である。ここまで、誉められれば、飲まれるビールも本望だろう。僕たちはのどが渇いていたせいもあり、たて続けに、数杯ごくごくとやった。ひとしきりついたところで、「さああ本題だ。ところで何だったっけ?」。発言権をもたない友人は相変わらず中国人妻と彼の父、母との確執に悩んでいるという。これはゆゆしい問題である。僕に分かるはずもない。ただただ、時の流れのなかで、理解を深めて行く以外に手はないだろう。と同時に彼女をかばえるのは彼以外にいないということを、認識すべきだろう。紙面のせいにしてはいけないが、この件はあらためて考えてみたい。


2001年07月11日(水) 叔母さん、いよいよ会いに行きますよ。

今日は雨。再び梅雨前線が南下して雨を降らせている。おかげで、異様な蒸し暑さから開放されて幾分か過ごし易くなった。災害が生じない程度に雨、雨、降れ降れである。昼間ちょっと、切符を買いに駅まで行った。いよいよ、僕の旅の始まりだ。世界旅行への出発なら心もうきうきだが、そんな大げさなものではない。近県への一泊二日の一人旅である。しかも、観光ではなく病気のお見舞いである。僕の顔は今、とてもまじめになっている。叔母がいよいよホスピス病棟に移った。まだ、一般的には社会の中で十分容認されていないホスピス病棟。要するに、治療をせずに、ガンならば痛み止めの注射だけを行い、後は心のケアに重点を置いて死を迎える人の援助をする病棟と言ってよいだろう。叔母は自らそれを選択した。言いようのない悲しみだけが込み上げてくる。自分の生に自分なりの決着をつける。このことって確かに大切なことかも知れない。死が避けられないものであるならば、自分の意志で死を選択する自由を人は持ってもいいのかもしれない。一方、延命出来るなら、徹底的に延命の方策をとりたいと思う患者や家族がいることも忘れてはならないだろう。どちらかと言えば、このほうが社会の趨勢であろう。奇跡だって起こるかもしれない。あるいは、ひょんな切っ掛けから、特効薬だって見つかるかもしれないではないか。僕の率直な気持ちは、本人の意志は尊重したいが、徹底的に戦って欲しいと思う派である。
今、どういう顔をして叔母に会ったらいいのか思案している。「がんばってください」と励ましたがいいのかどうか分からない。多分、僕はそうは言わないと思う。延命して生きようと思っているなら、そう言うだろう。「おばさん頑張って。病気なんかに負けてはいけない」と。今、心静かに、死を自ら受け入れようとしている叔母。きっと、心は穏やかなはずである。僕は妙案を思いついた。叔母へのお土産だ。僕の日記集だ。昨年からのを入れると相当の枚数になっている。とりあえず、今年の分をラインプリンターで印刷して持っていこう。叔母はどういう気持ちで読むかは分からないが、甥である僕のことを、ほほえましく思いつつ、何度も何度も読みかえすに違いない。これは僕のうぬぼれかも知れないが、そんな気がするのだ。恥ずかしながら、まだまだ半人前の甥です。


2001年07月10日(火) 大豆とコーヒー豆。ありがたや、ありがたや。

何気なく暦を見た。7月10日(火曜日)。えええっつ、そうそう、思い出した。
納豆の日だ。納得。納得。そう言えば、昨年も納豆のことを書いたように思う。あれから、もう1年が経った。何個、納豆を食べたか分からない。先ほども納豆で朝食をとった。以外と納豆を嫌いな人も多いと聞く。なんでも、ねばねばしていて、大豆が腐った味がするので嫌いということらしい。「そうかなー」。ぜんぜん気にならない。やはり、肉食に勝る食べものは畑の肉たる大豆製品に限る。7月10日、納豆万歳と叫びたくなる。納豆嫌悪派から、「それはいやみか」と言われそうなので、納豆はこの辺でやめにしよう。納豆の変わりに、コーヒー豆について書こう。ふっと見た昨夜のテレビで、コーヒーが老化防止になると言う。へえーーーっつ。初耳だ。どうしてもっと早く教えてくれなかったのか。なんでも、コーヒー豆に含まれる何とかという成分が、活性酸素をやっつけるのだそうだ。活性酸素は人間の体に悪影響を与えるものとして注目されている。老化の最たる原因はこの活性酸素にあるという。その活性酸素を物の見事に消滅させる。まるでマジックをみているみたいに。実験で証明された。コーヒー豆にもいろんな種類があるが、キリマンジャロ、モカ、コロンビア、そして、愛用のインスタントコーヒーなど。驚いたことに、活性酸素をやっける成分が一番多く含まれているのが、インスタントコーヒーらしい。インスタントコーヒーに含まれる豆はブレンドであるが、その中の何とかと言う豆が老化防止の特効薬らしい。単独ではおいしくない為、ブレンドになっているそうだ。そう言えば、僕はよく人から「若いですね。」と言われる。これは、おめでたい人、おばかさんであるという意味ではない。やっとその理由がわかった。長年、インスタントコーヒーの常飲者であったから若さを保っているのだろう。コーヒー様様である。もちろんそれのみに固執すべきではない。要はトータルコーディネイト・・・ではなく、総合的なバランス、トータルバランスの問題だ。
いいものはどんどん取り入れて、命ある限る若々しくありたいものだ。今日もハッピーだぜ。


2001年07月09日(月) 男は女々しく、女はたくましく。

昨夜、ラジオで面白い対談をやっていた。男は女々しく育てて、女はたくましく育てるという、まさに逆のような教育論を展開していた。よく聞いてみるとなるほどとうなずける。そもそも、十五歳の男女に、家族全員の食事を作りなさいといったところ、日本の十五歳の男性は、8割方、お手上げの状態。ところが、外国の男女となると、「料理ができる」という割合は、男も女もほぼ8割で、見合っていたそうである。このことは何を意味するのか。どうも日本はいまだに、「男子厨房に入らず」という昔ながらの固定概念が払拭されずに、尾を引いているということである。家庭で子供を教育するばあい、男も女も関係なく平等に色んな事を教えるべきであろう。料理は言うにおよばず、炊事、洗濯、掃除だってそうである。皆で支えあっていこうということで、介護保険制度ができた。果たして、日本は、今のままでいいのだろうか。男性は女性を十分介護してあげることができるのだろうか。料理一つできない。掃除も、洗濯も、家庭のいろんなことが何も分かっていないのだ。「男は外で、働いているから仕方がない」では、済まされない。最近、熟年離婚もはやっているそうである。昔は男が威張っていたが、いざ、歳をとってから、妻に離婚状を突きつけられると、男は泣きながら、「どうか僕を見捨てないで」とさけばなくてはならない。情けないではないか。世の中がどう変わっていこうとも、少なくともわが身の生存に必要な最低限度のことが出来なくては21世紀を男は生きていけないのではないか。世の親達は強い男のイメージで子供を育てようとしているが、本当の男の強さとは、出産以外の女が出来ることは何でも出来るように、教育することが大切ではないだろうか。また、女は女々しく育つのではなく、男みたいにたくましく育つべきだと思う。電車で痴漢にあったら、男の玉、玉を蹴飛ばすくらいの迫力を持って欲しいものだ。セクハラ、セクハラと騒ぎ立てるだけが能ではない。男は女々しく、女はたくましく。この教育論は大いに賛成である。


2001年07月07日(土) 七夕に思う

今日は七夕。残念ながら星はよく見えない。思い出すのはやはり子供のころの事。去年も書いたが、浴衣を着て、街中を練り歩く七夕ちょうちん行列。小生意気な僕達は行列なんて目ではない。「あんなお嬢さん遊びなんかやっていられるか」ということで、悪がき数人で独自のちょうちんを作って、自慢げに、街中を闊歩したものだ。独自のちょうちんとは、ウリの中身を穿り出してその中にろうそくを灯し、竹ざおにつるして出来上がり。余計な飾りもなく、単純な物である。固そうなウリの中身を抉り出すのも、簡単そうに見えるが一苦労である。なんとなく様になり、顔は笑顔でにっこり。というのも、今宵は、特段、親の許しを得ないで、ひとしきり夜遊びができるからだ。浴衣に身をつつんだお転婆娘たちが、しゃなりしゃなりと、この日ばかりはおしとやかに歩いている。僕達は物陰にそっと隠れて、お転婆たちがやってくるのを待ち構えている。「わーーーっつ」と言いながら、おもむろに、竹につるしたウリのちょうちんを差し出すと、お転婆たちは「きゃーーーつ」と言って、逃げてしまう。それがとても面白かった。苦い思い出もある。ある七夕の時、例によって腕白小僧の数人で、いつものごとく、いたずらをしていたら、運悪く先公に見つかってしまった。その場で、学年と名前を聞かれ、翌日、担任の先生から呼ばれ、こっぴどくしかられた思い出がある。僕達は素直に「すみません」と謝り、とりあえずは事なきを得た。ただ、あのころは通知表とかに、書かれはしまいかと、幼心に案じたものである。とりもなおさず、母親に知れるのが恐かった。最近は、世の中が忙しく。あの頃みたいに、のんびりと七夕に興じる時間もなくなってしまった。淋しいことである。また、子供達も過保護に育ち、外で泥んこになって遊ぶことも少ない。泥んこ、と言えば、その泥んこが汚染されていて、安心して泥と戯れることさえできない。今の子供達は、ある面では本当に不幸かもしれない。あの当時は、皆、一様に貧しく、そのことは不幸かも知れないが、少なくとも心は健康であったように思う。今の子供達に必要なことは心の健康である。


2001年07月06日(金) 自称ブスと自称美人。

世の中も変わったものだ。昨日見たテレビなんかひどかった。自称ブスの女性と自称美人と思っている女性たちが一同に会して壮絶なるバトルを演じた。美人であるといろいろと徳?得?であるという。従って、整形手術をする人も増えているそうだ。自称美人というある女性は、アクセサリーは言うに及ばず、大きいものではマンションまでプレゼントされたと言う。「へーーーー、この不景気の時代に。マンションに値する女性もいるんだなあー」と、恐れ入ってしまった。「願わくば誰かこの僕に貢いでくれる女性はいないものか?」と言えば、「あなた、自分の顔を鏡で見たことある」と言われてしまいそうだ。美人の女性は、それはそれは、スリムで顔は美形。なおかつ、メークから、おっぱいの手入れから、服装に至るまでびしっつと決め、「どう、私の個性は?」と、鼻たかだかにお披露目である。男にはもてるし、町を歩けば好奇の目で見られる。見られることに快感を覚えるのだろうか?。僕に言わせれば、「そんな外見とかに価値観をおくより、もっと人生の何たるかを真剣に学んだほうが、よほど美人ですよ」と言いたくなる。物質の奴隷となって身をやつすことの愚かさに早くきずいて、汗水流して働き、労働の喜びの中から、幸せをつかんで欲しいと願うのは、僕だけではないだろう。彼女たちに言わせれば、「おじさん。古いね。シーラカンス?まさに生きている化石ね。誰にも迷惑をかけていないじゃん。美人になることが、何がいけないんだ。」ということになろう。「ごもっともです」といわねばなるまい。
いやはや驚いた。田舎に住んでいると、都会の美的センスにあふれた町を歩くこともないし、僕は生きた化石以上に遅れているのかもしれない。彼女たちは彼女たちで、都会にお似合いなのだろう。何も美人を批判するつもりもない。ましてや、自称ブスと思っている人達だって、僕に言わせれば、美人より個性があり、心も豊かな人が多いように思える。要は外見で人は計れないし、田で食う虫も好き好きである。それぞれに見合った好みで、人はくっつき、離れるだけである。世の中に美形の人ばかりいたら、「もうそんな顔ごめん。見たくない。どこか離れ小島でオラウンーターンと一緒に暮らしたがまし」と思うかもしれない。ただただ、僕が願うのは、受けがたき生をこの世に受けたのであれば、もっと大事に生を生きて欲しいと思うだけである。


2001年07月05日(木) 大先輩の死

7月2日に大先輩が亡くなった。ここ一週間が山と聞いていたので、僕も大阪行きを先延ばしにして、待機していた。昨日、4日が葬式だった。つい先日までは、肉体をまとっていろんな表情を見せていた大先輩だったのに、ひとたび火葬に付されると、骨の燃え殻だけになり、一瞬のうちに、娑婆世界から姿を消してしまう。人の死って、ほんとに夢か幻のようにはかない。ボスが弔辞をよんだ。「公私ともにお世話になりました。先生は酒と唄が好きでしたね。十八番は王将でしたね。もう聞けなくなるかと思うと寂しい気がします。・・・・・・・。先生、さようなら。ゆっくりお休みください」。さすがに、酒と歌までは言ったが、女性も好きでしたねとは言えなかったようだ。それにしても泣かせる弔辞であった。僕も、何度も大先輩の歌を聞いたことがある。確かに「王将」はうまかった。それ以上にうまかったのが「人情松の廊下」の歌である。せりふ入りで、僕たちは大爆笑。見事な歌であった。弔辞で、人情松の廊下は不謹慎と思ったのか、「王将」にしたのだろう。大先輩には仕事でも、随分世話になった。発想の豊かさと、企画力と仕事の報酬請求のテクニックは抜群で、僕も大いに勉強させてもらった。また道楽も人一倍。亡くなる数年前に、競走馬のオーナーになり、何着になって、いくら賞金をとったとか、最近、馬の調子が良いとか、それはそれは、馬でひとしきり、もちきりだった。最初のころは良かったが、馬もそのうちに、勝てなくなり、損をすることが多くなったそうな。やがて、馬を手放してしまった。僕たちは、話を楽しく聞いた思い出がある。それ以外でも、パソコンやらオーエー機器はずっと以前から誰よりも機能のすぐれた逸品を所有し、「僕以上に良いマシーンを持っているものはいない」と自負されていたが、確かにそうだった。僕が大先輩から仕事の外注を請け負ったときに、代金の換わりに、その逸品のマシーンで支払いを受けたことがある。今、事務員さんがそのマシーンを使っている。思い出話は話せばきりがない。この辺でやめるが、ただただ、人の死、それもよく知った人の死ほど悲しいものはない。生きとし生けるものの宿命とは言え、つらいものだ。僕が宇宙の絶対神ならば、死なんて自然界から消滅させてやるのにと思えど、それもはかない夢、幻なんだよなあーー。


2001年07月02日(月) 手紙書いていますか?

島に単身赴任している友からメールがきた。そっけない内容だ。今度、集まらないかとの誘いである。高校時代の親しい友人が何人かいる。彼らとは、屈託なく話せるし、皆、アルコールをたしなむ。集まると討論会だ。島に渡って潮風にふかれ、飲む酒ってどんな味がするだろうか?。その機会を友が設定すべく、メールをよこしたわけだ。もちろん一発返事で承諾のメールを返信した。そう言えば、昨晩、寝つかれなくてラジオを聞いていたら、手紙とか、メールについて話していたようだ。最近、インターネットで出すメールにも飽きがきたのか、直筆でだす手紙も増えてきているそうである。字が上手であれ、下手であれ、直筆でもらった手紙は愛着があり、容易にごみ箱というわけにも行かない。昔の人はよく手紙を書いたようだ。何でも、芥川竜之介は、恋文というか、結婚の申し込みと言うか、その手紙の内容は、文豪とは思えないような、単純な内容であったとか。また、夏目漱石の手紙は、相手の手紙が長ければ、それ以上長い手紙で返信したそうである。聞いていて興味深かった。他に、病気の見舞いには出向かなくても、手紙が良いのではないかとか。確かにそうかも知れない。見舞いにこられると気を使うし、疲れてしまう。それより、長い手紙をもらったほうが嬉しいに違いない。内容は何でもいい。
何回でも読み返すことができる。自分の為に、こんなに時間を割いて手紙を書いてくれたんだと思うと、ありがたく涙だってでてくるだろう。面白い話では、本をプレゼントされたとき、そのお礼に手紙を書くときは、本来なら読んでから、感想の一つでも書いてよこすべきだが、読んでいないときは、今、うちの嫁さんが読んでいます。面白いと言っていますとかなんとか書いて出すと良いそうな。うんん、この手は使えそうである。
昨今、活字媒体ばかりで、直筆にあまりお目にかからない。僕も、今後は手書きできるものは、労を疎まずそうすることにしたい。


2001年07月01日(日) うちわは省エネになります。

梅雨のあとは38度の猛暑。昔もこんなに暑かったっけ。ちょっと歩くと、もう汗だくだく。こんな時、どこかのビルに飛び込めば天国だ。ただで涼がとれる。いやああ、文明の利器様。感謝、感謝。昨今、家庭でもクーラーは各部屋に一台の時代。テレビと同じだ。豊かになったものだ。思えば小さいころは、天然の風に、うちわと扇風機で涼をとるのが関の山。それが今では扇風機もうちわも過去の遺物となりかけている。なんか寂しいような・・・・・。実は僕のベッドの棚にはちゃんと、お祭りと描かれたうちわが一本あるのである。時々使っている。うちわと言えば、昔はどこかのお店で買い物をすると、景品と言うか粗品というか、その店の宣伝が書き込まれたうちわをもらったことを覚えている。母と買い物に行くのが楽しみだった。店のおじさん、おばさんはたいてい、母ではなく子供の僕にうちわとか、粗品をくれたからだ。母は外を歩くとき日傘をさし、はなたれ小僧の僕は、ランニングシャツに半ズボン。そして右手にうちわを持って扇ぎながら母の後からついて行った。
うちわって、単に扇ぐだけではなく以外と重宝な道具である。よくよく観察してみると、暑い夕暮れ時のご婦人方の会話にはうちわがつきもの。笑いながら、顔の半分を隠すには、うちわってもってこいである。うちわの裏で、まっつ白い歯が「にーーーっつ」と笑っている。なんか、いやな印象である。蚊がいると、うちわでぽんぽんと払いのけている。また、「やーーね」と言いながら、相手の肩をうちわで「ぽん」。どこかの坊さんが仏壇にむかって「むにゃむにゃ」と経を読んでいるとき、母が後ろからうちわで扇いでいた。「へえええ、坊さんって、むにゃむにゃ言うだけでも偉いのだなああ」と、あらためて感心した。あんまり接近して聞いておられると坊さんも経の手が抜けないなあと、変なことを考えてしまった。そうそう、うちわの苦い思い出は、じいさんが生きていたころ、いたずらすると、うちわの取っ手のほうで頭を「かつううーーん」とやられたことである。これが痛いのってなんの。そのじいさんは、とっくの昔に死んだが、うちわの思い出はまだ、僕の心の中に生きている。もっとうちわを利用して省エネに一役買おうではありませんか。


umityan |MAILHomePage

My追加