stray notes

氷砂糖

My追加

my追加(わたしの場合)
2002年10月31日(木)

HPから見てる人へ。レンタル日記サイトenpituには、my登録という、ブックマーク機能のようなものがあるのです。

わたしはenpituでここ(say to myself)以外に夢日記も書いています。ので、ここでmy追加した日記と、夢日記でmy追加した日記があります。そのうち頻繁に更新なさってる日記は半分くらいかな? 大体読んでます。たまにPC立ち上げない日(仕事で疲れて寝ちゃったとか)もあるので、毎日ではないですが。

myに入れる基準(?)は、「好き」です。どこを、というと文章が好きな場合、垣間見える人柄が好きな場合、話が好き(続きが気になるとか、笑えるとか)な場合、ネタとして好きな場合(たとえば映画評論とか書評とか生活の知恵とか化粧品の解説とか)といろいろですが。いつも楽しみに読んでます、ありがとうございます(ってここにかいても向こうでmy追加してる人には届きませんが)。

削除の基準は、とくにないです。少し読む量増えてきたなー、じゃ、どれか外すかな、程度だったりします。嫌いになったから、ということはまずないです。長期に更新がなくても削除したりしなかったりだし、そういう点でもあまり明確な基準はないです。自分がmy削除されても、こちらでは外したり外さなかったりだし、なんだか本当に深く考えてないんだなぁ。

それからここや夢日記を見かけてmy追加してくださった人。どうもありがとうございます(ってここにかいても向こうでmy追加してる人には..)。書いてる内容がばらばらなので、どこが気に入られたかはわかりませんが、嬉しいです。知らなかった日記・世界に出会えるのも新鮮で好き。もし、このさき外されても、読めてよかったなって思ってます。そしてお返し登録してくれたかたも、やはりありがとうございます。でも、お返しがなくても、読めるだけでも嬉しいなーと思っています。

実を言うと最初の頃は、追加されたり削除されたりにかなり一喜一憂していたんですが、時間がたつにつれてわりと平気になってしまって。自分が、適当に切ったり入れたりするようになったせいもるのかな? そういえば一時期、ランダムで面白そうなのをばーっと入れたらとんでもないことになったなぁ。一覧で、他のを読んでたのに、間違えて下のをmy追加しちゃって、急いでなおしたこともあるし(そのせつはごめんなさい)。まあでも基本的には、my追加されれば嬉しいし削除されれば淋しいかな。片想い状態はなれてるので平気。

わたしも一応my返しはしてますが、読んであまりに自分の感覚と離れてるかな、と思うのはできなかったりします。たとえばわたしはコドモがいないので、育児ジャンルのひとからmy追加されたときは、「???」という感じになってしまって、非常に申し訳ないのですが、あまり読まなかったです、すみません。コドモのいらっしゃるかたでも、話題がそれ一辺倒でなければ楽しく読んでますが。ううう。さっぱりわからないからな〜。まあそういう感じでわたしの文や人柄や発想が理解不能だったり苦手だったりなひともいらっしゃるかもしれないので、そういう場合もものすごーく申し訳ない気もするんですが。でもひとの好みはそれぞれだし、好くも嫌うも自由だから。好きに書いて、好きに読んででいいんですよね。そのう、ひとやサイトに迷惑かけない範囲であれば。

以上、わたしのmy追加についてでした。


育ちのよさと悪さ
2002年10月27日(日)

わたしはときどき、自分のことを、育ちが悪いなーと思う。親の育て方、ではなく。自分の育ち方が悪かったなーと思うのだ。いつそういうことを思うかというと、主に育ちのよさそうなひとといるときだ。

たとえば、ある同僚。彼女は話し方が丁寧で、言葉遣いもいい。誰に対しても優しく、自然な笑顔で接している。老若男女に関わらず、礼儀正しく、かつぬくもりのある応対ができる。常に気配りしてるというか、人の気持ちを思いやって行動している気がする。もちろん彼女だって怒ることはあるが、あまり恐くない。どことなく可愛い感じすらする。友人も多い。

わたしはあまり、ひとの気持ちをくんだりできない。本心で思っていることしかいえない。自分が裏表を作れるほど器用でもないので、ひとの裏がわからない。表に出ていることを鵜呑みにしてしまう。気を使うと空回ししたり、ひどいときには逆効果だったりする。場の雰囲気を、気付かずに壊していることもあると思う。

育ちがよくなくても気が利く人、もいるとは思う。ただ、まわりの人に対して「こうするとうまくいくだろうな」と行動して、それがうまくまわっていくひと、というのは、本当に育ちがいいのだろうな、と思う。それがとくに凄いことをしようというのではなく、さりげなくできて、かつそれをたいしたことでないと本人が思っていると、なおさらそう見える。

世の中広いんだからいろんな人間がいてもいいよね、と思う。だから自分のような人間も、生きてはいけないとは思わない。ただ、たまに落ち込む。反省してもあまり変わらないのだから、悩むだけ無駄だし、こういう人間なりにどうにかやっていくほかないのだろうけれど。

* * *

上の話とは関係ありませんが、そしてHPからご覧のかたには意味がありませんが、お知らせ。もしかしたら、「思い出/昔話」ジャンルから移動するかもしれません。今現在のことも書いているので。しかしこういうばらばらな内容で、どこのジャンルに行けばよいのやら。



夜に働く人たち
2002年10月23日(水)

わたしは単純なのだろう。自分にできないことをしている人たちは、皆「凄いなぁ」と思ってしまう。だからタイトルに書いた人たちを、凄いなぁ、と思っている。なぜならわたしは、睡眠時間が足りないと、とたんに調子が悪くなるから。徹夜なんて、学生時代、レポートを提出するときくらいしかしたことがないから。まあそこまでいかなくても、大抵の人は、本来日の出てるときに活動し、暗くなったら眠るほうが調子もいいのではないかと思う。もちろん日光アレルギーのひともいれば、夜のほうが仕事がはかどるタイプのひともいるだろうけれど、大多数が昼に起きて夜に寝る生活を選んでいるのは、それが体に合っているからだろう。

深夜もあいている、コンビニやスーパーに勤めている人。大変だろうなーと思う。慣れてしまえば苦でなくなっているのかもしれないけれど、日勤より夜勤のほうが疲れるんじゃないかな。でも、何か買い忘れがあったり、急に必要になったりしたときはとても助かる。夜勤といえば、警備会社の人とかもそうかな。夜は昼よりも気が張るでしょう。夜中に道路工事している人たちも、頑張っているんだろうなぁと思う。日中は、車がいるからできないもんね。いつのまにか道路が綺麗になっていることがあって、いつ工事したんだろうと思うときがあるけれど、それはたぶん夜中に働いていたひとたちのおかげなんですよね。

ファミレスで、若いウェイトレスが夜、一生懸命オーダーをとっていたりすると、帰りは大丈夫かな、と思うことがある。深夜料金、というのがあるのも正しいと思う。夜、駅前で、酔っ払いのおじさんを送り出している化粧の濃いお姉さんも。寒いのにミニスカートで、マッサージいかがですか? といっている外国人女性も。皆夕方から頑張って働いていて、寝る時間は遅かったりなかったり朝だったりして、きっと気力も体力も普通以上にいるんだろうなーと思う。浅い眠りの中で、新聞配達のお兄さんがバイクに乗っている音を聞くと、ああ、ご苦労様です..と、寝床の中で思ったりする。毎朝欠かさず新聞を読めるのは、あなたたちのおかげです(勿論記事書いてるひとたちや印刷している人たちのおかげでもあるけれど)。雨の日は、ビニールでつつんであるのも、ありがたいことだと思う。

寝床でなかなか寝付けない夜、そんなことを思う。わたしは夜起きていたところで、翌朝頭痛がするだけで、何も生産的なことができないので。


BGM
2002年10月20日(日)

夕方でかけて、夜。帰りの車の中。CDチェンジャーが、あるCDの順番になった。流れてくる音楽に、あれー? と思う。このCDは以前発売当時にも聞いたけれど、雰囲気が黒いというかダークなので、一度車内からはずれたものなのだ。が。久しぶりに聞くと、なんだかかなりいい。なんでだろ、と考えながら外を見る。ああ、そうか。

「ね。これって、夜のほうが似合う音楽だよね。前聞いたときよりよく思えるよ」
「ああ。そういえばそうだね」
「曲もそうだけどさ、声も夜向きだよね。それに夏とかも似合わないよね。寒くなってきたし、外雨だし、そういう日のほうが合うよね」
「うん」
「ついでに言うと、こっち側のチェンジャーって(6枚一組で、二組装備されているので、二組目に入っている6枚をさしている)、そういうのばっかしだよね。この手のって夜向きなのかな」
 喋りながら、そういえば日ごろあまり気にせずにかけてたけど、爽やかで、どちらかといえば日中に合う曲とか、歌詞や曲の雰囲気で、季節のイメージが限定されてしまうものとか、本当は色々だよなーと思う。全天候全環境OK!みたいなのもあることはあるだろうけれど。あと、個人の嗜好とか精神状態でも変わってくるか。

ちなみに雨の降っている秋の日には、クラシックを聞きたくなる。それは昔、母がそういうとき、きまって聞いていたせいだろう。普段彼女は昔の洋楽をかけていることが多かったが、こういう日はピアノ曲集とか、バイオリン曲集とかを流していた。わたしは指揮者とか奏者にこだわれるほどよくわかっているわけではないが、なんとなくこういう日には、よくわからないながらも、クラシックのCDやテープをひっぱりだしてはBGMにしている。普段声の入ってるもの、日本のポップスやロックを中心に聞いているので、新鮮。どことなく浄化される気がして不思議。歌で癒されてることもたくさんあるけれど、また違う感じがする。


一年前の罪
2002年10月11日(金)

去年のこのくらいの時期に、enpitu内で別の日記を作っていた。わたしはここ(say to myself)のほかに夢日記(こちらは現存しています)もつけているけれど、それとは別に。詩日記のようなものを書いていた。koiではないHNで、ジャンルは恋愛、IDは5で始まる数字だった。なんとなくそういうことをしてみたかったのだと思う。悲しい恋愛のうたをひたすら綴っていた。

一月ぶんたまると、もういいかな、悲恋詩集はこのあたりで、と日記帳自体は消してしまった。詩そのものはHPのほうにまとめてupして、そういうことを試みたことも、自分の中で片付いてしまった。それにこの時期は連休とかがよくあって、メールチェックがふだんより雑になっていた。だから、そのメールを読んだときには、送信されてからかなり時間もたっていて、どう返答すべきなのかよくわからなくなっていた。

それはわたしがその詩日記で、my追加していた日記を書いている女性からのメールだった。”感覚が似ているような気がするし、お友達になりませんか?”みたいな内容だった。ものすごーく嬉しかったです。でも、ものすごーく落ち込みました。申し訳ないような悲しいような説明のつかない気持ちで。えーっと..詩だってわたしの一部には違いないけれど、イコールではないわけです。経験をもとに書いていても、実体験とは違うわけです。

わたしは彼女(の文の雰囲気から読み取れる人柄)も彼女の日記もとても好きだったし、共感できるところもたくさんあって、お友達になれたらそれこそ素敵だろうなーとは思えたのですが。なんというか、たとえばこっちの日記でmy追加していたら、そう思ってくれたかはわからないよなーという気がしたんですね。こちらを生活脳みたいな部分で書いてるとしたら、詩日記は恋愛脳で書いていたわけで。同じひとりの人間なんで、それは重なる部分も通じる部分もちゃんとあるわけですが、受ける印象とかはだいぶ違ったんじゃないかと思うし。

うーんうーんと悩んでいるうちに、そのメールもほかのメールとまぎれ、いつしか消えてしまいました(詩日記はフリーのアドレスで登録したせいと思われます)。彼女の日記はその後も気になっていたので、毎日読みに行っては、何か機会があったら声をかけようかな、とも思っていたのですが。しばらくして彼女の日記も突然消えていました。最後のほうの日記が、かなり不穏な感じだったので、大丈夫だろうか..ととても心配になりました。今でも、気がかりです。

このとき、わたしは罰を受けたのだと思います。今も、受けつづけてるのだと思います。顔も本名も知らない、でもとても好きだった彼女が、今、どうしているのかわたしにはわかりません。彼女から、友達になりませんかと言ってくれていたのに。そのとき連絡をとっていたら、何かわかったのかもしれなかったのに。たいしたちからはないから、何もできなかったにしても。そのときには、もう、声をかける手段すら残されてなかった。

わたしは今でも思い出します。どうしているのかなと思います。思っても、どうにもならないし、たとえどこかの日記サイトで、彼女が別名で文を綴っていたとしても、気付くことすらできないような気はするのですが。わたしのことなんて、忘れているだろううし、思い出しもしないと思うし、それはどうでもいいのですが。ただ、もし、無事に生きているなら。幸せでいてほしいなと、それだけを強く思うのです。


スキンケア
2002年10月09日(水)

涼しくなってから、肌の調子がわりといい。化粧水や乳液をかえたわけでもないし、生活もたいして変わらないのだが。秋冬のほうが落ち着いているということは、どちらかというと脂性肌なのかな、と思う。あまり乾燥に困った記憶がないし。不摂生をすると、アダルトニキビがぷつぷつできてしまうのだが、敏感肌、というほど繊細な肌でもないし。

そういえば、スキンケアを真面目にするようになったのは、結婚してからだよなーと思い出す。朝夕に時間の余裕ができたのと、自分に手間をかける精神的な余裕ができたのと、肉体的な衰えをケアしないとまずくなってきたのと、がおもな理由だろう。経済的には、扶養の範囲内の稼ぎになったので、実家にいた頃より苦しいはずなのだが。昔より、ずっと丁寧に買ったりケアしたりするようになった。

中学生の頃は、日焼け止めすらつけていなかったし、高校生になっても、唇が荒れたらリップクリームを塗る、程度のことしかしていなかった。大学に入ったら、バイトやレポートなどで生活が不規則になり、食事もいいかげんだったので、ニキビが大量発生していた。この頃ニキビ用化粧水を買って塗ってみたら、みごとにパサパサになり、焦ってやめたことがある。今はもっとよいものが沢山出ているだろうし、あまり自分の症状に合っていなかったのだろうけれど。

社会人になってからは、ふらりと入った化粧品店ですすめられたものを買い、それなりに効果もあったのだけれど、忙しくなると手入れはさぼりがちだった。肌の状態が悪いときは、多少気を使ってケアするのだが、肌状態がよくなると、だんだん省略してしまうのだ。べつだん素の状態がすばらしい、というわけでは全然なく、単にずぼらというか不精なのだろう。

そういう人間であったのに、最近はメイク雑誌を見て面白いなぁと思ったり、実際に新製品を試して気持ちがいいなぁと思ったり、少しずつだけれども楽しめるようになった。大人になったというか、ゆとりができたのかなーと思ったりする。根本的な部分は変わらないので、いまでもときどき、何か忘れていたりもするのだけれど。


噂話
2002年10月02日(水)

ひとりでランチをしていたら、近くの女性たちが、凄い勢いで他人の話をしていた。わたしが住んでいる部屋の、2階の住人である女性も、ものすごいはやさで、電話の向こうの誰かに、他人のことを逐一報告していることがある。

そのたびに思うのが、みんなよくひとのこと見てるんだなー、覚えてるんだなー、しかもそれを再現できるんだなーということ。わたしは視力が悪く、注意力散漫で周囲に気を配っておらず、集中力もないので意識が現実と別世界を彷徨うことが多い。つまり周りがあまり見えていない。しかも記憶力が弱い。さらにそれを再構成するだけの気合みたいなものもない。

べつだん「噂話になんて興味ありません」というつもりはない。聞けば、「へーそうなんだーなるほどー」と思うから。でも、聞いたそばから忘れているようなところがある。もしかしたら、基本的に興味関心のない人間がどうなろうと気にならないのかもしれない。つ、冷たい。そうか、とするとあのひとたちは、話題にする人たちに、愛着とか興味関心があるのか。

そういえば以前夫に、「会社にとても几帳面で細かい人がいてね、そのひとに報告するときはとても緊張するんだよ」という話をしたことがある。夫はひとくさりわたしの話を聞いてから、「でも、あなたはそのひとのこと、嫌いではないんでしょう」と言った。わたしは考えてみた。確かに、嫌いではない。自分にない、そういう緻密さは憧れだ。「なんでわかったの? わたしにもわからなかったのに」と聞いたら、夫は言った。「あなたはね、気に入らない人のことはあまり口にしないんだよ。多分、視界から消えてるんだろうね」と。



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