P-diary
Piccolo,Play,Practice,Pleasure,Process,Pray,…Precious!

2001年07月27日(金) ☆番外☆コントラスト稽古

at:中央青年センター

◎発声、柔軟、腹筋背筋。

◎「老人」歩き方研究。

姿勢は比較的作りやすそうだが、関節の動きなどは、コントロールしにくいのか、なめらかに動いてしまう。特に足首。
重心が上の方であったり、安定していなかったり、というのも課題。


◎歌の場面

老人の人数が確定したので、位置関係などが分かってきた。
が、揃ってはいないので、今ひとつ、ピンとこない部分もある。
今日は、流れを確認するのに留まった。

◎エチュード

今日は老人が多かったので、「朝御飯前」のエチュード。


◎前半のながれを確認(通し)

とりあえず決まっているところをさらった。
が、私の記憶が薄れ切っており、迷惑をかけまくった。
結構、私の動きが全体の動きを支配する場面が多いので、というか、立場(介護士)的に老人たちを動かしていかなくてはならないので、実はかなり大事なんじゃないの、私…。


*今日は、今までで一番、人数が揃ったかも。10人中9人だもんね。
人数が多いし、仕事持っている人間が多いから揃いにくいのは覚悟の上だけど、やはり揃って練習したいし…ジレンマ。
ただ、人数揃わないから上手くいかなかった、なんていう言い訳はしたくない。
揃わないなりに頑張り方はあるはずだから。
参加できないなりに、出来ることはあるはずだから。
というわけで、次回の練習までちょっと間があく。
その間に、各自の履歴書を作成すること。



2001年07月24日(火) ☆番外☆コントラスト稽古

at:ピッコロシアター練習室


(1時間ほど、遅れて参加…)

◎松本夫妻の会話
◎松本氏と私の会話

どうしても、私は「素」で考え込んでしまう事が多くて、もったりした会話になってしまう。
歯切れのいい会話にしたいのだが、なかなか即興では難しい。
打ち合わせに来ていた、制作の3人が見学。
いや〜ん、って感じだけど、観られているという緊張感は、結構いいかも。

◎歌の場面。

今までは私一人で歌わせていたが、今日の稽古で助手が付くことに。
人が多くなる分、動きを整理しないと、ごちゃごちゃして分かりにくい。
私自身、仕事からの気持ちが上手く切り替えられず、テンションが上手くあがっていなかったので、いつもに比べると、ちょっと物足りない感じに…。


※研究科の方が来てくださって、アドバイスをしてくださった。
やはり、今はもっと自由に、やれることをとにかくやった方がいいのではないかと言うことに。
どうしても、「こうしなくてはならない」という気持ちが働いて、小さく小さくまとまっていく感があるので、「これはないやろ」ってくらい、むちゃくちゃをしても良いのかな。
「老人」に対して色んな思いがある分、どうしても余計な意識も働いたり、想像だけで突っ走りそうになったりで、乗り越えなくてはならない課題が多い。
障害が多いほどやりがいがあるとは言うが…。



2001年07月22日(日) ☆番外☆コントラスト稽古

at:芸術創造館(19:00〜22:00)


◎身体訓練
身訓リーダーさおりの厳しい指導の元、悲鳴を上げながらまずは基礎をきちんとね。
実は、私はさおりの身訓を最初から最後までやるのは初めてだったのですが…きつかった。
普段いかに甘やかしているかと言うことですね…

◎最初の場面
一応、設定と流れは決まっているものの、具体的なリアルな台詞は決めかねているため、それぞれ自由にしゃべってみる。
設定上、噛み合わない台詞を各自自由にしゃべり続けなくてはならない。
でも、合わせるところは合わせなくてはならない。
これが難しくて、何度もやり直し。

◎二つ目の場面。
これも、設定と流れだけが決まっている。というか、私がその流れを作らないといけないのだが、勝手気ままにしゃべり続ける人々に翻弄される。
数人の自由にしゃべり続ける人々の相手をして、きちんと応えてあげなくてはならない。
翻弄されまくり、泣きそうになる。
なかなか、思うような流れに持っていけない。
最後は、かなり協力してもらって、なんとか収拾をつけたが…課題山積み。

◎エチュード
役作りのため、いろんな状況を設定して練習。
本筋とは直接関係のない場面だけど、やっているうちに楽しくなってくる。
実は、個人的には即興とかってすごく苦手で、今までの自分だったら避けて通る道なのだが、どういうわけかこれは私がやり始めた。
何となく、必要な気がしたから。
多分、試演会を見た影響だと思う。
「素」の状態で、演じるには、どんな場面でもその人であり続けなくてはならない。その人なら、こういう場合どんな風に反応するんだろうか。それを実感したかった。
少しずつ、自分の中で役と自分とか一致してくる感じがした。

考えてみれば、最初から最後まできちんと練習に参加したのは、今回が初めて。
全員が揃った稽古は、まだない(はず)。
それぞれが、色んな条件を背負っていて、色んな考え方を持っていて、色んな生き方をしてきた人たち。
そんな10人が一つになって、一体どんなお芝居になるのか。
色んな問題が山積みで、どう収拾つくのか見当もつかないけど、だんだん、楽しくなってきた。(いや、最初は何かと不安ばかりつきまとっていたもので…)



2001年07月18日(水) 「狂言の発声(3)」

『最後の授業』
 
これだけは、何があっても休むまいと固く心に決めていた、狂言の最後の授業。
今日は「以呂波」を少人数でやるので、台詞を覚えてくるように、と言われていた。
当然、ばっちり!と言いたいところだが、なにぶん、学期末の処理で頭がいっぱいいっぱい。覚える余地はなかった。
ラッキーなことに(?)、今日は、かなり長時間になると思われる会議があったので、その席に台本を持ち込み、会議そっちのけで、ぶつぶつと暗誦。
(一応、大事な話の時は、ちゃんと聞いてましたよ)
車の中でも、ぶつぶつ、ぶつぶつ…
台詞を覚える、という行為自体が久しぶりで、なんとなく嬉しい、楽しい。

授業は、いつも通り、まず発声から。いつもより人数が少なくて、ちょっと寂しい。

前回のおさらいで、小舞の「盃」「うさぎ」。
それぞれ、3人ずつで発表。
例によって「盃」は、好きなんだけど他の人と音を合わすのが難しくて、一人高すぎたり低すぎたり…でも最後の方は、「私としては」いい感じに謡えたような気がする。
(やっぱり、舞もやりたい!!)

「うさぎ」は、初めて扇を持ってやった。これも、3人でテンポが合わなくて、どうやら私は何かにつけ早すぎる傾向があるような気がする。
3人の真ん中で、左右の人を見ることが出来るので、特等席、だったはずなのになあ。

そして、いよいよ、「以呂波」。
まずは、全員で。9割方見なくてもちゃんと言えたので、一安心。
これも、兄3人、弟3人で発表。
他の人たちがやっている間、袖で練習。
みんな、“覚えてへん”、“どうしよう”とか言いつつ、しっかり出来てる!
これは負けてられない。(いや、勝ち負けの問題ではないのですが)
私は「弟」なので、兄の台詞の応える形の部分がほとんどのため、かなり楽だった。
結構いい感じで、落ち着いて進んでいく。
なかなか覚えられなかった「いつもお座敷に塵がござらば、掃き集めて火にくべまするによって、その事かと存じての事でござる。」の最後がちょっとあぶなかったが、ヨロヨロしながらも乗り切った。
最後に兄を突き倒すところで、その体勢になったがあとの二組をみるとまだ引っ張り回しているところ、ん〜またしてもちょっと早かったようです、私。
まあ、それでも、特に大きな失敗もなく無事終了。
全員終わったところで、先生からご指名で、兄一人弟一人で発表。
二人とも、堂々と落ち着いた演技。特に兄を演じたMづきちゃんはすっごい楽しそうだった。
表情が豊かで、見ていても楽しかった。
あとで話をしたら、実際、楽しくて仕方なかったらしい。
そういう気持ちが素直に表情に出るのがうらやましい。

狂言の授業は、これでおしまい。
月末にある狂言教室も行きたかったけど、やっぱり無理だ。
でも、機会があれば、もう一度、今度は時間をかけてじっくりと楽しんでみたい。

普通のお芝居では「狂言」そのものを使うことは難しいだろうけど、でもお腹から声を出す発声は通じるものがあるし、何より「様式美」的なところが、私は好き。
もちろん、様式化されない自在な表現でリアリティを表現することも必要だろうけど、やっぱり様式美も捨てがたい。
何にしろ、わずか3回とはいえ、本当に楽しい授業だった。



2001年07月17日(火) 「劇表現(7)」

『お休み。』

学期末恒例の「打ち上げ」。
実は、学年の立ち上げ会に当たる5月始めの飲み会は、ちょうど劇表現の最初の授業とぶつかっていたので、飲み会の方をパスさせてもらっていた。
まあ、他にも行きたくない理由があったのだが、副主任にかなり嫌な顔をされてしまった。(ま、当たり前かなあ)
と言うわけで、今回の飲み会には行かないわけにはいかない。

小品発表会に向けて、先生に少し見ていただくことになっていたし、今学期最後の劇表現、行きたかったんだけどなあ。



2001年07月15日(日) 研究科18期生試演会

5つの班に分かれ、「別れ」「ひまわり」「求める」をテーマにした即興。

まず、「ふつうの芝居」をイメージして観ていたので、戸惑ってしまった。
ある程度のネタ(筋)はあるが、どの班も次々転がるように話が展開していく。
躓きながら、あらぬ方向に転がっていくような場面もある。
それに役者が戸惑い、困り、悩みながらつないでいくのが分かる場面もある。
それに、私が戸惑った。

「演じる」人が、演じていない「素」の状態になっている。
これでいいのか!?

素直に楽しめないまま、全ての上演が終了。

最後に、監修をされたA浜先生のお言葉。
その中で、(本科生の質問にも応える形で)「素」の話がなされた。
芝居において、最終的には「素」の状態で演じることが出来たら、一番良いのではないかと言うようなことだった。

即興では、相手の言葉に素直に反応して悩みながら返すべき言葉や行動を考え、人間関係を築いていく様子がよく分かる。
それはそれで非常に大事な事なのだと、改めて気付いた。
「演じる」とは言っても、リアルな人間関係を描くのなら、当然相手の言葉動きにきちんと反応して、返さなくてはならない。
即興芝居は、その「反応」を楽しむべきだったのかなと、終わってから感じた。
もちろん、芝居そのものから完全に外れた状態で、素にもどって悩むのはどうかと思うが、「素」の状態で演じられるのが理想的だというのは、分かったような気がする。



2001年07月12日(木) 「劇表現(6)」

『人間関係を演じる』

◎ジョギングしながら、27人で1〜27まで番号を言っていく、ダブったらやり直し&ペナルティ(ジャンプ5回)

周りの雰囲気を読んで、言うタイミングを計る。が、なかなか上手くいかない。
間が空いているので、もうだれも言わないかなと、思い、じゃあと口を開いた瞬間、誰かと声がぶつかる。
結局、5を越えるまでにひたすら走り続け、見かねて10まで行ったら終わり、ということに変更。
しかし、最後まで、失敗し続け…。

→周りをよく見て、と言われ続けたが、なかなか雰囲気を読めなかった。


◎足周りのストレッチ(発声付き)

前回同様、「リレリリ リレレレ リレリリ リレレレ リレリルリレラロル」をやってから「ラレリルレロラロ…」

「レ」が「デ」に聞こえないように気を付ける。
焦らず、舌先をしっかり意識して言う。

→苦手なラ行なので、頑張る。
が、頑張りすぎて、気が付いたら一人先走って行っていることがしばしば。
落ち着いて、言えるようにしなくては。でも、なんとなく言いやすくなったなという気は、する。


◎棒1

10人くらいで輪を作り、自分の前に、棒(前回使った、1メートル位の長さの棒)を立てる。
「いっせいのーで」などの号令に合わせ、手を離し、隣の棒へ移り、倒さないように支える。
ちょうど、前回のタオルパスと同じような感じ。

次の人のことを考えて立てておかないとダメ。自分が次の棒をとることだけを考えていい加減においていくと、次の人が取れない。

ある程度安定してきたら、反対周り。

最後は、全員で大きな輪を作り挑戦。
一周半位回ったところで、全員が見事キャッチ。

→どうしても、次に自分が受けとめる棒に気持ちが行ってしまった。

◎棒2

前回同様、人さし指で支え、自由に動く。

二人の空間を狭くすること、広くすることを意識して、メリハリをつけて動く。

次に、三人に挑戦。意識する人が二人に増えたので、二人をきちんと意識すること。

3人で舞台を斜めに横切る。
どういうときに落としてしまうのかをよく考える。

→しっかり意識して、と頭では分かっているが実際には意識して動くことがなかなか出来ない。
棒を無くしたときにそれがはっきりとわかる…。
どういうときに落とすか、というのも、なかなか分からない。

◎ネコとネズミ

センターラインに、縦に二列。上手側がネコ、下手側がネズミ。センターで片足を引っかけた状態で立つ。
リーダーの「ネ、ネ、ネ、ネコ!」の声でネコ逃げる。ネズミ捕まえに来る。
同じく、「ネ、ネ、ネ、ネズミ!」でネズミをネコが捕まえる。
フェイントもあり。

→瞬発力と集中力の練習。リーダーの声をきちんと聞かないと行けない。
二回戦とも、すぐに引っかかってしまった…単純だなあ。
高校時代に「ウシとウマ」で同じような事を他校がやっているのを観たが、単なる遊びにしか見えなくて、何の練習なのかよく分からず、うちでは定着しなかった。ちゃんと目的があったのだと今日やっと分かった。


◎前回の寸劇?の発表

*注意点*

あり得ないことを、いかに本当らしく見せるか。
動いてはいけないところは、しっかりこらえる。でないと、面白みが半減。

動きで説明しようとしない。「気持ち」を再現する。

見せる工夫を考える。それぞれ観られやすい(きちんと見せられる)位置を取る。

声をしっかり出す。特に、それがオチになる場合などは、聞こえなかったら話にならない。

感情が一定にならないように。関わりの中で高まってくる感情は、しっかり上げていく。

その場にいる意味を示すために話し続けるのは、なし。
きちんと人間関係を作り上げる。

関係が停滞してしまったときには…
(1)大声で笑う  
(2)大声で泣く  
(3)相手を殴る
いやでも反応せざるを得なくなるので、関係が動く。


相手の言葉や動きをきちんと受けとめて返す。
相手のことをきちんと考えて言葉や動きを投げかける。
そのためにも、きちんと人間関係を意識しなくてはならない。
人々の中にいる自分、自分を取り巻く人々を意識すること。



2001年07月10日(火) 文化セミナー「芝居における笑いについて」

講師:別役実先生

◎タバコをやめられない…やめると、タバコに負けたような気がするのでやめられない。
タバコに勝った、と思えるような方法があれば、やめられるかもしれない。
例えば、タバコが逃げるとか。

いきなり、発想が面白い…

◎喜劇が、…というより、喜劇と銘打たなくても「笑い」がはやっている。
最近の傾向は、3分に一回は笑いがないと客が付かない、という人もいる。

◎「笑い」=芝居を展開する上での必要条件。

“笑い”自体が意味を持っているわけではなく、舞台と客席が呼応し一体化するきっかけとして“笑い”が求められる。

だからこそ、役者は“笑い”を狙う。
客は、滑った“笑い”に敏感になる。そこで“違和感”を感じると、後を引く。

つまり、それも舞台と客席の一体感?

◎コント

昔は、コントと芝居は別物と考えられていた。「コント種」=芝居にはならない。

今では、不条理芝居と呼ばれるものは「コント種」が元になっている。

コントの勉強をすることで、芝居の手触り(=客を笑わせる。反応)を学ぶことが出来る。

◎悲劇と喜劇

かつては、悲劇の方が格が上だった。役者も、文化的評価も。

「笑い」そのものが、あまり良い評価をされなかった時代。
例えば、男の子がそんなに笑うものではない、とか。

花登筺も、食事中笑ってはいけない、としつけられたという。

かどたいさむ(?)も『外国拝見』という著書で、「チャップリンの芝居を観て、人々は良く笑っているが、翻って日本人はあまり笑わない」と戦後間もない日本人の様子を記している。

敢えて笑うときの日本人の笑い=古拙笑い(アルカイックスマイル、仏像とか…)

小野田さんが日本に帰ってきた姿を見て、笑わない日本人の顔(筋肉とか骨格とか…)を感じた。と、いうことは、そのころ既に、日本人はよく笑っていた。
祖父の顔を思い出した。私の祖父の笑った顔を思い出せない、というより、見たことがないような気がする…

60年代はまだ悲劇の時代。60年代末、「真田風雲録」が喜劇的な作品で転換のきざし。
70,80年代から、喜劇の時代が始まった。つかこうへい「熱海殺人事件」

NHKのタレントの好感度調査も、この傾向を示している。かつての好感度上位のタレントは、長谷川一夫などいわゆる「二枚目」。今はさんまやタモリなどのお笑いタレント(=三枚目)が上位に入る。

最近、「二枚目」を演じられる若者が少ない。=気取り続けることが出来ない。気取りの後、ずっこけて笑いを取らないと、気取りの正当性を示せない。喜劇的なドラマツルギーでしか人間を解説できない。

◎「笑い」の二律背反性

(1)精神の自由を促す。自由な批評性を持つ。
(2)人生の深刻なドラマから身を引いてしまう。正々堂々と立ち向かう勇気が失われてしまう。逃避的。

◎「笑い」の質

外国の喜劇=社会風刺 政治風刺

笑っただけで価値のある笑い、深いところに根ざした笑い、説明できない笑い。

人は嘘をつくと「騙したい、隠したい」「ばらしたい」という二つの思いに捕らわれ、そのバランスが難しい。
上手く嘘をつくには「ポーカーフェイス」が必要。
良い嘘の状態は、その虚構が、いかにも本当に存在するように思わせることが出来ること。いかにも嘘臭くて信じてしまう事。
上手くない状態は、正当化しようとして、しつこく説明してしまったり、悪ふざけになってしまうこと。
作家は「精神のポーカーフェイス」が出来ないといけない。
(その練習?として、『道具づくし』などの作品が役に立った)

役者が演じることにも、同じ事が言える。
平然とおかしな事を言ったり演じたりするには、精神のポーカーフェイスをトレーニングしなくてはならない。

観客側も「精神のポーカーフェイス」を鍛えなくてはならない。
自分の感性で感じるために。
確かに、自分も含め、面白くも無いのに笑うことが最近多い。何でおかしいのか、何が面白いのか、分からないけど、笑わないと損、みたいな気がすることも。

虚構の自分を確かめる事によって、深い笑い、浅い笑いの区別がつくようになる。
文化遺産として価値のある笑いにも気づけるようになる。

情報化社会=付和雷同しやすい。

かつては、共に泣くことによって人間性を共有し、共鳴することが出来た。
これからは、「笑い」がその役目?


◎関西と「笑い」

笑いの発信地は関西。川柳、古典落語の名作…

◎昔話の脚色

幼児体験のデフォルメ、であるべきだが、最近は幼児体験の中に昔話が存在しないことも多いので、難しい面がある。

古形を取り戻すことで、別の見方、見せ方が見つかる?
単純に現代に置き換えるなどは、あまり好ましくない…


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全体的に、分かりやすい話だった。理解、というより「ああ、わかる!」という感覚。

個人的に、ただ「笑える」だけというのは、好きでは無いのです。
例えば、ストーリーとしておかしい、くすぐられる「笑い」はもちろん問題ないのですが、動きのおかしさ、単純に変な滑稽な姿だけで笑わせる「笑い」には疑問を感じてしまいます。
人の失敗や無様さを笑っているような後味の悪さを感じます。
じゃあ、どんな笑いが良いのか。
その辺りのことを教わることが出来たような気がします。

もっと色んな話を聞かせていただきたい!という欲張りな気持ちになったのは、私だけでは無いはず。
お名前を高校時代から存じ上げていて、密かに作品にも憧れていた私にとっては、非常に嬉しい時間でした。



2001年07月07日(土) 特別講義「語りと騙り」

 特別講義(講師:石澤秀二先生)

◎演じるとは、どれだけ上手に嘘をつくか、ということ。

◎呼吸…二人で向かい合って大きく息を吸い、大きく吐く。
その時、身体は自然にまかせる。どうなるか。

息を吸えば吸うほど反り返っていく。吐けば吐くほど縮こまっていく。
呼吸の仕方で「王様と乞食」を表現できる。
息を吸い、身体が反り返る=王様
息を吐き、身体が縮こまる=乞食
吸うのと吐くのと、どちらを中心にするかを意識すると、表現の幅が広がる。

笑い声も同じ事。吐く息、吸う息、どちらが多い笑い方か。
おかしくておかしくて大笑いするときは…吐く息が多い。
吸う息で笑うのは難しい=笑えない、けど無理に笑うとき、例えば、恐怖の中での笑いとか。

ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ、で笑ってみる。それぞれに違う表現が自然と出来る。
それぞれの呼吸や声に、意味がある。
それに、細かいニュアンスを付け加えていく。

◎歩き方
自分のクセを知るには、自分と同じくらいの重さの人を背負って、足を上げるようにして歩いてみる。
両手は左右に大きく水平に伸ばし、上体は少しだけ倒し気味に、顔はまっすぐ前を向いて。
クセのある人は、それがはっきりする。
・重心は出来るだけ下に。…上の方にあると、ふらふらする。定まらない。
・足は、まっすぐ前へ出す。…内股、がに股にならない。
・ゆっくり歩かないと、クセに気付くことが出来ない。

特に、大勢で揃って歩くときなど、これをすると段々揃うようになる。

◎信頼。
真ん中に一人立ち、それを数人で取り囲む。
真ん中の人は、マッチ棒のように、まっすぐ。どこへ倒れるか分からない。
周りの人は、中腰で構えていて、真ん中の人が倒れたら、その倒れる力を吸収しつつ、支え、建て直し、別の方向へ倒す。
信頼する、それに応える。
例えば、舞台で倒れる、遠くからでも、さっと間に合うように支える。
そんなこともサッ、パッとこなすことが出来たら、かっこいい。

◎別役実「あーぶくたった、にいたった」より
第七場、女1の電話を受けている台詞を読む。
・スピード、トーンなどに変化が無い
→興奮すれば、言葉は早くなり、大きさも変化する。リズム、パッションの変化。
・ニュアンスによって、第三者の存在を匂わすことも可能→そばに、誰がいるのか、どんな場所で電話を受けているのか、どんな状態で…

状況設定が、理屈抜きで観客に伝わる。=リアリティ。

◎様々な(自由な)設定で電話のやりとり(即興)
二人で…一人で…
特に一人でやる場合は、相手の言葉をどう受けとめるか、その「間」をどう表現するかが大事。
・自分の状況、相手の状況を、やりとりの中で匂わすにはどうすればいいか。
・相手の反応を観客に伝えるためには?…たとえば、相手の言葉を繰り返す、というのも手。

◎状況によって変化する声。
例えば、寝起き、酒を飲んでいるとき、…それによって、状況を伝えることも出来る。

実践:外郎売りを色んな状態で
立ったまま/逆立ち/馬乗り(の下)/腕立て伏せ
刺激を与えられていると、それに抵抗するため、声がしまる。

*ジャン・コクトー「声」杉村春子
戦後最初の一人芝居。当時はモノロオーグドラマと呼ばれた。


☆観客を上手に騙すため、リアリティーを出すためには、それ相応の技術を身につけておかなければならない。
身体、声、呼吸を工夫することでリアリティが増す、ということでしょうか。

※二日連続の講座でしたが、二日目は体調不良でダウン…残念ながら一日のみの参加となってしまいました。



2001年07月05日(木) 「劇表現(5)」

『体現』

まず、授業始まる前にハプニング。
張り切って、足の筋だけでも伸ばして始めようか、と立ったまま片足を曲げてかかとをお尻に当てるようにして見たら…いきなり足がつった。
最近多い。寝起きに足がつるとか。
間の悪いことに、すぐに先生が来られ、授業開始。
じきに、足の痛みは忘れることが出来たが、いきなり、スキップで始まった今日の授業は、つらかった…

◎最初にスキップ。
・元気良く、楽しそうに。
・抱きつきたい!と思った人の背中を狙い、最後に抱きつく!
・今度は、「いやあ!!」と思ってダッシュで離れる。

◎誰かが、ナイフを隠し持っている、という設定で、探りながら、警戒しながら動き回る。
・止まるのはダメ。
・背中、人と接触しそうなとき、しっかり意識をする。

◎殺しの森(?)
・全員、寝る。
・一人、子守歌を歌いながらみんなの中を回り、二人にタッチ。彼らが、殺人者。
・みんな目を覚ます。鬼は自分がナイフを持っていることを悟られないようにしながら、密かに刺していく。
・刺された人は、5歩歩いてから、倒れる。
・誰が鬼か、様子を見ながら、逃げる。結構早い時点で、私は「目撃」してしまったので、警戒していたが、最後は、急襲されて刺されてしまった。
・(ちょっと、怖かった…)

◎ストレッチ…いつもの基本の動きに加えて、「ラ行」「マ行」を綺麗にするレッスン。
・前の足を直角に曲げて…とかの動きの際、まずは「リレリリリ リレレレレ リレリリリ リレレレレ リレリルリレラロル」を繰り返す。
・最後に、いつもの「ラレリルレロラロ …」をやると、ラ行がちょっと綺麗になる。舌先を意識できるようになる(らしい)。
・反対の足の際には「マ行」で。

◎棒
・一人一本、1メートル位の棒を渡される。チャンバラ?
・二人一組になり、二本の棒を、人さし指で支え合い、落とさないように様々な動きに挑戦。
・ちょっと練習したら、目をつぶって動く。要領が分からず、上手くいかない。
・指先で感じる相手の動きを意識して、それに合わせて動かす。相手に合わせるだけでもだめだし、自分がリードしてばかりでも上手くいかない。
「相手を思う」ことが、要求される。
・途中で一旦、目を開けて動く。すると、目をつぶっているときの方が、自由自在に、おもしろい動きが出来ていた。
なぜか?見える分、相手の動きを「予測」してしまう。見えないときは、指先だけが頼りで、そこから伝わるものをしっかり感じで動けたのに、出来なくなる。
・今度は、目を開けても、指先を意識して動けるように。
・後半は部屋を対角に移動しながら。その場で動くことさえ、ままならないのに、前進なんてとんでもない。
なかなか前へ進めない。無理に進もうとすると、手が止まる。何往復かしたが、満足できるのは、なかった…
結構みんな、ねばり強く落とさなかったり、激しい楽しい動きに対応し合ったり…すごい。
・最後は、棒をなしの状態で、でも棒があるつもりで同じ事を。
…が。やはり、指先の意識が出来てないのか、上手くいかない。上手い班は本当に棒があるかのように、でその棒を本当に落とさないように動き回る。面白い。うまい!!

・実感として、まずしっかり意識する。
・それを身体に刻み込み、再現する。それがリアリティになる。
・例えば、棒の無い状態で動いた姿は、棒=二人の距離が縮まらないということで、二人の人間関係が現れる。
 決して近づけない、相手の動きを最大限意識して動く、決闘の場面にも似ている。
 そして、この「緊張」がとけ、二人の距離が急に縮まれば、そこにドラマが生まれる。

◎宿題の発表
「今までに出会った(見た)一番おかしな人」という題で書いてきた作文をまずは順番に読み上げる。
なぜか、電車の中が多い。
読みながら、自分で噴き出す人続出。
みんなそれぞれに「おかしな人」に遭遇している。(自分自身だったりもする)
やはり、なにかそういう場面に出くわす素質があるのか?

・一通り終わったところで、各自で自分の見つけたおかしな人について研究。どんな歩き方をする人か、なぜそういう行動をとったのか、再現しながら特徴をつかんでいく。
・その人物になったつもりで、歩く。その人が他の人と接触したらどんな態度をとるか、人混みの中でどういう行動をとるか…
・5人一組なり、各自の設定を活かしつつ、一つの場面(ストーリー)を作り上げる。

・発表。どの班も、一度内容を聞いているので、ああ、この人がやっているのはあんな行動の人だったな、と思いながら見る。
が、先生の注意の中では、必ずこのことがあがった。
初めて観る人には、わからない。
初めて観る人にも分かるようにするには、どうすれば良いのか。
単なる再現ではいけない。
自分ではしっかり表現してる「つもり」ではいけない。
しっかり「体現」しなくてはならない。
(そのためにも、いろんな練習や、体験でその感覚を身につけていかなくてはならない)

・次回、完成バージョンを発表。



2001年07月04日(水) 「狂言(2)」

『小舞』

今日も、まず始めは発声から。
前回同様、「あ〜〜〜〜ああっ」っという感じで精一杯伸ばし、最後を力強く、という長い発声と、「ああっ」という短い発声と。
これがどんな場面で活かされるか、後で知ることに。

今回は、前回配られていた『盃』『うさぎ』という小舞を教わった。
実は、前回いただいてから気になっていたのだ。
というのが、『盃』のほう、言葉の横に、「ー」とか「/」「\」とか「へ」みたいな記号がついている。
これって、見たことある…そう、母の実家で。
毎年、お盆にあげるお経の横についてる印と同じだ!!
実は、私は別に信心深いわけでもなんでもないが、お経を上げるのは好き。
節回しとか、雰囲気が…。
なので、実は密かに、『盃』教わるとき、かなり盛り上がってました。
上手い下手は別として…。
楽譜(音符)みたいに、「この音!」ってのがない分、流動的な音ではあるけど、それがまた心地よい。
でも、かなり練習しないと、音がヨレヨレしてしまう。
で、発声練習でした“伸ばして、最後にも力を入れて、さらに伸ばしきる”感じは、ここで役に立った。
だらーっと伸ばすのでなく、最後までしっかり、お腹から伸ばす感じに。
5人ずつ組んで発表したが、最初の音を合わせるのが出来なくて、もたついてしまった…
が、ワタクシ的にはなかなかいい感じでした。(多分)

経験者3名が舞付きでやってくれたのが、とてもかっこよかった。
やってみたいなあ…

次の『うさぎ』は動き付きで。『盃』とは一風変わった、ちょっとかわいらしい動き。
これは全員で練習。
「自分で言って、動く」ので、基本的にはゆったりした動きなのだが、言いながら動くのは難しいし、意外と足の動きなどに気を取られ、もたもたしてしまう。
「舞」とはいえ、一つ一つの動きが言葉を関係しているので、やっていても面白いし、分かりやすい。
最後に10人位ずつで発表。

前回「以呂波」のおさらい。
テンポや、節回しなど、ほとんど忘れ去っていた…
が、またまた大勢対大勢での兄弟喧嘩。
最後まで、バタバタだったけど、面白かった。
前回休んでいた人たちも始めは「なに??」「わからん」と混乱していたようだが、最後は「楽しい!」の連発。

次回が最後。
最後にはもう少し少ない人数で「以呂波」の発表。
上手くいくかな。


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ふうちゃん [HOMEPAGE]