Memorandum


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2001年06月30日(土) 責任論・再論

どうも、責任という事の意味があまりよく分からない人がいるようですから、
改めて再度書きます。

一昨日ここで、犯罪に対して親に責任はない、と書いたら、
それに対して早速、親の責任を云々してきた人がいます。
そういう反応がでる事は予測してましたが、見当違いも甚だしいです。
私は、親が子の基本的な人間形成に対して責任がないなどとは
一言も言っておりません。
だから、件の犯罪者の親が、彼のそういう犯罪を起こすような
人格が形成された事に対しての責任がある事は言うまでもありません。
しかしそれはあくまで親の子自身への直接の責任の問題です。
未成年でもない子供の行為(犯罪)に関して、
親が第三者(世間)に対する責任を問われる事とは別です。
そういう責任の問い方をしていると、こんな犯罪者野郎が生まれたのは親が悪い、
だから親が謝罪しろ、という話になって、
結局それは往々にして、犯罪の責任を親がとる(つまり死んでお詫びする)
という事になってしまう。
しかもこれは、被害者およびその家族に対する責任ですらなくなって、
どちらかというと、世間(を騒がした事)に対する責任の話になっています。
だから、こういうムラ社会の掟のような構造が
いつまでも続いているのが異常だ、と私は述べたまでです。

改めて聞かされるまでもなく、
親子関係や家庭環境がどうたらこうたらと言う、
犯罪事件が起きる度に決まって心理学者やら教育学者やらがマスコミに出て来て
毎度繰返すワンパターンの同じ話は私もよくわかってます。
別に犯罪者であろうがなかろうが、人間形成の過程で
家庭環境やら親子関係やらが重要な役割を持っている事はその通りですよ。
私は独身ですが、でも子の立場にはあるわけだから、
例えば現在の自分の人間性について、
親や家庭環境がどれだけ影響しているかは切実に痛感しています。
でも犯罪事件にかこつけて、
その犯人の成長環境がこれこれこうだったという事から話が逆転して、
そういう親子や家庭は問題だ、みたいな一般論にすりかわってしまうと
危険です。
これはたまたま精神病者が犯罪を起こすと、
あたかも精神病者そのものが犯罪者扱いされてしまう状況を
生み出すのと同じ構造です。
また、親子関係や家庭環境が問題だ、重要だ、と言っても、
結局、それは個々のそれぞれの場合の中で対処するしかないのであり、
それをパターン化してマニュアル化しても、
つまらない一般論的な教育論や家庭論にしかなりません。
親子関係がうまく行かなければいけない、などと言っても、
では具体的にどうすればいいのかなんて、誰にもわかりません。
たとえ良好に思えた関係のもとにあったって、
でもひとたび犯罪を犯せば、結局は親子関係に問題があった、
という事になるでしょう。
だから結果から原因を見たって始まらないです。
それがどういう結果をもたらすかと言う、原因と結果の因果関係、
そして責任の問題は区別してそれぞれに論じなければなりません。
そしてむしろ言いたいのは、そういう事を区別しないで、
犯罪事件に関して不用意にすぐ一般論的な親子関係や家庭環境の
問題を云々と言い出すような奴こそが、
無意識かつ無責任に、犯人の家族を自殺に追い込んで当然という
風潮に加担しているという事です。


2001年06月29日(金) タレント選挙の行方

今日で国会が終了し、参院選に向けての事実上の選挙戦に入りました。
参院選の投票方式が今回から変わり、
比例区は政党名でも候補者個人名でもどちらを書いてもよくなりました。
そのせいか、全国区廃止以来、
久し振りにタレント候補の勢ぞろいです。
中でも大物中の大物は、民主党の大橋巨泉でしょう。

これに対して、強引に選挙制度を変更した当事者である自民党からは、
これと言ったタレント候補は特にいません。
でも小泉・真紀子コンビという政界の最大のスターがいるのですから、
あえて人気目当てにタレントを擁立する必要はないでしょう。
逆に言うと、党首に人気がない政党ほどタレント頼みと言う事であり、
従って不人気の鳩山代表と落ち目の菅幹事長しか看板のない民主党が
巨泉を立てたのは必然でしょう。
尤も、セミリタイアしてもう10年以上も経つ巨泉に
今更どの程度の知名度と得票が見込めるのかわかりません。
でも中身はともかく貫禄だけは充分です。
いっそのこと当選の暁には鳩山を降ろして党首にかついだらよいでしょう。
小泉vs巨泉の党首討論は笑えそうです。

他党はどうかというと、組織政党である共産・公明は、
党名に勝る看板はないと言う事で、特にタレントはなし。
自由党は小沢党首が最大の看板であり、ここもタレントは担ぎません。
保守党は扇党首だけでは心もとないのか、
芸能リポーターの鬼沢某などを擁立していますが、
どこまで集票力があるのか疑問です。
一方、社民党は田島陽子教授を引っ張り出しましたが、
これは言いかえれば土井党首の人気が落ち目だと言う事でしょう。
中身で勝負、と行きたいところですが、
でも田島陽子は、当選する前から他党に移る可能性なぞ示唆し
(比例で当選した議員は移れないのに)、
中身もないのを早くも露呈して自爆しました。
(わけのわからんのは自由連合、
落ち目のタレントばかり揃えて何をしたいのか?)

結局、小泉・真紀子人気を批判している連中も
たいした中身はなくて人気者頼みの様相です。
しかし人気勝負なら小泉・真紀子には所詮かないません。
こうしてみると、参院選の帰趨は既にもう見えているようです。



2001年06月28日(木) 「世間」という道徳

先日の大阪の児童殺傷事件の犯人の父親が
マスコミに謝罪文を書かされていました。
もともとこの父親は犯人である息子を批判するなど、
他人事のような態度が非難されていましたが、
それにしても何故当事者でもない親のところに
押し掛けて行って責任を追及するのか、わけがわかりません。
このような凶悪事件が起こるたびにいつも、
必ず親の責任が云々され、親がマスコミに引っ張り出されて
謝罪させられるという事が起こります。
特に少年事件の場合は尚更ですが、
この事件のようにいい年をした大人の犯人の場合でさえ、
なぜか親の責任が問われます。
なるほど、こういう犯罪を起こすような人間が育った原因の一端は
確かに親にあるでしょう。
しかしどういう育て方をしたらこういう犯罪を起こすという
必然性などはありません。
どんな育てられ方をしたって、する奴はするし、しない奴はしない。
まして犯罪自体はその犯人自身に責任のある事であって、
別に親に責任はありません。
親が共犯だったわけじゃないし、
犯罪を知っていながら知らぬ顔を決めこんでいたわけでもない。
独立した個人の行為をいちいち親に責任を問い
謝罪を要求するというのは、どういう倫理構造なんでしょう。

たまたま今日、幼女連続誘拐殺人事件の判決がありました。
この犯人の家族は離散し、そして親が確か自殺しているはずです。
或いはその昔、連合赤軍事件の場合にも、
犯人たちの親の一人が自殺したと記憶しています。
つまりよってたかって親の責任を追及した結果、
自殺にまで追い詰めたのです。
これはマスコミ、或いはそれを煽った世間の責任ですが、
その責任は一体誰がとるんでしょう。勿論誰もとりません。
というよりむしろ自殺に追い込んでも当然と
思っているかもしれません。
責任や謝罪を追及するのは結局そういう事です。
私は凶悪事件そのものは当然異常だと思いますし、
そんな事は分かり切った話です。
でも不思議なのは、その犯人の家族を
自殺にまで追い込むような世間の構造については
何とも思われていないらしい事です。
私はその事の方がある意味よっぽど異常に思えます。

かつて連合赤軍事件だか何かの過激派事件のときに、
思想家の吉本隆明が「戦争が露出してきた」と批判していました。
事件そのもののことではありません。
犯人の親を引っ張り出して、その親に謝罪させるという構造
のことを指して言っていたんだと記憶しています。
戦時中、親は「公」のために「私」を殺し、
出生する息子に、お国のために立派に死んでこい、と言わされていました。
今日、マスコミに引っ張り出されて
息子がこのような犯罪を起して申し訳ない、極刑にして下さい、
と言わされるのと同じ構造だというのです。
吉本は、「公」より「私」が大切だというのが戦前の教訓、
そして戦後の課題だったはずなのに、
結局、戦中と同じ構造が平時のもとで繰り返されている、
それは平時における戦争の構造だと言うのです。
ここで言う「公」とは、「世間」の事です。
「世間」という得体の知れないものがあたかも規範であるかのように
振るまい、その元に人々が服従させられるのは、
未だに何ら変わっていないようです。


2001年06月26日(火) 本当に怖い事は…

昨日もちょっと書いた、社民党の選挙向けCMが、
「他党への誹謗中傷」になるとして民放各局から
放映に難色を示されているそうです。
CMの内容は、明かに小泉首相を思わせる政治家(手のみ)に
握手を求める群衆をバックに、
「本当に怖い事は人気者の顔をしてやって来る」とのナレーションがかかり、
最後に土井党首のアップで、「戦前へ走らない道を」云々、というもの。
つまり小泉首相の目指す道は、戦争への道だと言いたいわけです。
私はニュースの中で紹介されていたのをちょっと見ただけでしたが、
別に問題はないんじゃないかと思いました。
これは単に普段の社民党の主張をそのままCMにしたものです。
だから、もしこれが誹謗中傷なら
社民党の主張自体が誹謗中傷と言う事になってしまいます。
でもそれは放送局が決めるのではなく、国民、有権者が決める事です。
そもそも、政党の主張、他党への批判は誹謗中傷と紙一重であり、
現に欧米なんかはもっと過激な対立党への攻撃CMをやっています。
私は社民党の主張そのものは全く支持しませんが、
でもこのCMの放映は支持します。
つまらんイメージCMより遥かにましだと思います。
選挙は戦いなんですから、これくらいどうって事ないでしょう。
で、私も思いつきました。
とある社会主義の大国を思わせる国の軍事パレードに列席して感激する
女性党首の映像を背景に「本当に怖い事は正義の仮面を被ってやって来る」
ってCM(笑)。これは誹謗中傷じゃないです、社民党の言うように。
でも日本でこの手の批判合戦をやってた日には、殺伐としたものになりそうです。
やはり日本の土壌には合わないかもしれません。


2001年06月25日(月) 社民党滅亡

参院選の前哨戦として注目されていた東京都議選は、
小泉人気で自民復調、共産惨敗という結果に終りました。
私は都民ではないので傍観者ですが、
この結果が参院選に反映された時の影響は気になります。
自民党勝利となれば、とりあえず改革に向けた小泉首相の党内の求心力は
高まるでしょう。
でも反面、それは結局、自民党の守旧派を利する事になりかねません。
つまりどちらにしろ参院選後の首相の道のりは険しいと言えます。
切り札として残した衆議院解散権をどこでどのような政治決断として使うのか、
が、今後のポイントになりそうです。
また、民主党の伸び悩みは、この党のふらふらと定まらない
足腰の弱さという欠陥を露呈したものだと言えると思います。
参院選に向けて明確にした体勢の立て直しが迫られます。

都議選で個人的に注目したのは、社民党が1議席も獲れず、
遂に都政から消滅した事でした。
かつて社会党時代には第1党にもなった事もあるのを思えば感慨深いですが、
しかしもうこの党は存在意義がなくなったという事でしょう。
都議選で石原都政への対決姿勢を打ち出したのは結構ですが、
でもそれが右傾化批判、そして相も変らぬ護憲の主張というのは呆れました。
どうやらこの党の頭の中には憲法9条擁護、
あとはせえぜえ北朝鮮讃美ぐらいしかないようです。
今日たまたま社民党の参院選向けCMを見ましたが、
キャッチコピーは「日本を戦前にさせない」との事でした。
笑わせてくれます。
戦争の危機が近づいていると言いたいんでしょうが、
マッチポンプ式に勝手に自分で危機を煽り、それに反対しているだけです。
「マクベス」の台詞、
「ありもしないものと戦う事は、それを存在させる事になる」を
思い出しました。妄想の世界です。
あるいは、冷戦時代のまま思考停止しているのか。
マニアがいるので国政からは消滅する事はないでしょうが、
でも今のままではもう歴史的役割を終えた、
前世紀の遺物政党と化してしまうでしょう。





2001年06月23日(土) 善悪の彼岸

黒澤明の映画に「生きる」というのがあって、
それは、意味のない人生を送ってきた人間が、
癌であと半年の命と知って初めて、
何か意味のある事をしたい、活き活きと「生きたい」と
渇望するという話です。
私は子供の頃テレビで見て、
重苦しくてウンザリして、実につまらなかったのですが、
でも大人になってから非常に苦しい想いで生きていたときたまたま再見して、
涙が止まらなくなりました。
ニーチェが「病者の光学」と言う事を言っていたと思います。
健康なときには健康のことなんかあまり考えませんが、
でも重い病気になったら初めて考えるし、
更に人生とは何か、を深く思い巡らせます。
つまりは、正常な状態からは物事の本質は見えない、
むしろそうでない状態からこそ考え得るという事です。
だから思想家は、
例えばフロイトは精神病から人間の心理状態を洞察したし、
或いはマルクスは恐慌から経済を考察したのでしょう。

ところでニーチェと言う人は、
それとは全く逆の事も同時に述べています。
彼は弱者正義というものを徹底的に批判してまして、
弱者が善だ、正しいというのは欺瞞だと述べています。
本来、善悪の判断と強弱は無関係です。
むしろ誰でも強者でありたいというのが自然な欲求ですから、
何も好きこのんで弱者になりたい奴はいません。
ところが弱者はその恨み根性を抱え込んで、
自分は悪くない、他人が悪いんだ、強い奴が悪いんだ、と
自己正当化を図ります。
こうして弱者こそが善であり、強者は悪である、という転倒が
成立するのであり、
このような捻じ曲がった弱者の根性こそが道徳の起源である、と
ニーチェは喝破しています。

こう言うとニーチェは強者で、弱者を誹っているようですが、
実はニーチェ自身が世の中から認められず、
恨み根性のかたまりみたいな人間でした。
だからおそらくニーチェは、自分に正直な、
そしてひとの心が見え過ぎる人だったのでしょう。
ニーチェは別に弱者を否定しているわけではない、
と私は読みます。(多分違うと思うけど)。
ただ許せなかったのは、自己欺瞞です。
ニーチェが再三述べていたのは、
自分を正しいと主張する奴をこそ尤も警戒せよ、
という事でした。
自分が正しいと思うのは、自分の弱さを偽っているのであり、
その欺瞞こそが最も悪なのだ、
だから自分の弱さを直視せよ、とニーチェは言っているのだと思います。

「善人どもの害悪こそ最も有害な害悪なのだ!」(『ツァラトゥストラかく語りき』)



2001年06月22日(金) 桜桃忌

もう過ぎてしまいましたが、
この19日は桜桃忌、つまり太宰治の命日でした。
私は10代の頃、いくつか太宰の作品を読みましたが、
非常にいやらしい根性の奴だと思って、大嫌いでした。
何がいやらしいかというと、、、
例えば太宰には、田中英光という弟子がいたのですが、
彼はボートの選手としてオリンピックまで出たような、
肉体的に健全な、非常な筋肉マンでした。
ところが田中は太宰にかぶれた結果、
自分が文学的に弱いのは肉体的に強いせいだと勘違いして悩んだ挙句、
太宰の命日に墓の前で自殺して死んでしまいました。
つまり弱者が強者に取り憑いて、取り殺してしまったわけです。
これは別に太宰に限った話ではないけれど、
弱者こそは正しい、美しい、という、妙な観念を振りまいた張本人の
一人ではあります。
太宰が大嫌いだった三島由紀夫などは、
「弱いライオンの方が強いライオンより美しいなどという理屈がどこにあるか」
と言って太宰の美学を痛烈に批判しています。、
そして私も少年時代の当時、それを尤もに思って読みました。
ちなみに三島自身、実は極めて精神的に弱い奴でしたから、
だから近親憎悪的に太宰を毛嫌いしていたのです。
また、その反動でやたら筋肉を鍛えていましたが、
でも結局は強くはなれませんでしたし、
さりとて今更自分の弱さを認める事ができずに、
自爆し果てました。
だから結局は三島も太宰に取り殺された一人と言えます。
また、私が太宰ではなく三島に同感したのも、
自分がさっぱり強くない、甚だ弱い奴だから、
その自己正当化の根拠を三島の方に求めていたものです。
尤も私は、恥さらしにもおめおめといまだに生きています(自爆)。


2001年06月18日(月) ポピュリスム

先週末からいろいろニュースはあったんで、
目に付いたところだけ、一応簡単に。

山形、富山に続いて金沢大学でも入試ミスが発覚、
本来合格していた受験生が不合格にされていたとか。
週刊誌の見出しに「青春を返せ」とありましたが、
受験生にしてみればその通りでしょう。
何と言っても、学歴社会で大学の合否は当面のゴール、
人生変わってしまいましたからね。
「知らないままの方がよかった」との声が切ない。
お気の毒です。

訪米中の真紀子外相、
留学時の思い出の地フィラデルフィアを訪れたことに対して、
公私混同との声。
重箱の隅をつつくような批判はくだらないです。
それを言うなら、歴代の外相(男)は何をしていたものやら。
(もしかしたら、王侯貴族のようなホテルの豪華ルームで酒池肉林の宴とか(笑)。)
そう思えばたかが旧友との再会、健全なもの。
肝心なのは外交の中身の方です。

一方、国内では参院選の前哨戦とされる東京都議選がスタート。
相変わらずの小泉人気、そしてふがいない野党、特に民主党。
小泉政権誕生以来、ポピュリスムと言う事が言われます。
大衆迎合主義と訳すようですが、
むしろ大衆の方が政権に迎合しているのであり、
そして小泉人気を恐れて、その大衆にまた野党が迎合しているのが実態では。
対立軸をはっきり打ち出す野党の王道を歩んでもらいたいものです。
尤も、頑固に護憲しか言わない前世紀の遺物政党は論外ですが。


2001年06月15日(金) セックスワークの諸問題

先日の『恋愛の超克』読後感が尻切れになってましたので、
取り合えずケリをつけておきます。

さて、著者である小谷野敦氏によれば、
今日、売春者の立場に立てるのは、売春者自身か、
さもなければ「愛のないセックス」を実践し
自分の娘に「売春は立派な職業だ」と言える者のみなのだ、
という事でした。
これは言いかえると、売春とは愛のないセックスをする事であり、
従って、性と人格の一致の原則が人間社会全体において解体
するのでなければ売春者蔑視は根絶できない、という事になります。
しかるにフェミニストは…というわけで、
近代の恋愛イデオロギーから自由になれないフェミニズムの立場と
売春擁護が相容れない矛盾点を著者は指摘しています。

著者の主眼はあくまで近代の恋愛教からの脱却・超克であり、
売春擁護論への批判もその観点からなされています。
でもそのせいか、売春そのものの評価に関しては
いささか混乱があるように感じます。
つまり売春擁護論の否定は、直ちに売春そのものの否定には
繋がらないのではないか、と言う事です。
尤も、この事は逆も言えます。
売春否定の根拠が曖昧である事は、
必ずしも容認や肯定の論理には結びつきません。
単にどちらとも決定不能であるというだけです。

また、混乱のもとは、セックスワークそのものと
現実にかくあるところの売春や風俗のあり方の問題とが
よく区別されていないからでしょう。
私個人の意見として述べれば、
論理的には性労働そのものの成立の可能性自体は否定できないと思います。

著者は、性=人格の解体が社会全般にわたって進めば
売春者そのものをなくす事ができる、と述べています。
性と人格の一致が解消し、
もてない男(女)に請われれば1回くらいのセックスはさせることが
スティグマにはならない世界が到来すれば、
売(買)春需要はなくなる、という事のようです。
しかし、それでもなおセックスワークそのものが
存在し得る可能性は否定できません。
それが上野千鶴子氏の言うようにマッサージ並みの料金に
なるかどうかはわからないけど
セックスに過剰な意味がなくなれば、単なる遊びとしては残存し得る理屈です。
その程度の遊興の場としてはあり得るでしょう。

ただ、それと現にかくあるところの性風俗のあり方を肯定する事はまた別問題です。
男性社会、家父長的資本制の中にあって、女性のカラダが「財」として消費される
構造が現実にある以上、それは容認し難いものがあります。
例えば、営業の接待として風俗を利用するという、
オトコの私から見ても唾棄すべき慣習があります。
これなどは職場労働の現場において女性が意志決定の場から排除され、
その反面、まさに家父長的資本制の論理によって「財」として女性のカラダのみが
提供されるという悪しき構造そのものです。
こんなもの認める必要全くありません。即刻にも撲滅すべきでしょう。
或いは「人妻」「主婦」「女子高生」を売り物にする風俗など、
それ自体が「財」として売り物になっている現状を容認した上でのものであり、
認める謂れは全くないです。
フェミニズムは絵空事のあるべきセックスワークを擁護する前に、
こうした悪しき現状は厳しく糾弾し続けるべきでしょう。

また、著者が囚われているような恋愛イデオロギーだけが
必ずしも売春否定の根拠なのではありません。
売春への拒否感情とは、
必ずしもそれが性=人格に反する愛のない性行為であるからではなく、
多分、性が金銭を媒介として売買されるというそのものに根ざしています。
性を商品化してはならないという倫理は、
何も別に性と人格の一致によって保証されているものではありません。
性に限らず、我々がそれを商品化する事を忌避するような領域は
ほかにも存在しています。
例えば臓器売買は、まさに「売買」である事によって拒否されるのであって、
身体と人格との一致原則によって臓器移植が否定されるわけではないでしょう。
こうした観点への考慮も必要であるように思われます。



2001年06月13日(水) あれこれ

いろいろニュースがあるのでまとめて書きましょう。

まず、例の大阪の児童殺傷事件の犯人、
犯行前に精神安定剤を10錠飲んだと伝えられていましたが、
実はそれはウソだったとか。
犯行の動機に関しても、元妻がどうのこうのとか、
話が錯綜していて、何やらまだまだよくわかりません。
今後の防犯対策も含めて、もう少し事態の推移を見る必要がありそうです。

次に、アメリカのメジャー・リーグのオールスター戦ファン投票で
イチローが中間発表のトップになった事が大々的に報じられています。
イチロー・新庄らのニュースは、NHKでもいつもまず最初に報じられますね。
次に日本のプロ野球が来るという具合です。
どうでも良いんですが、単に日本人選手の成績だけではなく、
メジャーリーグそのものの順位についても少しは報じてくれないものかと思います。

全然関係ないのですが、よく外国で何か事件の起きたとき、
必ず「邦人は無事」と一言付け加えます。
日本人さえよけりゃいいのか、とふと思いますが、
…まあ、そこまでケチつける必要もないか。

さて、最後に、今日は小泉政権になっての党首討論の2回目が行われました。
ニュースで報じられた範囲でしか知りませんが、
限られた時間をうまく使ってポイントを稼ぐ術は共産党が長けているようです。
小沢さんはもう少し簡潔に話すべきでしょう。
土井サンは相変わらずですが(謎)

意外だったのは、先日の第1回目に関して。
民主党内では鳩山氏を評価する声が高く、
それもテレビではなくラジオで聞いていれば鳩山氏が勝ってた、
という言い方をしていました。
ケネディとニクソンのテレビ討論から何十年経っていると思ってるんでしょうか。
メディア戦略と言う事に関してどう捉えているのか、いささか呆れた認識です。
今回はどういう評価がでるんでしょうか。


2001年06月12日(火) 他人事

大昔に読んだので、うろ覚えですが、菊池寛の小説で、
被告に温情主義的的な、ヒューマニスティックな判決を
する事で知られた裁判官が、自分自身がある事件に巻き込まれた後、
掌を返して冷淡になる、という作品を読んだ事があります。
主人公のヒューマニズムが所詮は偽善に過ぎなかった事が、
はしなくも暴露されています。
作者がどういう寓意をこめたのかよくわかりませんが、
少なくともここでは作者の、
人間のエゴイズムというものに対する鋭敏な感覚を私は感じました。

さて、先週末大阪の小学校で起きた児童殺傷事件について、
以来、連日のように事件報道が続いています。
と言っても既に起こってしまった事件はどうしようもありませんから、
犯人の動機やら事件の背景ついて、あれこれ述べられているに過ぎません。
従って見るほうも、惨劇そのものの衝撃とはもはや別の次元の
興味本位に移っています。
私自身も、刑法改正などの今後の問題には関心がありますが、
事件そのものにはあまり興味がありません。
確かに一報を聞いた時には驚きましたが、
しかしそれ以上でも以下でもありません。
近年、日本も欧米並みに物騒な世の中になったものだ、
と言う一般的な恐怖はありますが、
とりあえず事件そのものは私とは関係のない出来事です。
ひとに聞くと、例えば同じ子を持つ親として他人事ではない、と言ったりしま
す。
でも私には子供はおりませんので、その理屈に従えば他人事です。
また、同じ親として云々という人にしろ、
それは裏を返せば実はわが身に起こった出来事ではない幸せでさえあります。
だから結局は他人事です。
しかし、人間として許せない、怒りと悲しみを禁じえないと言う
ヒューマニスティックな立場もあり得るでしょう。それは認めます。
ただ、そう思っている人も、
まさにそのように思うときだけ怒りと悲しみを感じるのであって、
もしかしたら1時間後にはバラエティ番組を見てバカ笑いしているかもしれません。
でも、子供を惨殺された当事者である親にとってみれば、
勿論そんな事はあり得ないです。
これから生涯、常に怒りと悲しみを抱えていかねばなりません。
すると、アカの他人がその時だけ感じる義憤って一体何でしょう。
むしろそういう人は、別にどの事件であろうが、誰が殺されようが
同じように怒りと悲しみを感じたりする義憤屋に過ぎません。
しかし当事者にとってはそんなものではないです。
怒りや悲しみは、他とは取り替え不能なものです。
私たちはそれを共有する事など無論できません。
そうであるならば、つまり所詮は他人事の世界に過ぎないのです。
ひとは結局、自分自身の立場にしか立てないのです。



2001年06月11日(月) 反恋愛論2

ここ10年近くの間に売春をめぐる言説は全く変わってしまいました。
かつては保守派の道徳論者は勿論の事、フェミニズムも性差別反対の立場から
性の商品化である売春を否定するのが常識的立場でした。
しかし性産業の現実のあり方、
そして売春も労働としてその権利を認めよという一部の気運高まりに至って、
フェミニストは従来の立場からの”転向”を余儀なくされました。
『恋愛の超克』の著者が言うように、フェミニストにとって痛かったのは、
売春否定は売春者への差別だ、という、この「差別」という言葉です。
また、売春否定論が無根拠である事が、様々に論証されるにつれ、
売春容認論の立場はますます強化されていきました。
今では、売春否定論者は差別主義者として罵倒されかねない勢い(?)
にあるかのようです。
これに対して著者は、公然と反論しています。
と言っても彼は別に差別主義者ではない、
むしろ、売春否定を差別として非難する者が陥っている欺瞞を鋭く指摘しています。
特に槍玉に上がっているのがフェミニストです。
それはフェミニズムが、恋愛を称賛する(少なくとも否定しない)事と売春肯定には
矛盾があると言う事です。
フェミニズムは、悉く男社会を糾弾するが、しかし恋愛否定しない、むしろ依然とし
て讃美する。
であるならば、どうして愛のないセックスである売春の擁護者足り得るのか。
だから著者は、自ら愛のないセックスを実践し、かつ、自分の娘が売春婦になる事を
勧められるものでなければ、売春者への蔑視者足らざるを得ない、と述べています。
また、そのように言えないところに売春肯定論者の欺瞞があると言う事です。
著者の立場には、殆ど同意する反面、にもかかわらず若干の疑問も残ります。
私個人について言えば、私は愛のあるセックスがしたいし、また、
もし娘がいれば(独身ですが)、やはり売春婦になって良いとは言えないので、
従って著者の論理に従えば、私は売春者への蔑視者、差別者足らざるを得ませんし、
そしてそれならそれでも構いません。
実際、私の心の中には、売春買春は嫌だし、良くないと言う思いは抜けない。
それは私が、近代的な性愛一致主義に毒されているからなのでしょう。
だから、私のこの感情に著者の論理はすっきりと答えてくれるものです。
性愛一致が間違いだとはっきり言えない人が売春肯定と言うのは可笑しい
と言うことです。
しかし、他方で不満と言うか疑問も私にはあります。
それについてはまた書きます。(また続く)


2001年06月10日(日) 「頑張って」

(※昨日の続きはまた後日)

むかし、とあるプロ野球団のパーティーで、
親会社のお偉方が彼のチームの助っ人外国人選手に向かって、
「頑張って」と気軽く声をかけました。
横ですかさず通訳が「Do your best」。
ところが件の外国人、むっとした表情で、
「俺はいつもベストを尽くしてるぞ」と答えたそうです。
すると、これを通訳から聞いたお偉方もたちまちむっとした様子になり、
不機嫌に立ち去ってしまいました。曰く、
「なんだ、失礼な。『どーも』ぐらい言えないのか」
・・・日本語と英語のコミュニケーションの齟齬です。
この場合、「頑張って」をdo your bestと直訳するのは間違いで、
グッドラックぐらいに言っておけばよかったのでしょう。
そうしたら相手もサンキューと答えて問題なし。
日本語の「頑張って」と言うのは、あまり意味のある言葉とは思えません。
さて話は変わりますが、ネットを眺めていると、
よく自分の悩みやら想いを打ち明けている人がいて、
それに対して心優しい人が「頑張ってね」「元気出してね」と慰めています。
こういう光景を見るとひどく気が重くなります。
私にはその手の言葉が気軽に出てこない。
というより気軽に言う事は失礼だと言う気がするのです。
相手の悩みの重さと匹敵しないからです。
そんなに簡単に元気が出るくらいなら最初から悩まないはずなので、
何と言っていいのかわからなくなります。
ところが実際には、その程度の励まし文句で、
言われた相手は結構感激しているのだからわけがわかりません。
すると悩んでたのは一体ナンだったの?と言いたくなります。
でも私が多分マジメに考え過ぎなのでしょう。
以前、こんな私でもよくネットで他人の相談事に乗っていたことがあります。
でも段々憂鬱になってきました。
相手の親身になればなるほど、口先だけでは済まない気になってくるからです。
本当に解決してあげたかったら結局、私が直接何かしてあげるほかないのですが、
ネットの向こう側にいて所詮何もできませんし、またアカの他人がそこまでする術も義務もない。
なのに言葉だけの慰めや励ましをして善人ぶっている自分にほとほと嫌気がさしましたので、
もうその手の話には関わらない事にしています。
でもこれも考えすぎなのでしょう。或いは単に私が不器用で、調子のいい言葉が出ないだけか。
ちなみに私自身は悩みや想いは打ち明けません。
見当ハズレな慰めや励ましで、「頑張って」とは言われたくないから。
(って、ここで言ってるよぉ)


2001年06月09日(土) 反恋愛論

「恋に恋する」という言葉があります。
例えば「恋に恋する年頃」など言うように、
人は思春期になったら必ず恋をする、またはしたくなるという
前提があるようです。
しかしこの言葉をよく考えてみると、別の事が気になります。
つまり、特定の相手がいるから初めて恋をするのではなく、
まず恋をしたいという欲望があるから恋をすると言う事です。
すると、そもそも恋愛というものの存在を知らなければ人は恋愛できません。
では、誰が恋愛を教えるのでしょうか?

先日、小谷野敦の『恋愛の超克』(角川書店2000年)と言う本を読んだのですが、
彼によると、恋愛というのは近代のイデオロギーのようです。
勿論、恋愛自体はそれ以前からありました。ただ近代の特異なところは、
「恋愛は誰にでもできる」「恋愛をしなければならない」と言う「恋愛教」が存在
し、
その強迫が人をして恋愛に向かわせているということです。
かつてルソーは、「人は自由である事を強要されている」と言いましたが、
それをもじって言えば「人は恋愛する事を強要されている」と言う事になります。
そしてこの事は逆に、恋愛できない人間という弱者を生み、
その弱者を差別する結果をもたらします。
だから理想社会は「恋愛をしなくてもいい」と言う事です。
無論、しても別に構わないのですが、ただ、
少なくとも恋愛至上主義は誤まりであると銘記せよ、というのが
著者の主張のように思われます。
この事は、個別フェミニズムに対する批判として向けられています。

フェミニストはあらゆる男権社会の価値を否定し、
「結婚」も「一夫一婦制」も女性を縛るものとして否定するが、
しかし恋愛(と、それと結びついたセックス)だけは否定しない、
ここに弱点があるというのが著者の認識のようです。
著者は言います。
「結局、『愛』という言葉は、女が男に依存しなければならない時代の産物だったの
だ。
経済的に自立していながら、『愛している』と言ってもらいたいというのはムシが良
すぎる。
男は、仕事上のライバルになるかもしれない相手を『愛』したりはしない。」(本書
70頁)。
でも、これがもし男女平等の理想社会ならばいささか寒々としてます。
だからフェミニズムは愛の幻想から完全に自由足り得なかったのかもしれないし、
また、著者自身、「友愛」による新たな結婚のプログラムを一応示してはいますが、
でもあまり現実味がありません。
なぜなら友愛すらできない人間は結局取り残されるでしょう。
だからこれは、あくまで単にフェミニズム理論の不徹底さへの異義申立てと読むべきでしょう。
このことは、後半の「売買春論」により顕れています。
(続く)




2001年06月08日(金) 陰謀の世界

先頃ネパール王室で起きた国王ら王族の射殺事件に関して、
現地では陰謀説が渦巻いているようです。
結婚に反対された皇太子の犯行とされていますが、
肝心のその皇太子も死んでしまったのですから、真相は藪の中です。
しかし一説には、国王の弟である新国王親子の陰謀で、
皇太子もまた犯人に仕立て上げられて殺されたのだとか。
何やらケネディ暗殺と、その犯人とされたオズワルド殺害を思わせる筋書きです。
陰謀を信じている人たちにとっては、陰謀はなかったと説明しても、
所詮それ自体がますます陰謀説を裏付ける証拠になってしまうでしょう。
だから陰謀論の世界には終わりがなく、はまると無限循環に陥ります。
そう言えばケネディ暗殺にも諸説あって、
中には、ケネディがUFOの秘密を暴露しようとしたので殺された、
という話もあります。
ケネディ暗殺に関しては、私は陰謀っぽいと睨んでますが、
でもUFO陰謀説だけは採れません。
しかし、さほどUFOがらみでの陰謀説も絶える事がありません。
UFO存在の事実が明らかにならないのは、
政府、特にアメリカ政府が隠しているからだ、という、UFO陰謀論です。
実際には、隠しているわけではなく、UFO関係の文書は明らかにされたのですが、
ただそれは文字通りUFO(未確認飛行物体)に関する情報であって、
空飛ぶ円盤を捕まえたとか、宇宙人の死体を隠しているとか、
UFOマニアが望むような記載はなかったと言う事のようです。
しかしそれでもめげないのが陰謀論者で、
むしろ何も出なかったことそれ自体が何よりも雄弁に
政府がUFOを隠している証拠を示している、というわけで、
ますます陰謀に確信を抱いて行きます。これはもう話は堂々巡り、妄想の世界に近いです。
あった事なら証明できるが、しかしなかった事を証明するのは難しい。。。
いやUFOの真偽は知りませんけどね。



2001年06月07日(木) トリックスター真紀子

最近の一連の田中真紀子外相の発言をめぐる混乱の要因は、
一重に、不用意な発言を他国の外相との会談の席でなした
真紀子外相にあると言ってよいでしょう。
外相は内閣の一員であり、国の外交政策の指針は
任命権者である首相にあります。
その意向を離れて外相が勝手に他国の代表に
個人的見解を述べるなど越権であり、
外相になったら全部自分の思い通りにやれると
いささか勘違いしている部分がなきにしもあらずです。
尤も、確かに田中外相の見解には見るべき点はあります。
特に日米安保依存体質からの転換などは大いに考えるべき問題です。
また、他国の外相と率直に自由な意見交換をする事も必要かもしれません。
そこでの発言がいちいち捉えられて外部に発表されていては、
国際的に日本外交の信頼性は失墜する事でしょう。
だから醜いのは、機密費問題に関して外務省の体質改革を図ろうとする
真紀子外相を忌避し、その追い落としのために利用している外務官僚のあり方です。
理由はどうあれ、外相を追い落とすために他国の外相との会談での発言について外部にリークして利用するなど、
省益のために国益を損なう、まるで売国奴です。
外務官僚の体質がここまでヒドイとは思いませんでした。
真紀子舌禍問題で外交が停滞する云々との批判も尤もですが、
しかし自己保身と省益優先の程度の狭い視野の外務官僚たちの行う外交など、
滞りなく進んでも必ずしも国益には結びつくかどうか怪しいものです。
その意味では田中外相が外務省を掻き回し、
問題の本質をあぶり出したトリックスターとしての役割の
功績は認められてよいかもしれません。
尤も本人には自分がトリックスターであると言う自覚はないでしょうが。





2001年06月03日(日) 勧善懲悪の世界

『暴れん坊将軍』と言う、もう20年以上続いている娯楽時代劇があります。
有名なドラマだから今更改めて説明するまでもないですが、
8代将軍吉宗が身分を隠して江戸市中を徘徊、
そこで出会った町人たちを助けて、最後には悪を懲らしめる、というパターンの、
『水戸黄門』などと同じ勧善懲悪物のドラマです。
しかしこの物語を見ていると水戸黄門とは違う、そして大きな矛盾がある事に気がつきます。

それと言うのは、毎回のように悪の親玉は老中やら勘定奉行やら幕府高官で、
それが悪徳商人とつるんでいるのですが、
しかし吉宗は将軍なのですから、それらの高官は吉宗の側近であり家臣です。
だったら吉宗は、次から次へとそのような悪人を登用し跋扈させていた
自己の不明をまず恥じ入るべきであって、
正義漢気取りで成敗していい気になっているのは見当違いも甚だしいと言う事になります。
市中にノコノコ出かけて小さな正義を振り回して自己満足しているヒマがあるなら、
まず江戸城にとどまって善政を敷き人事をしっかり掌握して
足もとの悪そのものを生まぬようにするべきです。
それこそが将軍としてのあるべき姿でしょう。
だからそれに気付かず見せかけの正義に酔っている吉宗こそ実は一番の大悪人なのです。

勿論これは揚げ足取りの話です。でもこれが水戸黄門の場合なら
同じように見えて一応の筋は通っています。
黄門様は隠居の身であり、そして水戸中納言は権威はあるが別に権力者ではないのだから、
その意味では彼自身権力に対してはアウトローです。
彼が幕府の悪代官を懲らしめることは決して矛盾しません。
また、水戸黄門では印籠がでれば悪人も恐れ入りますが、
これは実は、葵のご紋の御威光に恐れ入ったのではなく、
黄門様の人間的威厳に打たれているのです。
だって暴れん坊将軍では、相手が上様とわかっても悪人は斬りかかってくるのですから、
それと比較してみれば、これは権威ではなく人徳の問題でしょう。
そう言う点で、水戸黄門の正義は通用するが、暴れん坊将軍の正義は欺瞞的なのです。

尤も、その黄門様にしても、たかが地方の小役人程度をいじめて正義漢振るな、
と揚げ足を取る事もできます。
そもそも犬公方の大悪政を糾す事もできず、つまり元凶の巨悪を放置していて、
のんびり世直し旅もないものでしょう。そう言う意味では水戸黄門も暴れん坊将軍も偽善者です。
悪人が善人を装うから偽善者なのではなく、
むしろ善人が己れの善なるを信じて疑わぬ事によって生じる欺瞞が彼を偽善的にしているのです。

勧善懲悪の世界というのは、一見、文字通りはっきりとした善を勧め称賛する話のようですが、
実は善とか正義とは何なのか考えさせられる、含蓄深い物語だったのです。(ウソです)


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