坐骨神経痛&腰痛(BeBe)
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2002年09月27日(金) どうすれば? ・・・・全く分からなくなる

入院してから”神経根ブロック”と”硬膜外ブロック”を2日続けて受けた。しかしいずれも効果は感じる事が出来ない。
3日目は主治医はオペで忙しくて連絡が取れないと言う。何のために入院しているのだろうと疑問を感じていた。のんびりと休養していれば良いという気にはなれない。毎夜、眠る事に不安を感じて眠剤を余分に飲んでいた。初めての入院の時は、持っている薬は全て没収されて、必要に応じて病室に届けてくれた。その後の入院時や今回も、それはない。推測だけれど、看護婦さんの人手不足からそこまで手が回らなくなったから変わったのだと感じた。
以前は処置室に病室毎に薬の投与箱があったけれど、今は無くなっていた。





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入院して初めて朝まで寝ていた。眠剤を余分に飲んだためだろう。
目覚めて驚いたのは、ベットの周囲に全て柵が取り付けられていた。記憶の範囲では、足下と片側の一部にはあったけれど絶対にこんな状態ではなかった。以前にも、一度同じ思いをした事がある。記憶がない事に不安を感じた。

昨日の医師の言葉。
『もう少し入院が出来るのなら』『原因が分からないから』『忙しくて時間がとれないから』本当に私はどうなるのだろう?
この何ともいようのない状態から、何でも良いから抜け出したい。いつも、考えるたびに行き着くところは同じ事。
午後から、やっと医師と話す時間が出来て『ブロックをお尻にしてみるか?』という、治療がはじまってした注射は臀部の下あたりにちょっとした注射をしただけだった。今夜の注射は、打つ手がないから、何かしただけという感じを受けた。
とうとう、ここでもさじを投げられたのかと思った。

6時過ぎ、再度主治医が来た。「納得は出来ないだろうけれど、原因が分からないので治療の方法を決める事が出来ない」という。入院していてもすることがないのなら、今からでも帰りたいと伝えた。退院許可が出た事は、反面することがない事でありすごく気落ちした。
帰る間際に、病棟の担当医も顔を出してくれたが、退院することに関しては仕方がないような表情に感じた。或いは挑戦する事があっても、主治医の許可が出ないから出来ないのかも知れないとかんじた。


2002年09月25日(水) ブロック治療の場所

職場にいないから、仕事の事を考えていないから、椅子に座っていないから、何が効いているのか分からないけれど、今朝は少しましな気がする。
午前中は何もする事が無く、ボンヤリしていたり本を読んだりしていた。何もする事がないのです。
昼から、主治医が病室へ来て『いつものブロックをやろうか?」「びょうとうでもいいか?」と聞く。
思い出してみれば、硬膜外ブロックについては当日の昼は絶食だと言っていたのも、今回はムシ。治療する場所も初めは病棟内の処置室だったけれど、ある日突然オペ室で無ければダメと言い、今回は今まで行っていた事を全部関係なし。
一体何がホントの事なんだろうと感じた。オペ室でする方が安心だけれど、別にこだわりもなくなっていたので医師の判断に任せた。





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ついでに、看護婦さんの事。病室のベットには主治医の名前と担当NSの名前が書いてある。たんとうNSはYさん。でも、病室に来るのは殆どがTさん。Hさんが時々、声を掛けてくれる。入院すると、私の意識が個人から突然、患者という存在に変わってしまい、精神的な面で看護婦さんに頼る気持ちが強くなっている事に気がついていた。

硬膜外ブロックを病棟内の処置室でする事になり、なじんだ手順で治療を受けた。効果は殆ど感じる事は無かった。
この日、なかなか寝付けずこっそりと眠剤を追加で飲んだ。その事が影響したのか分からないけれど、トイレに行く途中でふらついて廊下で寝ていた。
どの程度時間が過ぎたのか不明。看護婦さんに叱られて病室に戻された。
二日続けての治療を受けたけれど、効果は感じる事は無かった。


2002年09月24日(火) 9度目の入院(初日)・・・神経根ブロック

入院コーナーで手続きを済ませて、病棟からの迎えが来るのを椅子に座って待っていた。たぶん、ぼーっとしていたんだと思う。幾度も入院して病棟も同じだから、顔を覚えてくれている看護婦さんが何人かいた。その内のひとり、Hさんが『元気出して!』って声をかけてくれた。
ビックリして顔をあげても声に出して返事する元気はなかった。でも、少し気持ちが楽になり頷いた。それが精一杯だった。

今回は『神経根ブロック』を入院初日にする予定だった。病室に入り一段落したのは11時頃、処置の時間まで3時間半ある。初めての治療だったので、痛みが一時的でもなくなるのか、注射の痛みはどの程度だろうかとあれこれ考えていた。
左脚の疼痛以外に、不眠と便秘などがあって神経質になっていた。同室の人が騒がしいので看護婦さんに相談すると、部屋が空いているからと言って別の部屋に変えてくれた。
13時半頃に点滴がはじまり、動けなくなったのでウトウトとしていた。予定の時刻に1階のレントゲン室に移動して、治療がはじまった。
硬膜外ブロックの時と違い、治療の状況が全て見えていた。何本もの注射器が用意されて、それぞれに何かの薬剤を入れるのを眺めていると少しこわかった。





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局部麻酔をしてブロック針を刺された。麻酔が効いているので針の刺す感覚は全くなかった。それでも、時折腰の部分の奥に強烈な痛みがあった。
薬剤の注入する場所を探っている様子で『どうですか?』と、医師が尋ねるけれど電気が走るような痛みは無かった。何度も繰り返したが、『ここに間違いない筈なんだが・・・』と言って薬剤を注入して治療は終わった。
普段疼痛を感じるのは座った時や横向きで寝た時なので、今の姿勢で聞かれても良く効果は分からなかった。注射の跡の腰が兎に角痛かった。

19時頃、病室に担当の医師が様子を尋ねに来た。効いている様子は無いと返事をすると『もう一度、硬膜外ブロックをするか?』と言った。今までやっても効果を感じていなかったけれど、入院した以上、出来る治療は受けたかったのでyesと返事をした。

消灯時間に眠剤を飲んでTVを眺めていた。痛みとトイレで夜中の1時半頃に目が覚めた。TVは付けっぱなしで寝た時間は分からなかった。
暫くして、寝付いたけれど5時頃に再び目が覚めた。座ってみると、普段痛みのある左脛の部分は痛かった。


2002年09月20日(金) 入院の準備<熱意の違い>

2週間の入院を経験してから約半年して、再度の入院となった。
仕事の引き継ぎ内容も、初回に比べると比較にならない簡単なものしか作成しなかった。次のステップに進めるための準備内容も必要だったけれど、自分の思いを伝えておこうという気力が出てこなかった。それ以外の仕事に対する気力も沸いてこなかった。
悩みの種の一人、T常務が職場にやってきた。最初は雑談をしていたけれど、普段と違い仕事の話を早めに切り出してきた。私の体調の事も聞かれたので、入院の事を話をしたけれど気に掛けた様子はなかった。中期計画の策定に対して準備を社長が進めているようだが、準備に費用がかかるのなら独断で進められては困ると私に話をし出した。どこで聞いたのか私が知っていて準備を進めていると思ったらしい。何もしていない事ではなかった、けれども要望に対して調査活動をしていただけである。Y常務からも似たような事を言われたが、返答は同じ。
心の中では、『何で私があなた達の役員の不満を聞かなきゃならんのだ!!』とか『もうどうでも良いんです』なんて思っていた。
とにかく、逃げ出せるなら逃げたい。そればかり考えていた。





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どれだけ気力をなくしていても、痛みから逃げたくてもつきまとう。
TMSの本を読んでから、自分の症状の原因は職場の人間関係や仕事に対する取り組みがストレスになっているように思っていた。治癒するには、ここから逃避するしか無いように考えはじめていた。それでも、元の身体の状態で生き残りたいともおもい踏ん切りがつかないでいたと思う。


2002年09月17日(火) 久しぶりの診察

暫くの間、N病院の予約もせず治療もなしの日々を過ごしていた。徐々に症状は悪化するし、精神も参り初めて電話で予約をしていた。
この日は、朝から土砂降りだった事もあって気も滅入っていた。痛みも普段より強かった気がする。
診察室に入ると「どうしているのか心配してましたよ」という、担当医師の言葉は例え儀礼的な所はあったけれど、気が休まる気がした。症状は先月の中旬から悪化していて、硬膜外ブロックもあまり効果が無いように感じる。そんな会話から、「神経根ブロックを試してみようか?」と言う事になり、ダメなときの事も考えて、もう一度入院をしてみてはどうかと聞かれた。
気力も萎えていたし、多少投げやりな気持ちも出ていたので「入院して治療をお願いします」と返事をすることに、ほとんど抵抗は無かった。





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入院は、24日からの1週間となった。期間に大した意味は無かった。
この時に気が重い気がした事は、診断書の提出と入院の説明を会社にする事だった。憂鬱な気持ちになる対象の人たちだから、病気の事を言うのはもっともイヤな事だった。
会社では、対外的なところで仕事に支障が出るところへは不在になる事を伝えた。
社内の人は何も反応が無く、”検査での一週間くらい”大した出来事じゃないと言う感覚だった。


2002年09月14日(土) 徐々に悪化している???

役員も含めて周囲の人たちは、設備の入替は8/1で終了していると考えている。そうとしか、思えない発言や挙動を感じて、実態との差を考えると益々やるせなさが出てくる。坐骨神経痛は一向に良くならない。毎日のように、痛みと痺れが止まることなく襲いかかり、私の心をボロボロにしてゆくようだった。
整骨院 ・・・ 随分と長い間通ったけれど、効果はなく最後は待合いで激痛が
        襲いかかり逃げ出すようにして家に帰ったきり行っていない。
S整形外科 ・・診察は丁寧にあれこれとするけれど、治療は電気、牽引位で
        効果が無いのは整骨院と同じ。
Y整形外科 ・・MRIもして原因不明のまま、痛み止めの注射と点滴のみ。
        最後はさじを投げられて「紹介状を出しておわり」、N病院へ
        転院する事になった。
U病院 ・・・ 知人の紹介で面倒をみるといった病院長は、内科で診察もなく
        担当医(整形外科)は、面倒くさく扱うだけで異常ないの繰り
        返し。最後は「なんでN病院でみてもらわないの?」という。
鍼灸院 ・・・ ここも、知人の紹介で何度か通院するが効果も出ないし、治療費
        が堪えた。諦めたわけでは無いけれど、積極的に通院の場所には
        出来ない。
B病院 ・・・ 内科や消化器系やMRI等、検査をするばかりで治療を開始しな
        い。したのは、点滴だけ。途中で通院を挫折した。
N病院 ・・・ Y病院からの紹介状で通院が始まり、精神内科から整形外科へ
        うつり、入院とブロックを続けている。しかし、一時的にましな
        日もあるけれど回復の兆しが見えない。





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そこで、出てきたのかTMS。2冊の本を読んで「なぜ痛みが出るのか」とからくりは、理解出来たきがしたけれど治療方法は皆目分からないままだった。
ホームページでたくさんの情報や知識もついたけれど、完治した人の少ない事に驚くばかり。私もいつまでもこんな状態で、ガマンの日々を過ごすのかと思うと生きる気力も薄れてくる。治るのだったら、何でもいいから”して欲しい”と願うばかり。自分で考えられる事と言えば、「気持ちの安らぐ場がない」という事だと思った。


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