2012年06月17日(日) |
不安の涙/おとうさんありがとう など。 |
土曜日
☆あの娘の学年のほとんどの生徒が参加する海外ホームステイについての説明会が学校で開催され、保護者も聴いてきた。 一つのホストファミリーの元に一人の生徒が二週間寝食を共にし、日中は現地の学校に通って講義を受ける。 昨年度の参加者の体験談は参考になったし、有意義なものだと思う、でも 娘(と実は私も)の不安は、却って増大したような気配。
親と離れて外国に身を置くこと自体が初の体験なのだから コミュニケーションへの不安。勝手の違う家の人々の中で、日本人として恥ずかしくなくやっていけるか、期待される役割と自分との乖離、 などなど多分、私も薄々感じている以上に娘もプレッシャーを感じたのだろう、 その夜、浮かない顔をして、とうとう泣き出して、 私も自分の不安はどうにか隠しながら抱き締めながらなんとかかんとかその不安を それを抱くことは当然なんだよという肯定を伝えることが精一杯で でも落ち着いて考えてみると、受け入れ先はきっと頑張って善かれと思って気遣ってくれるだろうし、何も、鬼じゃあるまいし 立派なことができなくたっていい、事件に巻き込まれず巻き込まず生きて無事に帰ってくるだけでそれだけでもう貴重な経験なのだし こまごまとした不安はあと九箇月かけて事前準備で解消していけばいいんだから、 今は全てを解決しようとしなくっていいんだ。泣いててもいいんだよ。と。
ホームステイに関するガイドブックなどをネットで注文した。 漠然とした心配よりも具体的なイメージを作ったほうが前を向けるだろうなと思ったから。
日曜日
☆父の誕生祝いで両親と祖母と、妹家族と合同で、実家近くのお店でランチに集まることができた。 集まることができた。 このこと自体がもう本当に貴重なことなのだった。 妹夫婦も心身多忙な中、来てもらえた。 数ヶ月前は、入院を経てすっかり弱り、今にもお迎えがくるのかという状態だったあの祖母も、 きっと母や叔母の有形無形の努力の御蔭で人らしい反応も取り戻せて いまこうして孫曾孫の前で笑顔を見せてくれた。 このことを我が子達にも知っていてもらいたい。このシーンを記憶していてもらいたい。
特に、妹の旦那さんと、息子が話せたのは、短い時間ではあったけれど、あの子の心に何かの種が蒔かれたのではないかと思う。
父は世間一般の七十代に比較すると気持ちが若いほうで、 というより少年の(良い意味の)おとなげなさを持ってしまっている気がする。 それはずっと私達家族を時に苛つかせることもあり、でもだからこそ安心させるものでもあり 今振り返ってみるとそういう人が真面目に毎日勤めて家族の人生を支えてくれていたことの ありがたさ。 逃げたい状況もあったろうに、逃げずに勤め上げてくれたことの有難さ。 母だったから支えてもらえたのだろうと思うし 父だったからうまく心の健康を保って勤め上げてくれたのだろうとも思うし だから私が居られたのだろうとも思うし 全てに歴史があって、どの人も欠けられない。
娘の不安は段々と薄れていっている様子。 誰でも未知未経験のことに対する逃げたさというものがあるのだけれど 逃げる選択肢よりも、腹をくくって不可避の問題だと捉えて対策を練る方向に舵を切る気になってきたっぽい風情(いや、まだわからない) 逃げることは簡単だけれど、勿体無いから、 案ずるより産むが易しだったという体験を味わってくれたらという、祈り。
相手のイヤなところばかり目につく日もあったけど その無数の文句を飲み込んでいた日もあったけれど それは おたがいさま。 きっと彼はもっともっと飲み込んでくれていた。その見えなかった優しさの一個一個に時間をさかのぼり逢いに行っては ごめんごめん、ありがとね、って 言いには行けないけれどそれも おたがいさま。 おたがいがおたがいを試して、かなりスパルタな教師にして この一筋縄ではいかない授業を乗りきっている途中のクラスメイト。 クラス替えまでともに白髪の生えるまで 自分からおたがいもっとも遠い遺伝的要素をわざわざ持つ同志として ゆるく化学反応して何かを生成して行くしか 卒業証書を貰う近道なんてなさそうです。
苗字が変わろうが左手薬指に輪っかをはめようが どうしようもなくコドモでしかなかった自分を恥ずかしく懐かしく思い出しながら
なんだかんだでまあ ありがとう365×23です。
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