気が向けば・・・。


この今の瞬間に過去も未来も入ってるらしいし(何時でも)この小っさな頭蓋の内に宇宙も入ってるらしいし(誰でも)
だから、ひょっとしてこの矛盾に溢れた日記も、何時かの誰かに繋がったりするかも、って思ったから
少しだけ秘密度を緩めました。



子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

2010年09月27日(月) 娘と2連文化祭巡り&息子の6連自宅学習日

(この土日のこと。)


土曜日には息子の高校の文化祭・日曜日には娘の友達の学校の文化祭と
二日連続でつきあってちょっと疲れたけど面白かった。

※その娘の友達が通う学校は私の友達がかつて通った学校でもあるので、
ふと思い出して
その人のブログを本当に久々に拝見したのだけれど
実に一年ぶりに更新されているところに出くわした。
何かそのタイミングに感動を覚えた。
彼女が書いていたことだけども中学生の我が子を見ると親の自分も自分の中学時代を思い出すばかりか中学生の気分になってしまっている、と。
そこに非常に共感して「そーなんだよ!」とひとり心の中で叫んだ※


25日土曜日
息子の学校の文化祭は、
去年までは高三生も有志のステージとか模擬店とかで参加してたのにさ。
息子の代から(今年から)出演出店は高二までとされ
高三はもうカンペキに自由参加のお客とな。
学級便りによると、後輩らが文化祭準備〜当日〜片付け〜代休 の間は
高三は「自宅学習日」(という名の、休み)とな。
しかもこれを受験勉強に「活かさない手はない」「そろそろ過去問に取りかかろう」とまで書いてあって
えー、どんだけ勉強させたいんだか、やだな。いいじゃん文化祭くらいさ。
そんな生徒たちじゃないのに、そんな先生方だったりするこの学校。
(そんな生徒と先生の攻防が楽しかったりするのだが)
息子はと言えば、あっさり「気楽でいい」とゆっくり昼近くに登校して
囲碁将棋の後輩の頑張りを眺めたりなど見たいものだけをちょっとつまみ、
たこ焼きなど食べてその足で午後から予備校に。
が、娘と私には開門前から並ぶモチベがあった。
息子の何倍もワクワクしてる娘のほうが在校生みたいだ。
正門をくぐる時も活きいきしてるし。



例によってカオスな雰囲気の校内。やっぱ、いいな。
歩き回り走り回る生徒たちはとにかく元気。
娘の目当ては家庭科部のお菓子とダンス部のパフォーマンス、私の目当ては制服リサイクル。
それらは勿論のことジャガバタやチョコバナナ、美術部マイコン部鉄道部、中学生の展示や高校生の迷路、
帰りに自由が丘でお茶もして帰宅したらもう晩御飯の支度。


26日日曜日
娘の塾時代の友達からメールで誘われてた女子校に、その子の舞台を観に。
友達は案内してくれる暇などないし、ちょっと遠い場所だし初めての路線なので(中央線)
私が連れていくことに。

実は30年前の高校受験で行ったことがあるはずだけど全く道も覚えてないし(公式サイトで調べて行った)
そのころとは全然違う綺麗な校舎に溜息が出ちゃった。
敷地が広々してるんだよ、誰とも肩を触れ合わずに移動できるって羨ましいような。
焼きそばも程よい少量で女の子って感じー。
トマト弁当(和風に味付けされたトマトがご飯に乗っている)がお薦めだった。
で、その娘の友達はボイスレスパフォーマンス(VLP)という珍しい部活に所属しており
台詞無しで感情表現、踊りと音楽、ウェストサイドストーリー。
上級生の、特に男役の人々がステキ。
全て演じ終って泣いてた子たち。きっとこの日を最後に引退する先輩方。ああなんだか貰い泣きしそうだった。
文芸部の部誌を買ったりハーブティバッグやポプリを買ったり
品よく且つ弾けた女子たちと、他校の制服を着た男子たち。

そしてここの美術(選択)の授業の作品群が素晴らしく
六本木だかどこだかのちょっとした○○展を観たような見応えだった。

帰りは、少ーし寄り道(今度は娘を付き合わせて)、
昔昔に私が通った女子大とその登下校の道を見に足を延ばした。
そんなに思い入れのない母校(同窓会費も滞納中)だけど折角ここまで来たついでにと。
古いままの棟も新設された棟も眺めて、懐かしがって来た。
当時の友人の顔や、よく使った購買隣の自販機も走馬灯。
学校隣のミニストップに当時はあったイートインコーナーが、今は消えていて寂しかった。
でも周辺には当時のままの喫茶店を3軒発見。
正門前のペーパーバン。駅へ向かう途中のポモドーロと物豆奇(ものずき)。
かつて私がマンガを借りた貸本屋の看板までうっすらと在ったのには感涙するほどにびっくり。とうの昔に閉店した風情だったけど。

面影を残しつつも小洒落た変容ぶりを見せてくれた
西荻窪で美味しそうなスコーンを家族への土産として買って帰った。
キイニヨン http://www.quignon.co.jp
それはそれはしっとりとして良い感じのスコーンだった。
それから渋谷東横のれん街で柚子胡椒味の蒸し鶏なども衝動買い。
で帰宅したらやっぱりもう晩御飯の支度。


キッカケさえあれば20年前にでも30年前にでも戻ろうと思えば戻れるような気もするこの頃。

※今更だけど娘に影響されて、スニーカー文庫の涼宮ハルヒシリーズの虜になりかけている※





2010年09月23日(木) 旅立つときのことを・2

9月8日の日記でお医者を拒んでいたその人は、
元・軍人さんだ。
奥さんが倒れて以来20年以上独りで看病し看取り、
自分が倒れたら誰の世話にもならない介護サービスも受け付けないと、頑張っていたそうだけれど
でもやっぱり
骨折、床ずれ、衰弱と
あまりにタイヘンなことになってしまったということで
通い詰めていた子どもたちが強いて入院させ
お風呂でさっぱりし一時小康状態だったそうなのに
敬老の日に亡くなり、

私は今日は告別式に参列。

故人の希望とのことで無宗教形式。
黙祷や献花。お好きだったというイヴ・モンタンの曲が流れ、皆で聴き入る。

落ち着いててお洒落でシンプルな、これも良いお別れの会だなと思った。


私は・・・自分のお葬式のときは、んー、
ああしてこうして欲しいとかいくつか思いつくけれど
でもきっとその時になったら、
遺るひとびとが少しでも、気分よく別れやすいように納得するように
任せてしまうだろうなって思う。ヨキニハカラエ、っていう気持ちかな。
宗教もこの際何でもいい。というかどれも根本同じかと。
遺るひとがどう送り出したら納得がいくかに任せるだろうって気がする。



2010年09月21日(火) エンドレスCDもたまにだから聴き流せるのか

二分毎に同じ質問を真顔で訊いてくる祖母と
四六時中根気よく対峙して
子どもの頃のトラウマも脇に置いて世話している母の
その苦労をその僅か数%でも味わってみるのも良いかなと実家に行くと、
母は私(娘)の気持ちを慮ってしまい却って気疲れしちゃうようなのは申し訳ない。


祖母の頭のなかではいつも全てが初耳らしい。
何度も説明してもそれが記憶として定着しない。
不思議だ。


厳しく激しく独断的な部分や、
周囲に依存し我が儘な部分や、
でもシッカリしたい・迷惑かけたくない・優しくありたいと思う部分や、
歴史の造るバウムクーヘン的な地層をスプーンで掬った断面みたいに
衰えた脳機能の成せる現象と共に色々と
周囲の人々に見せて生きている祖母の。

好きか嫌いかはさておき、
私はこの祖母からも多分何かを学んでいるし
それ以上に母の背中から学んでいる。


※父も根気よく姑につきあっている。父の寛容さにはある意味敬服するところがある。このように歳をとれればなあ、というモデルの一人である※



2010年09月17日(金) 近日のつぶやき以上ブログ未満の諸々寄せ

☆ツイッターちうものが世の中に流行っているのだった。それって頻繁にアップするから意味があるんであって、いくつものつぶやきをまとめてしまうのはどーなんだろう。
と思いながらまとめてしまうのはPCを開けられる時間を気にするからなんだな私は。

☆夫は妻がネットに何かを垂れ流すのをいやがるのですが私はこんなだし。

☆妹はその暮らし方の誠実さで、いつも感動させてくれるけれど、
妹の旦那さんの優しさにも今回いたく感動した。
ランチ(梅の花の季節コース美味しい。母におごってもらった)の約束の当日朝、彼女から電話がかかってきて
「仕事※が急にタイヘンに。やっぱり行けないわー」という傍で
「ダメだよ断っちゃー大丈夫だから!折角だから行っておいで!行かないと!」みたいなことを一生懸命言っている旦那さんの声がこちらにも聞こえて、
なんかちょっとかなり目頭が熱くなってしまった。

※旦那さんが書く&描くお仕事だから、夫婦で自宅での作業

☆人間ドックの胃の撮影でバリウムを飲むのってやっぱり苦手。そのあと下剤にて早急に排出するのもいつもシンドイ。
あ、次回は胃カメラ飲もう。って前回も思ったんだった、そういえば。
けど胃カメラもね・・・抵抗ある。今は飲みやすくなってるそうなんだけども。鼻からとか。
義妹が以前に胃カメラを飲んだ病院では全身麻酔にて眠らせてもらって飲んだらしい。それだとラクかな?

☆身長5ミリ伸びてた。喜ばしいのかどうなのか。
体重が減ってたのに(自分史上最軽の30キロ台。びっくり。なんだろう)
腹囲が増えてた(2センチも増加)。なぜだろう。お腹が丸い。丸すぎる。
バストが流れ流れて今や娘のビギナーブラがちょうど良さそうな。
山の位置が間違っている。母を見習って毎日腹筋運動しよう。って以前にも思ったんだった。

☆戸川純のCDを今更中古で買ってみたりした。
今聴いてもやっぱり変。
当時としてはこのひとの可愛かったり不気味だったりする声色の豹変ぶりに惚れていたんだった。
しかもその話を娘から聞いた部活の友達(中一)が「聴いてみたい」と言ったそうなので貸した。一抹の不安とともに。
娘には気にいられなかった曲たちだったけれどその子には案外受けたらしく?安堵。

☆その部活では日誌を当番制でつけているようで、垣間見た彼女たちの文面が微笑ましくて安堵。

☆娘は入学前の塾で知り合った他校の友達とメールのやりとりを続けてるわけだけども
その子からくる携帯メールがかなり面白く、時々文面を私に見せてくれる。
こないだはその子が主催する「イラスト品評会」に参加すべく張り切って絵を描いて添付でメールしていた。
なるほど、そういう使い方するんだ。携帯。

☆息子は塾の冬期講習の受講希望登録書類と大学入試センター試験の願書をここ数日で一気に書いた。
センターの受験料は私が銀行で振込んだ。
なんか、いよいよって感じになってきた。いよいよだよ。
見てると遠い昔を思い出す。あの頃私はどれほど親をやきもきさせていたのかと振り返ると申し訳ない気分になる。

☆もやしもんの美里薫と長谷川遥を何としてもくっつけたい。

☆もやしもんの菌たちが直保に向かって喋ってくる内容はどうしてあんなにトリビアを含んでいるのだろう。

☆もやしもん9巻には肯く点が多々あったが特に、表皮菌の有用性(近年まで知られていなかった)について。
必要以上に洗い、その上にフタをするようなスキンケアでは、せっかく肌の為に働いている表皮菌のご飯を奪って閉じ込めるようなものだと述べられている。

☆産経新聞も、こども新聞を作ればいいのに。というか是非作ってほしい。そしたらきっとそれを定期購読する。

☆尖閣諸島(昔から日本の領土ということは国際的に間違いないって)の付近での、中国の「漁船」(ホントに漁船何だかどうだか)が体当たりしてきた件は
ウヤムヤにしてほしくないなー。
そこをしっかりしてないと、資源豊富な色んな他の場所も危なくなるのではないかと。

☆韓国岩海苔がお気にいりで胡弓の音色にも惹かれる私は
中国文化も韓国文化も別に嫌いじゃないし
中国人も韓国人も嫌いじゃないけど。念のため。
ただその国の、国家としての支配や教育や外交のやりかたというか、裏の思惑が、対日本となると一体どうなのかってことが、気になる。
実はあのペ・ヨンジュン様も、教育のお蔭で、日本&日本人がキライだっていうことだそうだし(そんなことはマスコミは絶対に伏せているだろうけど)。
そんな状況は日本人に知らされぬままに懸命にアピールされる韓流作品は
近所のTSUTAYAでは2階の目立つところに陳列されているが、
邦画のコーナーは3階にある。どこでもこんな調子。

☆そんな観点で読むと生協の雑誌「POCO」の論調にも手放しで賛同しちゃいけない気がしてきた。

☆コーラン焼くとか言った牧師。コーラン焼いちゃだめでしょ!なんて傲慢なのか。やめてやめてやめて。何をするんだ。愚の骨頂。

☆エアコンがなくても生きてゆける季節がやっと到来。そうなると前週に注文してしまった素麺がダブつきそうな予感。
おそらく今月末には半袖が懐かしくなるような天候気分の激変も有りうるかも。

☆娘の学校のクラス保護者会(明日)に何を着ていくか考えがまとまらない、そんな時は
去年の今頃何を着ていたのかよくよく思い出すこと。
季節的には今は「秋」ってことだ。



2010年09月15日(水) 「恩」と「仕打ち」 分別してリサイクルすべきか否か等、逡巡する

子って親から逃げられないんだってことをもっと考えてやらなきゃなと。虐待事件など見るたび思う、

子どもの人格を尊重せずに私物化し傷めつけるのは後世への犯罪(自戒をもこめて)。

ただ、そういった逃げられない親から何をどう受け継いでいるかは
一概にひとくくりにできないのだなと感じる。

身内にも例が。

私の伯母(三姉妹の長女)と母(次女)の違うところは
祖母(彼女の親)から受けた折檻など心の傷、その負の遺産を
伯母は、(だいぶ薄めたとはいえ)負の遺産のまま子に伝えてしまったようだ。
母は、それを正の遺産に転換してくれた、
そのお蔭で今の私があることに感謝、というか、ホントめっちゃ助かったと思う。

で、そんな恐い祖母は、その昔の、我が子に対するふるまいを、ご自分では覚えていなくてトンと忘れているわけで。

いま母は、けっこうボケてきた祖母と同居して世話をしていて
子どもの頃の辛く恐ろしい感覚をときおり思い出してしまいながらも
(もしも私だったら、仕返しの一つもしてやりたくて頭おかしくなってしまいそうだけれど)
「自分に課せられた修業だと思って頑張る」と言う。

永らく支配していたのは祖母だったかもしれないけど
心のステージ的には母のほうが、遥かに高みに昇ってしまったと感じた。


私はといえば、やっぱり伯母のこと、

二十年経とうが三十年経とうが今更いまだに、
ほぼ毎朝、見る明け方の、伯母が登場する夢、ってのは(今朝も見たけど)
パターンがもう可笑しいほど決まり切っていて
シチュエーションは少しずつ異なれど
大体が次の二種に。

その一。私が不得手なこと――もてなしとか料理とか気配りとか立ち居振る舞いとか――などについて
彼女に指摘されて慌て心臓がバクバクする。
その二。私の善かれと思って言ったことなどが彼女に曲解されor彼女のプライドを損ね
それを大声で訴えられて慌て心臓がバクバクする。

伯母に罵られたり突き飛ばされたり悔し泣かされるシーンが過去に多々あったが、

でも一方で彼女はあくまでも善意の人間だという自覚でいるのだし
実際に彼女に大変にお世話になっていたため、

カナシくて理不尽な思いと、大いなる恩が、ないまぜになっていたため、
この件の対処がムズカシイのだった。

そんなときはよく母(次女)や叔母(三女)に慰めてもらって気を鎮めた。
問題が元から解決するところまでには到らなくても
全人格が否定された感、からは解放してもらえた。

でも多分、この件で、変わるべきは私のほうなのだろうとは思う。
で、結構、変われた、変われてきたとも思う。
自分にも何かしら問題があったのだし
悲しい思いも恩の一部、教えの一部だととらえることで。

伯母のマイナスな性質のうち、いくつかの要素は私の中にも確かに少しは存在する。
自己弁護なところも。
何かに夢中になっては興味のないことを手つかずにするところも。
面倒は後回しにするところも。
私も少なからずそうなのだ。というか私こそがそうなのだ。

同じ原材料でできている。彼女も私も。
出てくる性質の配合比率がちょっと違うだけだ。
ただ私は、反面教師に恵まれたことと
母が優しかったから安心できて鎧が必要なかっただけ。

誰だって同じ原材料でできていて、
何かの拍子に出てくる性質の比率が少々違うってだけだ。


って、頭で理解していても胃とか腸とかカラダはついていけなかったりする。
夢の中で彼女に出会うと(いや、遠くでみかけると)足が竦むという条件反射は変わらないのだ。
もう現実の彼女のほうは私に何一つ嫌味など言ってはこないし、それどころか楽しく?会話もできるというのに。
いつ何時、何をきっかけに、彼女の攻撃(=最大の防御)が出てくるか判らないとはいえ
当たり障りのないことしか口にしないでいれば
表面的には何の被害もないのに。


この思い、この気分をどうしよう。いや、
どうしたらよいか実は答えは出ていて、あとは頑張って消化(昇華)すればいいのだ。それも、
修行っちゃ修業かもしれない。



2010年09月11日(土) 中高の文化祭・娘の番

9月に入っても猛暑の続く第二金曜日&土曜日、
去年まではひたすら一般客だった娘は、
今度は中一、観せ聴かせもてなす側に。

部活とクラスの両方の出し物を掛け持っているため
準備や練習も含め、当日も、そのやりくり段取りとか
いーい経験になったことだろう。
親や祖父母や友達が観てくれて良い感じの緊張感と張り合いも伴い。
かつ、クラスの同グループにいた少々やる気にかけていた男子をなんとかかんとかその気にさせる苦労も味わい、
頑張ってたようだ。

息子は授業があるため来られなかったが
私がキッチリと潜入映像を仕入れて来たのでいずれ観せられる。
私ゃその我が子の真剣なまなざしをアイドルの追っかけよろしく
二度でも三度でも観に行ったさ、
だってこんなもんは今しか観られないもの。

一、クラスの出し物ユルーい寸劇

初日の初回を観た時は、特に男子が、何というグダグダ。
彼ら、台詞を忘れるわ噛むわ間が空くわ、でも悪びれずに
「今のは見なかったことにしてくださーい」なんてアドリブで乗り切り、
まあ、本番と言う名の「リハーサルを観たと思ってやって下さい」と笑っておっしゃる担任に
「そーですね(笑)」とこっちもユルユルと中一男子の可愛さを堪能?した。
だが女の子はとっても一生懸命にやっていたよ。娘も含む。

幕の合間の紙芝居なんかも娘の描いた絵だからって全部録画してきた。(家では娘は見せてくれなかったから)

二日目は格段に良くなっていた。(けど、後で娘に聞いたら、あれはダブルキャストの真面目なほうの男子だったとか)

二、合唱部コンサート

女の子しかいない部員9人の小さな部なのに(贔屓目かもしれないけど)スバラシかった。
正直、こんな少人数ではここまでは期待してなかったのに
結構上手いんじゃない?
一人ひとりの声がよく通ってるし
音程も、うん、安定してたし
選曲も、かわいいし綺麗だしって手放しで褒め。
先輩たちもカッコいいし、娘が部活を愛する気持ちもよく解った。
仲良し家族っぽい部だから、夏休み中も毎日のように練習がハードでも、カラダは辛くても気持ちは楽しめたそうな。

最後の曲はみんな知ってる「上を向いて歩こう」客席も一緒に歌い、振り付けまでついてて盛り上がった。

三、しかし狭い校舎に人がいっぱい

金曜日の身内だけの日はゆったり楽しめた。
土曜日の一般公開日は異常に混雑していた。

娘が覗いた、とある高三のクラスでは、お揃いシャツの背中に
「センター試験まであと4か月!」とか書いてあったり。
そこは娘の部の先輩のクラスで、引っ張り込まれたら
駄菓子やさんだったそうな。
そこで男の先輩(知らないひと)に「あれ、髪切った?」と聞かれてびっくりしたそうな。
なんでもスポフェスで近くに座っていたから覚えられていたらしい。

行き交う生徒たちがちゃんと皆「こんにちは」って言ってくれ、
けれどかなり弾けた感じの風景が広がり、
階段の踊り場のオブジェを見上げたり。




暑さを和らげる送風機があって、その傍のコメントが
「送風機・・・それはこの世で最も危険なスパイラル」とあって
なんだか和んだ。




二日目の一般公開となるとNバッグや四谷のバッグの子とその親でごったがえす感じ、
ああ思い出すなあ去年までの学校めぐりを・・・。
聞こえてくる会話「この学校って何が得意なんだっけ?英語?進路教育?」などに
内心「うーん、学校のウリとかとは別に、それなりに中高生男女のホラよくあるフツーの青春の舞台なのさ。」とつぶやいていた私。

イベントは何はさておき無事につつがなく体調万全で過ごさせてやりたい、と必死になってた私の方が却って胃が痛んだりしたけど、薬でなんとかした。
娘のほうが余程、落ち着いてるんじゃないだろか。

とにかく朝から夕まで学校に詰めていた日々が報われた彼女。
最終日には「やりきった」感いっぱいの顔で帰還した娘、
こちらもやっと安心して日曜はゆっくり休める・・・。
(お兄ちゃんの模試のお弁当があるから寝坊はできないけど)




2010年09月08日(水) 旅立つときのことを考えたりした

・・・のは、親戚のことがきっかけ(90代後半おじいちゃん)。

どんなに勧められても病院や介護サービスの世話になることを断固拒否し、
骨折しようが熱中症になろうが床ずれができようが、
訪問看護も救急車も拒否し、
それどころかつい最近まで、嫁や孫が来ても追い返し、
“お迎え”をただ待つかのような
そんな人が、親戚の中にいたのだった。

最初、その話を聞いたときには、申し訳ないけど
ちょっとばかげたことだと思った。
どんなに頑固だったって、元軍人の心ったって、それじゃ子ども不孝じゃないかと。
歳をとったらば、もっと素直に、お医者にでもヘルパーにでも縋ってくれたほうが、その息子達だってどんなにラクかと。

親戚とはいっても、その人と私は面識がなく
直接的には、何かをしてもらったこともしてあげたことも特に無い。が
伝え聞いたその人の様子から私はどうしても
老い とか、 人生の締めくくり とか 看取り ということについても
考えさせられる。というかさせてもらえている。その意味では、感謝したい。

ちょうど先日、何の気なしに
「週刊 東洋経済 9月11日号」の、終末期医療についての特集を手にとって、
あ、もしかしたらその人の気持ちにも一理はあるのかな?と思わされた。
そして、その信念を作り上げた何かに対しては、敬意を払うべきなのかも
という気もしてきた。


以下、少し紹介したい。書きとめたい。その東洋経済の特集記事からのメモ:

一般病院の仕事はとにかく延命治療。
例えば、ものを飲み込む力が弱くなった高齢者に、無理に飲食させると誤嚥性肺炎がしばしば起こるので
それを防ぐためにつくられる「胃ろう」というものがある。
体の外から直接栄養を胃に流すためのもの。
しかし消化できる量は歳をとるほど少なくなるので
キャパを超える摂取はやはり胃から食道への逆流を引き起こし肺炎を起こすことが多々あり
結局は病院で亡くなるリスクは減らせないという。

特養ホームの常勤医師であり、「平穏死」を勧めている石飛幸三さんのことばの中にも
「本人の食べたい量に任せていれば、次第に食べる量は減っていく。いずれは水を口に含むのがやっとになる。
そうした状態が約一カ月続いた後、静かに息を引き取る。
こうした状態では、脳から麻薬のような働きをする物質が出るので苦痛がないと言われている。」
「既存の治療や延命措置は自然の摂理に反した行動だと思うようになった」(以上引用)

安らかな自然な旅立ちを重視する考え方。
末期がんなど終末医療を必要とする患者や家族にとっても、それは注目される。
免疫系がダメになる辛い副作用と戦わざるを得ない抗がん剤治療、よりも
ホスピス(緩和ケアと言いかえられていることが最近多いそうだ)での、痛みを和らげながらも無理な延命はせず
残された生活の質を考えた、穏やかな人生の総まとめのほうが望まれているのではないかと。

けれど緩和ケア病棟の数は全然足りていないそうだ。
必要とするがん患者のうち6%ぐらいしか利用できない、そして
ホスピスに入れた「ラッキーな」人も「それでも家にいたかった」と本音を言う人が多い、という
そんな現状を目の当たりにして、
東京小平市に在宅専門クリニックを開業した「ケアタウン小平クリニック」院長の山崎章郎さんが、
ケアタウンの誕生背景を語る中に
「チームケアの経験があるわれわれが街に出ていけばよい。
ケアは“ソフト”であり、ソフトの事業者が集まれるような“ハード”としての拠点があれば、
ホスピス内のようにコミュニケーションが取れたチーム編成が可能になる」(以上引用)

・・・・・

まあそんな感じのことが色々考察されている誌面だった。

歳をとったらだれにも迷惑かけずに、っていう考え方はしばしば聞くし
そう思ってしまう気持ちはわかるんだけど、実際まず、無理だから。
生まれて生きてきた限りそれまでに、既にゴマンと誰にでも何らかの迷惑かけてたわけだし、今更。
介護する人間がそれを迷惑と思う程度だって、介護される側との心の関係性に因るだろうし
まあ大抵、何かしら迷惑だと思う場合、それは歳とる前から既に迷惑だったんだろうな。

私自身は、
歳とった親や夫から被る迷惑は別に構わない迷惑だろうと今のところ思う。
歳とった自分が周囲に掛ける迷惑はゼロにすることはできないだろうと思う。
※この考えは、私の祖母を反面教師として導き出したことだ。
その意味で祖母も有難い存在だ。(←皮肉でもあるし本心でもある)
あのような一筋縄ではいかない祖母を看ている母の姿は
師匠の姿だ。


そして
親にも夫にも自分にも、とにかく締めくくりがこうであって欲しいと思うのは、

その背中とお腹のイケてるところもイケてなかったところも全て
この世で誰かに垣間見せたことによってそれが遺産になり
(つまりボケてようとボケてなかろうと、その変遷すべてが教師となり)
それをもって一満足として次の世代(それは家族とは限らない)へ
穏やかに全てを委譲する気分の中で、

意識がしっかりしてる間は、ささいなことも喜べて、生かされてること自体に感謝できて
意識がなくなるときは、極力痛くなく、いや痛みをそんなに感じなく、眠るように
あとのことなんて心配しない気持ちになって、お休みなさい、じゃあ暫しの別れってことで。って逝ってほしいし、逝きたい。


もう、こんだけもう幸せも味わわせてもらったから何時逝っても悔いなし、なーんて考えながらも

今週末の娘の文化祭の発表は絶対観るぞ とか 龍馬伝の最終回は見届けないとな とか 息子の大学合格祝いをする日 とか いつか娘の彼に挨拶されるのか とか 来年のあの映画も観なきゃ とか そういえばあれ食べたい とか あの人にあれ見せたい とか なんかやっぱり、キリなく、
まだまだ。今は終わってられないって思っちゃうし、まさか終わるわけもないだろーって思っちゃう凡人な自分。





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