25日卒業式は、晴れたけど風が強く寒。 小学校の体育館って寒い!だけど私は通販でせっかく買ったスーツをどうしても着なければならない。 ストッキングを二枚重ねすると、うねうねした模様が出てしまうことを知っていたので、あえて一枚しか穿かないかわり、お腹にホカロン貼って、あったかいガードルも。 今日から春休みに入った娘には、入学式に着せたワンピーススーツだけど、ニットの短パンとタイツも穿かせ、やっぱりお腹にホカロン。 息子は中学の制服のズボンと、私の従兄弟から譲り受けたブレザーと、自前のワイシャツとネクタイ。で、やっぱりお腹にホカロン。 夫の休みはとれないので、夜の会食のときの留守番用に、母にも来てもらった。式にも出てもらう。母は、パンツスーツ。中は重ね着。
幸運にも保護者席の最前列に座ることに成功。しかし。すぐ目の前は、在校生(5年生)の、一番背の高い子が座っている。 ビデオやカメラは自席から、と言われているけど、夫のために、確実に息子を撮っておかなければ、なので、 わずかな隙間からズームでしっかり彼をとらえることに、神経集中。 途中、娘は眠くなってくる。「もう少しだからね」となだめる役をかなり母がやってくれて助かった。 そんなこんななので、我を忘れてぼろぼろ泣いてしまうなんてことはしなくて済み、ある程度冷静に、わが子の晴れ姿を観賞することができた。
証書を受け取るときに一人一人「中学での抱負」か「将来の夢」を一言発表する。サッカー部に入ってレギュラーになりたいという子が多い。うちの子は何を言うかな、きっとあたりさわりの無いことを言うんだろうな、ちょっと意表をついたりはしなさそうだなあ。と思っていたらやはり普通に 「勉強をがんばります」だった。 こと人前では目立ったことはしたくない・そのかわり家では理解不能なブラックジョークをとばしまくる子なんだよねえ。 ウチの中でしゃべってることの半分でも外で吐き出しておいてほしいものだ。
息子はせっかく正装しているし、もったいないから校門でもビデオを撮ろうとしたら、息子に見つかり 「何を撮ってるんだー、もうやめて。」とレンズを手でふさがれた。それでもカメラを向けたが、逃げられた。リポーターに追われるタレントじゃあるまいし、そこまで恥ずかしがる必要があるのか。隠れて撮ろうとしたがうまくいかず、断念した。式で撮ったから、まあいいや。
お昼は卒業対策委員さん達が、先生と卒業生をお店に連れて行ってお別れランチ会をやってくれて、楽しかったけど凄かったらしい。 バイキング形式だからスパゲティ争奪、ドリンクバーはケチャップと混ぜて何だかわかんないドリンクを作った子もいたり。ビンゴゲーム盛り上がったらしい。 夕方は学級委員さん幹事で親と先生の懇親会、立食。母に子供達預けて出た。 6年間通してまだ顔と名前が一致しないママが結構いて、近くに立った人から「うちの下の娘、お嬢さんと同じ学年ですね。クラスは違うけど宜しく」って言われて、・・・あれ、この人誰だっけ。ほんと思い出せない。ここまで出かかっているんだけど。思い出せない。しゃべりながらヒントを探すんだけど。とうとう「ところでお嬢さんは、ええと、何ちゃんでしたっけ?」って訊いちゃった。苗字もわからないというのは伏せたまま。解決して良かった。 幼稚園の卒園式に比べると自分の中のテンションは落ち着いているけど、それでも、なかなか楽しく過ごした。帰りのバスでちょっと乗り過ごし。
無事終了。(でもまだ娘で、あと5年間は小学生の母なんだ)
いま、ちょっと(かなり)ほっとしている。今日、娘の誕生祝と息子の合格祝いをくれるためやってきた親戚のみんなが、ちゃんと無事に満足してってくれたので。
あとで祖母(私の)から電話があって、おしゃべりした。最近祖母は、やや弱気になっているのと、私(と子供達と夫)に対しては必ず手放しでほめてくれる。 ・・・嬉しいが、ちと寂しい。 90歳近い人の気持ちは当人でなければわからないけど察するに、ホントに、孫とひ孫の顔を見るのが、唯一にして最大の自己肯定なのかなー。 うつろい過ぎ行く人生の中で、世の中の動きに置いてかれつつも、「確かに私は懸命に生きていた。子供のために孫のために。」ってことの再確認。 だから祖母の前では、ちょっと気が疲れるけど、「40歳になろうが白髪が発生しようが、可愛い(!)孫でーす」ってアピールするのが、せめてもの私のできることなんだ。 こういうの10年前にはシンドかったけど、今はわりと落ち着いてできるあたりが、私もオトナになってんのかしら。
「この子は丹精こめた私の作品」だとかは、私は子供に対して思わない「ようにしよう」と「強いて」思っている。けど結局どこかでそう思っちゃってるんじゃないか。子供のことを誉められると、そりゃあもう嬉しいから。 私が育てたんじゃなくて、子供が育ってくれちゃったんだっていうのにねえ。それを私の手柄にしてみたいんだ。
娘はフェルト手芸のセットを贈られて喜んでいた。 彼女の夢は、一年前はモデルとかエレベーターガールとか占い師だったけれど、今はデザイナーになりたいのだった。 その夢に向かってのことなのか、最近ますます工芸活動に力が入り、ちょっと可愛いものや、工作に使えそうなものをみつけては、「これ使うからとっておいて」とため込み、それを切ったり貼ったりして常に、何かわけわかんないものや、吹き出しちゃうほど微笑ましいのや、配色がきれいで感心するようなものを、大量に生産している。 こういうところは、母である私には、ちっとも似ていないし、私よりもっと女の子らしい細かさとか気配りとか、まめな一面があって、 「よくぞ私に似ないで育ってくれた」と感謝したいくらいだ。
こないだ、学校の、卒業を祝う会にて。6年生は全員、各自で親に感謝の手紙を書いてくれた。息子の文面は、こんなだ。 「母へ いつも朝夜ごはんを作ってくれてありがとうございます。いつも安全を気にしていてくれてありがとうございます。これからもよろしくお願いします。 父へ いつもぼくたちのために働いてくれてどうもありがとうございます。ぼくの将来のことを考えてくれてどうもありがとうございます。これからもおねがいします。 妹へ いつも遊んでくれてありがとう。これからもよろしく。」
この、やたら真面目な感謝状は、きっと彼なりに一杯一杯になって搾り出した文面だと思われる。そしてきっと、嘘じゃなくて本当にそう思って書いているに違いない。 こういう真面目さは、私よりもどっちかというと夫に似たんだと思う。 だけどそれ以上に彼のキャラは彼独自のもので、ときどき何が出てくるかわかんないような笑いをとりにくるから、飽きることがない。
私のように面倒くさがりやでコト無かれ主義なだけで生きてきた者が、こんなふうに子育てをできる環境がもらえ、このような子供に恵まれ、 そのうえ息子が学校で合奏していた「アフリカン・シンフォニー」が気に入ったということだけでヴァン・マッコイのCDをアマゾンから買ってしまえるインターネットにも縁があって、しかもそのついでに自分が聴きたかった「吹奏楽コンサート課題曲」も注文しちゃって、そこに収録されている「砂丘の曙」はまさに私の中学のとき一瞬だけ所属していたブラスバンド部で演奏した曲だったので、ついに見つけて感動し、ついでに3、4枚前から聴きたかったのをまとめて買ってしまい、代金引換で1万4千円もはらう段になってかなり冷や汗だったけど、なんとか現金で払えたことが、そんな身分でいられる自分のほどよいぬるさが、とにかく今は嬉しくてしょうがないです。
| 2005年03月03日(木) |
オペラ座の怪人または美女と野獣とかその辺り |
昼間はお友達に誘われて映画「オペラ座の怪人」を観たのでしたが、哀しい運命を予想して観る目にはすべてが哀しく見えて、最初っから落涙してばかりいて、実は細かいところを見落としていたのかもしれない。 哀しい哀しい。最初で最後に彼女からもらった口づけだけが多分彼のその後の生きるよすがになったんだと思うけど、 この世に生まれてきて、愛情実感があの瞬く間だけとは、そしてそのあといったい何十年どんな思いで暮らして死んだのだか。 でもその一個だけ宝があって、良かったじゃないか?って言っていいのか?
酔いが少しさめた夜は、私のお気に入りのディズニー作品であるところの、美女と野獣、との単純比較を頭のなかでぼさーっと、 繰り広げてみた。あまりに大雑把なくくりだけど、どっちもミュージカルだしさ。
まずなんでいつも彼女は美人で、美人はなんでいつも心も綺麗? 醜い外見ゆえに虐げられて世間を恨んでひきこもってる男はどうしても美人に対して平静ではいられない? 最初は彼女に威圧的で束縛的で、だけど彼女が心を開かせてくれたおかげで利他的な愛に変わって、というところが、だぶっている。 けど、ファントムのほうがぎりぎり最後まで、いわゆる悪いやつなだけにリアル。 愛してるなら彼女の幸せ考えてやりなさいよなんて、言うのもおこがましい気分になる哀しいところ。 恋敵は悪人じゃないところも厳しい現実。
・・・なあんて色々と重ね合わせてふと次の3点がいやに心に浮かんでしまった。 1、恋愛対象は、やっぱり、一人にきめなきゃだめなの? (ファントムだって子爵だって、どっちも素敵じゃないか。) 2、同情と愛情って、いっしょくたじゃだめなの? (線引きなんてできないときってあるでしょ?というか、融合させちゃまずいの?) 3、私が男の人を好きになるのって、だいたい外見と中身のギャップが嬉しくてだけど、それって普通の人の良さをみつける眼力に欠けてるってこと? (中身の綺麗さ可愛さをひきたてるための外見の哀れさ冷たさ、が揃っていないと、素敵な人だかなんだか見分けがつかないってことかい?)
考えてみれば、好きになるって、人類全体の幸せにとっては迷惑なことなのかもしれないけど、個人的にはなくてはならない幸せなので、矛盾なしにはいられないことよ。
| 2005年03月02日(水) |
PTA活動のあれこれ長文 |
PTAの委員や役員をやってると、ホントにいろんなタイプの人々に出会う。 PTAの役に関わる姿勢が、いろいろだ。 ポストが埋まらない沈黙に、耐え切れないで引き受ける人。涼しい顔で引き受けないでいられる人。 引き受けたくても事情あってできないけどごめんねごめんね、せめて手伝うことがあったら言ってと、申し訳なさそうにしている人。 クラスとか学校とかに対して本当に意識が高いために進んで引き受ける人。 それを見て「やりたい人がやればいいじゃない」と声に出して言っていられる人。 引き受けたのに一度も委員会に出てこない、それでいて「もう委員をやったことがあるから、いいの」と言える人。 自分が委員長でないと面白くない、それでいて面倒な地味なことは誰かに任せたい、派手なことは自分の手柄にしたい人。 人に厳しい注文を言いたい放題つけるのに、手を貸してくれるわけでもない、結局外野の人。 もう今までにたくさん委員もやって、その間に妊娠出産、乳児育て、断る理由には事欠かないのに、いいわよーと引き受けてくれる人。
それぞれの事情もいろいろだけれど。職業とか家族構成とか家庭事情とか健康状態とかあるけど。 だけどさ。 ちょっとややこしい役を引き受けるのは、いっつも、限られた人のようで。 それも、必ずしも「日中家にいられる人・身軽な人、が役を引き受けている」というわけじゃないんだよね。 現に今年度の役員の半数の人が外に仕事を持っているし。 介護だってやってる人もいる。 しかも毎年なんかかんか引き受けてくれてた人ばっかり。肩書きが変わるだけ。
昨年度・今年度と、2人のPTA会長のもとで仕事をした。全く違うタイプの2人だった。
昨年度の長は、仕事をばっさり切って減らそうというスタンスだった。面倒なことは極力やめようと。 余計?な仕事を作らない、それはある意味では役員として一緒にやるには助かることも多かった。 いらない仕事はもちろん、要るかもしれないものも、どんどん捨てたほうが、忙しい人でも勤めうる役員、を目指せる。・・・でも、 実は、そうすることによって、そこに残った必要最低限な事務の存在価値が、限りなくゼロに近くなっていく、と、 PTA自体の価値が下がる、意味がなくなる。ということは。PTA活動に関わるのは時間の無駄、労力の無駄、 「ただそこにあるだけ」のPは、いつかTに甘くみられるのだった。 ラクで引き受けやすい役員を目指してるはずなのに、それじゃあかなり虚しさが残る。
今年度の長は、「前年度と同じことをすればいい」なんて露ほども考えていない。 必要なことはもちろんのこと、仕事をどんどん探してくる、作り出す。 子供たちや保護者や先生のためになりそうなことなら、前例に無かろうが、はじめてみる。 新しくはじめるのだから、レールを敷くまで諸々の手続きが発生して、今年度は 「なんでこんなに忙しいの、きいてないよ、こんなはずじゃなかった、こんなことなら引き受けなかった」という内心の声も。 ・・・と、最初は思ったりしたけど、実は、少し違った。 PTA活動の、本来の存在価値が、付加価値が、顔を出したことで、やってることに意味が出てきた。ということは、その活動に費やす時間も、無駄ではなく、 Pの意識の高まりはきっと波及効果でTに影響し、 子供たちや保護者や先生に、還元されていくし、ほかの子がちゃんと育ってこそ自分の子も育つとなれば、見返りもある。 よかれと考えて仕事をするのだから、充実感もある。 しかも来年度に向けて、後任の人が少しでもスムーズに歩ける道をつけるために、立つ鳥あとを濁さないために、余分に働いてしまう。 それを見た人に「なんだか忙しそう、やっぱり役員なんてやるもんじゃないわ」と勘違いされちゃう、これは矛盾・・・。
わかってくれる人びとがわかってくれさえすればよい、役員なんて、縁の下の者だとわりきらないと、やっていけないね。 中に入ってみないと、大小さまざまな気苦労は、なかなか見えないもの。だけどPTAの役やってるからって偉いわけじゃない、 自分の子育てやお勤めや夫のサポートとか、それがまず優先だよって言う人も、正解。むしろ大正解だと思う。
それでも私なんかは、ずるいし小心だから、「長」のつく役を避けつづけている。 「あちらたてればこちら立たず」という板ばさみに立たされる役、を乗り切る自信がない。 こっち向いたらあっちは見えない、死角が多すぎる私の視野、全方位に適切な気配りしながら、かつ、みんなをひとつの方向へ引っ張って導くなんて、私からすれば神業だ。 私にはその処理能力が絶対に無いと思う。
だからかなあ、 自信たっぷりではなくても懸命に・いろんな方向を精一杯むいて・持てる限りの愛情を携えつつ・「長」じゃない人の気持ちもわかるだけに・ときには手探り状態に悩みつつ・恩着せがましくなく・ある種の度胸も発揮しながら、利他的に「長」のつく役をやってくれてる人、 そんな人をみると、 私には手の届かないような憧れ的な恋愛的な好意というか、そんなこんなで目が離せないような気がしてしまう。
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