こんな私でも、人に接するときには「自分がされて嫌なことは他人にしない、したくない。されて嬉しいことはする」を身上に行動していたつもりだった。 でもその「嫌なこと・嬉しいこと」の基準は独りよがりだったことを実感した。 2ヶ月ほど前、 かねてから「彼女」に頼み事をしていたのだけれど、色々事情が変わってきたので、 私の「基準」でことの良し悪しを推し量った結果、変更を申し出ることにした。 でもそれは「彼女」にとってはとんでもないことだった。 実は「彼女」は、 その頼み事には元々気が進まなかったにも関わらず、すごく骨を折ってくれていた、 ということも私は知らなかった。 もしこれが、いつも傍にいて顔を見ながら常に状況と気持ちを伝えあっている同士だったなら、もう少し、私の考えも誤解なく分かってもらえ、私も相手の気持ちにここまで気付かないことはなかったはず。 メールだけが唯一の繋がりであって手掛りであり、覗き窓だった。 思いがけなく相手の怒りをはじめて垣間見て、見えてないものの恐怖から最初は逃げることしか考えなかった。感覚の違いが未知数なのが我ながら怖かった。 そのとき思い知らされたこと。 一つは、メールというコミュニケーション方法が自分の手におえないという自信喪失と恐怖、もう一つは、自分の「されて嫌なこと・嬉しいこと」基準が、実は他人とは全然違うという、自分不信と他人不信。 それがあるかぎり、 「私の気持はメールをよく読んでくれていれば分かったはず」「あなたの気持はメールをよく読んでも分からない」という訴え合いは、意味のないことだ。 かつて好きだった「彼女」からの最後のメールは目にも辛く恐ろしいものだったけど、それは私の思慮の浅さが招いた、「彼女」に与えたダメージの木霊でもある。 だからそれを読んだときの胸の動悸や苦しみは、身から出た錆と言えるけれど、 私にはもう、まずリアルに手応えのある人間関係の中で修行を積む毎日が身の丈にあっているように思う。 パソコンのスイッチを入れる時にこんなに心身苦しくなるなら、休むしかない。 そんなこんなで、お世話になってる方々に、お詫びとお礼とご挨拶、 もろくにできずにご無沙汰すみません。
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