2001年09月30日(日) |
お出かけの締めくくりにキレた私 |
夫が、美味しそうなラーメン屋さんをみつけたっていうので、お昼にでかけた。 で、そこは環7沿いの、数あるラーメン店のひとつ。家族は皆ラーメンが好き。機嫌よく昼食をすませる。 息子が「おでかけ、これで終わりなの?つまらないよー」とはいうけど、もうすぐ雨も降りそうだし・・・。 じゃあ、このちかくにある児童館、まだ行ったことがないから、行ってみるか?ってことで。テクテクと歩いて寄ってみた。
思ったよりこじんまりしていて、渋谷の児童館みたいなところを想像しちゃってた私には、ものたりなかったけど、 畳の部屋で子らはつみきやブロックを始めた。夢中になって街やらお家やら作りだす。 これっていつも自宅でやってることとおなじじゃん・・・と思ったけど、畳に寝転がると、なんか休まるー、って、 私は夫に笑われながらも、ごろんと横になってしまった。ほかにほとんど人がいなかったし。
遊戯室で、ダンスクラブの子供たちが音楽に合わせてダンスしてる。
児童館のお姉さんやお兄さんが、非常にフレンドリーに話し掛けてくる。「こんど、こんな行事もありますよ。このプリントにご案内が書いてあります、どうぞお持ちください」
息子は妹と途中まで仲良くブロック作りをやっていたのに、なにかの拍子にもめて、娘は泣いた。 もう帰る時間なのに、最後機嫌よく締めくくって片付けさせて帰ろうと思ったのに・・・。 と、お姉さんが泣き声を聞きつけて「だいじょうぶですか?」 お兄さんが「こちらでカルピスを用意していますよ、よかったらどうぞ」 は、カルピス!有り難い、渡に船とはこういうこと?「さあ、カルピスが頂けるんだって!泣くのやめて片付けようね!」
カルピスはダンスの休憩をとっている子供たちに振舞われたものだった。うちもお相伴にあずかれるということで娘は遠慮もなくごくごく飲み干す。 ところが息子の姿が消えている。「おーい、カルピス頂かないの?何処行ったの?」探しにいったら、さっさと外に出てた。 「どうしたの、カルピスは?」「いらない。」「でもせっかく・・・」「いらないもん」 しかたなく、私がもらってのんだ。おいしい。ダンスの子供たちに混ざって照れくさかった。飲み逃げのようできまりわるかったが、娘がねむくなりそうなので、ここでおいとま。 「ありがとうございました」 でも息子はひとりでさっさといってしまう。パパがおっかける。小雨が振り出していた。傘にはいろうとしない。
車に戻ってから、「どうしてカルピスもらわなかったの、もらえばよかったんでしょ」と聞いたら 「だって。いらない。おいしくない。」それがまたふてくさった態度で。 そこから私がきれた。 「おいしくないってどういうこと?いつもカルピス、おいしいって飲んでるでしょ?じゃあ、これからカルピスは嫌いになったってことね?もうカルピス飲まなくてもいーのね!」 「うん、そうだよ!」 「どういうことよ?どうしてそんな態度なの?言いたいことがあるんならチャンと言いなさいよ、児童館の人がせっかくどうぞって言う時に、好意を無にするってことだよ!挨拶もなしに一人でいっちゃうなんて!なんてことだろう!」 もう私はとまらなくなっていて、運転する夫も黙らせ、隣に座る娘も凍りつかせる、いやーな雰囲気をかもし出しまくった。 結局息子は泣いて、ごめんなさいと言い、私の気がすんで、「こんどからそういうことに気をつけてね」で切り上げるきっかけがうまく訪れたことに救われた。
こんなふうにお出かけを締めくくるなんて・・・すごく後味が悪い。 でもまだ私は醒めてない。 息子なりに感じるところがあったのに違いないんだ・・・きっとあの見ず知らずの子供たちのなかに混じってカルピスをもらうのが恥ずかしかったのかも。大人の私ですら、ちょっと気恥ずかしいくらいなのに。 それ以前にブロックのときに妹との間でいろいろあったんだろうし。 おちつくと、彼の、言葉にできなかったいろいろがあったであろうことが、 私のせいで封印されちゃったことが悪かったと思えてくる。 こんなんじゃだめだ。
もういちど、おちついてこの子とおしゃべりしてみよう。ころあいを見て、彼を膝に抱いてしゃべりかけた。 「ほんとうはあのとき、カルピスもらうのが恥ずかしかったの?」 「・・・・・・・うん・・・・・。」息子は少しためらいながらうなずいた。 やっぱりそうなんだ。 「ごめんね」
どうしてはじめっからこういう風に接してやれないのだろうか。いつも子供に「一度失敗したことは覚えていたら?」なんて言うくせに。 自分だって、何度もこんなこと繰り返して、まったく進歩のない親だわ。
2001年09月20日(木) |
何の罪もない、やもり(だか、いもりだか、とかげ) |
居間の窓の曇りガラスの外側に、よくやもりだかいもりだかとかげだかが張り付いてた。 長さ約5センチ、小さい手足に5本ずつある指先に、ピンの頭みたいな吸盤がある。 いつのまにかぺったりくっついて、じっとしている。「あっ」と思うけど、窓の外だし、別に害はないし、 あんまり関わりたくないから、見なかったことにしてた。 でも娘は見つけると「やだよー!怖いよー!」とすくんでしまうので、夫が少し水を掛けたら、 その後しばらく来なくなった。
どこかにいるだろうなとは思ってたけど、網戸を開けない限り浸入しては来ないだろうという安心感から、 念頭にのぼらなくなっていた。
それにしてもどういう気持ちでやもりだかいもりだかとかげは(以下、「やもり」と呼ぶ)、我が家を覗いてたのか。 それとも覗いてなくて、ただ居ただけなのか。それはどうでもいいけど、
今朝、食事を並べる前に食卓を整えようとしてティッシュケースをよけたとたん、その下から、 それが、飛び出た。 うそ!なんでどうやって入ってきたの! ひゅって走り出て、あたふたと高速でやもりが巡っている様子、それを見たとたん、 今までの寛容な心構えはどこかに消えて、 条件反射的に、手にもっていたティッシュケースをその上に振り下ろした。やもり絶命。
こうして私とやもりの淡い関係には終止符が打たれた。人間の私が本性を現して。 どうしてやもり、うちなんかに出入りしていたんだよ・・・。 常日頃から子供には「一寸の虫にも五分の魂」みたいなことを言ったり、蜘蛛を見逃したりしてても、 いざとなると脳裏にハイパー高速で次のようなイメージが浮かんで、 「やもりとともにすごす自分達・・・やもりが手から足からのぼってくるー、はりつくうー、つかまえて逃がそうか・・・いやーきっとしっぱいするー、そしてどこかに潜んでまたいつのまにかひょんなとこから出てきたりするー、こわー・・・」 そしてやもりなんかよりもっともっと恐ろしい殺戮行動を瞬時に起こすヒト。
蜘蛛の糸っていうお話だと、大悪党が生前に唯一やった善行(蜘蛛をみのがしてやった)をお釈迦様がおぼえてた。 私の場合、かりに極楽にいっても、「ちょっとまった!やもりのことは?」とか言われて、 地獄に戻されたりするのかもね・・・。
2001年09月12日(水) |
おんなじ人間・でも違いすぎる人間 |
勧善懲悪のストーリーにも、いろいろなパターンがある。 悪いやつに徹底的に武力で報復して痛めつけて押さえつけてめでたしめでたし、というのが多いけど、 悪いやつを改心させてすっかり味方につけちゃって仲良しになってハッピーエンド、なものもある。 どちらも「そんなに簡単じゃないよ」って思う。男の子向けのお話は前者、女の子向けには後者が多いみたい。 でも前者のほうが、話として派手で、面白いのか、よく使われる。 闘いが好き、という心理が誰にでも少なからずあるんだけれど。
子供にどう教えていったらいいのか、今の世界情勢。大人が考えてもよくわからない。 だれが悪いとか良いとか、何も答えが出せない。 ただ、世界には、人それぞれがひとつずつ持っている命ってものよりも、 体制とか主義とか教義のほうが大事だ、という考え方が存在するんだな、と思い知らされる。 「命あっての物種」という言葉は世界共通じゃないってこと。命のための主義じゃなくて主義の為の命。 だから飛行機に何人乗っていようがそれをのっとって、これまた何千人がどうなろうがビルに突っ込ませられる。 「そんな思想やら宗教だったらいやだな、命に勝るものなし」というのもこっちのひとつの考え方に過ぎないから、 むこうにとってみれば、「そんなのは愚か」だってことなのかな。
地球としてはどっちに賛成なんだろう。意見聞いてみたい、邪魔な人間が自滅してくれたほうがいいの? 宇宙としてはどういうつもりでいるんだろう。何を期待して何のために見守っているのかいないのか。 神様いるんなら黙って見てないで教えてほしい。
どこの国のヒトだって、ヒトのおなかから生まれて、おっきくなって、 ひとりひとりが家にもどればそれぞれ生活があって、おいしいとかうれしいとか健康に感謝とか、 将来の夢とか好きなひとがいてとか、・・・人間なんだけど、それが集まっていつのまにか、 何々VS何々、という図式によろこんではまっていって、闘いに燃えて、地球のうえでつぶし合うのは、 絶対どこかから誰かに見られてて、そして嘲笑されてるか哀れまれてるか悲しまれてるか、 「どうでもいいからやらせておけ、いつまでたっても学習しない者どもだ」と言われてるか。 いや、見てきたわけじゃないけど。
むかーしは村と村、それから小さな那と那、日本のなかでも藩と藩、そして国と国、っていって、 いつまでも戦ったり奪い合ったりしてるけど、そんな状態で宇宙開発どころじゃないよほんとに。
午前中、幼稚園の親の会に出た。 娘と一緒に登園するが、「保育時間」ではない。 親たちのミーティングの間、先生は子供らを遊ばせてくれている。でもあくまでも保育ではない。 大部屋で集まっている母のところに、時折、寂しくなったのか、年少さんは膝に甘えにきたりする。 うちの子は、どうやら騙されたように遊びに夢中になっているようで、今日はラッキー。
園長先生のお話が何時の間にか始まっていた。私は後ろの方の席に座ったので、まわりがざわざわしていてよく聞こえない。 お母さん方で私語を交わしているのもいるし(失礼だよね)、あと、赤ちゃんや未就園児が泣いたり這ったりしているから。 我々子持ちは聴覚が麻痺しているからたいていの騒音はうるさいと感じなくなっている。 でも園長先生には悪いなーと思っていた。ちょっと自分だけでも「聞いてます!」って顔しよっと。
で、お話のなかにところどころ聞き取れたのが、「優しい、という字は・・・。」 それは「憂えるに人と書く」のです。 その「憂い」は更に、「百の心を受く」という意味を含んでいるのです。ということ。
ここでの百は勿論99+1とかっていうのじゃなくて、比喩でしょうけど。 確かに百の心を持っている。誰でも。人によって時によって配合の割合は変わるけど。 きれいな、明るい、のばかりじゃない、こんなの要らないっていうやっかいなのも混ざってる。 それ全部受けるったって、こっちはこっちで自分のものが一杯、一杯占領してる。 よけいなこだわりとか、自己都合の本能とか・・・それをどっかに捨てなきゃ入らない、 誰かの百を容れる前に。スペースつくってやらないと物理的に無理だわー。
収納容積を増やしてやるというのも手。自分で自分は可愛いけど、それはそれとして誰かのことも容れる。 でも・・・スペースあったらあっただけ、自分のもので埋め尽くしちゃう?それじゃだめじゃん。
わかった、こういうのはどう?自分のものをしまう時に、人の分も重ねてセットにするの。 自分のこと大事だっていう気持ちの箇所に他人のそれもぴったり合わせて収めていく。 重ねられる収納、これはうまく収まりそうだ・・・。
なんて考えているうちにクラス毎のミーティングとなり、担任の先生から運動会についてなどの説明の時間に。 じきに娘も眠くなってきたらしく、私の足元にからみにやって来た。 遊んでて欲しいんだけどな・・・。でも眠い時間だから・・・。膝上に抱こうとしたら大泣き。 どうも、床にはべりながら私のふくらはぎをいじっていることが重要らしい。 その後、眠りにつこうとするのを騙して騙して、家まで運んだ。 ぜんぜん自力で歩かない。3歩進んでしゃがみこんで泣く。具合が悪い訳じゃない、とにかく眠たいだけ。 しょうがなく負ぶった。まぶたが8割方くっついているようだ(多分)。だってオテテにちからが入ってない。 今日はやっぱり自転車を持ってくればよかった。涼しいかと思って「歩かせられるな」とふんでいたのに。 お友達のママが見かねて、荷台が前後にあるから後ろに乗せて押してあげる、というのに甘えて助かった。
・・・ふと思い出した。「そういえばもうこの歳だと、ワケのわかんない夜泣きに悩んだりしないなー。」 あの時代、子供はただ「眠い」というだけで長時間泣き止まないのはしょちゅうあった。 「いったいどうなるのか!」というほど顔を真っ赤にしていて、本気で病気かと思った。 でも結局、最後には眠って解決する。「だったらもっと最初っから寝てよー、眠いんならさー」って。 寝ぐずだけじゃなくて、言葉が思うように通じないから、謎の大泣きがある。 泣いてるほうも可哀想だけど泣かれてるほうも謎に責められて困り果ててしまう。 そんなとき、親の心のなかで、「ああーうるさいっ」ていう利己的な気分が限界超えると、 「泣かないでよー!」「泣いたってわかんないよーーー!」とか叫んで余計に泣かせてしまうという愚行。 なんか多分、なにかのテストなんだか我慢大会なんだと思う。「これをクリアすれば一皮むけるのです」っていう。 そして心を収容するスペースを広げる一工程でもあるかもしれない。ぎしぎしって。
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