Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2005年04月30日(土) 双方向という名の幻想

インターネットは百害あって一利あり。
一利とは眠れぬ夜の暇つぶしになることである。
よって心身ともに健全である人にはインターネットは必要ない。


2005年04月28日(木) どうでもいい思索

セレブの意味って何なんだろう。成金のことだろうか。
仮にそうだとすれば、叶姉妹は成金か。何となく納得できるな。


2005年04月22日(金) 放送の苦笑時代

a.昨晩、木村カエラが出演したナイナイのオールナイトニッポンを聴いて、アイドルは声(というか話し方)が極めて重要であることを再確認した。
「矢部は彼女に謝りメール。岡村は沖縄から奇跡のメール。ナイナイはメールし放題!」

b.最近、極楽とんぼの山本が自分の子分を引き連れ、「軍団山本」と称してテレビ出演する事が多くなってきた。だが、しょせん山本程度の芸人が派閥を作り、さらにその頂点に位置する構図は物凄く違和感を感じる。要するに力の衰えを人脈でカバーしようということか。

c.「報道ステーション」が波風も立たぬうちに二年目を迎えたことは私にとってかなり意外な出来事であった。今から1年あまり前、久米宏の後任がこともあろうに古舘伊知郎だとわかった時は、テレビ朝日のキャスティング能力の低さに思わず苦笑してしまった。実際の放送を観てからも古舘キャスターへの違和感はぬぐえず、「これならば良くて一年だろう」と高をくくっていたものである。
別に古舘を批判しているわけではない。しかし、久米のようなジャーナリスティックな主張ですらテレビ・ショウの味付けとして意味を変えてしまうほどの強引さが彼にはないのである。そもそもプロレス中継でのイカサマ的な過剰実況がニュースキャスターとしての出発点であった古館では、久米とは住む世界が違いすぎる。これは明らかにキャスティング担当者の責任である。
というわけで終わって然るべきの番組が、依然として続いている面妖さである。これだから世の中は怖い。このようなおかしな風潮では、この度リメイクが全編にわたって施されたドラえもんも、その未熟さに気づかれないまま、案外長続きしてしまうかもしれませんね。


2005年04月14日(木) 超短文・見かけ倒し・橋本繁久のためにならない警句シリーズリターンズ

自信のない人ほどプライドが高い


2005年04月13日(水) 超短文・見かけ倒し・橋本繁久のためにならない警句シリーズリターンズ

自信のない人ほどプライドが高い


2005年04月12日(火) 野村芳太郎監督

映画監督の野村芳太郎さんが亡くなられたと聞いた。85歳であったから、仕方がないといえばそうなのかもしれないが、やはり訃報はいっとう悲しいものだ。これでまた日本の才能ある映画監督が鬼籍に入られたのだから、その思いも一入である。

私は中学二年生の初夏に、はじめて野村監督の作品をみた(突然テレビ東京で放映されたのである)。タイトルは「八ツ墓村」で、市川昆=石坂浩二の金田一ブームに乗じた松竹が、社運を賭けて製作した作品である。私がこの映画を見た理由はただひとつ、渥美清が金田一耕助を演じていたからであり、当初はそれ以上の他意はなかった。しかし、鑑賞後は圧倒されるような思いに駆られた。とても面白かったのである。怪奇推理小説を原作としている関係上どうしても表面上のおどろおどろしさに目を奪われがちだが、私が思うところ、この映画の核心は撮影技術の尋常ならざるレベルの高さである。洞窟のロケーション・シーンなど、思わず息を呑むような完成度で、あとになって考えてみれば、これが野村監督の力量を示す象徴的なショットだったのだなあ、とつくづく思う。

この作品ですっかり野村監督のファンになった私は、主として渥美清が出演する野村作品を見るようになる。正続編の「拝啓天皇陛下様」や「拝啓総理大臣様」は映画上の仕掛けが数多く施してあるので奥行きのある見方が楽しめるし、「震える舌」などは厳しい状況を衒わずに写し出すことでかえってその先の希望が見えてくるという優れたロジックを編み出している。人情物からサスペンス物、怪奇物、写実路線などを分け隔てなく撮るバラエティ派で、作風がひとつに凝り固まらず、一作ごとの趣向が豊かであるという点では稀有な存在である。おそらく、何事にも好奇心旺盛な人なのだろう。本来はこういう人が映画監督になるべきではないか。

それにしても、この訃報に対する各メディアの扱いの低さはどうだろう。今朝は野村監督の弟子である山田洋次がコメントしているニュース映像を見たが、せいぜいその程度で追悼で映画を流す、という動きが全くないのは酷いものである。ある評論家の「この国の文化レベルは極めて低い」という意見に私はいつも反発していたが、こういう事象を具に見ると、評論家の言っていることにもそろそろ賛同せざるを得ないところまできているのかもしれない。


2005年04月08日(金) エンターテインメント近況

a.たけしと志村けんが久しぶりに共演したコント特番が放送された。両者をコメディアンとして好意的に見ており、かつ「タケシムケン」のファンでもあった私としては期待せずにはいられなかったが、視聴後の感想ははっきり言って芳しくない。何といってもコントの切り口が古すぎるのだ。しつこいほど繰り返されたエレベーターのギャグなど、「だいじょうぶだあ」時代の志村の悪い癖がそのまま残っていて、見ている途中90年代初年に飛ばされたかのような錯覚に陥ってしまった。
確かに今のお笑い界の風潮は酷い有様だが、だからといって過去の世界に閉じこもるかのようなコントを現在進行形で作ってもらっても困るのである。目指すべきは調和と破壊を繰り返す新しいコントであるが、幸いなことに二人とも体のキレ・喋りのテンポが決定的には衰えていない。今回を良い教訓と考えて、是非とも次の一手に期待したい。

b.小林信彦の著書「小説世界のロビンソン」を入手した。その名の通り、(洋の東西を問わない)小説を巡る随筆で、彼らしい”コダワリ”が全編に満ち溢れている。
小林は知識の埋蔵量と、彼自身が興味を持っている対象にあたり、いかにそれが魅力的であるかということを分析的に記述する能力に長けているが、その内容の真贋は怪しいものだし、彼自身が執筆した小説はどれもレトリックが酷いので、まあ話半分ぐらいの気持ちで読むのが丁度いいかな、と考えている。

c.ゲームの雑誌は巷に沢山あるが、いちばん発行部数が多いのはおそらくファミ通だろう。全機種の情報を取り扱ってるし、独占契約を交わしているのか、速報性が他紙に比べて高い。そして何より、値段が最も安い(筈である)。私も、高校生の頃はファミ通をよく読んでいたものである。だが、私はファミ通に対して決定的な不満が二つある。ひとつはレイアウトの悪さである。端的に言ってセンスがあまりよくない。この点ではザ・プレイステーション(休刊してしまった)やドリマガ(旧・セガサターンマガジン)の方が私の好みである。思えば、小学生の頃に愛読していたのは「ファミリーコンピュータマガジン」であった。こと紙面づくりという方向からするとどうもこっちの系統のほうが私には合うようである。
不満の第二は―実はこちらの方が重要なのだけれども―内容に反骨の気概が全くないことである。例えば大手メーカーの大作ゲームが発売されると、どんな内容であろうと雑誌を挙げて誉めそやす。そこに批判はほとんどない。反面、マイナー作品に対する扱いはそうとう酷い。つまり、面白いゲームを紹介するというよりかは大企業の広告塔でしかないのだ(そうでなければ多作のあまり形骸化したスーパーロボット大戦シリーズをあそこまで持ち上げない筈である)。大手メーカーから多額の宣伝量をもらっているからこういうことになるのだろう。
また、ゲームが有害である、という報道がなされると、この雑誌は必ずヒステリックに反応する。有害かそうでないか、と択一すれば確実に有害であるのに決まっているのに、無理やり「ゲームは素晴らしいものだ」というロジックにはめようとする、この狭量さがいやらしい。有害でも子供たちがあえてゲームを遊ぶのは、ゲームが楽しいからである。だからこそ節度を守って遊ぶべきなのに、そういうダークな部分に目を瞑るのは社会的にみて、非常に不誠実であると言えやしまいか。


2005年04月06日(水) 最新版:私の嫌いな言葉

変な汗出ちゃいましたよ(素直に冷や汗か脂汗と言ってくれ)
永久保存版です
ビデオのツメを折っておいてください
素人の時から見てたよ
ドン引き
だだ滑り
エビフリャー(エビフライのことだが名古屋人はこんな発音しない。大体名古屋人はエビフライが好きという俗説もタモリのホラである。天むすも三重県が発祥の地であるので名古屋には直接の関係はない)

因みに好きな言葉は「白・黒・抹茶・小豆・コーヒー・ゆず・さくら(ポポポイのポイ)」です。


橋本繁久

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