Shigehisa Hashimoto の偏見日記
塵も積もれば・・・かな?それまでこれから


2003年03月20日(木) 祇園精舎の鐘の声・・・

とうとうというか、やはりというか、アメリカのイラク攻撃が始まりました。

ボクはもちろん戦争には反対です。

でも口に出して「反対!」とは言いません。

言っても空しいからです。何の意味も持たないからです。

「世は全てこともなし」と自分をごまかして、今日は眠るとしましょう。


2003年03月15日(土) 誰がなんと言おうとテレビの話をしよう

シャーロック・ホームズの冒険 「ボール箱」

★絶えることのない「苦難と暴力と恐怖」の循環

いよいよ「シャーロック・ホームズの冒険」も佳境に差し掛かってきた。NHKのガイドが示すところ、残る作品は本作を除いてあと2話である(実際、放送は一昨日をもって終了した)。今冬のテレビ番組の中では個人的に最も楽しむことの出来た作品であっため、来るべき別れを迎えるのは非常に寂しい。実は今回、描写にグロテスクな部分があり、その類が苦手な私としては御免被りたいところであったが、この残り僅かな屈指の出来の海外ドラマをみすみす見逃すのはあまりにももったいないと考え、精一杯の努力の末何とか視聴に成功した。

さて、今回も「這う人」や「赤い輪」と同様シリーズ開始当初の厳然とした正統派推理ドラマとしての枠組みから大きく離れた話となっている。さらに、ストーリーを支える骨子が「情念のおぞましさ」であることから、本作は日本の2時間サスペンスに向田邦子のドロドロとした人間ドラマを足して2で割ったような印象を受ける。例えば今回のゲストのジムを小林薫に、セイラを田中裕子に、そしてスーザンを加藤治子あたりに配役を置き換えて日本製ドラマとして観ても何の違和感もない。愛を巡る憎しみの連鎖には、洋の東西を問わない証しがここにある。

それにしても、なんと救いようのない話だろう。一人の女の所為で善良なる三人の人生は破滅へと追いやられ、その親類もまた悲劇的な状況に陥ったというのに、当該の女には何の制裁もないとは。天才・ホームズとて、これを糾弾することは出来ない。悲しいかな法律に定められていないのだ。イギリスでは本話が最終回として放送されたと伝え聞くが、シャーロック・ホームズを巡る物語の全体を見渡しながら考えてみると、これは相当意味深長である。天下きっての名探偵ですら解くことの出来ないもの―それは醜い業によってほころんだ人間の情愛であったのだ。

だからこそ、ラストシーンの「この意味は何なのだ・・・」で始まるホームズの哲学めいたセリフに我々は耳を傾けずにいられない。この語りかけによってのみ、視聴者は今回の報われない話に僅かな安らぎを見出すことが出来るのだ。


めちゃイケ

★期待とは裏腹に・・・

数取団+武田恋愛企画。
当初は武田の方には興味がなく、爆笑問題がゲストで出るという数取団にただただ期待をかけていたのだが、結果は全くの裏返しになってしまった。

私は常々、爆笑問題とナイナイは本質的にあわないと考えていた。「とんねるず」的な笑いを志向するナイナイは、落語の変化球のような存在である爆笑問題とは上手く噛み合えない。これは昨秋、両組がトーク番組の特番を組んだときに切実に感じたことだ。ただ、今回は数取団という「ゲーム」を媒介にした企画だから、芸質のあう・あわないは関係ないのでは・・・と浅はかながら思っていた。だが、やはりダメだった。規律をある程度守らないと面白さが生まれない数取団においては、太田のワンマンぶりはやや空しい。我を出し過ぎて、番組としてのバランスが崩れてしまったのだ(もちろん、爆笑問題が悪いのではない。安易に出演要請するのがいけないのだ)。結局、爆発的な笑いを出すことができぬまま、ただの「ゲスト」としての位置付けによって終わってしまった。決して面白くなかったわけではないのだが、ビッグネームが揃うことによって生まれる、言いようもない緊張感とはじけた笑い(例えば、タモリ・たけし・さんまがゴルフをする番組ではこういう現象が起こる)は得ることができなかった。残念としか言いようがない。

その代わりといってはなんだが、武田真治と杉田かおるのうそデート企画はまあまあ面白かった。あそこまで開き直れる杉田はある意味あっぱれと言えるだろう(とは言え、発言があまりにもえげつないところは嫌だが・・・)番組としての”オチ”も奇麗についたし、まあ、最近のめちゃイケ企画の中では水準に届いていたのではないだろうか。それでも、全盛期の面白さの半分にも満たないとは思うが・・・

ともあれ、今週のめちゃイケは期待と結果が完全に逆となったと言えるだろう。


2003年03月10日(月) くどいかもしれないがテレビの話をしよう

少年探偵団

★大胆不適な脚本家の参戦

主題歌が「ぼ・ぼ・ぼくらは・・・」でないほうの作品。長坂秀佳がからんでいるとは知らなかった。どうも一般的な東映子供向けドラマとは印象が違うと思っていたが、これで合点がいくというもの。長坂氏は我々TVゲーム世代としてはサウンドノベルの「弟切草」や「街」、あるいはそれとリンクしたドラマ「透明少女エア」などを手掛けた人物として広く知られているが、「キカイダー」や「キカイダー01」、そして「快傑ズバット」のライターとして特撮ファンの間でも超有名な人である(あるいは『特捜最前線』などで一般視聴者にもその名は知れ渡っている)。この起用は個人的には歓迎したい。
そして音楽は菊池俊輔。こちらはやっぱりというかなるほどというか、王道的な登板だ。それにしても菊池氏は一体何本のレギュラーを持っていたのだろう。こなした量だけをみれば尋常じゃないことは確かだ。勿論、質的にも良いものが多いけど。

スタッフに関する記述が多くなってしまった。肝心の作品の感想だが、やはり二十面相役が団時朗なのがうれしい。でてきた当初はいかにも「青春二枚目路線」という感じであったが、この頃になると憎ったらしい演技が特に光るようになっている。これで演技の方向性が固まったのか、現在にいたるまで悪役の名優として名をはせているのだから、「少年探偵団」のころは役者としてちょうど転機を迎えた頃だったのだろう。この団氏の演技だけでもこの作品を見る価値は充分あるといえる。


日本アカデミー賞授賞式

★「たそがれ」旋風巻き起こる!

毎年密かに楽しみにしているイベント。と言っても誰々が何々の賞を取ったとか、そういうことに興味があるわけではない。毎回見ているのは、3月というとかくセンチメンタルになりやすい時期に、日本映画界の一応”一流”と呼ばれる役者達がただっ広い会場に厳然と集うというなんとも言えないエセゴージャスさをたっぷり堪能したいからである。ただ、今回に限ってはそういう理由のみではなかった。無論、去年日本映画界で大喝采を浴びた「たそがれ清兵衛」がどこまで票を伸ばすか、ということにも大きな関心があったからである。やはり「たそがれ」は強かった。それも予想をはるかにこえて。俳優部門では助演女優賞をのぞく全ての賞で最優秀賞を受賞(受賞者は真田、宮沢、田中)。そして最優秀監督賞、最優秀作品賞も当然の如く取った。その他の細かな賞(全部は拾いきれん、失敬)も併せると総計12冠であったらしい。凄い。ただただ凄い。これで山田洋次を毛嫌いする人間に強烈なカウンター・パンチを浴びせられたと思うとなかなか爽快である。

ただ、この快挙も手放しで喜ぶべきかというとはなはだ疑問ではある。「たそがれ」は確かに日本映画の歴史に名を残すべき作品である。しかしほとんど総なめに近い受賞は、他作品に「たそがれ」に拮抗するクオリティを持つ作品が全くなかったことの裏返しに他ならない。「たそがれ」の栄光も映画界全体の視点から見るとやや憂鬱だ。やはり日本映画は衰退していくより道はないのか・・・・

それにしても賞の合間にしつこく登場したみのもんたのいい加減なコメントには腹が立った。昔は福沢朗と市川森一のコンビだったのに、いつから変わってしまったのだろう。前のほうがよっぽど良かった。


007 ユア・アイズ・オンリー

★アクションは007の王道

アクション、アクション、またアクション。そして爆破だらけ。これぞ007の王道なのだろうがそれにしても展開が速すぎて目がまわる。エピソードで劇を引っぱっていくのではなく、アクションとアクションの間にサブ・ストーリーが幾つも挿入されている感じ。娯楽映画にはとかくありがちだが、それを差し引いても総じてドラマ性の希薄さが印象に残った(良い悪いの問題ではない)。

しかし”ウリ”のアクションに目を向ければ、やはり流石、と息を呑む。特にボブスレーまで使った雪上の追撃戦は予算もふんだんに組んであると見え、無類のスピード感と迫力に満ちたものになっている。やはりアクションに主眼をおくことが007の正しい観方なのだ。


シャーロック・ホームズの冒険 「赤い輪」

★ホームズ・アット・インターナショナル

今まで見た作品の中で最もややこしい話だった(前後編は除く)。今回に限らず、このシリーズは画面に現れる情報量が極めて多いため、随時、頭の中でスジを処理しながら見続けるにはなかなか集中力がいるのだが、本作はいつにも増してその傾向が強かった。

また、今回の話はスケールが大きいことでも特筆されるだろう。なにしろ、登場人物のバック・ボーンが相当複雑に入り組んでいるのだ。イタリア人夫妻のゲスト、請け入れるロンドンのこれまたイタリア人、下宿所の夫婦、秘密結社の暗躍、ニューヨークからやってきた刑事、そして英米警察の顔合わせとやたらと国際色が強い設定が目に付く。この措置はシリーズがマンネリに陥らないよう、新たなモチーフを追い求めてのことなのかもしれない。もしその仮定が当てはまるのなら、意図の是非は別として、結果たるやなかなかのものであった。

ただ、肝心のホームズの活躍があまりなかったのは残念。結末が一応のハッピーエンドを迎えたのもあくまで偶然の産物であり、ホームズの名推理が導き出した結果ではない。それだけが本作の芳しくない点である。


2003年03月07日(金) しつこくテレビの話をしよう

シャーロック・ホームズの冒険 「瀕死の探偵」

★ハイレベルな役者達

シリーズのフォーマットに忠実な作品である。良くも悪くも標準作の域を出ないが、細かな部分で色々と楽しめる。犯人の疑いが強いカルパートンに対してホームズが「嫌なやつだが犯人ではない」と言ってみたり、夫人の言動にいささか怪しいとみれる箇所があるところから筆者は今回は何か裏があるに違いないと勘繰ったが、思い違いもはなはだしく、結末は大凡の予想通りであった。

さて、今回の白眉を探すとすれば、真っ先に熱病に罹患した”フリ”をするホームズの怪演が思いつくであろう。苦しみ、悶えつつもカルパートンと必死にやり取りする様はまさに圧巻。仮病というシチュエーションはともするとうそ臭くなりがちだが、ジェレミーの密度の高い演技により、その後の逆転劇とあわせて爽快感溢れるシーンに昇華されている。

それにしても、ジェレミーの確かな演技設計にはいつもながら唸らされる。緩慢な動きから一転、俊敏な手さばき、かと思えばまたゆったりとした物腰にもどる。静から動、動から静への切り返しが鮮やかで、極めてメリハリの効いた挙手動作は視聴者を確実に魅了する。ジェレミーあってこその「シャーロック・ホームズの冒険」なのは言わずもがなである。本番組のスタッフが原作を可能な限り忠実に再現しようとした態度の誠実さと同じくらい、彼のホームズ役への取り組みは誠実であった。無論、彼だけではない。初代ワトソンにしろ、二代目ワトソンにしろ、あるいはハドソン夫人、そして毎回登場するゲストに至るまで、この番組に出演する俳優たちは皆ハイレベルな演技を要求され、そしてそれに見事応えている。キャスト面においてもこのシリーズは恵まれていたのだ。

あまり比較はしたくないのだが、残念なことに日本の役者で現在これほどの力量を持つ人材はいない。少しでも人気が落ちればポイ捨てという日本のシステムにも問題があるが、いわゆる「役者根性」を持つ人間が本当に少ないのも悲惨だ。昨今の日本ドラマが軒並み不振なのは、人を引き付け、酔わせる演技のできる役者がいないところにも起因していると言えよう。

話が脱線してしまったが、もうひとつ、この作品で発見した面白い事実を記して結びとしたい。冒頭、久方ぶりにホームズを訪れたワトソン(いつのまにかワトソンはホームズと別居している。この経緯に関しては何も描かれていないのでいささか疑問が残る)に対してホームズは「新しいネクタイの感想を求めないでくれよ」と素っ気無く言う。ワトソンは「友達がいのないやつだな」と返すが、言葉とは裏腹にこのセリフにはワトソンのホームズに対する深い友情が溢れているのが見え隠れする。ところが、一方のホームズはどうか。カルパートンを罠にかける際、ホームズはワトソンやハドソンまでも欺いている。勿論、事件解決を潤滑に執り行うためであるが、そうであるにしても、ホームズは「友情」を捨て己の生業を貫徹することを選んだのである。これはホームズが冷酷な人間であるからというよりは、ホームズとワトソンの友情に対する考え方の差異が示されただけの話であろう。ワトソンが意味する友情が世間一般のものと大差ないのに比べて、ホームズのそれはあくまで自分側の論理に準じているのである。「友情」という概念をキーワードにして、愛すべき凡人ワトソンと偉大なる天才ホームズの本質的な人間性の違いが如実に表れてくるのは非常に興味深い。この2人が手を組んだからこそ、本番組は無類の味わいを発揮する名ドラマとなりえたのである。

帰ってきたウルトラマン 「大怪鳥テロチルスの謎」「怪鳥テロチルス 東京大空爆」

★ウルトラマンに青春ドラマ、結果は?

「帰ってきたウルトラマン」はドラマトゥルギーとしての”葛藤”を強く前面に押し出した作品である。郷と岸田の争いにしろ、MATと上層部の軋轢にしろ、登場人物たちは毎回激しくぶつかり合い、議論し、時には傷つけあう。その陰々とした苦しみのなかで一筋の光明を見つけたとき、ドラマは終局に向かって歩き始める。対立の解消が即、ドラマの終劇に結びつくのである。勿論、エピソードの全てがこの形式を採っているわけではないが、ジレンマとその消失は「帰ってきたウルトラマン」を語る上で避けては通れない重要なファクターであることは間違いない。今回紹介する話も基本的にはこの方法論にのっとって構成されている。だが、基本フォーマットに忠実にあるのに関わらず、本話は相当な異色作である。その所以は本話の”葛藤”の表現を青春物語に託している点にある。子供向け、しかも特撮番組に青春ドラマという特異な組み合わせ。果たして成功したのであろうか。エピソードを順を追って紹介してみよう。なお、本話は「夜明けの停車場」などで有名な歌手・石橋正次が恋人の裏切りを妬んだテロリスト役でゲスト出演している。世の中を斜めに見るような石橋の好演は視聴者を確実にドラマの世界へと引き込む。それにしても、子供番組にこのような有名芸能人が出演するあたり、ジャリ番とは言え円谷のキャスティングに手抜きは全くない。今となっては完全な死語となってしまった「ドラマのTBS」の面目躍如である。


―ある夜、若者達がヨット上でパーティーを開いていた。そこに忍び寄る影、刹那、ヨットは爆発炎上する。すぐさま捜査が開始され、ヨットの乗員の1人由紀子の幼なじみである松本三郎に嫌疑がかかる。由紀子は三郎を捨て、大会社の御曹司の浩と婚約していた。警察はそれを妬んでの犯行であると断定する。事実、三郎はヨットの船体にダイナマイトを仕掛けていたのだ。ところが、由紀子はヨット爆破の真犯人は爆破の寸前に飛来した怪獣であると証言、MATに調査を依頼する。

時同じくして、真夏の東京に雪のような物質が降る。排気ガスと感応して失明性のある猛毒ガスを発生させるこの物質を解析するため、郷は気流をさかのぼって調査する。物質の出どころを突き止めると、そこには大怪鳥テロチルスがひそんでいた。テロチルスは音に敏感に反応する習性を持つ。ヨットを襲撃したのも、ヨットの発動機にテロチルスが刺激されてのことだったのだ。郷はウルトラマンに変身してテロチルスとの戦闘に入る。だが決着はつかなかった。

一方、服役中の三郎が脱獄したとの連絡が入る。再び自分を付け狙うのではと恐れる由紀子は郷にずっとそばにいて欲しいと懇願する。その始終を郷の恋人・坂田アキが見てしまう。

三郎は警備の目をかいくぐって由紀子が入院する病院に侵入、由紀子を奪って逃走する。逃げた先はテロチルスが吐いた物質によってマンションに張らされた巨大な巣であった。三郎は由紀子を連れてマンションの一室に立てこもる。程なくしてテロチルスも巣の中に入る。由紀子がいることと、下手に刺激するとテロチルスが暴れ出す恐れがあることから、MATも警察もうかつに手を出すことが出来ない。

三郎は浩と引き換えに人質の解放を約束するが保身に走る浩は逃げ出してしまう。その事実を知った由紀子は愕然とする。2人はなんとはなく昔の思い出話を始める。その過程の中で由紀子は自分が必要とするのが三郎であることにやっと気づく。愛を確かめ合う2人。三郎は自首することを決め、ベランダに1人で出てくる。ところが焦った警察は三郎に発砲してしまう。その音を聞いてテロチルスは凶暴化して暴れ始める。崩れ落ちるマンション。三郎は由紀子をかばって瓦礫の下敷きになってしまう。

郷は再びウルトラマンに変身してテロチルスに挑む。ウルトラマンは辛くもテロチルスに勝利するが三郎はすでに帰らぬ人となっていた。

何日かの後、三郎の墓前に由紀子と郷とアキの3人がたたずんでいた。由紀子は郷に三郎の分も含めてやり直すことをと誓い、静かに去っていった―


三郎と由紀子の微妙な関係を軸に、由紀子と浩、由紀子と郷、そして郷とアキの気持ちのすれ違いを丁寧に描き、それらを覆い被せるようにテロチルスのエピソードが重なってくる。ドラマパートと特撮パートが決して乖離することはなく、むしろ双方がお互いを盛り上げる最良の結果となっている。低年齢層には若干わかりづらい点もあっただろうが、概括的に見れば青春ドラマとしてのウルトラマンは大成功であったと言えるだろう。本作のテーマである「噛みあわなかった愛の悲劇」の雰囲気は存分に画面に滲み出ていた。浩の由紀子に対する愛は所詮うわべだけのものであったのに対して、三郎は自分の命を投げ打ってでも由紀子を守ろうとした。由紀子を真に愛していたのは三郎であり、由紀子もそれに応えた。たとえほんの僅かな時間であっても愛を勝ち取った三郎は幸せであったといえないか。上原正三がこのエピソードを通して語りたかったのはまさにこの部分であるはずだ。三郎と由紀子はその面では報われていた恋人だったのだ。

そしてラスト、由紀子を見送ったあと、アキは「私も初めからやり直すわ」と言って微笑む。アキの、郷に対する誤解もすでに解けているのだ。画面の四隅に赤い花を配し、その合間を縫うように手前に向かって2人が仲睦まじく歩いてくるショットは、爽やかな恋人達に相応しい清新な余韻を残す素晴らしいシーンとなっている。もっとも、この後2人に起こる悲劇を知っていると、このシーンは心苦しいことこの上ないのだが(郷とアキの顛末については拙文3月1日付け『一年以上ぶりにテレビの話をしよう』を参照のこと)・・・・

ともあれ「青春ウルトラマン」、見ごたえたっぷりの良作であった。


2003年03月04日(火) ツッコミ禁止?

(2003年 2月29日付)
人気漫才コンビ「中川家」の弟、中川礼二氏が、広島市内のバーで女性の頭をたたいたとして、広島県警広島中央署から暴行容疑で任意で事情聴取、活動を当面休止することになった。礼二氏は問題の”頭叩き”を「あれはツッコミ」と弁明しているが、芸の世界での常識は一般人には通用しなかったようだ。

だが、事件はこれで終わらない。日本という国の怖いところはこの後だ。ツッコミ=痛いの概念にのって、なんと反暴力団体を自称するAVPP(Anti Violence Protect People の略)なる集団が現れ、漫才における「ツッコミ」は極めて暴力的で、青少年の精神に多大な悪影響を及ぼすとして「ツッコミ排斥運動」を展開し始めたのだ。私が調べる限り、AVPPは善良なる一般市民に難癖をつけてお金を脅し取る悪徳団体だが、折りからの風潮を受け世論もAVPPに同調、「ツッコミは即刻辞めるべきだ」という声が続出している。

強力な味方を得たAVPPはその邪悪な刃の矛先を1人の男に突きつけた。「ダウンタウン」の浜田雅功氏である。AVPPは「浜田氏が松本氏をツッコム時の頭のはたき方には悪意が感じられ、非常に反社会的で見るに耐えかねる」と主張、浜田氏にタレント活動の廃業と浜田氏のツッコミによって精神的苦痛を受けたとされる人4896人に対して総額8億5502万円の損害賠償を要求していると言う。現在、浜田氏は外を歩くと市民から生卵をぶつけられるため、家から一歩も出られない状態だ。AVPPはこれを民事事件として正式に裁判所に申し立てることを決めた。

AVPPの一連の行動に、”ツッコミ”の同業者も多大なショックを受けている。ナインティナインの矢部浩之氏は、自身がレギュラー出演するラジオ番組で「ボクはツッコム時も相手(岡村氏)の頭頂部をなで上げる程度にします」とマイルド派への転向を早々と宣言。またウッチャンナンチャンやよいこなどのどちらがツッコミかわからないコンビは、お互いに「お前がツッコミだ」と責任をなすりつけあう状態に陥ってるという。ロンドンブーツにいたってはこの件に関する不和によって、近くコンビ解消を発表する予定らしい。この他にもツッコミ廃止の運動によって大量の「お笑いリストラ芸人」が発生する見込みだ。

以上のように今、お笑い界は悪質な団体によって大いに揺れている。だが、考えてみてほしい。もし漫才において「ツッコミ」がなくなったらどれだけつまらなくなるか。カレーのルーがかかってないカレーライスを食べろと言ってるのと同じなのではないか。あるいはアクセルのない自動車で高速道路を走ること、トイレットペーパーのない公衆トイレに入ること、筆記用具を持たないで大学受験すること、またはスピーカーが存在しないステレオ、給料日のない仕事、チョコを一個ももらえないバレンタイン、手をつながないデートと同じぐらい意味のないことではないだろうか。「ツッコミの迫害」はしばらく収まりそうにないが、せめてこの記事を読んだ人は安易な世論の風潮に流されないでほしいと切に願っている。

ジャーナリスト 洞野蕗介
※編集部注・この記事がどこまで真実かはわかりません


2003年03月03日(月) 舞い戻ってテレビの話をしよう

前回と同じく、録画したり、レンタルして視聴したテレビ作品の感想。

○シャーロック・ホームズの冒険 「這う人」

★推理物+サスペンス・ホラー+SFの怪作

文学的な薫り高いサブタイトルとは裏腹に、これまでの作品群とは趣きを異にする異色作である。「這う人」の正体が活力剤代わりにサルの血液を注射したプレスベリィ教授その人であるあたりは現実の常識的世界観を大きく逸脱して、サイエンス・フィクションの域にまで跳躍してしまっている。厳密かつ公正なミステリーマニアの方にはここらへんが納得できない部分であろうが、ウルトラマンシリーズ等ですでに虚構のSFマインドを十二分に頭にしみこませている筆者にとっては大いに楽しめる作品であった。

それにしても、半猿人化したプレスベリィ教授役の俳優の迫真の演技は賞賛に値すると言ってもよいだろう。「人間がサルになったときの演技」という突拍子もない難題を、柔軟な想像力で勝負した結果、見事に「それらしい動き」を体現することに成功していた。本作品の中でも一際光る、体当たりの名シーンであると言える。



○タイムパトロール隊 オタスケマン「オタスケマン大ピンチ」

★ラスト2回で謎解き

「オタスケマン」に限らず、タイムボカンシリーズは最終回が近づくと今まで張っておいた伏線を一気にまとめ上げる、という傾向がある。「タイムボカン」然り、「ヤッターマン」然り。唯一の例外が「イッパツマン」で、この作品は謎を小出しにして、しかも少しずつ解き明かしていくという手法をとった。連続劇としては後者のストーリー展開の方が優れていると言えるだろう。だが、本シリーズのメイン視聴者には未就学児童も確実に含まれているわけで、あまりストーリーラインを複雑にすると低年齢層はついていけなくなってしまう恐れがある。事実「イッパツマン」は物語が難解だという種類の苦情がきたそうである。難しいところだが、そのギリギリの線を上手くかいくぐったケースもあった。それがこれから紹介する「オタスケマン」である。

最初に書いたとおり、この作品の決着のつけ方は「ヤッターマン」方式である。それでは結末までドタバタして収集がつかない気もするが「オタスケマン」の場合、散りばめられた謎がスリム化されたものだったので視聴者側も混乱することなく番組に望めることができた。すなわち、オタスケマンの正体、オジャママンの正体を登場人物達の大きなテーマとしておきながら、視聴者にはその答えをあらかじめ明かしておき、その上で、オジャママンのボス・トンマノマントの正体、そしてゲキガスキー登場の必然性を受け手側の最大の謎として据えたのである。従って、視聴者は劇中の登場人物よりもひとつ上の段階で物語を俯瞰することができ、それがある種の安心感を与えることに成功している。そして全ての謎を収束させる作業に入るのが最終前話の「オタスケマン大ピンチ」と最終回の「輝け!世界のオタスケマン」の2回なのである。これによって視聴者を最大の興味で引っぱりつつ、基本的には一話完結の単純明快なストーリーを作り上げることが出来た。幼稚園児から小学校高学年ぐらいまでは、充分鑑賞に堪えうる作品になりえたのである。

○チャーリーズ・エンジェル

★突き抜けた「古きよき時代」

前々から観たかった作品なので視聴する機会を得ることが出来てうれしいことこの上なし。初めて観てみて思ったことは「雰囲気がよい」ということ。ホームズやコロンボのように事件の解決方法が鮮やかなわけでもなく、また、濃厚な人間ドラマが展開されるわけでもない。ただお色気たっぷりのお姉ちゃんたちが刑事まがいのことをやっているだけのドラマである。だが、逆にいえばそこがこの作品の最大のセールスポイント、売りなのである。余裕綽々のチャーリーに、これまた軽妙な受け返しをするエンジェル達の人間的な魅力といったらない。つまり各人の会話がほとんど冗談の延長のような趣きで、視聴者に「こんな洒落たことが言えたらなあ」という夢を抱かせるのである。しがない現実に疲れた人たちに、夢を売ることがドラマの使命だとするのならば、この作品ほど優れたものはそう簡単には見つからないだろう。底抜けの明るさを備えた(と言ってもほのぼのしているわけではない)、娯楽ドラマとしては一級品である。

ところで、筆者はドラマの雰囲気からして、当初、この作品は60年代に作られたものだと信じていた。ところが、色々調べてみると76年から81年までに放映されたドラマだと分かった(日本での放送はこれに若干のタイムラグがある)。アメリカの古きよき1960年代はとうに過ぎ去っていたである。それなのに60年代の優雅な匂いが消えないのはどうしてなのか。もしかしたらこの番組のスタッフは60年代に憧れていたのかもしれない。70年代から見た空想としての60年代が、そこには確かに存在しているのだ。


2003年03月01日(土) 一年以上ぶりにテレビの話をしよう

ここ数日撮り溜めておいたものやレンタルしたもの等を一括して視聴。以下にその感想を記す。

○シャーロック・ホームズの冒険 「高名の依頼人」
最近、特に気に入っている作品。10年程前にも好きで観ていた記憶があるのだが、流石に個々のエピソードは覚えていない。そのおかげで今回もまた新鮮な気持ちで作品と接することが出来たのだから”忘れる”という行為もあながち捨てたもんじゃない。

それにしてもこの番組に臨む製作スタッフの熱意ある取り組みには毎度々々感心してしまう。驚嘆すべきことに、19世紀イギリスの独特の雰囲気をほぼ完璧に再現しているのだ(と言っても本当にその時代の空気を感じたことはない。当たり前の話だが)。あの、ロンドン特有のどんよりとした空模様。霧がかった街並み。足早に行き交う人々、それに群がる乞食。ややもの悲しいオープニングのチェロ。リズミカルな音色を刻む馬車。立居振舞が麗しい英国人紳士と淑女、そしてその口元から流れ出るこれまた麗しいネイティブイングリッシュ(勿論私たちは日本語として聞いているわけだが翻訳スタッフが逐次正しい日本語に訳しているのでドラマの品格は保たれている)・・・我々の歴史的好奇心を巧みにくすぐり、見事に熱気溢れる奇妙な推理冒険の旅へといざなうのである。

少々前置きが長くなってしまったので感想を急ごう。今回の敵(?)は掛け値なしの卑劣漢・グルーナー男爵。ストーリーには推理物としての面白味はあまりないが、このグルーナーを徹底的な悪人として位置付け、正義の使者シャーロック・ホームズとの対決色を強めることによって娯楽作品として成功している。自らの身辺を探り始めたホームズに危険だからやめろとのたまうグルーナー(つまり痛い目にあわせるぞ、と脅迫しているのだ)に対して、即座にグルーナーのタバコの吸い方の下品さを指摘するホームズ、そして罠にかけるつもりが逆に罠にかかってしまったワトソンの大ピンチに燦然と登場するホームズ(しかも重症の体に無理をおしてである)のかっこよさ。ゴロツキ・クルーナーの最期はかつての情婦に頭から硫酸をかけられるという哀れなものであったがその始終を同じく僅かに硫酸が付着したグルーナーの肖像画に焦点をあわせて描写処理する演出も良い。カタルシスを感じさせる最も優れた手段である勧善懲悪劇として非常に良く出来た作品であった。題名でもある高名な依頼人の正体は最期まではっきりとは明かされなかったが、ラストに写った紋章を見る限りイギリス王家並の高貴族であることには間違いなさそうだ。

○未来警察 ウラシマン 「挑発! 南の島に吹雪」
ハワイで雪を見たいという理由だけで吹雪を起こさせるルードビッヒはやはりただの悪党ではない。原因調査に乗り出すリュウの前に現れる老練の刑事、その名もコロンボならぬコロンダ。演ずるは内海=則巻センベエ=賢二。「キャッツ・アイ」の課長もそうだけど、この人は今回のような少しやかましい上司の役が良く似合う。経験に裏打ちされた熟練の冴えをみせるコロンダと、若さとカンだけが頼りのリュウのでこぼこコンビ、これが不思議な異化作用を引き起こす。2人の活躍で事件は無事解決。ハワイでのバカンスが再開されるが肝心なところでへまをやらかしたリュウは独り包帯巻きで海辺に取り残される。これぞシリアスとコミカルの間を縦横無尽に跳躍する「ウラシマン」の王道ストーリーなのだ。

○逆転! イッパツマン 「ピンチ一発 大逆転」
大好きなシリーズの第1話。初回ということで各キャラクターが登場する折に名前の字幕が写るのが妙な統一感を醸し出す。ギャグのほうは出だしだけあってまだノリきれてない感もするがそれでも一発ギャグは最高の切れ味を見せる。初っ端から山本正之節が全開なのも嬉しい。シリーズ全体ではあまり使われなかった武器・レインボールの勇姿が見られる点においても貴重である。

○家政婦は見た!
これまた大好きなシリーズ。今回も見事なドロドロっぷり。表向きは清廉かつ善良な人物の、実は虚飾に満ちた人生。彼をつなぎとめていたのは愛でも肉親の情でもない、ただのお金だったという悲劇。上流階級に与する人物の典型的な崩壊劇をシニカルな視点で捉えつつ、あまりジメジメと描かないところがミソ(ドロドロではあるけれど)。ただ今回は相手があまりにも可哀相だったので見ていて居た堪れない気持ちにもなった。このシリーズで個人的にベストの作品は大空真弓が熟女を演じた話なのだが、なかなか再放送してくれない。というか再放送されても単に気付いてないだけなのかもしれないが。

○帰ってきたウルトラマン 「ウルトラマン夕日に死す」「ウルトラの星光る時」
全ウルトラマンシリーズ中最も衝撃度が強い前後編のひとつである。今までに何度も見ているが卑劣なナックル星人には今でもはらわたが煮えくり返る思いがする。坂田兄妹を失った新マンがナックル星人によって張り付けにされ、連行されてゆくシーンで前編は終わり。こんな絶望的な「引き」の描写で終わってしまっては本放送で見た視聴者たちはさぞかしショックだっただろう。その代わりと言ってはなんだが後編は前編での溜飲がいくらか下がる展開となっている。ナックル本星で処刑のときを待つ新マンの前に初代ウルトラマンとウルトラセブンが颯爽と駆けつけるのだが、このときの頼もしさと言ったら!坂田兄妹を失った新マンに対してまるで「お前は決して独りじゃないんだぞ」と励ましているかのようだ。そしてその「励まし」を受けた新マンがたった一人でナックル星人にリターンマッチを仕掛けるのもポイント高い。以降のウルトラシリーズでは主役のウルトラマンがピンチに陥るとすぐさま先代のウルトラマンが駆けつけて共闘を展開するパターンが多くなる。娯楽作品としてはそれでも良いかもしれないが、今回のような私情が深く絡んでいるケースにおいてはやはり主役1人で決着をつけるのがベストである。この再戦で新マンがナックル星人にあびせたストレート・パンチほど血沸き肉踊るシチュエーションはない。まさしく上原正三が帰マンのために用意した事実上の最終回として、本作品は完結の域に達したのである。
話題は変わるが最近「帰ってきたウルトラマン」はDVDが発売されたり、テレビブロスで特集記事が組まれたり(私は読んでないけど)とつぶさに熱気を帯びてきたようである。ドラマパートがしっかりしている作品なので是非再評価してもらいたいものである。

○レディス4 (2/28日分)
涙、涙の高崎一郎降板の日。1983年のスタート時より今日まで番組を支え続けた彼がいなくなるのは相当の痛手だ。思えば、午後4時という、最も気だるい時間を気だるいままに突き抜けた気持ちにさせてくれる稀有な番組であった。高崎氏の流暢な英語発音は耳ざわりがよく、その滑らかな語調を聞くのが毎回の楽しみであった。降板の理由は健康状態が思わしくないからと聞いているが、これからはゆっくり休養して、元気になったらゲストでもいいからこの番組に返ってきてほしいものである。久米宏だっていったんニュース・ステーション辞めてまた返ってきたんだから(ちょっとケースが違うけど)。何はともあれ、本当にお疲れ様でした。

○めちゃイケ (数取団+笑わず嫌い後半)
前回の笑わなず嫌いは期待に反して消化不良の点が多かったのだが今回はかなり楽しめた。特に面白かったのは「カンニング」というコンビ。自虐ネタは古くからよくある手法だが開き直って無茶苦茶言うあたりが新鮮。太ったほうの人(名前失念、失敬)がもうちょっと滑舌をよくすれば充分ゴールデンでも通用するコンビだと思う。それ以外でもマギー審司の見せ掛け手品ネタも面白かった。ふかわも久々に本領発揮。そうなんだよ、もともとふかわはこういう笑いの系統なんだよな。彼が駆け出しの頃にやっていた電波少年の「無敵のセールスマン」なんて本当に面白かったもの。それがいつからか変なポジションに変わっちゃって私としてはいつもじれったかった。まあ、ハングリー精神があんまりなさそうなので、弱肉強食の芸能界には本来的にあわないのかもしれないけど、あの独特の空間を作れる人間はそうそういない。個人的には応援しているので是非頑張ってほしい。ともあれ、今回のめちゃイケは総じてなかなかの出来であったと言えるだろう。


橋本繁久

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