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2002年08月03日(土) 伊集院氏のインタビュー(ええ話(T_T)) 

★Yahooブックスに伊集院氏のインタビュー載ってます。つよの話もあったので↓見てくださいまし。

「まず、剛くんに向けて書いているんだ」。伊集院さんは、そんな発言をしている。『きみとあるけば』の巻末に収録された、堂本さんとの対談での言葉である。そんな気持ちにさせたきっかけは、何だったのだろう。

「堂本くんに絵を描いてもらおうという話が(編集部から)出たとき、最初はためらいました。私の中では、絵は絵描きが描きなさい、というのがあるんですよ。だけど、彼の絵を20点くらい見たときに、すごくオリジナリティがあって、あっ、これなら大丈夫だな、と思いましたね。

それから会って話をしました。そのときに、この人と私とは年齢差がないな、と思ったんです。彼は非常にまっすぐな性格でね、自分は弱いとか、だから強くしたいとか、そういうことを素直に出してくる。私にも弱いところがあるし、強くなりたいと思っているから、あっ、同じところを持っているな、と感じたんですよ。だから、こう言ったんです。「私は、私が経験したことを、あなたに向けて書くよ。だから、あなたも絵を描くとき、私に向けて描いてください」と。

私たち二人のものでいい。誰がそれを読むかについては、全然気にすることはない、と。私は、会ったときから、彼を信頼した。彼を信じようと決めたんです」

 そして、二人のキャッチボールが始まった。

 伊集院さんは、少年時代から持ち続けていた思いを、堂本さんに向けて語りかけるように綴る。その思いを受けとめて、堂本さんから絵が返ってくる。その絵は、たしかに伊集院さんの語った内容を反映しているのだけれど、まったく新しい、独自の世界観を持っている。

互いに共感し共鳴しあう二人が、そこを起点にして、それぞれの世界を表現しているのだ。その源にある信頼感は、どのようにして築かれたのだろうか。

「二人で話したときに、堂本くんは『生きることは悲しい』ということを、勘でわかってしまっているのじゃないかなと感じたんです。家族がいようと友だちがいようと、人は一人でしかない。そのことが見えてしまっている。それは孤独だと言う人もいるけれど、一人だということがわかって、そこからまわりとの関係や出会いが始まっていく。

この本で伝えたかったのは、そういうことなんです。そして、堂本くんにはそれがわかっているんですね。私と同じものが見えている、感じている。すごく幸運な出会いだったと思います」

 伊集院作品に、いつも通奏低音のように流れているもの。それは、この「人は、一人でしかない」ということの切なさだ。どんなに緊密な絆も、時のうつろいにほどけていってしまう。失ったものたちへの愛惜の思い。出会いのときめきを描いた物語にさえ、それが奥底でかすかな音を響かせている。

そして、堂本さんの温かいタッチのイラストからも、よく耳を澄ませば、それは聞こえてくるのだ。

「この本を読んで、何か通じるものがあるとしたら、それは堂本君と私とが感じた純粋な悩みとか、わからないという思いであると思う。同じ悩み、同じわからない部分を持って、同じように答えを求めている人たちが読んだら、『そうかもしれないね』と共感してもらえるんじゃないかな。

若い人たちは、若いから悩んで、いろいろわからないことがあるんだ、と思っているかもしれない。それは実は若いからじゃなくて、人間だから、この世界で生きているからわからないっていうことなんだけれど。そういうことを、きちんと書いていこうと思った」

若い人に向けたエッセイというのは、ともすると高みから「まあ、君たちもこの歳になればわかるよ」と見おろすようなものになりかねない。なにしろ、経験を重ねるほどに、言葉に尽くしきれない思いが積もっていくのだ。

けれどこのエッセイは、決して高みに逃げない。言葉を誠実に探し、自らに問いかけるように丁寧に綴っていく。

「15歳を過ぎたら、男の人はもう大人だと私は思っています。15歳までには、自分が孤独であると思い知らされるできごとが必ず来る、と信じているから。どんなに平和な家庭で守られていても、必ずそれは来る。たとえば、人はどうしても他人の死や生き物の死を見ざるをえない。それをどう感受していくか。『見つめる』ことが大事だということでしょうね」

 15歳までの、決定的なできごと。それを感受するまなざし。それは伊集院作品の中では、たとえば自伝的長編3部作の中に見いだすことができる。特に、この7月に新潮社から文庫化された『海峡 幼年篇』。この作品では、冒頭からあまりにも悲しい別れが描かれる。緊密な絆にもかかわらず、つかの間の交わりののち去っていく人たち。『きみとあるけば』に書かれた初恋の少女も、同名で登場する。彼女との痛ましい別れは、読む人の胸をえぐる。この出会いと別れの物語こそが、『きみとあるけば』も含めた伊集院作品の原点なのだろう。

「吉行(淳之介)さんは、近所へタバコを買いに行くのも旅だ、と言っています。そこで何かに出会えるかどうかは、本人の資質なんだ、と。……ちょっと私は出会いすぎましたけど」

『きみとあるけば』に、こんなくだりがある。伊集院夫人(女優の篠ひろ子さん)が、「犬を飼いたい」と言う。しかし伊集院さんは、愛する友となるであろう犬が、やがて寿命を迎えることを思う。そのときの夫人の悲しみを想像して、こんなふうに続ける。

『私はたいがいの痛み、傷、仕打ちには平気で耐えられる自信がある。それは解消法を知っているのではなく、私がそういう目に遭うことが他人より少し多かったことと、自分がそういう役をやらされるのだろうと考えているふしがあるからだ。(中略)愛しいものを失って哀しくないものはいない。ただ平気な顔をしていよう、とやせ我慢が身に付いているだけだ』

 その痛みは、他人が安易に想像できるようなものではないだろう。伊集院作品に流れる切ない通奏低音は、この「役まわり」を受容せざるをえないところから生まれている。
巻末には、対談やポートレートとともに、伊集院さんが堂本さんのために書き下ろした詞が2編、収められている。そのうちの1編『君と歩けば』に、こんなフレーズがある。

『君と歩けば 何かと出逢える
 君と歩けば 何かが見えるよ』

 さまざまな出会いと別れを経験し、「人は一人でしかない」「生きることは悲しい」という音を響かせる作家が書いた言葉だからこそ、このフレーズは切ないほどに美しいと思う。

「この本は、すぐに役立たなくてもいい。すぐ役立つものというのは、すぐに役に立たなくなるということでもあるから。後になって非常に大切になるもの、できれば後で思い返すものであってほしいと思います」

役に立つか、立たないか。心の糧は、そんな尺度でなど測れない。若い人たちはもちろん、かつて若かった人たちも、ぜひ手にとってみてほしい。きっと、少年の日々が胸のうちに蘇ってくる。その日々は決して天真爛漫なだけではなく、切なさや哀しみを知り、人が孤独であると思い知らされた最初のときであったことも。そして、すべてはそこから始まるのだ、ということを、新鮮な感動とともに思い出すはずだ。


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