days
2006年07月22日(土)  難しく物事を考えてみる
『あわれ彼女は娼婦』というお芝居を観にいった。

三上博史と深津絵里演じる兄妹は、禁断と知りながらも愛し合ってしまい子供を妊娠してしまう。だけど、彼らは結婚することも出来ず。やがて谷原章介と深津絵里は結婚してしまうのですね。(カモフラージュするためでもあるのか)。プライドが高く傲慢な谷原章介は、深津絵里の妊娠を知り、かつその相手も知ってしまう。

--ネタバレ

全てを知ってしまった谷原章介は、三上博史を殺してやると怒りに身を震わせるわけです。三上博史を手にかけるべく谷原章介によって画策されたあるパーティー。妹の部屋で三上博史は死を覚悟し、また妹や自分、愛し合う絶望を感じて、自分の手で妹を刺し殺す。剣の先に妹の心臓をさしたままパーティーに姿を現し、愛しそうにその心臓を舐め、谷原章介やその場にいた客をも殺して、やがて谷原章介の侍従に三上博史も刺され死んじゃうと。そんでもって、自分が死にいく様に納得しながら、刺した侍従に対して「最後は自殺しようかと思ったんだけどね。その前に俺を殺してくれてありがとう」みたいな顔して、このお芝居は終わり。

--

別に理解ある人間であろうとは思っていない。でも、古典のヨーロッパのお芝居であれば、こういうストーリーになるんだろうなとは想像がつく。
愛し合うことを止める理由は、古今東西あるわけないし、また、きょうだいで愛し合ってしかももうすぐ子供が産まれるとなれば、(誰かに殺されるか殺されないかという以前に)死を覚悟することも難くない。そして、愛しい人を自ら殺し、またその人そのものを征服して独占したくなる気持ちもわかる。(端から見れば猟奇的とも思われるのもわかる)
心臓を(または、腹の中にいる胎児を)取り出して掲げる行為は、当事者でなければエグイの一言でしかないけれど、全くあり得る事だよねとは思える。
なので、あんまりこのお芝居に関しては面白くもなく、衝撃的でもなかった。

もちろん、そのお芝居を熱演している役者さんのことを言っている訳ではない。

面白くなかったのは、
・近親相姦であること
・ありがちなストーリー
だったこと。

※※でも、どうしてこのお芝居をやろうとしたか、という動機は「近親相姦のみを取り上げ、近親相姦を見せているお芝居」ではなく、「禁断を打ち破ろうとするふたりの姿を見せようとしている」ということだそうなので、近親相姦とはあくまでストーリーではなく設定、ということになるそうだ。※※

近親相姦のお話というのは予備知識でわかっていたことなので、別にいいんだけど、それを目の当たりにしたときあまりにも自分には理解できなかった、という点がやっぱりある。
このお芝居の作者(演出家)が何を言いたかったのか、全然わからなかった。
その当時は、センセーショナルな話題なのかもしれないけど、現代においてはあまりにもいろんな出来事が起こるので、近親相姦と言っても(他人事であれば、本人が当事者でなければ)「そういうのもあり得るんじゃない?」で片付いてしまう。少なくとも私は。
それに、今は親が子供を殺して子供が親を殺して、まったく面識も無い人間に殺される時代なので、近親相姦になってしまった兄が妹を刺し殺しても別に驚かなくなったのだ。(そこに愛情というエッセンスがあったなら、余計に)

で、何を言いたいのかというと、
本を読むにしても、映画やドラマを観るにしても、共感することをしなければ、ちっとも楽しめないということだと私は思うのです。
でも、私の言う共感とは、「妹の身になってこの芝居を見てみる」というわけではない。もちろん、兄を演じた三上博史でも婚約者の谷原章介でもなく。誰かに自分を合わせる共感が必要だというわけではない。

共感の裏には、いつも「醒め」がある。
「はいはい、そういうこともあるよね」という『醒め』がある。
寛容に状況を飲み込んでいるように見せかけて、実は醒めているのだ。
近親相姦はもはやタブーじゃない、などと言っているけれど、実はそこにリアリティは無いのだ。「他人事。自分の事じゃないし」で終わっちゃうのだ。
当たり前のことだけど、お芝居の中の人物やストーリーは他人に起こった出来事を、客観的に客席で見るものだ。それがお芝居であり映画であり本だろう。

世界の中心で愛をさけぶ、が一時ヒットしたけれど、何故たいていの人が(皆がとは言わない)あれを見て涙を流すのか? あの映画や本を見た人に、あれと同じような経験はあるのか? 高校生の頃、恋人を白血病でなくした経験を持つ人は少ないだろう。類似的な経験を持つ、と範囲を広げたとしても、たとえば私の友人知人の中にはひとりもいない。
なのに、どうして感動したという人が多いのか。
健気で一途なサクタロウとアキに心を打たれたからだろう。愛する人を亡くすことが最高に悲しいからだろう。アキの死からサクタロウが立ち直ろうとする姿に感動するからだろう。
だから結局、同じ経験をしていなくても、人は心を打たれるし涙を流すほど感動するんだろう。それが私は共感しているということだと思う。
彼らはサクタロウやアキにはなりきってはいないが、彼らの中に在るポリシーのようなものの琴線に触れたから、感動したのだろう。

自分の中のポリシー(これは許せる許せない、受け入れられる受け入れられない、好き嫌い)とか、価値観とか嗜好によって、アウトかインか、ということを感じられないと、何にも楽しめないんじゃないかと。あとは、想像力ね。(これはある種、登場人物になりきるという方法になってしまうのかもしれないけど)
私はそれを共感する、ということにする。

だから、醒めてちゃダメなんだよね。
はいはい、そういうこともありますねー、と嘘の寛容さを見せても仕方ないのだ。
自分自身のアウトラインとか、心の中の整理をしていないと、アウトかインかなどとジャッジすることもできないし。そして、もちろん、アウトかインかというのは、私個人のごくごく個人の感情である。これは逃げ文句であるつもりはないし、例えばこのお芝居を醒めもせず自分をしっかりさせて観たとして、その結果として「アウト」であったとしよう。「なぜアウトなの?」と聞かれ「こうだから」と説明したとしても、なぜだかわからないという人には、それ以上の説明の仕様が無い。
語弊があるのかもしれないが、尊重とでもいうのだろうか、それは。
では、醒めと尊重の線引きってどこなんだろうか。
(他人事・そういうこともあるんじゃないのと醒めていることと、これは他人の意見・これは私の意見とわけること)

段々と、難しくなってまいりました。
Will / Menu / Past