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2006年02月13日(月)  会話をする必要性
私は誰かとお話しすることが好きだ。

対話するうちに、その人の輪郭がぼんやりと見えてくる瞬間が好きだ。
自分の中にある、これまで出会った人たちのデータとデータを繋ぎ合わせたり組み合わせたり展開させたりしながら、この人はどんな人だろうかと興味を持つことが好きだ。

相手に慣れてきて輪郭がはっきり見えてきても、その人のすべてを理解しきるまでにかかる時間は、きっと私が死ぬまでの時間をもってしても、理解することはないと考えている。

私は、以前の仕事で営業職のイロハを学んだ。
イロハの中で自分なりの仕事のスタンスを知り、社会を知った。
そして、今の仕事の中で人と人とのビジネスを越えたコミュニケーションの心地よさを知った。同時に、重たさを知った。邪悪な意味で言えば、コミュニケーションの中で計算高く人を誘導することを知り、人を支配できることを知った。
私はたぶん、言葉で人を傷つけることが出来るし、人を惑わせることが出来る。相手の弱みがわかり、相手の愚かさや矛盾に気づくのが早いと思う。それと同様に、言葉で人を安心させることが出来るし、人を安定させることが出来る。相手の良さを相手に知らせることが出来る。
何を言うかと言われても、その点においての自分の能力は周りよりやや優れていると、自分で思える。それが仕事をする上での私のプライドでもあるからだ。

けれど、仕事以外での場面で、私は誰かを支配することも出来なければ、惑わすことも出来ない。なぜなら、その場に居る私は、私そのものであるからだ。そして、支配したり惑わす必要性もないからだ。
誰かと会話をすることは、自分を豊かにさせることだと思う。
支配も戸惑いも勝ち負けや損得もなく、誰かと対等にお互いが同じ分だけ会話できるという関係性は、私にとって水のようで空気のようなものだ。
その必要性は、周りの人間よりも私はやや高いと思える。それこそが私の性質であり、私そのものである。

その必要性の高さは、ときに私を苦しめることがある。周りを戸惑わせることがある。
けれど、その苦しみはきっと私が私である以上、一生付き合っていかなければいけないだろう。
その付き合い方を、今考えるときなのだと思う。
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