days
2004年08月27日(金)  再会の理由、女性としての理由
以前好きだった人に再会する理由。


私はいま25歳だ。彼が知っている私は21歳で、あのときからたった4年しかたっていないというのに私はあの頃から比べて大きく変わった。変わっていないようでやはり何かが変わっている。目に見えるもの見えないもの、すべてひっくるめて。その変化は自分にとって望んだ変化もあれば、自身でさえ失望してしまう変化もある。得たものもあれば失ったものもあるというわけだ。

それを彼に見てもらいたいと思った。彼が25歳の私を見て何を言うか知りたかった。
どう変わったか、どう変わっていないか、どこへ向う人間になっているのか、彼の目を借りて私は知りたかった。自分を知りたかった。彼の目を私は信頼しているから。

そして、25歳という年齢をひとつの節目と考えれば、今後の私は若さで生きるのではなく、自分の身の裡が密になり年輪が刻まれるように、これまでとは違う生き方をしていかなければいけない。
たとえばそれは、“密なる生き方”とか。
歳を重ねることが女性として悲劇だとは思わない。ただ、“女の子”としては憂うことかもしれない。私は女の子ではない。ただ、若さとしては私の年齢はその頂点に立つ年齢だと思える。そしてたとえば“密なる生き方”の頂点を目指すために、今の場所から一旦、下降せざるを得ないかもしれない。若さからの下降。
他人と比べて、私が若くて美しいかそうでないか、という話しではなく、これまでの私、これからの私、その年齢、若さ、密なる年輪、それをひっくるめると私の“今”は、これから二度とたつことの出来ないある点に立っていると感じる。

21歳の私を知る彼に、これから先二度と立つことのないある点に立つ25歳の私を見せたかった。これからまた何年後に会えるかわからない。もう会えないかもしれない。次にあったときはおばさんになっているかもしれない。おばあちゃんになっているかもしれない。今は今でしかないのは当たり前なのだけれど、「女性として」ということを考えると、今はとても貴重で、今はたった一瞬しかない“今”であるような気がしてならない。“25歳であることの今”

私がもし、40歳、50歳まで生きて、25歳がひとつの節目だと言ったことを思い出したら、「25歳も29歳もたいして変わらず、どちらの年齢も同じくらい幼くてまだ若かったわ」なんて思うかもしれない。25歳の節目などそれほどたいした意味も無かったと、後になって振り返るとそう思うかもしれない。けれど、20代後半に差し掛かった私に、長いスパンで「女性としての自分」を客観視することは出来ない。女性として、大切な意味がありそうなこの時期を、そして何かを予感させる今の年齢を、ぼんやりと過ごすのは私は少し勿体ない気もしている。

だからこそ、今だからこそ、私は会いたいと思った。

今が24歳だったら26歳だったら、もしかしたらさほど会いたいとは思えなかったかもしれない。

私は多分、25歳を過ぎればこれまでとはシフトを換えて女性の生き方を探すことになるだろう。
失われる最後の瞬間を、今この輝きが途切れる前に、とても信頼している人に見せ付けたいと言うことではなく見てもらいたいと思うことは、女性としてエゴだろうか。傲慢だろうか。思い上がりだろうか。
Will / Menu / Past