日記
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| 2004年03月10日(水) |
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もう逢えない友人の話 |
数年前、友人がひとり亡くなりました。今日は彼の命日です。彼は脳性マヒという生まれたときからのハンデをかかえていました。
彼と出会ったのは、学生の頃、もう20年以上前になります。最初はボランティアとして、障害者の施設に行って、たまたま一緒にでかけたことが始まりでした。
その彼が、どうしても施設を出て、自分でアパートを借り、街で暮らしたいという希望をもっていたので、たくさんの介護者が彼を助けるために集まりました。私もそのひとりでした。
最初から妙に馬が合うというか、なぜだかとても仲良くなりました。介護のありかたや、障害者とのかかわりなどを熱く討論しあう介護者の輪の中で、不真面目な私が、彼には気楽な相手だったのだと思います。
だって、考えてみてください。彼はたしかに障害者ではありますが、なにかの運動や主義主張のために24時間生活しているわけではありません。たしかに、そのハンデと社会の狭間で、ある種シンボル的に扱われることも、本人が頑張ることも必要となるでしょう。でも、介護しにきている学生にとっては、その介護時間だけが障害者問題を考える時間となるでしょうが、24時間介護を必要とする彼にとっては、24時間大真面目に生きていくのはつらいものがあります。
男性の介護に女性がつくということ自体、普通はあまりないことですが、私の場合はどうしても人数が足りなくて、ご飯をつくったり掃除したりするだけということで動員されました。そして、結局夕ごはんをつくるついでに、酒盛りして楽しくさわぐという、フトドキな不真面目な介護者でした。
トイレの介護も、最初こそ戸惑いましたが、看護婦さんになったつもりになれば、とくに抵抗はありませんでした。お互いさらっとしたものです。もちろん、20歳も上のおっさんだったからってこともありますけれどね。(笑)
数年後彼が、同じように脳性マヒの女性と結婚したときには、女性の介護者がかなり重宝されました。普段は男女2人の介護が必要なのに、私ならひとりでよいのですから。
ただ、ちょっと悩んだのは、いわゆる夜の介護です。結婚すれば必ずそうしたいであろう夜の生活も、やはり介護なしでは不可能な彼らにとって、唯一それが可能な介護者は私だけでした。完全に黒子になりきるにしても、私も含めて結婚がなりたっている感があり、責任重大でした。そういう介護もやっているということは、友人にも衝撃をあたえそうで、しばらく内緒にしていました。
週に1日、毎週土曜の夜。勤めている私にとっては、結構HARDでした。結婚はしていましたが、幸いまだ子供がいなかったので、可能だったと思います。
結局は、私が流産してしばらく行かなかった間に、おふたりは離婚してしまったので、その後介護に行くことはなくなりました。そうこうするうちに、今度は私が妊娠し、普通の介護のローテーションからも外れました。でもその後も電話友達としてずっとお付き合いは続いていました。
離婚を聞いたとき、なんだか自分が離婚の原因のような気がしてとても落ち込みました。どうしても黒子になりきれなくて、彼女を傷つけていたのかもしれないと。たとえそうであっても、どうにもならないことだとわかっていたんですけれどね。
彼が病気で亡くなったという知らせが来たとき、あまりに急でうろたえてしまいました。20数年付き合っている友人は、考えてみればあまりいないんです。学生時代の友人は、疎遠で年賀状ぐらいのおつきあい。しょっちゅう電話しあう友だちは、なんと彼ひとりだったことにあらためて気づきました。
障害者であろうと、健常者であろうと、男であろうと、女であろうと、年が20歳以上も離れていようと、友人としかいいようのない、貴重な存在。生きているときは、度々このエロジジイと思ったり、クソオヤジとののしったり、ケンカをしたりもしましたが、お互いに気を許した存在だったから出きたこと。
命日がちかづくと、いろんなことを思い出して、なつかしくてなつかしくて、ちょっぴりさびしいです。
追伸 昨日は、森光子さんの特番をついつい見てしまいました。最初は、ジャニタレントがたくさん出そうなので、かなりミーハーな動機で見ていました。
でも、『放浪記』の初舞台にいたるまでの、下積みの時代の話や、初舞台のあとのしずまりかえる客席、爆発するように起きた拍手のエピソードのあたりから、すっかり森さんの人生にひきずりこまれました。
もちろん、森さん舞台の初日に対するジャニタレントの寄せ書きの中に発見した、剛さんのメッセージもストップして読みましたよ。ものすごく剛さんラシイ。(笑)うらやましいですね、光子姫。
(でも、エスコートする剛さんは、あんまりみたくないな…とも思いました。)
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