2011年09月22日(木)
僕のあけびをむいてくれ


 いろいろ収拾しなくちゃいけないものもあるんですが、とりあえず、できたものから提出します。
 タイトルどおり、ファントム観劇感想です(え?どこがタイトルどおり?)(まあいつものことだ)




[花組メモ:壮キャリエールの話]

 ぎりぎりねじこんで行ってきました、ファントム。そう言えば前回のファントムもしごとまつりで行けなかったな……そのときと今のお客さん一緒だな、とかそういう符号はさておき(笑)。


 幕開けの「エリック・7歳」にも驚愕したのですが、まずは壮マト部(壮一帆部創部準備委員会)としては、まず壮キャリを語っておきたく……いや、壮キャリが予想の斜め上をいく仕上がりでね……


 さて、前段として。初演しかみていない「ファントム」ですが、私はあまりこの作品が好きではないです。もっというと、キャリエールが好きじゃない。あの銀橋の場面が感動する場面として出てくる度にずっとひっかかっていたくちです。
「お前はすばらしい歌手になれたはずだよ」
というその言葉がどうしてもダメで。ああ、結局キャリエールはエリックの「顔」受け入れてはいなかったのだな、と思ったし、それなのに感動お涙ちょうだい場面になるのがどうにもね……。
 なので壮さんがキャリエールと決まった時、そうやって納得できない役であるキャリエールを壮さんがどう作っていくのか非常に楽しみだったんですね。そう好きじゃないのに楽しみだったの(あなたどんだけ壮さんの事好きなの)。

 さて。一言でいうと、壮さんのキャリエールは愛情の前に義務のひとだったなあと思いました。

 最初、自ら率先してエリックを「ファントム」(異質のもの)として扱うキャリエールに違和感があったんですね。いろいろ言ってはいても、この物語はキャリエールのエリックへの愛情が前提で成り立つとわかっているので、それなのにエリックを「異質」として扱っているキャリエールに愛情が見えにくかった。演技と声が落ち着きすぎたようにも思いました。ああ、また壮さんまたお得意の「真意が見えない」腹芸だなぁと、正直思ったんですね。
 が、それが変わったのが、回想場面で、子エリックと楽しそうに遊んでいた若キャリをみて「……?」と。あれキャリエールはエリックの「顔」平気なの?と。

 そこから遡って思い当たったのが、エリックが生まれた時のベラドーヴァに対して
「何よりもつらかったのは彼女が生まれた子供に至上の美を見いだしていたことだった」とキャリエールが言っていたこと。
 そして自分の顔を見てしまったエリックに「少しでも楽になれば」とキャリエールが仮面を渡したということ。
 でも、そこでよみがえるのはやっぱりエリックと楽しそうに遊んでいた(エリックの顔を気にしていない、あるいは受け入れている)若キャリで。
 やっぱりキャリエール自身は、エリックの顔を認めて受け入れて愛していたように思える。
 だから、彼が受け入れられなかったのは、そのエリックの顔に対する「他者の評価」なんじゃないかと思ったのです。自分ではなく他者の。
 それは前述した通りベラドーヴァ(他者)が評した「美しい」であり
(キャリエールは「醜い」と思っていた。その上で愛していた)
 エリック(他者)が自分自身を評した「海の化け物」であり
(キャリエールは決して「化け物」とは思っていなかった。愛する息子だったから)
 そういう自分とは違う他者の評価が受け入れられなかったのではないかと。

 そしておそらく、キャリエールが最も恐れて受け入れられなかったのは
「この化け物を受け入れないであろう社会」
(キャリエールが愛するものを受け入れない社会)
 という事実なんじゃないかなと。

 繰り返しますが、キャリエール自身はエリックの顔を認め受け入れ、そして愛していた。
 けれども認め受け入れ愛しているものを「異質」として扱うキャリエール。「異質」なものは疎外という形で社会から遠ざけることができる。そうすることでしかエリックを守ることができなかったんじゃないかな、キャリエールは。

 少し脱線して、夏コミで壮マト部プチ会談をしたときに、先にムラで見てきた吉野さんが未見の私に
「壮さんのキャリエールだったらエリックを社会にちゃんと出して守って育てることができただろうに」
 って言っていたのが印象に残っているんですが、同じ「社会」っていうキーワードが出てきたので、あながち私の感想も見当はずれではないのかな……と。

 父の義務は社会へ子供を適応させること、あるいは社会から守ること。
壮キャリエールの場合は後者がいきすぎて、「社会から隠蔽する」になっていたような、そんな印象でした。
 だから愛情よりも義務が先立つ。そうやって愛よりも義を重んじる壮キャリはまさに私が考える壮さん(武士道のひと)だったなあ、そういうキャリエールがあったのかと、と客席で唸ったものです。

 そうして「社会」からの隠蔽が終わる、あるいはキャリエールが「社会」からの呪縛(!)から解放される。それはエリックが社会との繋がりを完全に断つこと。すなわち「死」でしかなかった。
 キャリエールがファントムに仮面を渡した瞬間から、社会からの隠蔽が始まり、その時からこの「オペラ座の怪人伝説」の終わりは「怪人の死(怪人が社会から断たれる)」しかなかったように思います。

 
 もしベラドーヴァ亡き後、エリック(キャリエールからみた他者)が自分の顔を見なかったら(そうして化け物という評価をしなかったら)、そしてその嘆きがオペラ座(社会)におそろしいと評価されなかったら、そうしたらあの地下で二人はいつまでも社会(他者)との関係を持たないままで幸せに暮らせたんじゃないかな……だってキャリエールはエリックを認め受けいれ愛していたんだもの。
 けれどもそれができないことは、誰よりもキャリエールがわかっていた。だから彼は社会とエリックの関係を「隠蔽」という形を選んでしまったんだな、と。
 「オペラ座の怪人伝説」はキャリエールが作ったものに他ならない、という思いを強くしています。


 そうして私が一番ひっかかっていた銀橋の場面。あそこはまもなく迎える「社会からの断絶(死)の予感」を前にして、頑なに愛情より義務を優先してきたキャリエールの、愛情があふれ出した場面に思えたのです。
 で、不思議とあの「お前はすばらしい歌手になれたはずだよ」がイヤじゃなかったんですよ。そうやってエリックの顔を認め受け入れ愛しているキャリエールだって、わかっていたから「ひどいかおだと思った」も、ひどい言葉とは思わなくて、気の置けない親子のからかいあいみたいだった。なんか「お前は本当に勉強ができないな、なんだこの成績は、でも父さんはお前の誰よりも優しいところをしっているよ」をふまえた上での「バカだなぁ」みたいな?
 あるいは、デブとかハゲとかの肉体的欠陥のひとつにすぎない、たまたま持った欠点にしかすぎないものとして「エリックの顔」をひどいと言っている軽さというか。
(たとえたのにわかりにくくなるのは六実仕様です)


 パレードのキャリエール(いや壮さんなんだけれどあえて)の晴れやかな笑顔で「お前は愛しい息子だ」と歌いあげるのが、その銀橋からつながって、ようやく社会からの呪縛から説かれて、義務から解放されて、ただ愛情だけをエリックにうたうことができた、という風にしか見えなくてね……いや、パレードだから晴れやかなのは当たり前なんだけれど、ずっと義務を果たそうとしていた父の愛情がばーんと爆発していたみたいでね……思わず、落涙。


 たった一回の観劇で壮キャリエールからこれだけの事を読みとりました……私のせいじゃない、壮さんのせい……たぶん……。これにエリックの視点をからめながら、さらにはクリスティーヌの事もからめたいのですが、さすがに今回それはかなわず……。が、やっぱり壮さんの役作りはすごく好きだと思ったし、義の人・壮一帆(六実しらべ)らしいキャリエールだったなぁと。



 久しぶりにがっつりかたりました。言うまでもなく、一回しか観ていない私の「※個人の感想です」


 しかし文章をかくちからがおちているねぇ……あとまわりくどくてわかりにくくてすみま、せん……





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