| 2011年03月07日(月) | ||
| 昭和ハンサム、ベストエボシスト | ||
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最近びっくりしたのは、先日「記者と皇帝」を観にいった時、ヅカヲタやって十数年目にして始めて「チケットの時刻間違い」をした事です。しかも客席に行って「あれ、人がいる…これ三時公演だった!!!!」と(お姉さんも気づかずにもぎられてしまったのですよ……)、まあ日付違いとか、勘違いが逆でなくてよかったとか、チケット詐欺でなくてよかったとか、ついったー上で慰めていただきました。TLの人は親切ですね!(沖田口調) 更新は相変わらず滞っていますが、そんな感じに観劇は続けています。贔屓が退団したとは思えん(爆笑)。 そして今日、マトさんが大劇場を卒業されました。愛に溢れた千秋楽だったようで(しんみり)。そしてそれをリアルタイムに感じる事ができる、やっぱりいんたーねっとってすごいなぁと改めて思います。 という訳で冒頭のチケ間違いで思わぬ時間ができたので、ぱこぱこ仕上げたロミジュリメモです。 現在のステータスはムラの初日翌週にみみえっとあみえっと両方観て、この週末にみみえっとを観て来ました。ムラからぼんやりと思ってたことをまとめておきます。 (つうか観劇感想だなんて久しぶり…) [雪組メモ:狂気のロミジュリ] 星組版は生でも映像でも未見なのですが、明らかに「星組とはちがうんだろうな」と思わせる雪ロミジュリでした。つまり雪組らしさがとても出ていた、と。ムラ初見後に星組マスターkineさんと話をさせてもらったのですが、やっぱり雪組版の方がまじめで重い、と。 「憎しみ」が全面にでる場面でも、雪組さんはみんなどこか理知的に見えるんですよね。「憎しみ」という単純な感情ではなくて、その裏に何か理性からする理由が見えるような。雪組になったばかりなのに例えに使ってアレですが、まっつさんなんてそんな理知的代表格にに見えるのにあの言動!ええ?みたいな。 だってたとえるなら、喧嘩したら河原で朝まで殴りあって最終的には友情が育まれるのが星組さんなら、学級会で最後まできっちり話し合うのが雪組さんじゃん!(たとえになってない) あと雪組さんに暴力とかバイオレンスとかが似合わないんですよねきっと(まあそれはそれで、そんな雪組さんが暴力ふるっている姿にこころときめいたのも事実)(ええ?) (ごめん脱線した) 単純に「憎いもんは憎いんだ!」じゃなくてその背景・動機付けを深読みせずにはいられない雪組体質(私の体質的なものだけじゃないと思うのです)。でもその背景・動機が見えない→え?なんで冷静そうなのにこんな事言ってるのやってるの?→「狂っている」ようにしか見えなくてねぇ。 ヴェローナを覆っているのは「憎しみ」ではなく「狂気」、そう思った次第です [雪組メモ:狂気のモンタギュー・狂気のキャピュレット] 両家の「憎しみ」ってちょっと違うなぁと思っています。キャピュレット家が「後天的」に見えてモンタギュー家が「先天的」に見えるんです。冒頭で両ママに説教されているティボベンマーからなんですが、ジュリママに「憎しみ」を説かれているティボさんがすごく理知的になっているのに対して、ロミママに憎しみを説かれているベンマーはちょうふざけ態度じゃないですか「憎しみ?なんすかソレ?」って言いそうじゃないですか。それもまたちょっと 「先天的」をもうちょっと言うと、近親婚姻を繰り返したが為(!)にモンタギュー家は精神的にちょっとアレな一族だという設定です(ええええ何そのいきなりの厨設定)。だから「憎しみ」に対してなんの根拠もなく既に「キャピュレットは敵」という概念が遺伝子レベルで組み込まれているような。これがロミママの言う「おまえたちの中にある黒い炎」。 そう思うとものすごく理知的なまっつベン様が、憎しみというものにつっぱしるのもわかるし、ロミオさんの狂信的なまでの「僕は怖い」もそいういう狂った遺伝子のなせるわざと言えるような。 かたやキャピュレット家は「後天的」。生まれてすぐに憎しみを埋め込まれている。それはもう狂ってしまったモンタギュー家に対抗するための自衛手段な訳ですよ。目には目を、歯には歯を、憎しみには憎しみを。さらに「従兄弟同士の婚姻は禁止されている」もモンタギュー家の近親婚を繰り返して血が狂ったのを観ているから、だからこそ頑なに血を汚さない為に禁止している。当然モンタギュー家との婚姻も相手が敵だからというより、狂った血が入るからあらゆる手をつかって回避する訳です。 マーさんの「ジュリエットを愛しぬけ」とかベンさんのみんなを説得するくだりとか、私はわりと唐突だなぁと感じているのですが、それもまた「狂気」からの覚醒と思えて仕方ないんです。 (設定もりすぎです) [雪組メモ:女たち] そんな「先天的」狂気のモンタギュー家、「後天的」狂気のモンタギュー家でのキーパーソンは両ママだと思っています。 ジュリママがティボさんに言う「キャピュレットの子供が最初に覚える言葉は『憎しみ』」、そしてロミママがベンマーに言う「おまえたちの中の黒い陰をどうすればいい」。 男たちがまっすぐ「憎しみ」に走るのに対して、「嘆くのは女よ」と必ずしも「憎しみ」に染まっていない両ママ。 いやジュリママも相当憎しみを露わにしているのですが、それが長年続いた両家のなんの根拠もなくなってしまった「憎しみ」というよりは「愛するものを守る為、奪われたが故の憎しみ」なんじゃないかなぁと。 男たちはただ「憎しみ」に走り、子供たちは「憎しみ」に生まれる。その負の連鎖を断ち切ろうとしているのが、両家のママに見えるのです。 だから、最後の霊廟場面で両家のママから和解が始まるのに「世界を変えるのは命を生み出す女から」という感じで、私の中ではすとんと落ちるのです。ちなみに両ママに次いで和解しているのは(見間違いでなければ)舞咲・花帆ペアだったりします。彼女らももちろん「女」な訳ですしね。 以上、ロミオとジュリエットがでてこないロミオとジュリエットの感想でした(深読みしすぎる)。相変わらずこんなことばかり考えて観ててすみません。 ロミオとジュリエットって本当はもっと単純な話のはずなんだけどねぇ……(苦笑)。 ただこれはなんとなく自分の中で答えがでていて、そもそも二幕物にのばすのには無理がある題材というか。伸ばしたためにロミジュリ以外も深く細かく描かれることになり、そこに設定が埋め込まれてドラマが生まれているんだけれど、それを収拾しきれていない、よう、な……(収拾し切れてないのは宝塚のヒエラルキー(主演以外のキャラをあそこまではたてない)故なのかな、とぼんやりと思っています。 だからすごく、愛の物語じゃなくて。両家の物語に見えてしまったんですよね、私には。 まあ、そうは言っても観劇中は愛と死の考察、ぶっちゃけあやかぜさきなちゃんばかり観ている人の感想なので(…………)ほどほどにお手柔らかに(何を)。 愛と死の考察はまた改めます(多分)。 あと一回、東宝で観劇予定です。楽間際のあみえっとなので、それまでに復帰してくれることを祈っています。ムラでも見たけど、どっちのジュリエットもよかっただけに、ね。 |
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