| 2004年12月07日(火) | ||
| ショウマストゴーオン | ||
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とりあえず、大真くんはじめ星組84期の皆さん新公卒業おめでとうございます。 そして私も新公はこれで卒業です。いやだってむっさん98年入社だしな!(笑) これで新公の度に休めるかどうかやきもきすることがなくなるのかと思うと心底嬉しいです(そこかよ)。実は大真担になった時、一番愕然としたのは「これから新公の度に休まなくちゃいけないんだ(いつだって休みはトラブルと背中合わせな仕事の人)」という事でした(いや、そんな思いまでして観なくていいから)(ごもっともだ)。 仕事の関係で新公は途中からしか見られませんでした。 よりによって最後にとも思いましたし、でも逆に今までよく観れてこれたなと思います(割と真顔で)。 どちらかと言えば、観れないかもしれない可能性が高かったので、もう観れただけでも十分です、大真くんの最後の晴れ舞台を観れただけでも十分です、とピュアコメントだけを残して〆ておきます。 途中からしか観ていないのにあれこれマシンガるのもどうかと思いますしね。 では。 [以下、深夜放送でお届けいたします(訳:なんだよ!やっぱり黙っていられないんじゃん!)] 本当に途中からしか観ていない人なんだということを(そして黙っていられないかわいそうな人なんだということを)、予めお断りしておきます。 [ふたつの一代記:大真安禄山伝] いやぁ、びっくりした、あそこまで「賤」を全面に出してくるとは。 というわけで、私の見立てでは大真安禄山は本当に「雑胡」と蔑称されるにふさわしい安禄山でした。力はあっても、その生まれの為に権力者のご機嫌取りや媚びへつらいで取り入ることしかできない、哀しい漢。自分を「雑胡」と称するのが謙遜ではなく事実であり、権力者へのご機嫌取りに他ならない漢。一番象徴的だったのが、麻尋しゅん君の皇甫惟明と対立するところなんですが、最初、胡族に対して強硬手段を取れと訴える皇甫惟明のところへ、「何を言うぞ」とばかりに自信ありげに出てくる安禄山。この時点では皇帝の「お気に入り」の自分なら、皇甫惟明の意見を退けさせるだけの力があると思っている。ところが言い争ううちに、私には大真安禄山が麻尋皇甫惟明の「貴」に圧されているように見えてきたんですよ。ここの麻尋君の「貴さ」も半端じゃないんですが、「貴」であるが故のゆるぎない自信、正道にして王道であるという自信、それは「賤」である大真安禄山にはないもの。いや、ぶっちゃけ私ここ大真くんしか観ていないんですが(ぶっちゃけなくても皆知っている)、オペラの外側から麻尋君のイキオイが来ていたもんなぁ……。余談ながら皇甫惟明さんは「貴族」なんだそうです(先日の涼茶で初めて知りました)。正直、涼・真飛・麻尋ときたら、麻尋君の皇甫惟明が一番高かったと思います(ええ?)。 そんな「賤」な大真安禄山なので、自然と玄宗皇帝との関係が異なってきていたと思います。本公だと玄宗は安禄山に「愛いやつめ」で、安史の変で「飼い犬に手を噛まれたー!」なんですが、新公だと玄宗は「雑胡」とへりくだる安禄山を「雑胡」としか見ていないように思えました。貴妃が襲われかけたところで、陳玄礼と李補国に「安禄山に謀反の疑い」と言われての「まさか」が、「雑胡であるあいつにそんな事できまい」という蔑視に見えたんです。安史の変も「所詮は雑胡か、信用するものではないな」という感じに。本人達がどう意図をしているかわからないんですが、これはれおんの持つそれこそ「正道」な部分、そして「若さ」が影響しているのかなぁとも思います。 比べるのは仕方ないですよねよ前置きをして、トウコさんの安禄山は宝塚らしいハッタリとか歌舞伎的な要素が上手く効いて、いい色悪になっていると思ったのですが、大真くんにはそういうハッタリが弱い、けれども弱い分だけ安禄山という人物像が出てきたと思います(贔屓目)。……言ってもしょうがない事なんですが、多分、最初から観ていたらちゃんと私の中では安禄山という人物が繋がったと思います。一本書ける勢いで(えー)。なんというか、ある時代の野望を持った男の立志伝に見えたというか……ああ、ダメだ、考えるとチョーくやしー!(はいはい)。 こんなワタクシが一番ときめいた、思わず「うはぁ!」と声を出してしまった所は、意外にも最後の高笑いでなく(……)、鳥を殺すところです。トウコさんの場合は威嚇というか「何をするかわからない男」「異文化の男」という印象を受けたのですが、大真くんの場合は「何をするのかわかっている男」「その男、狂暴につき」なんです。アレはミスだったのかわからないんですが、トウコさんがやるときは籠に刀を刺す→抜く→鳥がぱたりと落ちる、なんですが、大真くんがやったら籠に刺した瞬間からばたっと落ちたんです。で、大真安禄山はそれをじぃっと見つめていたんですよ、まるで鳥の血があふれ出たのを楽しんでいるように。その間がなんとも怖い。私にはその血が見えた。ひぃ!貞操じゃないです、命の危機ですよ、楊貴妃ちゃんニーゲーテー!(恐慌)……ちなみに大真安禄山がバックから(バック言うな)貴妃を襲うのもまた「賤」であると思います。 そんな「賤」であった男が昇りに昇りつめてついに反旗を翻す。その瞬間が正に栄光、安禄山の絶頂、そしてその後にはこの男にもまた破滅が待っているのだと、そんなことまで思わせられました。「賤」であるが故に、帝王の器ではない。だからこそ、玉座を手に入れたその時ではなく、この反乱の時こそが、安禄山の人生の頂点だった……。 と、これだけ熱く語りつつも、またしても「むっさん鶴美舞夕君をピン撮っていて大真くんの出に気付かなかった」をやってしまいました(爆笑)(詳しくは1914の新公感想を探してみてください)。すみません、反省して再び大真当番に戻ります(いや、君、担でも当番でも何も変わらないやん)。 そう言えば、大真安禄山が鶴美舞夕君の李亀年に「お妃さまとふたりで」と妙に絡んでいたのが面白かった、いや、オペラに同時に入ってきて嬉しかったです。で、原作だか他の本だか忘れたんですが、玄宗皇帝を長安から追い出して入城した安禄山が、玄宗お抱えの梨園の楽団に自分の為に演奏するよう命じたら、誰も曲を奏でなかったっていうエピソードがあるんです。それがこの2人で、すごいわかりやすく想像できたんです。うまくいえないなぁ……大真くんの安禄山にはそういう「いやしさ」があって、それが私的にはすごく納得できる流れだったんです。 というわけで「梨園」という言葉は玄宗皇帝が梨の植えてある庭園で、楽師たちに手ほどきをしたという故事から生まれた言葉なんです、という何の役にも立たないトリビアを残して撤収します。話が大分飛んでしまってすみません。 あ、あとね(まだ言うか)、最後の挨拶のところ、なんだか落ち着きなく、きょろきょろとしていた。息をふうっとはいたりなんだり……私にはそれが泣くのを我慢しているように見えたんですが?(えー?)ああいう風にして、涙を押さえ込もうとすることが私にもあります。 [ふたつの一代記:ヒヅキ楊貴妃伝] 一番ビックリしたのが、「愛の広場」が全然違和感なくきけてしまったことです。すごい可愛かった、いっそいじらしかった。ああー、檀ちゃんがやるとどうしても円熟ゆえの「媚」が出てくるから、あそこは苦しいんだなぁと気付きました(それはそれで楊貴妃だとは思いますが)。 ちょっと誤解を招くかもしれないんですが、本公の檀ちゃんの楊貴妃を私は「後宮に入ってから玄宗の愛なしには生きられない人形になってしまった」んだと思ってます。人形っていうと表現が悪いんですが、檀楊貴妃は終末に向ってどんどん「ひとにあらずもの」になっていくような、透明感。それゆえに最後の天女姿はすわ「神!」とまで思える、ほんとうにありがたい(手合わせ)……まあこれは後でちゃんと言葉にします。で、新公のヒヅキは最後まで「玄宗皇帝がダイスキな女の子」だったなぁと。最後の天女の場面は、そうやって一生懸命がんばってきた女の子を神様が哀れんで空にあげて(星座にするように)、神にしてくれた。そういう感じがするんです。そう言った意味で、「ひとりの女性の生き様」として、違和感なかった気がします。 とりあえずこれだけ(全然これだけじゃない)。 なんでこんなに必死かと言うと、私、人の感想を読むと影響されちゃったり言えなくなっちゃったりすることがままあるんですよ(笑)。今回は特に全部観たわけじゃないですからね、だから余計にそうなっちゃうかな、と。それでもやっぱり自分の言葉で残しておきたかったんです。いやつうか正直に言え、好きだからだよ、好きじゃなくちゃこんなに時間潰してしゃべったりしないもんもうウザいからむっさんあっちいってつうか寝ろ。 伝書鳩返しも涼茶報告もちゃんと後でやりますので。 |
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