2003年11月04日(火)
※王家に捧ぐマシンガンリレーショナル


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中日王家を観て、そういえば東宝当時に書いた感想が埋もれていたなぁと思い出してひっぱりだしてきたものです。長文上等。
何かの参考になればというか自分用メモです。
2005/02/17 記
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 最初に。私にとってのこの作品のテーマは「愛」でも「平和」でもないです。
 ワタクシが読み取ったテーマは「生きる」「生きつづけること」。
 ……ええっと、多分一般的じゃないですよね?(周囲を伺いつつ)、でも私の中ではコレです。

 と、思ったのもアイーダの描かれ方なんですけれどね(机掴んで乗り出しつつ)(落ち着け)。
 「愛」とか「平和」とか考えちゃうと、私にはアイーダが凄く自分勝手なヒトに見えたんですよ、初見の時に。かおりちゃんに言ったらすごい意外な顔されたんですが、なんだかあれだけ「戦いは新たな戦いを生むだけ」と平和を願っていたアイーダが、ああ男が出来たからもうそっちはいいんだみたいな?(うわー、言っちゃった)途中でサジを投げるというかキレたというか(笑)、「ああわかりましたそんなに戦いたいなら戦えば?」みたいな?……それはそれで、すべてをなげうって愛に生きようとしたアイーダとして理解できるんですが、共感できなかったというか。むしろ初見時ではアムネリス様の方が共感できたんですね。
 でもそう思う自分が作品の意図を無視しているのはわかっていたので、「もしかして私大真サーチにうつつを抜かして肝心なトコ見てない?(笑)」「もしかして自分キムシン作品嫌いだから、テーマを無理矢理曲解している?」とまで思ってみたり(KIMI考えすぎだから)。
 そんなこんなで2日目に観劇した時、ぱっと「ああ、テーマは『生きる』って事なんだなぁ」と。そう思ったらひとつひとつの事がスゴイ自分の中に響いてきちゃって、観劇しながら「ううううう」って腕組みして唸る勢いで。
 アイーダが訴えているのは「戦いは新たな戦いを生むだけ」と言う「平和」とか、ラダメスとの間に育んだ「愛」の素晴らしさでも無く、ただ「生きること、生きつづけることが一番大事な事」なんじゃないかなぁと。
 戦いとか、国の利権とか、王女の身分とか、そういう事の前に「人が人として生きていくこと」が何より大切だと、そういう命の尊さを本能的に悟っている女性なんだと。なんというかアイーダにそんな「命のほとばしり」みたいなのを感じたのね。人が生きていくこと、自分が自分らしく生きていくことの前で、人の命を奪ってしまう戦い(しかもそれが繰り返されること)はアイーダにとってバカバカしいぐらい無意味なことに映っていたんじゃないのかと。
 で、この物語の中でそんな風に生きているのはアイーダだけなんだよね。むしろアイーダだけが本当に「生きて」いると言ってもいい。誰もが何かの為に生きている、自分の為に生きていない。「個」として生きる事が許されなかった世界というか時代。アイーダを個人主義っていうとなんだか安っぽい言葉なんですが、誰もアイーダの信念は理解できなかったじゃないですか?「あなたは変わった」と責め立てられるシーン、あれは「自分の為に本当に生きている」アイーダと「何かの為に生きている」世界との格差というか。とにかくあの世界でアイーダは孤独に見えて。誰もアイーダの信念は理解しないし、なんだかすごくアイーダという女性が「浮いて」見えたんだよね。それでもアイーダは訴えつづける「生きていく事が、生きつづける事が」何よりも大事なのだからだと。
 否定しているのは、戦いそのものではなくて、「生きる」事を簡単に奪ってしまう戦いであって。
 どんな状況下にあっても生きつづける事が大事だから、国の利権とか、王女の誇りとか、そんな事は些細な事でしかなくて。
 生きつづけること。そして生きて命を繋いでいく事が何よりも「生きる」ことなんだと。
 アイーダは女性だから。女性は母となるから。


 ラダメスは、そんなアイーダの「命のほとばしり」に触れて、愛したんじゃないのかなぁ。
 アイーダに出会うまではラダメスもまた「本当の意味では(自分の為に、自分らしくは)生きていない」人間で。だけどラダメスなりに生きる意味についての逡巡があって、戸惑いが、虚しさがあって。それがアイーダに出会って世界が変わったというか、本当の意味で生きていく事を知ったというか。アイーダを愛する事がラダメスにとって生きる事になって。「誰がどう言おうと私は嘘をつけない」と、自分らしく生きていたアイーダに触れて、ラダメスも「火あぶりにされても嘘はつけない(だっけ?)」と自分らしく生きようとする。……多分、アイーダに出会わなければラダメスは、そのままアムネリス様と結婚して、ファラオになっていたんじゃないかなぁと。戦士としての最高の栄誉を得て、地位を得て、国の為に生きて。ラダメスがエチオピア解放を訴えたのは、どう見てもアイーダの気を引くためにしか見えないんですが、本当はラダメスはラダメスなりに「生きる」事の意味を掴んで、「生きつづけていく」事の大切さを訴えて、アイーダの言う「戦いは戦いを生むだけ」に共感して、自分もそう思うようになって。アイーダが「変わった」と責められて孤独であったように、エチオピア解放のシーンでは、ラダメスとアイーダが、周りとは違う「生き方」をしているから孤独が浮かびあがる。それでもふたりは自分らしく生きつづけることをのぞんで、ふたりでふたりらしく生きていくことをのぞんで。愛という言葉より「一緒に生きていこうとしている」感じがした訳でして。


 最期の石室で、アイーダと再会したラダメスが「あなたは生きつづけていると思っていた」って驚きと共に言うじゃないですか。ラダメスにとってアイーダが「生きつづけている」事が希望であった訳で。アイーダが生きつづけている事でまた自分も「生きつづけられる」と思っていて。
 でもアイーダはラダメスの元に来た。そして「生きる」「生きつづけること」を信念としていたアイーダが「生きていることも死んでいたって関係ない」みたいな事を言うじゃないですか。なんだろう、「生きること」
「生きつづけること」すら乗り越えてしまった「愛」というか。私はやっぱりそれまでのアイーダに「命」を感じていたから、それすら乗り越える「愛の偉大さ」に凄くキました。アイーダにとって生きることは愛する事、愛する事は生きること、ラダメスを失ったアイーダは「本当に生きる」事はできない訳で。だからラダメスの元に来たのは当然で。そして「生」と「死」を乗り越えたアイーダは「祈り続けること」が「生き続けること」と思ったんじゃないのかなぁ。
 「愛」の為に「死」選んだのではなくて、「生きる」為に「死」選んだんじゃないかなぁと……なんというか、その壮大さに私はひどくいたく心打たれたんですよ。


 2人が死んだ後、アムネリス様が戦いを放棄する事を歌って。それは虚しいことかもしれないけれど、「私が生き続けている限りはエジプトは戦わない」と歌う。2人は死んでしまったけれど、アムネリス様はここで「生き続けて」いくんだなぁと思ったらぐわっと来たのね。
 愛するラダメスを失っても、アムネリス様は生き続けなくてはならない、というか生き続ける事を選んだんじゃないのかなぁ。それはファラオとしてというより、やっぱりアムネリス様は女性だから、女性は母となるから。愚かなことかもしれないと言いつつ、平和な世界を繋いでいこうとしている、命を繋いでいこうとしている。そんな事を勝手に感じたんですね、ああ、やっぱり女性は強いなぁ、と。


 で、冒頭のシーンでウバルド兄ちゃんが「俺は何もわかっていなかった」って言うじゃないですか。ウバルドが、というか彼らがわかっていなかったのは、「生きること、生き続ける事が何より大事」って事が「わかっていなかった」んじゃないかと。ウバルド達が言っているように、悲しいことに虚しいことに、世界から争いが消えたわけではなく、世界は何も変わっていなくて。人は争う事を続けてきた。人間はそれを繰り返し、続けてきた愚かな生き物かもしれない、だけど、だからこそ、生き続けていかなくてはならないのだと、命を繋いでいかなくてならないのだと。アムネリス様がそうしたように、生き続けることに、希望を託して、命を繋いでいかなくてはならない。人の命を奪った自分も、そして自らの命を絶った自分も「愚か」であったということなんじゃないのかなぁ。


 フィナーレで、檀ちゃんが娘役を引き連れて「明日の世界は我らがつくる」と歌うじゃないですか。あの歌詞で、アムネリス様というか檀ちゃんを中心に娘役、というか「女性」のシーンになっているのが、私にとってはものすごく象徴的に見えたんです。




 という訳で、なんというか六実さんは「ああ、生きているって素晴らしい事だよな」と、一人勝手に世間とは全然違う方向で盛り上がって感動して帰ってきたわけです。
 だけど手放しでは誉めてません。やっぱり今回もキムシン相手にダメが出ししたいです(えー?)
 だって、ラダメスが全然描けて無いじゃん(直球)。
 ↑で私が私なりに(勝手に)解釈して、私なりのラダメス観を語っているのですが、かなり自分で埋めました。舞台から感じたことというか、本当はこういう風に感じられたらなぁと思った事なので。これは完全に脚本の罪なんじゃないのかなぁ。ものすごくワタさんの役者としての性質に助けられていると思う。


キムシンはテーマは書けてもキャラクターは書けてない。
そんな事をぼんやりと思いました(何を偉そうに)



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