まめごはんつうしん
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| 2004年05月14日(金) |
1/100の「捨てたもんじゃない」 |
うーんと。 昨日、ここで書いてもいいような長文な内容で「まめごはんのもと。」をアップしちゃってるんですが。 まずはそっちを見ていただいた上で、今日の話、です。
いや、正直な話、かなりショックだったというか、悲しかった。 確かにね、お金はあるにこしたことはない。望むモノがみんなみんな手に入れば、それはそれで嬉しいことだと思う。でも、まめ子の口から
「おかあさんにおはなをぷれぜんとすると、やさしくなってものをたくさんかってもらえるって○○ちゃんがいってたの。○○ちゃんはおはなをあげたら(ほしいものを)2こかってもらったこともあるんだって」
ってさぁ……どうなのそれ。モノをいつもおねだりしても1個しか買わない母はけちんぼで優しくない、と。で、言うに事欠いて
「うちはびんぼうだから」
だもの。オヤとしては禁じ手だったかもしれないけれど、キレました、ハイ。 悪いことに、この○○ちゃんというのが、私が思う「園における困ったさん親子」だったりするわけで……ちょっとね、この子のお母さんといろいろあって、いやな思いもかなりしたので距離を置いているわけですよ。 そんなわけで、ただ言い聞かせればよかったモノを、「私の仕事はどうせ○○ちゃんのお母さんの5分の1くらいの収入しかない」なんて私情はさみまくり状態で「アンタのほうがみっともないぞ」状態になってしまい、帰宅したまめだぁに窘められたわけです。ありがとうまめだぁ、頭冷やしてくれて。 で、結局「もと。」のほうでも書いた 「なになにをしたから何々を買ってもらいたいとか、してもらいたいというのは変だし、そういう気持ちでもらったお花はお母さんは嬉しくないどころか、すごく悲しい」 「たくさんのモノがあっても手に入ったときだけ喜んであとはほったらかし、は悲しい。迷って選んだ1個のものを大切にして欲しい」 というところに落ち着いたんですが。
見返りを求めるのは、基本的に卑しいしみっともない、と。
でも、その前の対応があまりにもまずかったからねぇ……まめ子にはどう伝わったんでしょう。
結局、今朝起きてきたまめ子は、まだ腹に据えかねていた大人げない私が
「このお花、捨てようかなぁ」
と言うと(これだって相当残酷だぞアンタ(°°;)\(- -;)。)
「ははのひのプレゼント(これも別の日ではありますが「もと。」で書いてます)があれだけじゃすくなかったから、おはなつんだの」
って、半泣きで申しておりました。 とりあえず、4歳の子どもが「慌てて取り繕う」なんて器用な真似はしない……よね、と思って、その言葉を素直に受け取ることにしました。 まめ子にしてみれば、悪気はないんだなって思います。悪気がないからつい、蛇に足書いちゃったんだろうなぁ……お互いに苦い思いはしたけれど、「ヒトの痛みがちゃんとわかる」ようになるには、それも必要な過程なんだろうということで、今回の一件はこれで、まめ子に対しては腹に収めることにしようと思います。
で、あの花束は、まだジャムの瓶に挿してあります。 明日あたりはもう、押し花にしないとだめでしょうけれど。
で、そんなことがあってつらつらと考えていたのが
「私はなぜ、今の生き方を選ぶに至ったのか」。
誘われたから、声かけられたから……なんていう受動的な理由、もなくはないんですが(こ、こらー!!! ( ̄△ ̄#) )。 私は、基本的に「人と関わるのははっきり言って苦手」なんですよ。って何度も書いてるからわかるかf(^^;) 。いじめられっ子だった時期も長かったし……って、これはここではカミングアウトだ。ま、今考えてみれば「こんなんじゃいじめられて当然」だった気もするし、今でもそういう性分はあまり変わってない……なぁとも思うので無茶苦茶無理な職業(実際にはボランティア以上商売未満、が正しいのかもだけど)を選んだなぁ、とも思うんですが。(でも、私らの頃の「いじめられ」って、今の同じ言葉ほどの絶望感はない……なぁ、って。なんでだろう?) でも、ここにいて、「人間って捨てたもんじゃない」って思うコトって、結構多い。たまに、私自身が「捨てたもんじゃない」コトに出会うことさえある。 2,3日前だったか、事務局長さんが
「こういう運動をしていると、100回に1回くらいは捨てたもんじゃないな、ということがある」
というようなことを言っていました。
「100回に1回」
を、多いととるか少ないととるかは、その人その人で違う、とは思うけれど。 みんなにわかってもらおうと思うから、つらくなるのかもしれない。たまーにある、気持ちがあったかくなるような出来事が、組織を動かすパワーになるのかな、と思いつつ。 自分からも、人と人を繋ぐ努力をしてみてもいいな、と思う。 こんなこと、今までにはなかった。ちょっとびっくりだ。 ヒトって、私が思うほど「どうせ」なんて存在ではないのかもしれない。
人と人のつながりとか、あたたかい気持ちは、お金には換えられないのではなかろうか? 先日、地域班の仲間と、もの作りをしながら喋ってた(うん、「集団での手仕事」って、井戸端会議に最適だ(笑)。)んですが、その際に「園の困ったさん親子」の話をしたんでした。ある意味、他人にその話をしたのは初めてだったと思うんですが。その時に出た結論(?)が
「収入は多い少ないはあったとしても、どんなことででも得ることはできると思う。 でも、どんなにお金がたくさんあったって、一度失った人間関係を元に戻すのは困難なんじゃないかなぁ?」
そうそう、そうなのよ。 夢をつかむのに、お金が必要なケースは、決して少なくない。それは否定しない。 でも、それを追いすぎてしまうあまり、肝心なものを失ってしまうことも、多いと思う。 今の世の中自体が、なんでもお金でケリついちゃうようなところもあるから、そんなこと言ったって難しいとも思うし、「卑しいよなぁ」と思うようなことがあっても個人の責任だけでは決してないんだけど、それでも思う。 それに気がついてないんだよなぁ誰かさ(以下略)
「お金じゃないものを得る」なんていうと、やっぱりきれい事かもしれないけど。 いや、大切なコトと一緒に少しかもしれないけど、収入があるわけだから。 ラッキーだわ私 ( ̄m ̄*)。
まめ子が、子ども時代に家族だけじゃない、親戚や、それこそ余所の「おばちゃん」たちや……たくさんの笑顔の中で育ってきたというありがたさは、きっとあとになって気づくものなんだろうな、と思います。
モノより、思い出(って、クルマのCMぢゃないんだから(−−;)。)
って。 今日は午前中、苦手だといいつつもオルグを頑張ってきて(また来週頑張る!)、戻ってきてからチラシ作りをして、今日は2時上がりだったのに終わらなくて、まめ子を迎えに行ってからさらに居残りで1時間半ほど残業しました。 で、今日は他の人もみんな外回りだったんで、その間事務所で一緒に仕事をしていた人はいなかったんでした(笑)。
今日みたいな日に話し相手がいないなんて。さみしー。
って、このヒトは仕事しに行ってるんじゃ無かったんでしょうか? (°°;)\(- -;)
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