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2003年07月28日(月) 土井たか子と社民党の歴史 その1

自社ニ大政党が成立した所謂55年体制下初の総選挙(1958年)で社会党は166議席
を獲得した。当時の衆議院の定数は467議席なので、議席占有率は36%である。
(ちなみに自民党287、共産党3、諸派1、無所属12)。
だが実は社会党はこの時が頂点であって、その後「長期低落」の坂道を転げ落ち続ける事になる。
1986年の総選挙では中曽根自民党が300議席を獲得して圧勝する一方、
社会党は史上最低の85議席で惨敗した。
この時は定数512だったので、議席占有率は17%、全盛期の半分以下に落ち込んだわけである。

こうして選挙に何度となく敗北し、その度に「党再建」を掲げ続けた社会党はこの時、
いよいよ最後の切り札として土井たか子を委員長に担ぎ上げる。
土井たか子、当時58歳。
1969年の総選挙に当たって、労組依存体質改善を図った成田知己委員長の要請で
立命館大講師から政治家に転身して17年目だった。
この頃の社会党内部のポジションから言えば土井は、基本的には無派閥であり、
せえぜえ、やや右派寄り中間派と言ったところだったであろう。
今では信じられないかもしれないが、長年社会党を牛耳って来たのは社会主義協会(協会派)という、
マルクス・レーニン主義を信奉する極左キ○ガイ集団だったので、
土井程度でも十分、右派で通用したのである。

こうして、憲政史上初の女性党首となった土井の人気は上々、
そして1989年の参議院選挙ではリクルート、消費税、そして宇野首相の芸者スキャンダルの3点セットで
自民党が空前の大惨敗を喫する一方、土井社会党は目も眩むような栄光を勝ち得る。
何しろ、前回は自民72、社会20だったのに、この時は社会46、自民36議席だったのである。
自民党は地すべり的大敗、社会党は倍増以上である。
この時の「週刊朝日」の表紙を今でも私は覚えているが、
「見たか、自民党!」のキャッチコピーとともに、土井の晴れ晴れした笑顔の写真が
飾られていたものだ。
土井は勿論だが、朝日も狂気乱舞してさぞ「我が世の春」を謳歌した時だろう。
そしてこの勢いは翌90年総選挙でも続き、自民党は海部人気のおかげがものを言って、
何とか安定多数は維持したが、社会党も136議席で久々大勝を収めたのだった。

だが、それも所詮は自民党の敵失と、空疎な「マドンナ・プーム」に支えられた一過的現象。
プームが去れば、相変わらず非現実的な社会党の本質はすぐ露呈し、
91年の統一地方選挙では敗北してしまい、土井は引責辞任に追い込まれる。
代って委員長になったのは真性右派で国対族、そして自民党の金丸の盟友でもあった田辺誠。
だが、ガラにもなく牛歩なんかやったら失笑されるは、盟友の金丸は失脚するはで、
党内からも総スカンされて1年余でクビになった。
その次出てきたのは山花貞雄委員長 ・赤松広隆書記長の二世コンビ
(山花の父秀雄、赤松の父勇は、ともに社会党代議士)。
そしてこのお坊ちゃんコンビで1993年総選挙で議席半減の大惨敗するのである。

この時は、小沢一郎一派たちが自民党を割って出た、例の選挙である。
だが社会党のこの惨敗は、実は小沢ですらも予想外の出来事だった・・・

続く(?)


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