昨日十三で花火を見て夜遅く帰ってきたせいか、 朝目が覚めたのが、なんと7時50分くらい。 日曜日もPCの学校があるので、急いで準備。
ちょうど8時に家を出た。武庫川沿いにある学校に着くと 時間は8時40分。おおまかな距離から計算すると、 どうやら平均時速22〜23kmで走っていることになるらしい。 途中速度の出せない街中や、赤信号、「とまれ」などがある ことを考えると、それなりの速度か。
授業が終わって帰宅。部屋には内側からチェーン錠がかけられている。 彼女を呼ぶと、突如
「どしゃん、がたん、ばたん、きゃー!!!」
自転車の空気入れにつまづいてこけてしまったようです。 しかも打撲してるし。ちょっとひねってるし。
今日の芦屋の花火大会は、部屋から見ることになりました。 ここは御影の高台なので、東向きの窓からそのまま芦屋の花火の様子が 眺められます。彼女が先日買ってくれた「菊姫」を冷やしておいて くれました。「菊姫」は石川県のお酒で、はっきりとした強い味わいが あり、空遊好みです。
予定の時間より少し早く始まった感がありました。 昨日の淀川花火大会とくらべると規模が小さく、またこちらも遠く から見ているので随分こじんまりとした感じに見えました。
距離が離れているので、光速と音速の速度差によるタイムラグが 感じられました。光ってからちょっとしてから音が聞こえます。 雷と同じですね。
淀川花火は色使いとして、黄色や金色が目立ちましたが、 芦屋の花火大会は、緑色と赤色が目に付きました。 まるで真夏のクリスマスのようです。
ひとつひとつがきらびやかで、街としての芦屋の個性がよく出ていました。 降り出したにわか雨にも打ち消されることなく、綺麗な光の花を夜空に 咲かせていました。
庶民的で全ての人に開かれている淀川花火とくらべると、芦屋のそれは 芦屋に住んでいる人を対象にした、自分達の街のアイデンティティーを 再確認するかのような雰囲気。コンパクトで、それでいてお洒落で、 技巧的で。
昨日の淀川花火には、「負けへんで大阪」というコピーがありました。 阪神は2位と去年に比べ、飛躍的に健闘してるし、「負けへんで大阪」 の後に「巨人いてまえや」という大事なコピーもなかったので(汗) これは野球のことではなく、経済的なことなのだろうとわかります。 淀川周辺には中小企業も多いので、先が見えず苦しい中、憂さ晴らしに 花火を見にこられた方もいたことでしょう。
さすがに芦屋にはそのようなコピーはないですが、財政事情が苦しいのは こちらも同じようです。春に芦屋市伊勢町の図書館を訪れたのですが、 雑誌の数が減っていて、「市の財政が苦しいのでやむを得ず雑誌を減らしました」 という内容の貼り紙がしてありました。
そういう経緯があるので、きらびやかな人目をひく美しい花火も、 芦屋の住民の方々が昔の繁栄を偲んでいるかのようにも見えてしまいます。 芦屋は今もいいところかも知れませんが、昔のようなカリスマ的な インパクトを取り戻すことはもう無いでしょうから。 震災と不景気の前にはあの小さな芦屋市にどれだけの都市伝説があったことか。 大きな御屋敷は今も健在ですが、これからは普通の小さなベッドタウン以上 のものにはならないような気もします。それでいいのかもしれませんが。
それに住む場所や家にステータスを求める時代はもう終わったと思います。
自動車についても同じことが言えます。以前クラウンやベンツに乗っていた 人が、経済的で使い勝手が良いという理由でFitやistやMarchにどんどん 乗り換えています。小さい車に乗ってるより大きい車に乗ってるほうが 偉そうという感覚は絶滅しました。
大きな御屋敷に住んでも、高級外車に乗っても幸せにはなれない。 それを日本人の大多数がそれとなく知ってしまった。バブルの功罪の一つ。
また、財産だけではなく家族という幻想も壊れてきたと思います。 これは別に悪いことでもなんでもなく、現実が知られるようになると 幻想は壊れていってしまう。ただそれだけのことです。
もしあなたの手から、あなたが信じてきたものが全て離れていって しまったら、後に何が残るか?
あるいは何もなくなったら、自分はどんな風に感じるだろうか?
考えてみても面白いかもしれません。
エンターテイメントは意図的に作られた幻想です。みんな了承済み。 ミッキーマウスが実在しないという理由で、ディズニーランドが詐欺で 訴えられることはありません。
お金、恋愛、仕事、結婚、家族、幸せ。 これらに関する概念の中にはたくさんの無意識に出来た幻想が含まれていて それが壊されたり揺さぶられたりすると、人々は怒ったり、混乱したり、 犯罪に走ったり、時には自殺さえしてしまうこともあります。
同じ幻想でも、無意識で、社会的、現実的なものと絡み合っているほうが はるかに性質が悪いものです。
幻想を捨てる勇気のある者が、幻想を捨てられるという訳ではありません。 幻想の性質の悪さを理解したなら、臆病であろうと怖がりであろうと その人はそれ以上幻想に餌をやらないでしょう。
結果として幻想は餓死します。
必要なのは、知る勇気だけ。捨てる勇気ではなくて。
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