武ニュースDiary


* このサイトはリンクフリーです。ご連絡はいりません。(下さっても結構です。^_^)
* 引用は、引用であるとわかる書き方なら、必ずしも引用元(ココ)を表示しなくても構いません。
* 携帯からのアドレスは、http://www.enpitu.ne.jp/m/v?id=23473 です。
* 下の検索窓(目次ページにもあり)からキーワードでDiaryの全記事が検索できます。
* バナーは世己さんから頂きました。
* Se inter ni estus samideanoj, kontaktu al mi. Mi elkore atendas vin, antauxdankon!


目次|前の記事|新しい日記


2011年10月15日(土) 釜山のバーティー●追記

釜山映画祭で行なわれた「武侠」パーティーについて書いた
興味深い記事があります。なんと、あの宣伝係、陸三士さんの筆になるものでした。



ピーター・チャンが見た釜山映画祭
10年に1度の大パーティー


釜山映画祭で記憶に残るのは、たぶん釜山ではなく、映画でもなく、
�爐曚躾譴さな��瓩世蹐Α�
釜山映画祭が最初に行なわれたのは、今の海雲台地区ではなく、旧市街の方で、
政府の援助は今とは比べ物にならないくらい少なく、
多くを幾つかの大手の映画会社の寄付に頼っていた。

「当時の釜山映画祭は、それこそ毎日飲んで酔っ払っていた」
と酒を飲まないピーター・チャンが言う。
「毎日映画を見て、仕事の話が終わったら、夜は横町の酒場に押し掛けてパーティーをした。
昼もこの人、夜もこの人、しらふのときもこの人、酔っ払ってもこの人、
付き合う相手はいつも同じ彼らなんだから、友達にならないわけがない」

大勢の韓国の監督たちが、ソウルでは会えるとは限らないのに、釜山には続々となだれ込む。
まるで市が開くのを待っていたかのようだ。

ピーター・チャンはあるバーで、韓国のプロデューサー呉姃玩と知り合ったときのことを覚えている。
ゴードン・チャンと許秦豪が彼を紹介して「This is Peter Chan」と言った。
ピーター・チャンはいわゆる�犧能蕕�ら愛想よくふるまえる�瓩燭舛任呂覆�、
ペラペラおしゃべりすることも苦手だったので、礼儀を守ってまず彼女にこう問いかけた。
「韓国ではどの中国映画が割によくヒットしていますか?」

呉姃玩が答えた。「『ラヴソング』です。あの映画の監督をご存じ?」

ピーター・チャンは大笑いして言った。「Peter Chanがそうですよ」

吴姃玩がまた笑い、「陳可辛」の名を韓国語読みで言った。
そしてピーター・チャンは別れを告げるときになって初めて、
吴姃玩がそのとき既に韓国では大物のプロデューサーで、
「スキャンダル」や「情事」など多くの韓国の大ヒット映画は、
みな彼女の手に成るものであること、
また韓国の若い世代の監督たちを発掘して、
姜圭の処女作を始め、彼らのプロデュースも行なっていることを知ったのだった。

1980年代、90年代は、香港の映画製作が一気に勃興し、またすぐに没落した。
吴姃玩は目を丸くして、ピーター・チャンが�爛瓮ぅ鼻Εぅ鵝Ε曠鵐灰鶚瓩寮洪蠅鮓譴襪里房�を傾けた。
それはわざと大げさに言いたてるのではなく、少なくとも治にいて乱を忘れないということだ
――いかに、当時、新しいうねりによって推し進められる韓国映画がはつらつとした状況にあったとしても。

趣味でも性格でも気が合い、すぐに2人はよいパートナー、よい友人と成り、
一緒に「見鬼」「春逝」「晩娘」など一連の
�爛僖鵐▲献�合作映画�瓩離劵奪蛤遒鮗蠅�け始めた。
その共同作業のスタート地点こそ、釜山だったのだ。
「自国の作品を守ろうとして、もっと強力な保護主義をとったとしても、
ハリウッド映画の猛攻下では、マーケットの縮小は時間の問題に過ぎない。
長い目で見るなら、アジアの力を1つにすれば、あるいは突破口があるかもしれない」

「当時の釜山の印象は、一声かければ大勢がそれにこたえる。
映画のプレミアがあれば、あらゆる監督・俳優がこぞって盛り上げにやってくる。
実に羨ましいし、また懐かしさが湧いてくる。昔の香港もこうだった」
とピーター・チャンは言う。

2001年、ピーター・チャンと吴姃玩らは、香港、韓国、タイの3つの地の監督が
共同して製作する「三更(スリー)」シリーズを開始し、
釜山で�犧G�一番面白かった�瓩噺世錣譴織僉璽謄�ーを開いた。

ホラー映画のパーティーだったが、オープニングはラテンダンスだった。
「その意義なんてのも考えなった。あれの意味は、つまり面白かったということ。
だから今までやって来られたんです」と吴姃玩は振り返る。

「ぼくも、何をやったか、何を話したか、全然覚えていない。
大勢友達がいて、友達がその友達を連れて、旧市街の地味な飲み屋に集まった。
一種言葉にならない、映画人同士の、親密な喜びがあった」ピーター・チャンは語る。

「スリー」の1本目は、ピーター・チャン、金知苦、ノンスィー・ニミブットが先陣を切った。
その後、朴賛郁、三池崇史、フルーツ・チャンにバトンタッチされた。

「3人の監督が3つの物語を撮り、合わせて1本の映画にするという、
やや�犇�引�瓩柄郎酳�法は、実はあまり簡単ではない。
各地の配給会社は自分の国の部分だけほしくて、他の2つのパートはどうでもいい。
だが、我々は全部買えと迫り、全部見ろと観客に迫り、なんとそれが予想外の大ヒットとなったんだ!」

今年、吴姃玩は初めて釜山映画祭で審査委員になり、
ピーター・チャンは自分の作品「武侠」を携えて再び釜山を訪れた
――10月末、「武侠」は韓国で公開される。配給元は、今度もまた吴姃玩率いる「BOM春映画」だ。
彼女は「武侠」のために多額の宣伝費を投下して人を驚かせた。
その中にはもちろん釜山で開かれたこの夜のパーティーも含まれている。

吴姃玩は台上で、「10年前、ピーター・チャンが初めて釜山に来て、
私たちは今でも語り草になるパーティーを持ちました。
10年後、彼は再び釜山を訪れました。
私たちはまた、10年間記憶に残るようなパーティーを開くべきだと思います。
みなさん、楽しんでください!」

パーティーは地下のバーで開かれた。

ソン・ガンホが来た。ピーター・チャンはわざわざ金城武をソン・ガンホに紹介した。
「武侠」のクランクイン前の2週間、金城武は役の感覚をずっとつかめないでいた。
ピーター・チャンは、こう思わず口にした。「ソン・ガンホのようにやってごらん」
そこで、後の�犹誉邯貳妊灰淵鶚瓩�あるのである。

チ・ジニが来た。ピーター・チャンが歓迎の辞を述べて、台から降りたところ、誰かに抱きかかえられた。
振り返ると、チ・ジニだった。
「如果・愛(ウィンター・ソング)」の「天使」役は、もともと別の中国人スターだったのだが、
撮影開始の3週間前に破談となったのである。
チ・ジニは3日の内に上海に飛び、カメラテストを行なった。
語学の才能が高いとは言えない彼は、中国語の台詞は言わずもがな、
英語でのコミュニケーションさえ難しかった。
だが、死に物狂いで暗記し、全ての台詞のアフレコと歌唱を完成させた。

タン・ウェイと金城武がやってきた。
もちろん、40デシベル以上の声が飛び交う場所だと、
金城武はいつもさっとかわして、真っ先にずらかる。
ところが思いがけなく、人波のなかに、ずっと以前、一緒に仕事をした
インディペンデント作品「ニューヨーク・デイドリーム」の韓国人監督
チン・ウォンスクと出会ったのだ。
10数年ぶりの再会に、以前よりも落ち着きを増した金城武も感動を抑えられなかった。
そして、「ラスト、コーション」と「晩秋」が韓国で驚異的な好成績をあげ、
知名度が急騰したタン・ウェイが最後まで残った。
ここで彼女は愛され、彼女もまたここを愛している。

実に多くの有名無名の映画人がやってきた。その中には10年前の旧友たちもいた。
パーティーには内緒のプログラムがあった。
韓国映画に最も貢献した外国人と韓国人に対し、2つの賞が授与されたのだ。
前者は、韓国に数十年駐在している「ヴァラエティ」誌の記者で、
後者は、韓国のベテランメイクアップアーティストに与えられた。
メイク師は事前にこのことを知らされておらず、余興だと思った。
ピーター・チャンは賞品のカップをソン・ガンホにあずけ、
「韓国人の受賞のカップは、当然、韓国人から手渡したほうがいいよ」と言った。
メイク師はすっかり驚いて台上に上ると、
「私は今日、何しに来るのか本当に知りませんでした。たった今まで知りませんでした。
ただ、ピーター・チャンがどんな人か見に来ただけなんですよ!」
――「陳可辛」の韓国語読みを、ピーター・チャンは聞きとることができた。
吴姃玩がバーで初めて口にしていたからだ。

この10年で、韓国映画は急速に下り坂となり、アジア映画の中心は中国本土に移った。
釜山映画祭は旧市街から、より国際化された海辺へと移された。
バーでのパーティーは徐々に海辺のパーティーにとって代わられる。
外国バイヤーが減ったことで、
韓国の映画人もどんどんソウルから釜山まで行くのを億劫がるようになっている。

最も早く香港から中国大陸に渡ったピーター・チャンは、
「如果・愛」「投名状(ウォーロード)」「武侠」を撮り、
「孫文の義士団」「門徒」をプロデュースし……
あらゆる業界間の仕事を一通り経験して、今も継続している。

2011年はピーター・チャンにとって、悲しみのあった年でもある。
深く愛する母がこの世を去ったのである。
吴姃玩は報に接するとすぐにバンコクに飛んだ。

釜山の話に戻ろう。
ピーター・チャンは、岩井俊二や許秦豪と、
3人共同監督で恋愛映画を撮ろうと約束したことを覚えている。
それはまだ果たされていない。釜山の一番良い時代はもう去ったのだ。

「パーティーが面白いか面白くないか、それは人間が面白いか面白くないかだ。
そして一体ぼくらが何を覚えているかというと、実はパーティーなんかじゃなくて、
その年代に、韓国の作品が生き生きとして、アジア映画全体に確信と活力を与えていたことだ。
みんなが釜山に来て、友人に会って、遊んで、パーティーに参加して、酔っ払って……
ぼくは酒は飲まないし、集まりには出ない、社交も嫌いだが、
あのときは、あの10年に1度の大パーティーを開いて、
次の10年に続けたいと心から思ったんだよ」
(陸三士・文 新浪娯楽 2011.10.14)


いい裏話ですよね。



●追記  9:45

チン・ウォンスク監督もつぶやいています。

http://twitter.com/#!/wonsuk

wonsuk Wonsuk Chin
와우! 여기 부산에서 내 첫영화 주인공였던 금성무를 보게 되었네.
잠깐이었지만, 넘 반가웠다. 12년만에 보게 된건가? 참 묘한 느낌이다. ㅋㅋ

10月9日 » wonsuk Wonsuk Chin
Wow! I got 2 catch up w Takeshi Kaneshiro, the star of my 1st film here in Busan.
I haven't seen him in 12 yrs. Overwhelming. #FB
10月9日


   BBS   ネタバレDiary 1:00


前の記事|あさかぜ |MAIL

My追加