武ニュースDiary


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2009年02月16日(月) ピーター・チャン、涙を流す��

さらに続く。


ずっと大物スターと仕事
ジャッキー・チェン、チョウ・ユンファと縁がないのは残念


音楽時空 昔、UFO時代、あなたはプロデューサーもしていましたね。
プロデューサーの責務とは一体なんですか?


ピーター 当時ぼくがやっていたプロデューサーというのは、
事実上は製作業務でしたね。
UFOは19本の映画を撮りましたが、どれもぼくが出資者を探し、
資金が調達できたら1本撮る、というもので、
ぼくは出資者側を代表しなくてはならなかった。
出演者の人選と脚本選びの責任者でしたが、実はほとんどの場合、
オーナーは金がないので、まず前借りをする。
後のことは撮ってから考えるしかなかった。
5本分の資金を前借りして、目の前の1本を撮るということもありました。
資金が足りなきゃ、ぼくの責任でした。

音楽時空 借金したんですか?

ピーター ええ、ものすごくね。UFOが終息したとき、
ぼくらには約2000万元の赤字が残り、5人で割って、1人数百万元かぶりました。
その頃の数百万は、決して少ない額じゃありませんでしたよ。

音楽時空 どうやって返済したのですか?

ピーター 借金取りに追い回されることはなかったです。
ぼくはUFOで何本も映画を撮り、どれにも監督への支払い分はありましたが、
自分の会社ですからね、生活費分を少しもらう以外は、まず会社に入れましたよ。
会社が解散することになっても、ぼくの監督料はなかった。
会社は借金があったので、やめるとき、監督料は1銭ももらいませんでした。
初めから、自分の金は自分のものじゃないと思っていましたよ。

以前は、働かなくても10年ないし8年は食いつなげるだろうと思っていたんですが、
だめでしたね。仕事をしなくちゃ生きていけないので、
すぐにでも始めなくちゃならなかった(笑)。
それでアメリカに行く決心をして、部屋も売り、
その金も一部を借金の返済に当てました。

音楽時空 会社をなぜ解散したのですか? 利益の衝突ですか?

ピーター そういうことはありません。どんな会社だって、
成長後、解散という憂き目をみる可能性はあるものです。
まだみんなが一人前でないときは、集まって1つのことをするのはやりやすい。
熟練すると、必ずそれぞれ自分の方向や理念というものができてくるし、
そのときは会社に借金ができる時期にも当たっているんです。

この債務を誰が負担するのかは、実に現実的な問題ですよ。
当時はちょうど「97」(香港返還)とぶつかっていて、
ある者は中国大陸に戻って頑張ろうとし、ある者はアメリカでやろうと思い、
また、香港にとどまりたいという者もいました。
もちろん、実際もし「97」があんなに早く来なかったら、
ぼくらの解散もあんなに早くなかったかもしれません。

音楽時空 「97」の影響はそんなに大きかったんでしょうか?

ピーター 大きかったですね。当時、香港人にとって「97」は、1つの境界線でした。
あらゆることが、ぼくらにとっては未知だった。
そのころ大陸に行った人間はほとんどいませんでしたから、
状況がわからなかったんです。
ぼくらにとって、「97」は最終期限であり、それ以前に始めたことは、
「97」前に絶対終わらせなくてはならなかった。
それは企業の発展には大きな影響があるものですよ。

音楽時空 しかし、今になって見れば、「97」が
香港の発展に大きな影響を与えたことは、全然なかったんですよね。


ピーター 今になって見れば、全くありませんでしたし、何事も起こりませんでした。


ハリウッドは電影局よりもやりにくい
北京は香港の監督の希望の地だ


音楽時空 スタジオを北京に移した理由は?

ピーター どこでも同じですよ。
なぜハリウッドに行って映画を作らないのかと言われますけど、
実はハリウッドは電影局よりも、もっとつきあいにくい。
ハリウッドの制度は監督をもっとがんじがらめにしてしまう。

中国ではなぜレイティングをしないのか、と、ずっと言われているけれど、
実際は、商業的環境から、たとえレイティングがあっても、
誰も三級片(アダルト映画)は撮らないでしょう。
多分1、2年前だったら出資しようという者もいたかもしれませんが、
日がたてばたつほどわかってきたんです、三級片を撮ろうという人間なんかいないって。
というのは、それを作ったら、大勢の観客を失ってしまう、
進んで監督にそんな危険を冒させる会社はないですからね。

最初、香港で映画を撮り、それから台湾の資金で撮り、
次にアメリカに行ってハリウッド映画を撮り、
はたまた今度は北京に来て撮ろうがどうしようが、
ある制限と規範の尺度の中でできるだけのことをする、ということに変わりはない。
しかし、調整ができた後は、撮れないものなんかないことに気がつく。
100パーセントの自由が欲しいなら、絵を描くか、本を書けばよい。
映画を撮るには必ず資金が必要であり、すなわちそこには圧力があり、
100パーセントの自由は不可能です。

音楽時空 今、大勢の香港の監督が内地に来て映画を撮っています。
多くの昔ながらの香港映画のファンにとっては、
当時の嘉禾(ゴールデン・ハーベスト)や新芸城(シネマシティ)、UFOのような
質感の映画を見なくなって久しいですが。


ピーター ああいう映画は未来永劫、再び現れることないでしょう。
香港の監督のことをいうと、内地のほうが資金が多いから来るのではなく、
香港で撮るものがないからみんな来るのです。
香港というところはそもそも映画産業が立つようなところではありませんでした。
以前、香港映画が栄えた理由は、
非常に特殊な経済的、政治的、文化的雰囲気があり、
それが香港を極めて自由度の高い前衛的な都市としたからです。

音楽時空 その特殊性はどこにありますか?

ピーター 特殊性は、香港が国ではなく、都市であったことです。
大陸は香港に口出しせず、イギリスはなおさら香港にはかかわり合わなかった。
香港は植民地ですから、イギリス人は香港の文化は大したことないと思っていたし、
香港の方でも、そう思われても平気だった。
そこで香港という空間はいっそう自由なものになったのです。

その頃、ぼくらは日本や韓国、マレーシアより、ずっと前衛的だった。
ぼくらには何の悩む種もありませんでしたから。
さらに、台湾と大陸は当時、それぞれの政治背景があり、
そのため、その頃作られた映画には我々ほどの自由はありませんでした。

音楽時空 では、香港映画の没落は、国家の香港への統制が、
今、強くなってきたからなのですか?


ピーター いいえ、今だって口出しはありませんよ。そうでなくて、
問題は中国改革が始まって以降、香港の各方面における重要度が、
アジア全体の中で低くなり始めたということです。
香港映画の輸出先はもうありません。
今東南アジア各国の華僑の第2世代、第3世代は、既に現地人化していて、
もう香港映画を見る必要がなくなっているのです。

香港の600万人が列になって、全員が1回ずつ映画を見たとしても、
1本の映画の製作費を回収することはできません。
100パーセントの人間が映画を見ても元手を回収できないという事態があって、
ぼくら映画を作る人間は、どう撮ったらいいんだろう?
シンガポールに映画産業はあるでしょうか? フィリピンには?
ああいう小さな1地方が、どうして映画産業を持ちうるでしょう。
これはちょうど海水魚を淡水の湖に放つようなもので、生きていけるわけがない。

昔の中国は割に閉鎖的だったので、上海の映画人は香港にやってきたし、
また、香港は、アクション映画によって、中国に代わり
世界に文化を輸出する中継点となり得ていました。
だからこそ、香港映画はあのように、いっとき急激に花開いたのです。
去ってしまった時代は去ってしまったのであり、懐かしむすべもありません。
もう香港映画を見る人はいない。タイも今は自ら映画を作っていますし、
台湾はアメリカ映画ばかり見ている。香港にはこの600万人しかないのです。

ですから北京は、多くの香港の監督にとって発展できる希望の地だと言うのです。
が、北京が香港の市場を奪ったわけではない。
北京がなければ、ひょっとして香港の映画人は転職して
他の仕事をしていたかもしれないでしょう。  (続く)
(音楽時空 2008.12.9)



 BBS   ネタバレDiary   22:30


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