武ニュースDiary


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2006年02月15日(水) 別の差別(金像奨関連)

11日に触れた、譚飛さんのブログの記事です。


金像奨が金城武をノミネートしなかったのは�猜娘錣虜絞稔�

金城武は、今この時代を表す顔のひとつである。
美しさもクールさも、凡俗をはるかに超越している。
ぼくは、ある女性記者が金城武に肩をたたかれて、
興奮のあまり、しどろもどろになっているのを見たことがある
――彼女にたとえ恋人がいようと、彼女にはわかっている。
帰って「金城武とぶつかった」と吹聴しても、
彼が焼きもちを焼くことは決してないだろうと。
彼も他の男たちも、金城武と顔の良さや魅力を競ったり、
どちらが早く女の心を射止めるか比べようなどという考えは、
はなから捨てている。

天津の美人記者、小丁が発明した面白い新語「色女郎」を
厚かましく盗用させていただこう。
なぜなら、大勢の女の子が「如果・愛」を見に押しかけたのは、
みな、金城武という、この�狎犬泙譴覆�らの美形�瓩�
鑑賞するためだったからだ。
この点において、男どもがミシェル・リーや
ニコール・キッドマンを見に行列するのと何ら変わりはない。

色女郎とは、則天武后のことではなく、
21世紀の男好きの若い女性を指す。
この言葉は非常にユニークで、豊かな時代の特徴を持っており、
私が�爐海辰修蠅い燭世い討い觚斥姚瓩隆霆爐鯔�たしている。

だが、美女が�狹靴眩△猗�人�瓩任△襪里紡个掘�
�狄Ы�郎�瓩�賛美する美男の運命は、すなわち�狠鵬嵒哭瓠幣�り物の男)だ。
金城武はデビュー以来今日に至るまで、芸能界から�狆�り物�瓩砲気譴討�た。
この飾り物は、まだ栄国府前の石の獅子ほどではなく、
皇宮中の絶品・景泰藍というところだろう――
「これは大金をかけ、海路で取り寄せた品でございます」と
解説されるのにぴったりの。

それゆえ、金城武が「如果・愛」に誠心誠意取り組んで、
これを自分の芸能キャリアの
新たなスタート地点としたいと願ったときに、
香港電影金像奨は無情にも彼にこう告げたのだった、
「すまんが、君はまだだ」と。

賞がすべてを表すわけでは決してないが、
それにしても今回のノミネート落選は実に残念なできごとだった。
ぼくには金城武の無念がわかる。
チャン監督の惜しみ哀しむ気持ちはもっとわかる。
なぜなら、彼は金城武がこの映画に
非常に多くのものを注ぎ込んだのをよく知っているから。
「如果・愛」の、金城武にとっての意味を深く理解しているから。

金城武がノミネートされなかった真の理由を口にする者はいない。
「如果・愛」はあんなに多くの部門でノミネートされたのに、
彼はその11分の1にさえなれなかったのだ。
それはただ彼がきれいな男だからなのか?

金城武の歩んできた芸能生活を振り返れば、
1歩1歩確実な足跡を刻んで前進してきている。
「如果・愛」での演技は、新しい高みに達したものだとぼくは思う。
すでに役と自分自身とが渾然一体となっているのだ。

「如果・愛」を見た者なら、
彼の映画の中での目の演技が深く心に残るはずである。
場をさらってしまう力のかくも強いジョウ・シュンと相対して、
金城武の演技は充分に力強く
、時空の転換にともなう役柄の演じ分けは自然で滞りがない。
目はなめらかにグラデーションのように変化する。
たびたび登場するジョウ・シュンとのシーンでは、激情があふれ、
観客は男女関係なく、胸がどきどきさせられる。

もし、�猗�しさ�瓩�金城武が金像奨にノミネートされなかった
理由なら、ぼくは声を大にして異を唱えたい。
これは一種の差別であると。
世間では�狃垢記瓩紡个靴動貳姪�に差別があるのに対し、
映画賞にあっては�猗��瓩悗里△觴錣稜喟佑�存在しているように見える。

このような�猜未虜絞稔瓩里發箸如�
イ・ヨンエはしとやかな美しさに別れを告げ、
復讐の女神を演じることによって初めて大きな賞を獲得した。
セシリア・チャンは�猜貎討砲吻瓩蕕覆韻譴弌�
主演女優賞をとることはできなかったし、
アーロン・クォックが主演男優賞を取るには、
「三岔口」の硬骨漢を演じることが必要だった。
金城武の場合、何年何月になったら修行の成果が現われるのか、
なおのこと不明である。
ひょっとして、顔に刀傷をつけるとか、あるいは乞食役をやるとか……?

いずれにせよ、この種の評価の論理は、
美は醜に変じ、あるいは老いさらばえることなしには、
あるいは誰でもあばた面に変身しなければ、
審査員達はその恩恵を与えようとはしないということだ。

こうした評価の基準には、実は優れた身体条件の俳優に対する
巨大な偏見が存在している。
ほとんど全ての映画賞が、性格俳優に与えられる傾向があり、
若さ、端正、美貌は、賞の反義語と決まっているかのようだ。

アンディ・ラウが出演映画100作目を目前にして、
ようやく主演男優賞を手にしたとき、支離滅裂になりながらこう言った。
「私は以前は賞をいただけませんでした。
きれいすぎると言われました。
今、やっと演技ができることを証明できました」
アンディ・ラウの真情の吐露は、実は授賞基準に対し
彼がずっと抱いていた暗いしこりの反映でもある。

私は以前、原島大地という少年を推薦して、
「新不了情」でセシリア・チャンと共演させたが、
当時、セシリアがイメージチェンジして母親役を演じたがったのは、
金像奨を狙ったからだと言われていた。
果たしてその年、セシリアは
この映画で金像奨の主演女優賞を手にしている。

もしも審査員達が本当に俳優の演技の中身など重視せず、
タイプの違う役に喜んで手を染めて、
イメージを壊して汚れ役を演じたかどうかということしか
見ないのだとしたら、
そういう賞は「ご苦労さま」賞と呼んだほうがいい。
このような選考の仕方では、自縄自縛に陥るだろう。

容姿と演技が反義語でないのは明らかだ。
ぼくは大きな声で言う、
俳優の容姿が優れているからということで、その演技を軽視したり、
はては差別したりしてはならないと。

容姿が決してずばぬけてはいない俳優は、
自分の演技がかくかくしかじか優れているという話になると、
いつも「神様は公平です」と、くどくど言いたがるものだ。
そういう人が実に多い。
この言葉には、
「あの人達はかっこいいでしょう、綺麗でしょう、でも演技はまるでダメ」
というセリフが隠れているのである。
こうした意識がもし絶えず強められ、進化し続けると、
一種の集合意識、いや、意思にまで変化する。

私は、最後にこんな情景を目にすることになるのを最も恐れるものだ――
金城武が80歳になり、
とうとう香港電影金像奨の終身功労賞をもらうことになる。
というのも、そのころになってようやく審査員達が、
彼がしわくちゃになり、目も力を失って、演技ができるようになり始めた、
と認めたからである。
金城武への授賞の言葉はこうである。

「金城武さんは半世紀以上にわたり、
非常に多くの素晴らしい役を作り上げ、
絶えず私たちの美しさへの認識を改めさせてきました。
一生涯をかけて、かっこよさという言葉を解き明かしました。
この賞を特別に授与し、励ましとします」

これを聞いた金城武の目からは、
きっときらきら光る老いの涙の粒がこぼれ落ちるに違いない。
(譚飛 2006年2月10日)


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