武ニュースDiary


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2003年04月02日(水) 金城武自伝 第1回

これは、文字通り、金城武自らが語ったもので、
いくつものサイトにアップされて、日本語訳もすでにあるかも知れません。
が、そういう、いわば武ファンの「基礎知識」を、
新しいファンの方もいらっしゃることだし、ここはここで、ご紹介しておこうかなと思いました。

元々は、香港の芸能誌「YES! IDOL」に載った、4回完結の連載です。
第1回が1998年10月16日号に掲載されたことは確認済みです。
ただし、なぜ香港の雑誌か? という疑問もあり、
先行して台湾の雑誌に載ったものである可能性もあります。
ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。

第1回 「十と一の謎」

10月はぼくにとって、いつまでも大事な時だ。10月が来るたび、1つ年をとるから。
そう、ぼくは10月11日に台湾で生まれた。
お父さんは日本人だが、お母さんが日本の生活習慣になじめなかったので、
ぼくとお母さんは台北に住み、お父さんはいつも日本と台湾を行ったり来たりして、
ウナギの養殖会社の経営の仕事をしていた。
ぼくの「武」という名前には、意味があるとお父さんから聞いた。
ぼくは11日に生まれたが、十と一の字を組み合わせると「士」になる。
それでお父さんは合わせて「武士」となるよう、ぼくの名を「武」としたんだという。

小さい頃から今に至るまで、ぼくは台北の天母という地域に住んでいる。
そこは在台の外国人が多い地区で、環境がよく、とても静かだ。
お父さんは事業のために台湾に来て、お母さんと知り合った。
結婚し、お兄さんとぼくが生まれ、天母に家を構えた。

お父さんは台湾と日本での仕事が忙しく、
家でぼくらと一緒に過ごす時間はとても少なかったから、
子育ての責任はお母さんとおばあさんの肩にかかっていた。
そういうわけで、ぼくはめったにお父さんを見ることがなかった。
言葉もお母さんから習ったから、まず覚えたのは台湾語だ。
お母さんとおばあさんは台湾語で話すのを好んだから。
北京語と日本語は、後になって学校で覚えた。
今でも、自分では台湾語が一番うまく話せると思う。

ぼくは腕白な子だった。
あるとき大勢の人が家に来て食事をし、酒を飲み、談笑し、とてもにぎやかだったことがある。
ぼくも楽しくなってしまい、もともと遊びたくて仕方ないから、
その本性がおとなしく隠れているわけもなく、
食べ終わって何もすることがなくなると、すぐコインを持ってきて、茶碗めがけて投げ入れた。
今になってみると、何が面白いのかわからないが、
小さい子は何に対しても好奇心が強いものだ。

あるとき、コインがどこかへいってしまい、
他に何も新しいことを思いつかないので、ぼくは大人のまねをして酒を飲んだ。
勝手に杯をとって胃袋に流し込んだんだ。
ところがなんと! まるでのどを何かにかみつかれたように、苦しくてたまらない。
ぼくは、それがさっき放り投げたコインだとわかった。
まもなく、周りの人がぼくの様子がただならぬのに気がついた。
ぼくが何かをのどにひっかけて息ができないのを知って、急いで病院にかつぎこんだ。
お母さんはお父さんに帰ってきてくれるよう電話をした。
お父さんが病院に駆けつけたときには、ぼくはもうなんともなくなって、
ピンピンしていたけど、お母さんは気の毒だった。
お父さんに、大人がそろっていて子ども1人を見ていられないなんてと、
きつく叱られたのだ。
ぼくはといえば、そのとき危うく命を落とすところだったとも知らず、
見慣れぬ輪っか(手につける患者識別用のリングだったのだが)の観察に余念がなかった。

お父さんは仕事のため、いつもそばにいてくれることはできなかったけれど、
でも心のうちではぼくたちを深く愛してくれていることが、ぼくにはよくわかっていた。
そして家に帰ってくると必ず、遊びに連れて行ってくれた。
一家揃って遊園地にでかけ、遊んだ楽しい日々が一番懐かしい。

ぼくの中では、お母さんは典型的な母親で、いつまでも子供が一番という人だ。
お父さんはというと、これは特別な父親だ。
以前はぼくたち兄弟にとても厳しかったけれど、
ぼくたちが大きくなるにつれ、次第に寛大になり、
ぼくらを友人のように扱って、何でも話をするようになった。
こういう父親を持ったことは、天の恵みだと思っている。


BBS


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