2012年05月31日(木) |
繋がっていたい。他、いろいろメモ |
いろいろなことを思ったはずなのだけれど忘れかけてしまうので、 ここ十日くらいのことを、思いつくまま時系列無視で並べてみる。
☆褐色細胞という単語が気になっている。
☆世の中には、私があの映画や漫画の中の人に夢中になるように鞄や靴に夢中になる人がいるのだなあという、人の世界の多様さに感動する。
☆ゴールデンキャンドルと呼ばれる植物は、センナ並みの威力を持っているから、配合されている健康茶には気を付けたほうがいい。 ちょっと飲んだらもう効き目ありすぎてお腹痛いしトイレ通い頻繁すぎるしで、 通販会社に電話して、開封後でも返品返金に応じてもらえるのか問い合せ。返金は無理とのことだったけど、状況を事細かに説明した添え書きを返品に同封してやったら 後に半額返金を約束してもらえた。
☆朝、息子が一回で起きてこられた。とか、リコーダーであの童謡を上手に吹いて寛いでいた。とか、 娘があの動画を目をキラキラさせて私に教えてくれた。とか、 夫が玄関先のツツジの花を見て喜んでいた。とか、 なんかそんな些細なことが、よく考えたらめちゃめちゃ幸せなことたちじゃないかなと 感じる心を取り戻すには食べたり寝たり、泣いたり笑ったり、しながら適度に自分を甘やかすのもいいかな。
☆甘やかしているうちに掃除が行き届かなくなってたので、 将来が心配・・・ 子どもたちがパートナーをうちに連れてきたときに「こんなお義母さんはいやだ」といって破談になったらどうしようという恐怖だ。 それに夫の喉と咳の風邪もこのせいではないだろうか。 ということでやっと窓ガラスのカビに気づいて(というか気づくのが遅すぎ)除去した。あぶなかった。
☆長く休んでいたなあ、と気づく。それでなんとなくぼちぼち僅かずつ、動き始めている。とりあえず冬物の布団をクリーニングに出すとかしている。 (やっとそれか!と自分で突っ込む) 待っていれば必ずこうやって這い出したくなる日がやってくる。ダラダラと怠ける時間も時に必要だと思う。 だから子どもの怠けに見える時間も、なま温かく長い目でみたいと思う。(と、なかば強引に自己正当化)
☆動いている天体の素敵なドラマを堪能したあと義母やヘルパーさんと接したあの日につくづく思ったのは、 あのヘルパーさんは本当に親身になって仕事してくれてるなあということ お義母さんもなんとなく以前より顔色が良くなってるし話す内容もしっかりしてきた。ただ、やはり判断力が衰えているので勝手に外出してしまうことがあるようで、24時間目が離せない状態。
☆ネット上の言葉でのやりとりには、メリットとしては各種の場所や年齢性別や立場などの柵も超えてダイレクトな心の声を見せ合える自由さ、 でもやはり本心を言葉だけで推し量るには情報量が圧倒的に少ない。 心情の吐き出しを許し合う場が心地好い一方で、見えていない状況に気を揉んで翻弄されると、お互いに疲れてしまう。 書いたものに即時反応ができるタイプのSNSはその弊害も多々ある。
☆夫婦の日常の倦怠感+何かの燃え尽き症による無気力+ネット疲れなど相まって もうなんかどうでもいーやーという状態ではあったけれど、 友達や、実家の母や、妹と、 食べながらおしゃべりして、顔を見て、何気ないことで笑いあって、そんな時間を共有しながら ああ、そうだ、 ネット友達にもなりうるほどに心のうちをぽろぽろこぼせる人が、実際にその表情を見せてくれて声を聞かせてくれることが これほど私を助けてくれるのだなあ、 と改めて感慨深かった。 話をしていると、 こうあるべきだ という苦しい縛りから開放される。 人それぞれのさまざまな幸せや悩みがあるんだなと知ることから、だからみんな同じだなという共感、 独りじゃないという心強さと、だから独りでも大丈夫だという安心感。
こういう間柄を夫との間にも築けたらどれほど素敵な老後だろうとは思うけれど、そこは諦めている。優しいほうの諦め。
☆もし子どもたちが成長して、願わくば、私とおしゃべりするときにこんな風な 依存じゃなくて、認めててなおかつ許しあってるから呼吸が楽にできるような ネット兼リアルの友達のように 気の置けない思いで内心を打ち明けてくれたらと思うけれど。 今のところ娘はまあまあ友達のようにしゃべってくれるし私もしゃべれるけれど、 やはり男の子はあまり筒抜けには立ち入らせてくれそうもない。でもそれでいいし。別にそこまで立ち入れなくても、いいし。 どうにも抱えられなくなったときにゴミでもなんでも私のところに捨てに来てくれればいい。
その為にも、私は少し情緒不安の表出をホドホドにしておこうと思う。あんまりコドモみたいに泣いたり騒いだりすると、子どものほうが遠慮してオトナにならざるを得ないだろうから。
☆ひとと繋がりたいという欲求は人間が生きていく上でものすごく大切なんだと思う。そんなに多くの人と繋がる必要もないけれど、少ないけれど大切なひとと細く長くでも繋がっていることが。 心で繋がっているのだ、見ててわかってもらえているのだ、それさえ時々確認できれば、 何もいつも四六時中同じ場所にいられなくてもいいと思う。
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