気が向けば・・・。


この今の瞬間に過去も未来も入ってるらしいし(何時でも)この小っさな頭蓋の内に宇宙も入ってるらしいし(誰でも)
だから、ひょっとしてこの矛盾に溢れた日記も、何時かの誰かに繋がったりするかも、って思ったから
少しだけ秘密度を緩めました。



子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

2009年08月07日(金) 「きみの友だち」

息子は八月初めの土日、大学のオープンキャンパス(一応、第一志望)に、
去年に引き続き、今年も行ってきた様子、
土曜日に同じ高校の友達と一緒に回って、あらかた見たのに
また日曜日に同じ大学を、今度は別の友達(今は違う高校の)と一緒に見て回ったという。
※もう、ここまでモチベーションを高めたら、
そろそろ、合格する為の勉強も始めたらいいんじゃないかな?

娘は今週の火〜木、修学旅行で日光に行った。
夏休みに入ってからそれまで必要以上にこの行事を楽しみにしており、
火曜の朝は、無事に送りだせた安堵感でイッパイになった私。
その夜は保護者の懇親会(という名の飲み会)で祝杯。
一次会で帰ったから夫の機嫌も損ねずに済み、
笑い上戸の時間を過ごしてホヤホヤと帰還。
その間、息子は私の実家で過ごさせてもらった。

そして娘は二泊して満足し切って帰ってきた。
仲良しのあの子とお揃いのキーホルダーだかストラップ、をお土産に買ったらしい。
家族にはホワイトチョコを買ってきてくれた。
ひとしきり面白い話を報告する娘に、お兄ちゃんも懐かしがる。


このように現在、友達関連を平和に楽しく過ごせていられる子どもら&親の私の今の状況は
とんでもなく稀有な幸せであることが、
ある本を読んだことで改めて判明し
昨夜は滂沱の涙(大袈裟じゃなく)を流していた。

というのも
書店で何の気なしに立ち読みかけた「きみの友だち」(重松清・著、新潮文庫)を買って置いて、
娘が日光に行ってる間に読み進めて読了したのだ。

※万人にお薦めしたい。

きみの友だち (新潮文庫)

表面だけはみんなの中で浮かないでいること。
そんなことに、腐心する女の子たちが多い中で、
主人公の潔い友情観に、うたれた。

一部引用:

「『みんな』が『みんな』でいるうちは、友だちじゃない、絶対に」
「いなくなっても一生忘れない友だちが、一人、いればいい」
「一生忘れたくないから、たくさん思い出、ほしい」
「だから・・・・・『みんな』に付き合ってる暇なんてない」

特に小学校高学年あたりから中学生前後の時代に
いや今も、考えさせられる、
集団の中での自分。友達って一体どういうのか。

それぞれの形があっていいと、私は思ってる、何も、こうでなければならないと捉われる必要もない、と。
誰か特定の人と深く何もかもさらけ出し合って・・・というよりも、
表面から深さ50センチくらいのところでお互いに何か種を蒔いてあげたり蒔いてもらったりしながら
旅は道連れ世は情け(人生は旅とすると)、
袖擦りあうも他生の縁、
で、いいんじゃないかと、思ってた。

普段独りでいることにも私は、なんとか平気。グループは、やや苦手。
ヒトの好き嫌いを厳密に判断することに意味を見い出せない。
どっちかというと好きな人とより多くの時間を過ごす。
その結果、傍目からは八方美人だろうと自覚する。

全てをさらけ出して理解し合うことは所詮難しいし、おこがましい。それより、
お互い、幸せに向かう旅仲間には違いないんだから
相手が歩くときに一助となれそうな部分にしぼって、
半ば押し付け承知&断られ承知で「こんなん、どう?」と提示し合うに留めたい。
それで誰かが離れていくならしかたない・どうぞ離れていいよ・でも好きだよ、
全部まるごと好きじゃなくても、それ込みで好きだよ、
そういう心理が友達に対して私は働くようだ。

それ故、多くのひとは私から離れて行くのかも知れないけれど。
いっとき私を通過してくれただけでも、有り難い。

・・・そう思ってても、少し自信が無いところがあった。
この本に「それはそれで、いいんだよ」と強く肩を叩いてもらった気分だ。

だから、
趣味が合わないけど友達。思想は違うけど親友。迷惑なときもあるんだけど大事なひと。どこで何してるのか知らないけど好きなひと。
などなど、そういう形が在ったとしても構わない。互いに信用できれば。
親子だって夫婦だって、それでいい。

同時に、私が選んでこなかったほうの、もっと濃く深く結びあうほうの友情の形、
「みんな」なんかよりも心から大事に思える一人の歴史と一人の歴史を、いわば互いに全て独占しあい捧げあうかのような
結婚したかのような、一心同体の友情の形・・・。
そんな独り同士の、心尽くしの信と愛、
そのモデルを。この本で垣間見て
泣けて
その深さを羨む心と、いや・私は私でいいんだと納得する心と、が
自分の中に同居していたことも分かり、
羨ましさが素直な賛美にどんどん昇華していく途中経過を
ひしひしと感じた。

また、同時に、我が子らを振り返り、
子ども達の様子が、たとえ、一見して
複数のひとびとと仲良くやっているorあまり群れに入ってない、という場面が、もし今後あっても
どちらにせよ、親はその表面を見て一喜一憂する必要は
無いんだなー。そう感じた。
一緒にお弁当を食べる友達がいるかな?とか、いないのかな?とか
そんなことは友情の本質とは別問題だった、やっぱり。
孤独の道を通ることがあってもその通る道は全部必要な道。

だから息子も娘も今は、
こんなそんな平和な社交の道を歩かせてもらってるようだけれど、
いやに歩きにくい道を通るはめになる、その日もいつか来るかもしれない、
そのときこそ
子どもらにとって何かのビッグチャンスなんだろうな。
本物の友達って何、を会得するチャンスかもしれないな。そう、思えた。





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