| 2008年11月10日(月) |
(読書感想) 「記憶の色眼鏡を手放す」って考え方を、色眼鏡で何とかかんとか解釈してみてる |
※T女子大フォークダンスクラブ&K大民族舞踊研究会は、 実に40年以上も続いていて、驚くべきことにこれからも続きそうだ。 そのOBOG会に日曜日に出席して、20年ぶりに逢えた同期や先輩や後輩に、 そして20年ぶりに触れる東欧系の音楽と踊りに、 埋もれていた記憶をどんどん混ぜっかえされるうち、 私は変わったのか?みんなは変わったのか? 私は変わったというよりいつでも同じ部分と常に変わる部分、 みんなも年月を経てその時々で(以下同文)。 ああだと思ってた人は実は意外とそうじゃなかったり 私は今この人々がだいたい好きだ。だってよりによって民族舞踊をやってみようと一時的にも考えた仲間同士だから※
アマゾンから届いた本を翌朝から一気読み。
ひとつは「子育て支援でシャカイが変わる」(Yさん推奨)と もうひとつは、ホ・オポノポノ関連書(妹推奨)
どうせまた変わる私の、現時点でのこれらの本の消化率の記録をば。
一、子育てのほうの本 幼児を連れてって親子共々ホッとできる情報交換の場や 子連れ生活でも自己実現できるような親の居場所など、 既存に無いなら自分たちで作る!という、草の根的NPOがあるんだね。 高齢者と違って選挙権を持たない(つまり、票にならない)子ども&その親の側が、 行政にアピールするってのは難しいが 声を上げないと声の存在すら気づいてもらえない。 どうしても行政を巻き込んで子育てを社会化していかないと豊かな子育ては無理だ、という認識を 広めるために、政治に関心を持つことは大事。
それはそれとして、 私が少し一部違和感を感じてるのは 従来型の専業主婦の存在価値を過小評価されてるような気がするんだけどそれは私の色眼鏡? ――つまり、主婦として、とにかく家事と子育て。家庭や町内会や学校を舞台としての無償奉仕に徹し、 収入を得る役目を担うパートナーへのケアと、家計の節約に励む。 このことに喜びはもう見いだせないのか? こーいうただの専業主婦(主夫)はイヤなのか? 今まで積み上げてきた学歴職歴が生かせない世界にムリヤリ飛び込まされる理不尽さ? 実はほかならぬ私自身が、「ただの専業主婦で終わるのは嫌だ」と思ってる。でもなぜそう思うのだろう。 子育てオンリーの生活は確かに辛いものがある。孤独でもある。 自分の人生観をモロに子どもに反映しちゃいそうなことへの不安とか大きい。 しかも学校では教えてくれないことばかり。 だから、育児を辛いと思う気持をセルフケアしてコントロールしつつ子どもにおおらかな気持ちで向き合い、フランクに仲間と育児について語れるような母親の知恵と、 それを支える父親の育児当事者意識の改革が、 ママ&パパになる前から教育によって育て上げられ体験訓練させられていたなら、 相当状況良くならない? 「犠牲」(お金、自己実現など)を犠牲と思わずor一時だけ目をつぶってでも、 いつもゆったりとした気分で子どもの居場所を楽しんで用意できるような心持ちに両親がなれるようなセルフケア。 前提となるのは、そんな非効率な生き方を認めていくような企業をはじめ世の中の空気。 そういうのがまず欲しいと思う。そういう生き方をしていても大丈夫だという保証&保障があれば出生率も上がるのでは? 保育園も延長保育で「5時にお迎え」一偏倒じゃなくなること自体は喜ばしい。 でも同時に、「5時にお迎えに行ける」「3時にお迎えに行ける」という働き方を選んだ人でも充分豊かに生きていけるという社会なら、 もっと自由になれそうだし、もっと育児環境も良くなりそうに思う。 (えーと・・・、もっとお金があればって話になるかも)
二、ホ・オポノポノのほう さっきから私が書いてる「色眼鏡」という言葉、 それってイハレアカラ・ヒューレン博士によれば 潜在意識の中に100万と溜まっている数々の過去の記憶 (この場合の記憶とは自分一人が生まれてからだけのではない。人類、いや宇宙の、創生からの全部の過去の記憶にアクセスするもの) これこそ 自らの内に存在している「神聖なる知能」からのインスピレーションの発現を妨げてる余計なもの、らしい。 つまり、執着とか偏見とか思い込みとか、 こうでなければならないという決めつけとか、 あらゆる煩悩とかのことだろう。 融通無礙な目でとらえれば 人は(実は人だけではなく生き物も、物も)みんな完全無欠であって、 みんながその中に「神聖なる知能」を内包しているので、 その内なる声をストレートに聞けるように 過去の記憶(既成概念とか思いこみを含む)を常にリセットしてゼロにしていくことでインナーチャイルド(潜在意識)を癒しながら外界までも癒す。 だから外に何か神とかを求めてそれに依存するのは間違ってると。 自分たちが思い描いている、「神」と呼ぶものに対する決めつけまでも手放すこと。
記憶を浄化してリセットする方法は その思いを(またはそのストレス、その人、その事象、などを)思い浮かべて 「すべて自分の潜在意識内の過去記憶の反映の結果だ、すべて自分の責任だ」と認め 「私の中の何がこの問題を引き起こしているのだろう」と考え 「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」と言うこと― するといつのまにか、嫌悪していた対象に対しても愛と感謝で向き合える。そこから相手も自然と変化してくる。 そして内なる知能の声を妨げる色眼鏡がなくなることで 自然に最良の道を選びとれるようになる。
仏教と共通するものがありそうだ。 色即是空みたいな。
色んな思いこみとか執着を、手放してゼロにして、 はじめて可能になるのが 自分のことや相手のことやすべての人(物も)のことを あるがままの本来の尊いものとしてその存在と繋がりに 感謝し、愛すること。
ただ、まだ私には飲み込むのが難しい点が多々あり。
そのひとつ 「起こる問題はすべて自分の中にその原因責任がある」という捉え方は、なんとなく分かる気がする。 つまり人類の記憶は共通だから。彼に起こっていることは自分の中で起こっていることと同じ。 でもそれをこちら一人が記憶浄化でゼロにしたことで 全ての不幸な事象をゼロにできるだろうか本当に? 下手すると、現状を変えられないまま自己満足・自己納得に終わらないだろうか? 「私たちみんなの責任だから私たち一人ひとりができることをしよう」というのは分かるが 「私だけの責任だから私だけがなんとかできる・できた・だからもう大丈夫」というのは何か不安だよ? 例えば 戦争だとか、カルト教団による虐殺だとか、児童虐待だとか、 様々な現象に心悼めるとき 私がひとり静かに記憶のクリーニングをして それで現実にはどうなるのだろう、という疑問は否めない。
世界全員がこの哲学で生きるようになればそりゃあ 互いに互いの価値を崇め合って生きられる幸せな心地になるのだから 殺し合いも消えるだろうけれど それまではどうするのだろう?
あとひとつ 物に心があるという考え方にどうしてもついていけない自分。 私は、物質は心を実現する手段だと思っていて、それ自体に対する何の執着もむしろ全然無い。 だからとても断定的に特別なグッズの活用を説かれると 「なぜ青い瓶に入れて日光に当てた水が浄化するの?なぜ青?なぜバニラアイスがいいと言い切ってるの?体を冷やす食材だと思うけどそんなに食べて日本人にも大丈夫?」 などと疑問が沸々とわいてしまい、 こういうところで物に却って捉われてしまうのって変じゃないか・ビジネスに利用されたらどうするのか、 という思いが噛み切れないので、消化しきれない。
が。 私のほうがきっと科学の記憶に捉われてるのかもしれない。 捉われないで内なる知能のインスピレーションだという言葉にしたがっておくのも何かと当たりなのかもしれない。 そう、昔、納豆を初めて食べた人は、納豆菌の存在を見たこともなかっただろうし。
ともかく 私はもう自分の見てることのどこまでが偏見で思い込みだか判別できないことは、 判別できないこととして付箋をつけながら しばらく観察することにした。 観察しながら、消化して、栄養にさせてもらったら、誰かにどこかに還元できたなら、それが恩返しになれば。
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