気が向けば・・・。


この今の瞬間に過去も未来も入ってるらしいし(何時でも)この小っさな頭蓋の内に宇宙も入ってるらしいし(誰でも)
だから、ひょっとしてこの矛盾に溢れた日記も、何時かの誰かに繋がったりするかも、って思ったから
少しだけ秘密度を緩めました。



子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

2006年08月31日(木) 夏の終わりの特記事項 過ぎ行く時を惜しむ編 

1、メダカ。オスばかりの中で、ただ一匹残っていたメスが、毎朝毎朝頑張ってタマゴを産んでいた。その度に水草と共に別のボウルに移して活性炭や酸素石も入れた。
が、どのタマゴも、どうやっても孵化どころか黒目も現れない。3〜4日すると、どれもこれも白くぼやけて死んでいく。無精卵だったのかもしれないし、管理に問題があったのかもしれないし。
しかし、子供の顔も知ることも無く母魚は寿命が尽きてしまった。ある日全くタマゴをつけていないと思ったら、その午後、彼女は動かなくなっていた。
娘の悲しむこと悲しむこと。
育て始めた小さなカスミ草の鉢に埋めて土に返した。
これで水槽の中にはオスが4匹だけ、プロポーズの相手もなくて泳ぎ回っている。これで彼らは、この代で途絶えること必至。
ところがなんと、生前の彼女が残した最後の忘れ形見とも言える卵数粒の中から、初めて、小さな黒目の点々が二つ見えるものが発見された。
どこまで育つか分からないけど、できるだけ注意して見守っていこう。


2、子供を撮った、昔のビデオ。たくさんたまったけど、既に画像がガサガサしているのもあるみたい。劣化に備え&再生機器がなくなることに備え、実家のレコーダーでDVDにダビングをしてもらった。
その昔の子育てのシーン達を見てると懐かしく、親ばか丸出し手放しに「わー、かわいいっ」とも思う一方、そのおよそ10〜13年前の私の「親のありかた」に、ツッコミを入れたくなる点が多々ある。
喩えるなら、屋根裏に中学生だった自分の書いた作文だとかテスト類を見つけてしまい、それを今見れば「なーんだ、もうちょっとこうすれば良かったのにね。今ならもっと上手くできるじゃん」という気分にもなるの。
ビデオ越しに見る我が子の不思議な行動に接していて、10年後の私はそれを「ああ、この子は、今、ああしたいんだな(したかったんだな)」と気づいてしまう。いとおしいほど気づいてしまう。が、
画面の中の10年前の私の声は、やや的外れなコメントを発してる。
・・・そーじゃないと思うよ、と、今更ツッコんでもしょうがないけど。

あと10年して、今の子育てを未来の私が見たら、「あーあー、そーじゃないって・・・」とツッコむのだろうか。だろうなー。
それは自分も成長している証でもあるので、喜ばしいとも言えるけど、その微々たる成長が、子供に追いついてってないかも。

そして、久しぶりに見返す昔のわが子は妙に新鮮でかわいらしくて、初めて会う子みたいだけど、きしんでいた引き出しがすっと開くように、思い出すこといっぱい。あの時はこの時のこの可愛さを、まだまだ真に分かってはいなかったことを気づかされる。可愛いと思ってたけど、まだホントの可愛さに気づかなかったことを思い知らされると言っても良い。そしてその可愛さを真に理解しつくす境地に到ったとき、既にわが子は私の手を必要としていないだろうし、私を必要としていてはいけないだろう。私は子供の行く末をいつまでも見ているわけに行かない。先に死ぬんだから。

で、「孫」というものは、どんなに可愛いものなのか、だいぶ分かってきた。
そして、きっと実家では、この同じ映像を通して、私という娘やこの子達という孫を、母は私の想像を超えたところで、心からすんごく可愛いっ!哀しいほど可愛い!と思っちゃっているに違いない、と思った。で、今はその感覚が結構分かるようになってきた。
親から子へ、孫へ、っていう、ある意味うっとうしい・その有難みも、重みも、掛けがえないゆえの切なさとかも、当の子供自身には、若い頃には理解できてない。というか眼中に無い。
泣きたいほどの「孫可愛さ」の心理、などが眼中に入ってきたら、それは子供も歳をとってきたってことだろう。わが子にそんな日が来るのは、もっともっと後にして欲しいような欲しくないような気もする。


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