気が向けば・・・。


この今の瞬間に過去も未来も入ってるらしいし(何時でも)この小っさな頭蓋の内に宇宙も入ってるらしいし(誰でも)
だから、ひょっとしてこの矛盾に溢れた日記も、何時かの誰かに繋がったりするかも、って思ったから
少しだけ秘密度を緩めました。



子ども虐待防止「オレンジリボン運動」

2001年09月05日(水) 百の心収納スペース

午前中、幼稚園の親の会に出た。
娘と一緒に登園するが、「保育時間」ではない。
親たちのミーティングの間、先生は子供らを遊ばせてくれている。でもあくまでも保育ではない。
大部屋で集まっている母のところに、時折、寂しくなったのか、年少さんは膝に甘えにきたりする。
うちの子は、どうやら騙されたように遊びに夢中になっているようで、今日はラッキー。

園長先生のお話が何時の間にか始まっていた。私は後ろの方の席に座ったので、まわりがざわざわしていてよく聞こえない。
お母さん方で私語を交わしているのもいるし(失礼だよね)、あと、赤ちゃんや未就園児が泣いたり這ったりしているから。
我々子持ちは聴覚が麻痺しているからたいていの騒音はうるさいと感じなくなっている。
でも園長先生には悪いなーと思っていた。ちょっと自分だけでも「聞いてます!」って顔しよっと。

で、お話のなかにところどころ聞き取れたのが、「優しい、という字は・・・。」
それは「憂えるに人と書く」のです。
その「憂い」は更に、「百の心を受く」という意味を含んでいるのです。ということ。

ここでの百は勿論99+1とかっていうのじゃなくて、比喩でしょうけど。
確かに百の心を持っている。誰でも。人によって時によって配合の割合は変わるけど。
きれいな、明るい、のばかりじゃない、こんなの要らないっていうやっかいなのも混ざってる。
それ全部受けるったって、こっちはこっちで自分のものが一杯、一杯占領してる。
よけいなこだわりとか、自己都合の本能とか・・・それをどっかに捨てなきゃ入らない、
誰かの百を容れる前に。スペースつくってやらないと物理的に無理だわー。

収納容積を増やしてやるというのも手。自分で自分は可愛いけど、それはそれとして誰かのことも容れる。
でも・・・スペースあったらあっただけ、自分のもので埋め尽くしちゃう?それじゃだめじゃん。

わかった、こういうのはどう?自分のものをしまう時に、人の分も重ねてセットにするの。
自分のこと大事だっていう気持ちの箇所に他人のそれもぴったり合わせて収めていく。
重ねられる収納、これはうまく収まりそうだ・・・。

なんて考えているうちにクラス毎のミーティングとなり、担任の先生から運動会についてなどの説明の時間に。
じきに娘も眠くなってきたらしく、私の足元にからみにやって来た。
遊んでて欲しいんだけどな・・・。でも眠い時間だから・・・。膝上に抱こうとしたら大泣き。
どうも、床にはべりながら私のふくらはぎをいじっていることが重要らしい。
その後、眠りにつこうとするのを騙して騙して、家まで運んだ。
ぜんぜん自力で歩かない。3歩進んでしゃがみこんで泣く。具合が悪い訳じゃない、とにかく眠たいだけ。
しょうがなく負ぶった。まぶたが8割方くっついているようだ(多分)。だってオテテにちからが入ってない。
今日はやっぱり自転車を持ってくればよかった。涼しいかと思って「歩かせられるな」とふんでいたのに。
お友達のママが見かねて、荷台が前後にあるから後ろに乗せて押してあげる、というのに甘えて助かった。

・・・ふと思い出した。「そういえばもうこの歳だと、ワケのわかんない夜泣きに悩んだりしないなー。」
あの時代、子供はただ「眠い」というだけで長時間泣き止まないのはしょちゅうあった。
「いったいどうなるのか!」というほど顔を真っ赤にしていて、本気で病気かと思った。
でも結局、最後には眠って解決する。「だったらもっと最初っから寝てよー、眠いんならさー」って。
寝ぐずだけじゃなくて、言葉が思うように通じないから、謎の大泣きがある。
泣いてるほうも可哀想だけど泣かれてるほうも謎に責められて困り果ててしまう。
そんなとき、親の心のなかで、「ああーうるさいっ」ていう利己的な気分が限界超えると、
「泣かないでよー!」「泣いたってわかんないよーーー!」とか叫んで余計に泣かせてしまうという愚行。
なんか多分、なにかのテストなんだか我慢大会なんだと思う。「これをクリアすれば一皮むけるのです」っていう。
そして心を収容するスペースを広げる一工程でもあるかもしれない。ぎしぎしって。


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