ノーエの日記

2004年03月09日(火) 話す事と聞く事。

ネットのコミュニケーション手段の殆どが文字な訳で、こうして文字をツラツラと並べていると、とても饒舌な感じがするかもしれませんが、実は殆ど家ではしゃべりません。

基本的に人見知りが激しいので、最初のうちはネコを被って、一生懸命愛想良く話しますが、慣れてきて地が出てくると、途端話さなくなります。
(“内弁慶”ならぬ“外弁慶”。普通とは逆の反応ですね。苦笑)

とある友人は最近のアニメは情報量(画面の密度)が多くて、脳が情報を処理できないから見るのがしんどいと言いますが、私は人としゃべってる方が、凝った密度の高い映像のアニメを見るよりも遥かに情報量が多くて大変だと感じます。

言葉には音と意味があり、呼吸、表情、声のトーン、仕草などなど、人と直接会って、コミュニケーションを取ってる間に、意識、無意識に受ける情報量は半端じゃありません。

オマケに、アニメはきちんと情報が整理され、クリエイトされて発信されている訳ですから、全く新しいものでも、それほど混乱したり、取捨選択を迫られる必要もなく、そのまま見ていれば分かるように作られていますが、人が話す時の言葉は物凄く無駄な表現や矛盾、混乱で満ちています。

たとえば、子供のうちはお互いに持ってる情報が限られているので、それほど混乱も少なかったように思いますが、大人になる一つの言葉の定義に関しての認識を確認することから始めないと、話に歪ができてしまったり、会話が乖離状態で延々不毛な形になったりすることさえあります。
(私が不毛と感じる会話でも、実際にはこの辺すっ飛ばしても気にならないんだよね、おしゃべりの上手な人たちは。笑)

誤解、行き違いは「これは常識だろう」「これはこういう意味だろう」という大前提に依存しすぎるところから始まります。
実はこれも本当はあやふやなものって多いんですよね。
(だからいちいち真に受けて、考え込む癖を失くせば楽になるのですが。)

まあ、大人になると相手がその言葉をどう定義づけて話してるんだろうという部分を、話をしながら微調整し、情報を整理して聞きわけ、相手に対してどういう切り口で返答すれば良いかを考え、それをどういう順序で、どういう言葉を使って話すかを選びながら話す訳です。

本当に、“会話する”って、物凄いエネルギーと労力ですよね。

だから、同じ趣味の人とかと話すのは、かなり楽です。
お互いに持ってるであろう情報がある程度同じという大前提があるので、新しい情報が入って来ても、取捨選択しやすいから、無駄な情報はカットして、今まで自分の中にあったものの上に必要な情報だけ加えるだけだし、余計な説明が要らないので、よほど主語の取り違えがない限り話は通じますし。

本来話すより、聞く方が好きで、人の話を聞きながら色々考える事の方が多かったのですが、いつの頃からか、人の話を聞くのも面倒になったり、怖くなったりで。
特に、腹が立つほど矛盾してる事を平気で話してるのをまじめに聞いてると、この人の“心”は一体いくつあるんだ?と悩んでしまう事さえあります。
本音と建前なんて可愛げじゃありません。
話してるご本人、自分が何を話してるのか、何をどう定義して話してるのかさえ、あやふやなのですから。(気持ちがあやふやというか、その時の気分で言ってる事が変わる)それを真正直に聞いたまま受け取ってしまう人間は、ただ情報を得るという事にさえ、疲れ切ってしまう事もあるのです。

「私の言ってる事、意味分かる?」は今の私の口癖です。(苦笑)


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