日記

2002年09月19日(木) 宗教性?

友達の友達が、割と最近、とある宗教に入って、その同じ宗教の人と結婚した
という話を聞いた。
それは個人の自由で、私はその人のことは全然知らない人なんだけど、その
宗教に入るということが、その人にとってのある種の救いになったんだったら、
誰かのための何かになったんだったら、それはそれでいいんだろう。とは思う。
漠然としたそれでいいのかなあ?的な気持ちは残るとしても。

誰かを、何かを信じる気持ちはとても大切で、それがその人にとっての
よりどころになったりするのだ。それがその人の弱さから来るものであっても。

よく色んなところで、フミヤファンというのは宗教的だ。と言われたりする。
でもまあねえ、わからなくはないんだよね!
私とか、こういうことを書くとものすごく誤解を呼びそうなんだけど、藤井
フミヤという人のことを、自分の心の中で、一種の神様的な位置に置いている
ということが、まったく無いとは言い切れない。
それはそれでヤバイんだけど。
でも精神のよりどころには、確かに確実になっているのだ。
あの人の歌や、存在とか、そういうモノが。

たとえばチェッカーズの解散の後、1994年の、ソロ最初のFFFツアーのとき。
1曲目“BIRTH”で、背中から金色のライトに照らされて、お得意の(笑)
十字架みたいなポーズで出てきた藤井フミヤというあの人を、解散以来ほとんど
1年半ぶりで見たとき。
涙が出るかと思ったってくらいだ。
心の中で、ああ、この人はやっぱり私にとって特別な人だ。なーんて思っちゃった
くらいだ。それこそ、神様に近い位置にいる。なんて本気で思ったほどなのだ。
だからと言って、あの人のやることなすことを全部が全部受け入れるという
ことではなくってね。やっぱり、それはちょっと・・・とか、この前の怪我で
思わず怒っちゃったりとか、そういうことはあるんだけれど。
チェッカーズを、そして藤井兄を、心の拠り所にしている部分は確かにあるのだ。
そして私は、たぶん、それがあるから、ある程度は間違わないんじゃないかなあ
って。
そんな風にも思ったりする。

2月頃の日記にも、いや常に書いてるような気はするのだが。
何事も、行き過ぎは危険だ。
信じすぎる気持ちから、狂信というものが生まれたりして、それがテロとか
おそろしい犯罪とかにつながったりする。とも思う。
でも逆に、何も信じるものがないというところから、考えられないような嫌な
おそろしい犯罪というものが生まれたりもする。と思う。
だから、ある程度の、行き過ぎない程度での宗教性というものも、必要なのでは?
なーんて。
そんな風に思う私は、単に、自分に都合よく考えすぎている?だろうか?笑



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dona-chan