【満月】 「なんか最近、りょうちゃんが元気ないんだよね」 ふと、カウンターの中の直人がそう言った。 会社帰りの午後7時。 いつも寄り道をする喫茶店“小さな家”にて。
私は北原笑美子、23歳。その辺の会社でOLをやっている。 そして私の目の前で、カウンターの中に立って、大きい手で、 魔法のように器用にサンドイッチを皿に盛り付けている加藤直人は、 この店の店員で18歳。 5歳の年齢差をものともせず、私たちは付き合い出して数ヶ月になる。
「りょうちゃんが? なんで?」 きょとんとして、私は言った。 ウワサの本人は、直人と同じくこの店の店員として、アルバイトしている 女の子で、近くの白翠女子大の1年生だ。 ショートカットで、細くてさわやかでかわいい女の子で、この店のマスターである 藤井和広くん(私と同じ年の23歳)と、最近いい感じになりつつある。・・・と、思う。
「なんかよくわかんないんだよね」 首をかしげながら直人は言った。 「ちょっと痩せたみたいな感じもするし、あんまり笑わないし」 「藤井くんとうまくいってないとか、そういうのとは違うの?」 たまたま、他に客があんまりいなかったのと、藤井和広氏本人が、 翌日のパンの仕込みに行っていてその場にいないのをいいことに、 私はずけずけと思ったままを言ってみる。 ハタから見て、こういうのっておばさんだろうか?と思っていると、 意外と気にしてない風の直人は、いや、と明快に首を振って。 「見ててそんな感じはしないから、そこは大丈夫だと思う」 まっすぐな調子でそう言った。 直人には、そういう、直感的に人の気持ちがわかるような所があり、 それを目にする度に私は安心とか、すごいなという気持ちがいり混じった、 変な感覚を味わう。 この子がそう言うなら、そこは大丈夫だという感じ。 なんでこの子にはそういう空気を読み取る力があるんだろう?とか。 そういう感じがする。いつも。
「で、ウワサのりょうちゃんは? 今日はお休み?」 カフェオレを飲みながらそう聞く私に、直人は言った。 「うん、なんかサークルの関係で遅くなるからって、今日はお休み。 寄れたら帰りにちらっと寄るって言ってたけど、どうだろうねー? 文化祭の出し物準備らしいよ」 「文化祭! サークル! 学生って感じよね。なつかしい〜!」 りょうちゃんって何のサークルやってんの? と聞くと、テニスだって。幽霊部員らしいけど。と直人が答えた。 「似合うわ。それ。さわやかすぎる」 カウンターからサンドイッチを持って出て、少し離れた席に座っている、 もう一組のお客様にそれを持って行く直人。戻って来ながら、こう聞いてくる。 「笑美子さんはなんかやってたの」 「ええー? 私はね、恥ずかしいんだけど、オケ」 「オケって何。樽とか桶とかのオケじゃないんでしょ。カラオケでもないよね」 「ちがうに決まってんでしょ・・・。ああ、でも、フツウわかんないよね。 オーケストラのオケ。楽器はチェロ」 「ええー、すげーじゃん。チェロ弾けるってこと?それって?」 「下手くそだけどねー」 「じゃあ今度弾いてみせてよ」 「・・・わざわざ持ってきて弾くようなもんじゃないわよ」 「ふうん。オレは聴きたいけどな」 少し口の端で笑いながら直人がそう言ったのと、カランと音がして りょうちゃんが店に入ってきたのとが、同時だった。
「いらっしゃいませ〜・・・と、りょうちゃん。おかえり」 こういうとき、今来たばかりのりょうちゃんに、おかえり、なんて言葉が 出てくる直人は、りょうちゃんのことを家族的な視点で見ているんだなあ、 と思う。 「はやく終わったから来ちゃった。あ、エミコさん。こんばんは〜」 私の隣に来て笑顔を作ってみせるけど・・・あら〜と、思った。 だってもともと細い子なんだけど、たしかに、明らかに痩せた感じがするし、 顔色もよくない気がする。私は毎日夜7時頃、この店に来ているが、 そう言えば最近、すれ違いでりょうちゃんとはなかなか会えなかったんだよな。 と思い出す。 綺麗なうすい青のキャミソールにジーンズという格好で、それが余計に細さを 際立たせてる? ブルーの色が顔色を悪く見せている?
それだけじゃない気がして、私はりょうちゃんの顔を見るなり、思わず こう言っていた。 「りょうちゃん。ちょっと座って」 「ハイ?」 私に促されるようにして(もしかしたら我ながら、有無を言わさない 強引な感じだったのかもしれないんだけど)、私の隣のカウンター用の 背の高い椅子に、すとんと座ったりょうちゃんは、やっぱり明らかに 線が細くて元気がない。 「りょうちゃん、牛乳好き?」 私の突飛な台詞に、少し笑って。でも、心ここにあらずな感じだ。 直人じゃないが、正直言って、それだけでも心配になっちゃうくらいだ。 「なんですか? 急にー。好きですよ?」 「直人、ミルクカラメル。追加でお願いー。私のおごりね」 「なな、なんですか? ダメですよエミコさん! そんなの!」 慌てて立ち上がりかけるりょうちゃんを、まあまあ、と片手で制して、 私は笑った。 「いいじゃん。たまには。 今日、もう、お店入らなくていいんでしょ? ほんとはお酒飲みたい気分だけど、りょうちゃん未成年だし一応まずいでしょ? ここってお酒ないし。私、給料日後で、ちょっとリッチなのよね〜。 素直におごられて? たまにはいいじゃん。そういうのも」 「でも」 「だいじょうぶよ。別にウラでヘンなこと要求したりしないから」 「ヘンなことってなんですか・・・」 「ええ〜じゃあ、オレにもおごってよ」 脱力した感じで呟くりょうちゃんに、横から会話に割り込んでくる直人。 私はわざと、 「あんたは駄目」と言ってみる。 「なんでさ」 不満気な直人に、くすくす笑って続ける私。 「りょうちゃんへの愛の方が深いから」 「ハイハイ」 肩をすくめる直人。りょうちゃんは、そんな私たちのやりとりに呆れた感じで、 でも面白そうにくすくす笑った。やっと笑顔に生気が戻った感じがして、 私は思わず呟いている。 「ああ、やっとちゃんと笑顔になった」 その私の台詞に彼女は、一瞬固まった感じだった。 「う」 って感じ。結構顔に出ちゃうこの子は、本当に素直でかわいいなあと思う。
「直人のミルクカラメル、飲んだことある?」 「・・・いえ、ないんですよ。でも直ちゃんの入れてくれるコーヒーとか、 本当に美味しいと思う」 「ほめられてるよ、直人」 「うん、うれしい」 「ミルクカラメルもね、おいしいよ? 騙されたと思って飲んでみて?」 「なんで騙されるのさ」 「あ、ごめん。今のは言葉のアヤってものよ、直人」 「ま、そういうことにしといてあげてもいいけどね」 しばらくして、ミルクカラメルは出来上がり、白い、大きめなマグカップに 入れられた、その甘い飲み物が、りょうちゃんの目の前に差し出された。 直人はそのまま、もう一組の客がお金を払おうとしていて、レジに行って その対応をしていた。 そして、カランとドアベルの音がして、店には私たちだけが残された。
しばらく、そのミルクカラメルという飲み物の、見た目のなんだか ほっとする感じをじっと見ていたりょうちゃんは、 「いい匂いだよね」 呟きながら、一口、それを口にする。 「どう?」 カウンターに頬杖をつき、おいしそうにそれを飲むりょうちゃんを見て、 私は聞いてみる。 「うん。・・・おいしいです」 そう言った瞬間、ぽろぽろと、りょうちゃんの頬に涙がこぼれた。 見ていたこっちがびっくりした。 思わず息を飲んで見つめてしまった。 「・・・なんでエミコさん、そんな、優しいんですか〜〜」 泣き声で、そんな風に言うから。 自分が優しいとか、そういうことは考えたことがなくって、単に本能のままに 行動した私、非常にあせる。 「あ、ごめん。泣かすつもりじゃなくって・・・ってなんか私、男役? いや、そうじゃないわ。そうじゃなくて。 ・・・何があったの? だいじょうぶなの?」 「男役って」 私の台詞に、泣きながらも、くすくす笑うりょうちゃん。 それを見ていて、ああ、大丈夫かな、と思いながら、私は聞いている。 「いったいどうしたっていうわけよ? そんなに痩せちゃって。 話したくないなら話さなくていいけどさ」 私の台詞に一呼吸置いて、りょうちゃんは涙をぽろぽろこぼしながら、 こう言った。
「うさぎが・・・」 「う、うさぎ?」 突拍子もない台詞に、同時にそう呟く私と直人。 直人はいつの間にかカウンターの中に戻ってきていて、私たちの会話に入るでも なく、という感じで私たちを見ていたのだが。 泣きながら、りょうちゃんはこう言った。 「実家で10年くらい飼ってたうさぎが、一週間前に死んじゃったの・・・」
「そうかー・・・」 「・・・それ、藤井くんには言ったの?」 「ううん」 「なんでー!」 声をそろえる私たちに、りょうちゃんは泣き笑いする。 「だって」 「だって何」 「だって言えないですよ。言ったら泣いちゃうし。 そんなのめちゃめちゃカッコわるい〜〜」 かわいい。この子。かわいすぎる。 なんて、瞬間的に思ってしまったその気持ちは、心の奥に置いといて。 「バカねえ、りょうちゃん」 呆れて、私はこう言った。 「そんなの、嫌われるわけないんじゃん。・・・ねえ、藤井くん?」 なんとタイミングがいいことか、店の奥から仕込みを終えて現れたマスター・ 藤井和広本人の姿を目にして、私は呆れ笑いのままそう言った。
「な、なに泣いてんの?」当たり前だが、大変驚いた顔の藤井くん。 「チ、チーフ!」あせった様子のりょうちゃん。 「飼ってたうさぎが、一週間前に死んじゃったんだって」と、私。 それを聞き、ああ・・・、と藤井くんは、納得した様子をみせる。 「だから元気なかったんだ?」 「あ、あの、ハイ」 涙を隠そうと一生懸命なりょうちゃんはうまく喋れない様子で、私は ちょっとわるいことをしたような気持ちになって思わず黙ってしまう。 しばらく、どうしようかという感じで、微妙な沈黙が流れた。 そしたら。 ふいに、直人がこう言った。
「今日ってさあ」 「うん?」 自分が引き起こした事とは言え、神の助けにも似た気持ちで、直人の方を 向く私。 そういうこともお見通しなんだろうか? 直人は私を見て少し笑顔になって。 「もうお客もいないことだし、外出て満月鑑賞しようよ」 「満月?」 「今日って満月だっけ?」 すっとんきょうな声を上げる、私と藤井くん。 りょうちゃんは、突然の直人の申し出に、驚いて涙も止まった感じで、 きょとんとして直人を見る。 「うん。たしか。 昨日、ほとんど満ちてたんだよね。だから今日が満月なんだと思う。 ちょっと外、出てみようよ。もう、お客来ないよ今日は」 「客が来る来ないを決めるのはオマエじゃないけど、まあたまには そんなのもイイよね」 くっくと笑いながらそう言う藤井くん。 直人は無邪気な笑顔で、うん、ごめん。と思ってもいないだろう謝罪の言葉を 藤井くんに言っている。 藤井くんは肩をすくめて、じゃあ出てみようかと、他の3人を外に連れ出した。 「私も客だよ?」 思わずチャチャを入れる私に、「笑美子さんはいいの!」と直人は言って、 そのまま私たちは、4人で外に出た。
カラン、とドアベルの渇いた音。 入り口のドア前の階段のところに、私たちは4人で座ってみる。 「方角的には、あっちの屋根と屋根の隙間から見えるはず・・・なんだけど」 東の方を指差して、直人は言うけれど・・・見えるのは暗い空と、 更に暗く黒い雲ばかりだ。 「くもってるよー直人」 「オレの予想ではねえ、あの雲の切れ間から見えると思うんだよね」 「うそー」 「いや、見えそうだよ。風で雲、流れてるし」 藤井くんが言った。それから少しして。 「あ」 りょうちゃんが、声を上げた。 その時。風で、さあっと雲が流れて。 一瞬の後で、金色に輝くまるい月が、そこにはうつくしく浮かんでいた。
「・・・きれいね」 我を忘れて、私は言った。 「すごい。すごいすごい! 綺麗ですねチーフ!」 心底、素直に感動した感じで、りょうちゃんが明るい声で言う。 「たしかにすごいねえ」 落ち着いた声のトーンで、藤井くんが言う。そして、彼はつづけて りょうちゃんに、何の気ナシに、という感じでこう言った。 さらりと。 元気づけようとか励まそうとか、そういう大袈裟な感じはまったくない口調で。 「あそこにいると思ってたらいいんじゃないの」 「え?」 「いや、そのうさぎ。 そしたらそんなに悲しくないことない?」 もう一度、沈黙がその場に降りて。 でもそれは、あまやかな、と言ってもいいくらいに、甘くて心地いい静けさだった。
ふいに、直人に腕を引っ張られ、私と直人は二人、4人で座っていた玄関前の 階段の、その横の方にある、晴れた日に使うテラス席の椅子の方に移動する。 「こっちも綺麗に見えるよ」 「そうね。邪魔しちゃいけないし」 こそこそ、そんなことを言いながら、思いついて私は言った。 「・・・なんかあたしたち、あの二人のラブラブ度数を上げただけ?」 そう囁く私に、直人は言った。 「いいんじゃないの? オレたちのラブラブ度も上がってない?」 「え、そうなの?」 「そうでしょ」 「・・・そうかもね」
少しの沈黙の後で。 私たちは顔を見合わせて、くすくす笑った。
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