本と編集と文章と
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2001年06月02日(土) 技術系文章頭痛い

文章という文章に深くダイブし、その本質をとらえることに長けた私ではあるが、技術系文章にはまるきり入り込めないばかりか、手ひどく門前払いを喰わされる。
そもそも、コンピュータの「ヘルプ」という項目に自分が知りたいことが入っていた試しがない。いったい、これは誰が誰をヘルプするのであるのか。
私が文章を読むときは、書いた人間の意図というものを読みとろうとするのであるが、技術系の文章には意図がない。ただ、カテゴリ別の箱に、文章という名のがらくたを分類して詰め込んであるだけで、初心者はどういう疑問を持ちやすいだろうとか、こういう点がわかりにくいのではないかとか、読者側から見るとどのように見えるか、というポイントに、全く書き手の精神の触手が伸びていないのだ。
この世界では、Aという言葉の意味を知りたいと思ってトレースしていくと、まだ未定義のBという言葉にぶつかったり、Bを追っていくとまたAに戻ったり、国語の世界では許されていない反則技が無造作かつ頻繁に炸裂する。
しかし、ここから何事かを読みとる人が多いので、私としても、あるいは自分の能力のなさを責めるべきなのかと、非難しきれない部分があるのである。
考えるにこれらの文章には、意味はないのである。意味はハード自体にある。言葉は意味の糞に過ぎない。技術系の文章から何かを読みとるとは、糞から動物の健康状態を知るような作業ではないかと、私は邪推する。
こういう文章を読んでいると、奥歯は食いしばられて、ぎしぎし言うし、肩には異様に力が入りバリバリに凝ってきて、頭はヒートアップしたまま、ぐるぐると空回りして、とてもイライラする。
疲れるからやめたいのであるが、喉元過ぎるとまた忘れて、自分にもわかるのではないかと読んでみたりする。その結果また疲れるのである。


村松 恒平 |MAILHomePage